●友人から電話があり、作品を批判されたという愚痴を聞かされた。どういう風にけなされたのかと聞いてみると、それはいかにも現代アート系(?)の人が「絵画」に対して口にしそうな批判だったので、そんな「批判」自体が紋切り型なのだから、そんな事を気にする必要はないけど、その程度の批判で揺らいでしまう「自信のなさ」の方を(もういい歳でキャリアもあるのだから)問題にすべきではないのか、とか、そんな偉そうなことを言ったのだった。
結局誰でもそうなのだけれど、人は基本的に自分の関心に沿って人の作品を観てしまう。これはある程度仕方がないこのなのだけど、当然のことだが、「作品」というのはそれぞれに全く異なる成り立ちや組成があり、作家の(意識的・無意識的にかかわらず)関心の範囲や深さもそれぞれ異なるので、作品に触れる時にはまずそれをなるべく「聞き取ろう」とすることが必要とされる。だが、他人の作品を受容する時のキャパシティが狭過ぎ、柔軟性に欠け過ぎている人がいて(ある「問題」に沿ってしか作品を観られない人がいて)、で、こういう人に限って「押し」が強くて、(一見)理路整然と(みえるように)話したりするので(自信満々に見え)、基本的に作家はそんなに頭がいいわけではない(そのことに多少なりともコンプレックスがある)ので、何か根本的な批判がなされたのだと思って、揺らいでしまって、その人自身の追求すべき方向性や資質を見失ってしまうことがよくある。(「趣味」と言うと人は馬鹿にするけど、趣味の強さというのは、こういう場面で力を発揮すると思う。)揺らぐだけならまだ良いのだけど、その結果、今度は言われた方の人が、その人の口まねをして、他人に対して「押し」の強い(だが紋切り型で基本的に下らない)批判を押し付けるようになったりする。こういう場面を、一体何度目撃したことだろう。こういうことにならないためにも、ある程度はお勉強をして「言葉」に対する耐性をつけておくことは有効だろうと思う。特に美術の場合、全くと言ってよいほど(個々の作品に対する)批評が機能していないので(作品を発表しても、なんとなく「良い」とか「良くない」という以上の反応があまりないので)、結構みんな言葉に対してウブで(実は言葉に「飢え」ていて)、もっともらしい言い方にころっとだまされたりする。(あるいは全く逆に、「言葉(分節)」というものを一切受け付けなかったりもする。)勿論、ぼくがこの日記に書き散らかしている言葉が、(他人に対する)たんなる「紋切り型のゴリ押し」を、無条件で逃れられていると言うつもりはない。(その危険は常に感じている。)だが、そのような状況をなんとかしたいと思っているからこそ、言葉を必要としているのだ。(いや、たんに、作品について普通に、気軽に話が出来るということが大事だと思うのだけど、それが「美術」ではなぜこんなに難しいのかなあ、ということなのだけど。)