2023/05/07

⚫︎二時間の映画を一本観ている余裕はないが、三十分のアニメなら観られる。本をガッツリ読む余裕はないが、下のような動画を寝る前に一本ずつぼんやり見るくらいはできる。ヘーゲル、さすがに面白い。

ヘーゲル「精神現象学」#0 概要【哲学】 - YouTube

ヘーゲル「精神現象学」#1 序文と緒論【哲学】 - YouTube

ヘーゲル「精神現象学」#2 意識【哲学】 - YouTube

ヘーゲル「精神現象学」#3 自己意識【哲学】 - YouTube

ヘーゲル「精神現象学」#4 理性【哲学】 - YouTube

ヘーゲル「精神現象学」#5 精神【哲学】 - YouTube

ヘーゲル「精神現象学」#6 宗教【哲学】 - YouTube

ヘーゲル「精神現象学」#7 絶対知【哲学】 - YouTube

2023/05/06

⚫︎おそらく、承認欲求を手軽に満たす方法は、人の嫌がることをすることだろう。人を喜ばせたり、感動させたりすることは難しいが、人の嫌がることをするのはそれほど難しくはない。自分の言動で、人が露骨に嫌な顔をしたり、怒ったりするということは、自分の行為が明らかに相手の感情に影響を与えたという手応えになり、それは「(ネガティブな)力の行使」の感覚となる。自分には相手に影響を与える力があるという手応えにより、自分が大きくなったと感じることができる。

(なんというか「拗らせる」と、こういう方向に行きがち。)

これが、閉じた関係性の中で個人に向かうとハラスメントのようなものになり、開かれた関係性のなかで社会に向かうと「公序良俗に対する侵犯」のような行為になる。あえて「政治的に正しくない」振る舞いや思想を声高にアピールしてみせることで良識ある人々の眉を顰めさせるというようなことだが、これは、ちょっとした嫌味で圧をかけるというようなことから、ヘイトスピーチ、通り魔的な犯罪まで、小さなことからより酷いことまで、さまざまなレベルで存在する。

ぼくの中にもあることで、自戒が必要だと思うのだが、「逆張り癖」みたいなものも、これとすごく近い感触の感情だろう。

(とはいえ、何かを考える時に、一度は常識の逆から考えてみることは、必要な、最低限のことだと思うが。)

⚫︎そこまで拗らせてなくて、よりストレートだが、ヤンキー的な「承認欲求の解消=自分を大きく見せる」やり方として「大きな音を出す」というのシンプルな方法がある。暴走族の爆音や、公的な場所(電車の中とか)で、身内の話をしている時に過剰に大きなリアクションをする(必要以上に広いスペースを占有するような仕草、手を叩く、靴を鳴らす、異様に大きな声で笑う…)など。大きな音の持つ威嚇作用で自らの存在を主張する。拗らせ度合いが低いとしても、どこか通底するものがあるように思う。

⚫︎で、難しいのは、この感じは、反体制的な「抵抗」と区別がつきにくいということだ。抵抗とは、(それ自身が目的ではなく、結果としてそうなるのだとしても)体制の側にいる人の嫌がることをすることだ。この時、「体制への抵抗」の中にもあり得る「拗らせた力の行使の感覚(ある意味、嫌がらせ的な感覚)」は、そこに明らかな権力差があること―-散々、力を行使されてきていること-―によって肯定されるべきものと考えていいのか。

仮に、肯定されるべきものだとして、どの程度の権力差までなら、それが容認されるのか。

(悪意と抵抗とが、「動機(感情)」の部分では区別がつきにくいというのは厄介なことだと思う。)

(皮肉やちょっとした露悪的言動をアイロニーとして楽しむという文化が衰退してしまったことも、悪意と抵抗との区別のつかなさを増進させてしまっているようにも思う。アイロニーの苦味のない知性はあり得ないと思うのだが、それが今では冷笑と受け取られかねない。冷笑とは、まさにアイロニーやユーモアの欠如のことだと思うのだが。)

