2024/04/22

⚫︎「熟議」という考え方に根本的な不信感がある。ケンカにおいて、生まれつき体が強い奴が勝つのと同様に、「議論」においては、生まれつき頭の良い奴が勝つ。どちらにしても、形の異なる暴力ではないか。だから、集団の意思決定が民主的であるべきだとすれば「熟議」は適当ではないとぼくは思う。その時に必要なのは集合知だろう。

例えば、資本主義が共産主義よりも優れているとすれば、それは、いろんな人たちが、それぞれ勝手に、いろいろ試してみて、その多くは失敗するが、その中でたまたまうまく行ったものが成長し、拡大していくか、あるいは、拡大しないで、小さな領域であっても、定着し、持続可能となる、という形になっているからだろう(成功が千に三つだとしても、成功したものが良いものであれば、それは引き継がれ、世界は変わる)。共産主義においては、一部のエリートが最適だとする解を最初に定める。それは最悪ではないかもしれないが、最良でもないものになるしかない(そして、権力が集中するエリートは、必ず腐敗する)。

集合知は、議論でもないし単純な多数決でもない。それを引き出すには、引き出すための上手い手法やプロセスが必要になる。資本主義は、そのための、ある程度は上手いシステムだから、世界に広がった。ただし、現在ではその矛盾や限界も明らかに見えている。

重要なのは、思想よりも、どのようにしたら集合知を上手く引き出せるプロセスを考えられるのか、ということだと思う(「思想」に意味がないと言っているのではない)。VECTIONが考えているのは、そのようなことだ。

vection.world

2024/04/21

⚫︎なぜかいきなりU-NEXTでどーんと14本、トリュフォーの映画の配信が始まった。あと、チャップリンも14本加わった。だが、今は観ている余裕がない。

(目先の必要があって読む以外の本を読む余裕もないし、映画を観るまとまった時間を作るのもむずかいし。どうやってマティスを観に行く時間を作ればいいのか…。)

今回の配信ラインナップにはないが、『トリュフォーの思春期』は、ぼくにとってトラウマ映画の一つだ。小学校低学年と高学年の間くらいの時だったと思うが、地元の映画化に『がんばれベアーズ』を観に行った時の同時上映が、今思えば『トリュフォーの思春期』だった。その時に、何か強烈な、見ては行けないものを見せられたという印象が刻まれたのだが、「それ」がなんという映画なのかずっと分からないままだった(その時は『がんばれベアーズ』にしか興味がなくて、事前には同時上映など意識になく、ショックを受けたあとも確認することもなかった)。ただ、その強いショックの感触というか質感はずっと残っていた。

しばらくして(まだ小学生だったか、中学生になっていたのか…)、昼間だったはずだから日曜か休日だったのだろうと思うが、たまたまテレビをつけたら、既視感のある「質感」が不意にガツンと現れて、「え、これは、あの、あれ、なのでは ? 」と思い、しばらく観続けて、「そうだ、間違いなく、あの、あれ、だ」と確信した。その時にはもう「あの、あれ」が現実だったのか、偽の記憶なのか分からなくなっていた、というか、むしろ、現実ではなかったのではないかという感じの方が強くなっていたから、あれは現実だったのだ、ということが軽いショックでもあったし、(妙な言い方だが)嬉しい感じでもあった。

(調べたら、『トリュフォーの思春期』の日本公開は1976年だから、9歳だったはずだ。微妙な年齢だ。)

というか、ほぼ同じ内容の日記を四年前にも書いていた(書いていて既視感があったので検索したら出てきた)。

furuyatoshihiro.hatenablog.com

2024/04/18

⚫︎目黒区美術館が、再開発のために解体されるという話が出ているらしい。もう何十年も行ってないけど、色々と思い出すことがある。ぼくが初めて、自分の作品を大学以外の場で展示するという経験をしたのが、目黒区美術館に併設されている区民ギャラリーでだった。大学内で、学生が主体で、責任者が下の年代へと受け継がれる形で毎年行われていた「Young Power of Art」展という、信じがたくダサいタイトルの展覧会があって、募集のチラシを見てそこに参加した。三浪の間我慢して受験絵画ばかり描いていて創作意欲が爆発していた入学当時のぼくは、とにかく作品を作りたかったし、作ったものをアウトプットしたかったのだった(起きているほとんどの時間を大学のアトリエで過ごした)。その展示が行われたのが目黒区美術館の区民ギャラリーだった。一年の時だったか、二年の時だったか、あるいは、一年と二年と両方参加したのだったかもしれない。

そのときに、どうやったら区民ギャラリーを借りられるかというノウハウを知り、確か三年の時だったと思うが、同級生五人か六人で「共振する離点」というグループ展を企画して行った。自分たちで仕切った最初の展示だった。なぜ、メンバーに目黒区民が一人もいないのに区民ギャラリーが使えたのか覚えていない。区民じゃなくても都民だったらOKだったのかもしれない。

