絲山秋子『逃亡くそたわけ』

絲山秋子『逃亡くそたわけ』。この小説を読みながらその「逃亡」をやけに切実なものとして感じてしまったのは、これを読む直前にチェーホフの『六号室』を読んでいたせいかもしれない。もっともチェーホフの小説では切実なのは監禁する装置としての病棟(六号室)の存在(力)であって、「病気」そのものは観念的(と言うか、あまりに文学的)に扱われているのだが。つまり『六号室』においては監禁されるものとされないもの(あるいは監禁する者)との境界は人為的なものであり、それが人為的なものであることが恐ろしいのだが、『逃亡くそたわけ』において「病気」は客観的な事実として存在し、その客観性において揺るぎなく、だからこそ主人公は「逃亡」を切望し、そしてそれは不可能な試みなのだ。『逃亡くそたわけ』という、幸福感さえ感じられる逃亡劇が、とても切ないものとしてぼくに感じられたのは、この「病気の客観性」にある。この小説には、「この病気は原因があって発病する人と、原因がないのに発病する人がいて、あなたは後者だから」というような医者の言葉が書かれている。原因もないのに発病するということはつまり、この病気は主人公の存在と不可分な属性としてあり、主人公の「花ちゃん」が自分自身として生きている限りは「病気」と折り合いをつけ、つき合ってゆくしかない、ということなのだと思う。特定の原因があるわけではないのに、その病気とともに生きなければならないという病気の「客観性」は、病院という監禁装置(の恣意性、相対性)以上に恐ろしい。花ちゃんは、退院すること(社会復帰すること)は出来ても、病気と縁を切ることは出来ないのだ。保坂和志の小説で、アル中の人は治っても必ず病院に戻ってくることになってしまう、退院して3日の人もあれば十年の人もあるそうだけど、という話を男がして、それに対して女が、それは「戻ってくる」に重点を置くから「結局」なんて言い方になるけど、3日で戻るのと十年で戻るのとは全然違っていて、その戻るまでの「長さ」にこそ重点を置くべきだ、と言い返すシーンがあり、ぼくはそこにとても感動したのだが、しかし、たとえ十年たっても「戻る」ことのなかった(戻らずに済んだ)人でも、常に「明日は戻ってしまうかもしれない」という不安とともに毎日を生きざるをえないのは3日で戻る人とかわらない、とも言えるのだ。『逃亡くそたわけ』の主人公花ちゃんにとって、一生病気とともに生きるしかない、というのはそのような意味においてなのだ。だからこそ彼女には「逃亡」が必要であり、必要であるにも関わらず、それは決して成功しない、目的も勝算もない行いなのだ。(つまりそれは「病院」という社会的な監禁装置からの逃亡ではなく、自らの属性としてある病気という客観性からの逃亡の企てであるのだ。)対して彼女と一緒に逃亡する「なごやん」は、とても優しくていい奴ではあるが、彼は、病気はいつかは治るものだと思っており、つまり「逃亡」する必然性はない。逃亡よりも治療の方がずっと重要なのだ。彼はそのやさしさによって彼女に「つき合っている」だけであり、その行為には必然性や切実さがない。よって花ちゃんとなごやんカップルは、必然的に遠くはない将来に行き止まりに行き着くことなるだろうと、小説を読みつつもその途中でも予測されている。(付け加えれば、読者も小説を読み終わって本を閉じてしまえば花ちゃんの切実さから逃れ、すぐにそれを忘れることさえ出来る。ぼくはこのことに軽いうしろめたさのようなものを感じる。つまり読者は花ちゃんとしてこの小説を「生きる」のではなく、なごやんとして、花ちゃんの必然性や切実さの隣にいるという読み方をしてしまいがちだ。それが悪いということでは勿論ないけど。)花ちゃんとなごやんによるこの幸福な逃亡劇は、この二人の「温度差」(というか切断)によって常に、どのような場面においてもとても「切ない」ものとなる。花ちゃんはこの「逃亡」になごやんのやさしさを必要としつつも、自分の切実さに他人を巻き込んでしまったことを常に申し訳なく感じているはずだし、なごやんにしても、花ちゃんの切実さに付き合い、この「逃亡」を充分に楽しみつつも、いつまでもずっとそれにつき合っていることは出来ないと感じているはずなのだ。しかし、それらの感情を一旦保留にした「宙づりの時間」のなかでこそ、この幸福で切なく、うつくしくも切実な、一直線の「逃亡」と二人の「関係」の物語が、ほんのひと時だけ成立するのだ。
●ぼくは知らないのだが、この小説にはなごやんの車にセットされていたテープから流れる音楽として、THEピーズというバンドの詞が引用されている。「日が暮れても彼女と歩いていた」という詞が、ライブでは「気が触れても彼女と歩いていた」と唄われていることからも、花ちゃんはこのバンドの曲をとても気に入る。そして終盤、なごやんは車のなかで「恋は水色」(これはポール・モーリアの「あの曲」のことだと思うが、THEピーズもカヴァーしているらしい)を口ずさむ場面がある。ぼくはこのシーンを、なごやんが口ずさんでいるのは細野晴臣の「恋は桃色」だと勘違いして読んでしまい、花ちゃんが「気が触れても彼女と歩いていた」というのは私のことを唄っているとか言って盛り上がっている時に、なごやんは一人ぼそっと「恋は桃色」を口ずさむような心境でいるということが、この二人の心境のズレを的確にあらわしていて泣けるなあ(ぼくがここで思い出していたのは「お前のなかで雨が降れば/ぼくは傘を閉じて濡れてゆけるかな」という部分だった)、とか思っていたのだが、それはたんにぼくの誤読だったのだが。