(アイロニーは、「拗らせた(ネガティブな)力の行使の感覚」が発動してしまっている自己あるいは他者に対する批評=アラートとして知性によって立ち上がってくるものなのではないか。嫌味と皮肉の微妙な違い。皮肉の皮肉性を維持して嫌味へと堕落させないのが知性? )

2023/05/05

⚫︎マティスを観に行きたいけど五月中は無理だ。しかし、五月は窓を開けているだけで気持ちがいい。

⚫︎集中して何かをしていると、気づいた時にいきなり尿意がマックスだったりする。集中している時はそれ以外の情報を全てカットしているからそうなる。ぼくは集中力がなく、すぐに気が散ってしまう方だと思うが、それでもそうなる。集中することはいいことでもあり、悪いことでもある。

2023/05/04

⚫︎おにぎりを握っている夢をみた。教室のようなところで、4、5人で長机を囲んで。最初に作った(最初の炊飯釜のご飯の)塩昆布のおにぎりはうまく握れたが、次に作った(二番目の炊飯釜のご飯の)焼きシャケのおにぎりは、ご飯がぺちゃっと柔らか過ぎてうまく形が作れなかったし、手にご飯がくっついた。教室には他にも人がいて、分担して何か作業をしている。一人が、「ちょっと仮眠してくる」と言って教室を出ていった。

昔は平気で素手でおにぎりを握ったが、今はみんな塩ビの手袋をして握る。夢では素手で握っていた。ぼくは平気だけど、気にする人もいるのではないかと、夢の中でちょっと気になった。

2023/05/03

⚫︎『水星の魔女』、第十六話(プロローグも含めると実質的には第十七話)。これまでバラバラに散っていたさまざまな要素が、ギュッと一箇所に集まってきて、この先、物語が新しいステージに入っていって、クライマックスを迎えるのだろう。きたきたきた、という背筋が震える感覚。

『水星の魔女』では希薄だったニュータイプ系の主題が、プロスペラの二人目の娘(というか、最初の娘)の出現で前面に出てきた。プロスペラはいわば、ニュータイプの可能性(ガンドの理念)を私怨によって独占的に支配しようと目論んでいるというわけだ。

(プロスペラは多くの仲間を理不尽に失ったのだから、これを「私怨」というのは適切ではないか…。)

父と息子との抗争においては、概ね息子の側が実権を握り、若い世代が本格的に社会の改革を(クーデター的な形であるが)推し進めようと動き始める。文字通り、(図らずも、だが)父を殺して放浪していたグエルは本来の場所に帰還し、シャディクは周到に練られた「革命」の実行をはじめる。彼らの目的は宇宙と地球との分断の是正であり、不当な既得権の解体であろう。

これに対するのは、もちろん、現状を維持しようとする体制側であるはずだが、それだけでなく、別の動機で世界の改革を画策するもう一人の革命家プロスペラも存在する。プロスペラは、娘(エリイ・目的)のために、娘(スレッタ)を「手段」として支配する。彼女の世界の(社会の、ではない)改革の目的はただ「娘の存在」の確保であり、仲間を殺した者たちへの怨嗟であろう。

ここで、体制側とは、ベネリットグループであり、それを代表するMS開発評議会であるが、しかし、総裁であるデリングは意識不明の状態だし、ザリウスは義理の息子シャディクに拘束されており、ヴィムは息子のグエルに殺されている。残っている有力者は、自分たちも強化人士を使ってガンダムを使用しているペイル社の不気味な魔女(?)たちと、オリジナルのエランくらいだ。

(父たちは概ね敗れ、不気味な母たちが支配することになった。)

ここでシャディクが、ベネリットグループの総裁選に出ることになって、これがうまくいけば、(あくまで「表向きは」だが)合法的な革命が成立する。だが、ペイル社がそれをすんなり認めるとは思えないし、もしかすると、帰ってきたグエルが、シャディクと争うことになるかもしれない(現時点で、グエルがどう動くのかは全くわからない)。ミオリネも、とりあえずはプロスペラの意向通りに、プロスペラの駒として動かざるを得ないのだろうから、総裁選に参加するのだろう。

