風間志織『せかいのおわり』

●京橋の映画美学校第二試写室で、風間志織せかいのおわり』。これはとても良い。この映画の良さは、「映画」に守られる必要がなく、自分自身(作品自身)の力だけで自ら立つことが出来ているところにあると思う。(例えば『犬猫』はとても良い映画だけど、やはりどこかで、前提として括弧付きの「映画」を必要としているようなところがある。それが必ずしも悪いということではないが。)そのような意味でこの映画は孤高の映画であり、「日本映画」のなかでの風間氏の孤高ぶりは、橋口亮輔と並んで際立っていると思う。前作の『火星のカノン』(http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/yo.24.html#Anchor5119083)も悪くはなかったと思うけど、この映画は、『0×0』を撮った、尖ったポストモダン女子高生だった風間氏が、二十年以上かけてようやく自分自身の資質に辿り着いたという感じがする作品で、何と言うのか、時間の流れと言うか、成熟のようなものを感じさせる。この映画の「せかい」はとても小さなものでしかないが、その小ささは、「大きさ」に対しての小ささではなく、登場人物たちにとっての「世界」を正確に反映したサイズであり、それ自身として成立している小ささなのだと思う。この映画の良さは、小さくてか弱いものを、それ自身の小ささ、それ自身のか弱さそのままで、作品として成立させているところにあると思う。
●この映画の中心にいる「はる子」という女の子は本当に駄目な奴で、そしてその「駄目」ぶりは今後もずっと変わることはないだろうと思われる。そして、それはそれでいいんじゃないか、と思わせてしまうところが、この映画の強さなのだ。『クーリンチェ少年殺人事件』を撮ったエドワード・ヤンならば、崇高な悲劇にまで高める「世界は変わらないし、私も変わらない」という事態を、風間志織は、まったりとした流れのなかで描き出し、それを「悲劇」に至らせることを強く拒否する。この、いいかげんで、甘ったれた存在を、それとして肯定することの強さが、この映画を貫いていると思う。(こんなに駄目で「かわいいでしょ」というのではなく、駄目はたんに駄目であり、その「たんに駄目である」ことが肯定されているのだ。)ぼくは個人的には決してそういう人を好きではないのだが、恋愛体質の人にとって「恋愛」というのは切実に必要なものらしくて、そしてその自分勝手な行動はまわりの人を振り回し、決して反省しない。いや、反省はするのだろうけど、結果としてまた同じようなことをくり返す。それは全くはた迷惑な話なのだが、それがその人なのだから、それはそれでしょうがない。はる子の惚れっぽさや後先を考えない行動は、その背後でそれを慎之介が受け止めてくれるという安心感に支えられている。そのことははる子にも分かっているし、それと分かって甘えているにも関わらず、慎之介の気持ちを受け止めるのは「やっぱ無理」だったりする。(それは当然で、慎之介と恋愛関係になってしまったら、それを背後で支えてくれる安定した存在がいなくなってしまう。)最良の意味で「動物化」したいい奴である慎之介にしても、常に「はぐらかされる」ことによって(駄目な奴である)はる子への(プラトニックな!)感情が持続しているのだ。そして、このような関係が続く限り、慎之介のつき合う女の子は全てはる子の代理であるしかないのだから、はる子に対してあれ程やさしい慎之介も、ナンパした女の子に対しては限りなく冷酷だ。で、そんな慎之介に対して愛情を感じながらも、彼ら(はる子と慎之介)の関係を正確に見通し、彼らを見守って、それはそれでしょうがないんじゃないか、と肯定し、受け止めつつも、「ちょっと寂しい」と感じている、「博愛主義者」で「平和主義者」のバイセクシュアルの植木屋の店長の視点が、この映画の作者の、そして観客の視点と重なる。店長にとってはる子は恋敵であるのだけど、はる子のように「恋愛体質」ではなく、「博愛主義者」で「平和主義者」である店長にとっては、はる子との関係を含めて慎之介に対する好意が成立しているのだから、はる子の存在をも肯定するしかないのだ。
この映画は、物語的な仕掛けによって、ちょっといい感じで終わるのだが、だからと言って何かが解決されたわけでは全くない。はる子、慎之介、店長の関係は全くかわっていないし、はる子の駄目さ加減も全くかわらない。おそらくはる子は、体力のつづくかぎり「恋愛体質」はかわらず、慎之介を振り回しつづけるのだろうし、達観しているかにみえる店長の「寂しさ」も解消されないだろう。そしてはる子は、ある程度年をとって落ち着いたら、今度はきっと「ヨン様」の追っかけをするようなおばさんになるのだろう。(つまりこの映画は、映画が終わっても何も終わらず、登場人物たちはその後も生きつづけるだろう、と思わせるような作品なのだ。)そして、それがはる子なのだから、それはそれでいいんじゃないか、と思う。「それはそれでいいんじゃないか」という肯定の力に、これほど強く貫かれている作品はそうはないと思う。
●この映画では、ちょっとした端役に至るまで、この映画の外でも存在しつづけているのじゃないかと思わせるような厚みが与えられている。例えば、はる子とケンカする美容院の先輩の発する「またやってもうた」の一言が、どれだけ人物像を厚くしていることだろうか。それと、ぼくは風間監督の撮る田舎の風景がとても好きなのだが、この映画のラストにあらわれる沖縄の風景が、沖縄なのにまるで埼玉の風景みたいに見えて、それがとても良いと思う。
●『せかいのおわり』は、9月に渋谷シネ・アミューズほかで公開されるそうです。