区民ギャラリーの空間はとても広くて(天井はあまり高くないが)、全面を借りられると本当に思う通りに展示ができた。大学のアトリエが巨大で、かつ、当時は抽象表現主義にハマっていたので、やたらとデカい作品をたくさん作っていたのだが、自分の作った巨大絵画を7、8枚くらいダーッと並べられたのはとても嬉しかった。あんなに贅沢に空間を使って展示できたのは、今に至るまで「共振する離点」のときだけだ。

大学四年間で、三回か、少なくとも二回は区民ギャラリーで展示をした。ホームグラウンドみたいな感覚があった。だから学生の時は、目黒区美術館には結構頻繁に行っていた(展示の時だけでなく、応募のためや下見のためなどで)。目黒駅から、権之助坂を通って、目黒川まで。川に突き当たると、川沿いの小道へ入って、しばらく行けば、公園の中に美術館がある。区民ギャラリーは美術館と違う入り口で、地下にあり、階段を下っていくと、見下ろす形で徐々に展示スペースが見えてくる。この道のりを歩いている感触はそんなに古い記憶じゃないように感じるが、でも80年代末から90年代初めころのことだ。

大学三年のときに特待生に選ばれて学費が半額免除になった。親と交渉して、返納された学費の一部で銀座のギャラリーを借りて、四年の時に初めての個展をやった。1992年。目黒での展示はそれよりも前の話だ。

2024/04/17

⚫︎神奈川近代文学館橋本治に関する展示をやっているみたい(見に行っていない)だし、橋本治についての新しい批評の本が出たみたい(読んでいない)なので、昔書いた『ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件』論(『世界へと滲み出す脳』所収)をnoteにアップしてみました。

(この小説はとても面白いのだが、とはいえ、読もうとしても入手するのが難しいだろうなあと思っていたが、なんと、二年前に復刊していた ! ということを、今、知った。)

note.com

2024/04/16

⚫︎エリー・デューリングは、「仮想世界と第四次元:マルセル・デュシャン」で、「SF美術家」としてマルセル・デュシャンを評価し、その高いポテンシャルをさまざまに検討し、記述しながら、しかし、デュシャンは結局、その可能性を十分には展開・実行・実演するには至らなかった、と、結論づける(デュシャンには、アインシュタインが足りなかった、と)。とはいえ、デュシャンがやり残したこと、彼が十分には実現できなかったポテンシャルの中にこそ、今日の芸術の重要な問題があるのだ、と言っているように読める。

《「差異とは一つの操作である」とデュシャンは書いている。切断も同様だ。しかし、どのようにしてこの操作を示し、語ることができるだろうか ? 私たちはすでに四次元の中にいる。私たちは絶えずそれを切り取っている。それは私たちを包み込み、鏡に映る像が開いた仮想空間のように私たちに付き従う。どうすればそれを見せることができるだろうか ? デュシャンは、見世物小屋や発明品コンテスト、そして新しい幾何学といったものの要素を含む大作品を構想していた。それは網膜の絵画であるキュビズムに対する本当の美的戦争機械となるはずだった。しかし、数年の労作の末に「花嫁(花婿たちに裸体にされた)」が、これらの最初の直観の移植を提示しているように見えるが、それは本当に作品なのだろうか ? 作者の言葉を借りれば、想像を超えた「痛烈な」「燃え立つような」「可能性の表象」として捉えるべきではないだろうか ? そしてそうだとすれば、デュシャンが大ガラスによって与えようとしていたもの、つまり四次元の仮想的ドラマのプロトタイプを本当に与えているのか、と問わざるを得なくなる。答えは間違いない。それは、デュシャンの覚書に精通した観客が、実物の大ガラスを見て正当に感じる失望の大きさに等しい。デュシャンがガラス板に込めようとしたものを「読み取る」ためには、確かに多大な努力が必要となる。二枚のガラス板の「無限小の」接合点によって表される地平線を越えて、偶然に割れたガラスを越えて、ポアンカレによる位相幾何学的特徴付けにおいて、デュシャンが一般的手順として孤立させることに成功した切断の理念を、どのように具体化したのか言うことは難しい。大ガラスを実演する必要があるだろう。》

《時間が速度の鏡の中で可変的に拡張されるような視点的時間を持つ相対性理論は、彼が大ガラスに取り組んでいた当時にはまだ彼の元に届いていなかった。1920年代にそれが一般化し始めた頃には、もう遅すぎたのかもしれない。「白い箱」の覚書は最終的に、「時間のずれ」と「横向きに見た振り子」の言及で、「時間が消えるように」とデュシャンが明確に述べている言葉で、私たちを川の中州に放り出す。この言及は非常にアインシュタインの理論の時間的なアナモルフォーゼを連想させる。透視画法の岸を離れるために、切断の分析学の険しい道を通らざるを得なかった行程の最後に、速度を空間変換の演算子とすることは、その素材的な逸話の詳細に興味を持つにしても、大部分は推測の域を出ないことを認めざるを得ない。それでも今日、ビデオアートやロケーションメディアの実践者となったデュシャンを夢見ることは許されるだろう。》