まず基本に宇宙と地球との戦いがあり、そのような構図を書き換えようとする反体制側と、維持しようとする体制側との戦いがあり、しかしその時、体制側にも、反体制側にもそれぞれ異なる複数の勢力がある。これらの複雑な力のせめぎ合いが、とりあえずは一旦、ベネリットグループの総裁選というゲームになだれ込むことになるのだろうか。

(また、それに加えて「宇宙議会連合」の動きも無視できない。)

しかし、最も重要なのはこのような見取り図そのものよりも、そのような勢力分布の中で発生する、プロスペラとエリイとスレッタとミオリネとの関係であり、その力の抗争であり、それが社会・世界のありようにどのように影響を与えるのかということだろう。この四人の中で、エリイの動向とその力とが、今のところ全く未知数であり、彼女の「意思」がどう動くのかが重要な鍵になってくると思われる。

⚫︎今のところスレッタは、『リコリス・リコイル』のアイロニーを遥かに超えたところで、アニメ史上で最悪のヒロインの一人であり、「ウテナ」のアンシーに最も近い位置にあるヒロイン=怪物だと思われるが(アンシーが謎に包まれた他者・怪物であるのに対し、スレッタは謎が何もないこと―素直ないい子であること―によって他者・怪物であるのだが)、そんな彼女が、ミオリネと、そしてエリイとの関係の中で、どのようにして、どのような形で「主体化」していくのだろうか。

 

2023/05/02

⚫︎竹内まりやの「September」はわりと好きなのだが、竹内まりやが作った曲ではないということを今更知った。林哲司松本隆の曲。林哲司は、シティ・ポップ再評価の中心曲の一つである「真夜中のドア」を作った人でもある。原田知世の「天国に一番近い島」もぼくは好きだ。

ぼくには音楽的な分析はできないから、詞についてちょっとみてみる。この曲は出だしがとてもかっこよくて、《からし色のシャツ追いながら/飛び乗った電車のドア》と、いきなり「からし色のシャツ」というカラフルなイメージが出てきて、ついで、それを追って「電車に飛び乗る」というキビキビしたアクションがつづく。しかし、このカラフルでとび跳ねるようにポップに始まるこの詞が描いているシチュエーションは、「心変わりした恋人が別の女性に会いに行くところをこっそり尾行している」という、重たくて、陰気で、じっとりとした場面なのだった。《いけないと知りながら/振り向けばかくれた》、《年上の人に逢う約束と知ってて》。え、ここからそこに行くの! という驚きの展開だ。

しかしこの詞は、嫉妬や未練を軽く匂わせながらも(《会ってその人に頼みたい/彼のこと返してねと》)、そのような重く湿った感情は匂わせるにとどめて、全体の調子としては、恋人の心変わりを嘆いて「悲しむ」という感情の方に重きが置かれているように感じる。《ほどけかけてる愛の結び目/涙が木の葉になる》など。恋人や、その相手への恨みごとのような感情は希薄になっている(いや、でも「行動」としてはねっとりと尾行しているのだが…)。そしてこの曲は最後には、確かに悲しいことだが、これはこれでもう終わったことだ、と、スパッと割り切る感じにまで行き着く。《トリコロールの海辺の服も/二度と着ることはない》。

何が言いたいかというと、同様にネガティブな感情であっても、「未練」や「嫉妬」という感情はポップにならないが、「悲しみ」はポップになるということを、(「未練」や「嫉妬」という感情の存在を匂わせつつも抑圧することで)この曲の「ねじれ」が端的に示しているということだ(「未練」や「嫉妬」は関係に粘りつくが「悲しさ」は自律した感情だ)。日本のポピュラー音楽の歴史に詳しいわけではないが、おそらくこの、「ポップでカラフルな悲しさ(自律した悲しさ)」という感覚が(同時に、ポップにならない「未練」や「嫉妬」という粘りつく感情の意識的排除が)、当時はニューミュージックと言われた(ものの一部である)、70年代後半に始まるシティ・ポップが日本のポピュラー音楽に持ち込んだ(従来の歌謡曲や演歌と異なる)新しさだったのではないか、と思う。そしてこの感覚・感傷は、高度消費社会ととても相性が良い。

