●昨日、「ハレルヤ」(保坂和志)を読んだので、「生きる歓び」を本棚の奥から引っ張り出して読み直して、そして、出先で用事が済んで喫茶店でもう一度「ハレルヤ」を読んで、うちに帰ってから寝る前にまたもう一度「ハレルヤ」を読んだ。
「ハレルヤ」を読んだ後に改めて読んで、「生きる歓び」は、タイトルのそのまんまに「生きる歓び」について書こうとした小説なのだなあと、ようやく気づいた。
花ちゃんには、鼻風邪の鼻汁で顔をぐしゃぐしゃにして、目ヤニで両瞼がくっついてしまっている状態(左目の眼球はなかった)で拾われてからずっと、「生きよう」とする気配がみえない。その感じは、《生きるというのはそんなにいいことのなだろうか》と、《私》に疑問を抱かせるような様子だ。
《(…)いま目の前の段ボールの底に敷いたムートンの上で、つくんとコケシか指人形ぐらいの大きさでただ眠っているこの子猫は、ミルクも飲みたがらないし刺し身も食べたがらない。そして何よりも自分を保護してくれるはずの生き物がこうして近くにいるのに何にも働きかけをしてこないどころか反応がない。》
しかし、幾たびかのトライの後、獣医の先生に背中を押され、意を新たに子猫に向かう。目薬をさし、抗生物質のシロップを口のなかにスポイトで無理矢理に入れる。ミルクも強引に流し入れるようにする。
《そして最後の赤身は指先にのせたというよりこすりつけた程度の破片を、抵抗する子猫の口を無理にあけて中に押し込んだ。中まで入ると子猫はそれを食べたというか飲み込んだ。一度飲み込むと、味がわかったのか、それとも「食べる」ということを思い出したのか、口に押しつけられる破片をつづけて食べた。》
《全部で刺し身一切れの半分より少ないくらいだったが、とにかく食べた。食べたということは、生きる方向に何かが動いたということだろうと思った。》
そして翌日。
《(…)「ピーピー」「チーチー」鳴いて抵抗したが、とにかく目薬も抗生物質のシロップも済ませ、ミルクも赤身も最初の一口は嫌がったが一度口に入るとゆうべよりずっと積極的に飲んで食べて、八時間間隔の抗生物質の合間にも一度入っていって、目薬を点して、ミルクと赤身をやっていると、夕方にはきのうと見違えるくらいに元気になった。目も右の瞼から出てくる膿がだいぶ少なくなって、内瞼の隙間から黒い眼球がはっきり見えるようになった。猫は薬になれていないから本当によく効いて、どんどん治っていく。哺乳ビンの乳首も噛んで自分で飲み、赤身も小さい頭の小さい口からスルスルスルスルあまり見たことのない何か別のメカニズムで飲み込むようにして食べていった。》
《子猫の「花ちゃん」は、生きていることの歓びを小さな存在のすべてで発散させているように見えた。》
ただ、この「感じ」だけが書きたかったのではないかと思った。そして、花ちゃんの死が描かれる「ハレルヤ」でも、花ちゃんは一貫して、そのような「歓び」ばかりを体現しているような存在であり続けている。ただ同時に、「生きる歓び」の時にすでに、花ちゃんはチャーちゃんとある程度は「重ね合わされた」存在として登場している。花ちゃんとの出会いは、「チャーちゃんの不在」の状態で起こった出来事であり、既にペチャとジジという二匹のいる「私」と「彼女」の前に、花ちゃんはあらわれる。
《家ではしばらく三匹飼っていたけれど、二年半前の九六年の暮れに一番若かった茶トラが四歳数ヵ月でウィルス性の白血病で死んで以来、二匹の状態がつづいている。去年の夏に近所の公園で生後二ヵ月ぐらいの、ものすごく動きの激しい子猫を拾ってきて、いまいる二匹と様子を見たのだけど、動きが激しすぎて上のオスは追いかけられて逃げ回りっぱなしだし、下のメスは子猫の無神経さに頭にきて、「ウウ、ウウ」おこりっぱなしで、仕方なく里親を探してもらってもらったくらいで、いまいる二匹のことを考えると、道でこうしてうずくまっている子猫を見つけても気軽に拾うわけにはいかない。》
しかしそれでも、花ちゃんは「三匹目」として二人に拾われる。そして三匹目である花ちゃんは、不在のチャーチャンと「比べられる」という言い方はよくないかもしれないが、「重ね合わされて」て考えられている。ここでは「切迫感がない」という違いが強調されてはいるが、しかしそれでも、花ちゃんとチャーちゃんは重ね合わされて意識されている。それは代替というよりも、干渉というようなものだろう。
《私にも彼女にも危機感とか助からないかもしれない子猫がいるという深刻さはなかった。二年半前に一番若かった猫のチャーちゃんが白血病になったときには、毎晩が大雨や地震の被災者のような非常事態の気分で、私はろくに布団にも寝ずにチャーちゃんが見えるところに横になって注意をしつづけたけど、今回はまだ子猫に強い愛着を感じていないのだろうということが自分の気持ちの切迫感のなさによってよくわかった。》
そして、「生きる歓び」でも「ハレルヤ」でも、猫の世話をする夫婦(「私」と「彼女」、「私」と「妻」)は、一心同体というのではないが、別々の存在でありながら、同一の思考体のように、重ね合わされているというか、思考が干渉し同調しあっているかのような感じになっている。保坂さんの小説で、夫婦の一体感というか、相互干渉性みたいな感じが強くでているのは、この二つ以外はあまりないのではないか。
●それと、「生きる歓び」には、猫との関係が「強いられたもの」であり、だからこそ重要であることがかかれている。
《これでしばらく子猫の世話にかかりっきりになることが決まり、その間自分のことは何もしない。できたとしても私はしない。大げさに聞こえるとは思うが、自分のことを何もせずに誰かのことだけをするというのは、実は一番充実する。》
《「現に目の前にいる」という一点で子猫の方が私には重要であり(…)》
《そう書くとすぐに私が常時それを望んでいると誤解する人が必ずいるけど、望んでいるわけではない。そんな時間はできれば送りたくはない。逃げられないから引き受けるのだ。そして普段は横浜ベイスターズの応援にうつつをぬかしていたい。》