(おそらくこの感覚・感傷には、音楽的な根拠もあるはずだろう。)

(竹内まりやが自分で作る曲は、林哲司松本隆よりも、もうちょい重めで、もうちょい湿っている感じがする。)

⚫︎だがもちろん、「未練」や「嫉妬」という感情を、日本のポピュラー音楽が切り捨てたということはない。演歌が流行らなくなったとしても、たとえば中島みゆきのような人が、シティ・ポップと同時代に出てくるのだし、むしろ(おそらくいつの時代も)メジャーなのは中島みゆき的なものの方(要するに「保守的なセンチメントの力」)であって、シティ・ポップ的な感覚ではないだろう。

2023/05/01

●議論が成立するのは、とても稀で幸運なことだ。

交渉や折衝は、相入れない者同士が互いに受け入れうる妥協点を見つけるためにすることだから「結論」が必要だが、議論は、異なる意見が異なるままで終わっても別に良くて、それによって互いに認識が深まったり、広がったり、新たな気づきがあったり、自説の弱点が見つかったりすれば、それで充分に意味がある。また、議論は争いではないので、議論の結果、異なる意見を持っていたAさんがBさんに説得されたからといって、Aさんが負けた(Bさんが勝った)ということではない。

(逆に、ディベートは勝ち負けを争うゲームであり、本来の自分の考えと真逆の主張でも相手を論破できればいいわけだから、主張の「内容」は恣意的であり、どうでもいいことになる。また、ディベートはオーディエンスに向かってするものだが、議論は対話の相手に対して行うものだ。)

議論を成立させるには、意見の異なる相手への友好的な感情(少なくとも友好的な態度)と敬意が必要であり、それがなければ、どんなに「正しい」ことを言おうが、論理的に整合的であろうが、意見の異なる相手とのやり取りは罵り合いと変わらなくなる。

そこから先は、議論とは異質な「政治的闘争」の領域となる。政治的闘争は、相容れない他者との力の奪い合い(力の配分の仕切り直しへの要求)であり、そこに必要なのは論理というよりも力である。例えば、議論において「知」や「論理」は真理へと至るためのものだが、政治的な領域でそれらは「力」として利用するためのものになる(否定的なことを言っているのではなく「女性が知を得ることでフェミニズムが社会の中で力を持つようになる」というようなことだ)。

政治的言説は、(それが正しいということより)それが「広く受け入れられる」ことで「力」を持つという点が重要になる。

(「言論の力」もまた力であり、それが及ぼす他者への作用・効果が問題となる。もちろん、正当な手続きを経た力の行使と、不当な行使とを一緒くたにするべきではないが、力が力であることは変わらない。エビデンスと論理的整合性を兼ね備えた言論で人を納得させることと、デマや切り取りによる印象操作でミスリードを導くこととは全く異なるとしても、そこで行使されるのが「人を納得させる力」であることは変わらない。)

政治的領域は「力」の領域であり、「ガンダム」の領域だ。「ガンダム」とは、諸々の立場の異なる力が交錯しぶつかり合う場であり、政治=暴力の不可避性が繰り返し描かれる。人が政治的(=暴力的)でないことは非常に困難で、政治的(=暴力的)度合いが低くても存在できる人はたまたま幸運な位置にいるに過ぎない。

しかしだからこそ「議論」は貴重である。政治的・闘争的であるしかない世界において、議論を可能にするためには「政治」を一時的にであれ、宙吊りにし、棚上げする必要がある。ゆえに、議論は(少なくとも直接的には)政治的には無力であり、無力でなければ議論ではないとさえ言えるだろう。これは、交渉や折衝が、特定の政治的状況下で要請され、行われるということと対比的である。議論では、立場が固定されていてはダメなので、一時的であれ、ソクラテス的な、ポジションを持たないというポジションが要請される。

(しかし、特定の政治性を常に相対化する非政治的なソクラテスは、政治的に殺されることになる。「議論」という非政治的なポジションは、政治的な足場(信条)を根底から瓦解させる可能性があるので、政治的にまったく安全ではない。むしろ、あからさまに政治的であるよりもリスクが高い。)