2025-01-08

(一昨日からつづく)

⚫︎『想像の犠牲』では、誰かが誰かに「役」を付与し/誰かが誰かによって「役」を付与される、という出来事が相互的に連鎖する。それは、戯曲と上演との関係において、過去にも未来にも向けた、さまざまな人によって反復され得る出来事のことをあらわしてもいるだろう。しかしもう一方で、時間軸上での多くの人々への「役」の反復だけでなく、内側・外側に何重にも折り畳まれる「役」の反復をも問題にされている。ある場面、ある人物をわたしが描写する、あるいは想像する時、想像された人物をわたしが動かしているのか、それとも、想像された人物によってわたしが動かされているのか、わからなくなる、というような。

 

ロベール 男はこのように〈弟〉に向けて日々あたらしい小説を口述していく。そのうち登場人物である男のからだ、いやそれ以上に見ている景色や感じ方の細部までことこまかに想像できるようになっていく。ほとんど現実と変わらないほどに。……そこで、ある妙な考えが浮かんでくる。(…)

 

ロベール (…)その夢想は時に自分自身のからだを置き去りにするほどだった。やがて私は白昼夢にうなされるようになった。私の思考をを借りて彼はものを考え、私の感覚を奪って彼は感覚し、歩き、しゃべり、身を隠し、引き金を引いているのではないか ? そのとき、私が想像しているのか、それとも、想像のなかの彼が私にそれをさせているのか? そもそも彼は想像のなかにいるのだろうか ? 私は、私の想像の犠牲になるのだろうか ? 〈お前が存在するのではない。お前の代わりに私が存在するのだ。〉

 

このような内と外との反転可能性が(「役」を付与する/付与されるということとはまた別のやり方で)「わたし」と(遠くの)「他者」とを関係づける。この反転可能性はボルヘスを想起させもするが、ボルヘスの場合は「意思」によって他者を作り出し、その他者はある意味分身でもあるが、ここでは半ばオートマティックに内側に「他者」が生まれて、主客が逆転してしまう。この反転可能性が、演出家の手紙に書かれていた、自分と映像に映る兵士とが似ていて、兵士の加害に自分も加担しているのではないかという「奇妙な恐怖」の強い根拠となるだろう。

そして反転可能性は、「ただ(自分として)存在すること」と「役を演じること」との境界線をも消失させ、「わたし」を、誰でもあって誰でもない「誰か」にしてしまう。ここでロベールが口にする「想像の犠牲」とは、マリアが、オットー(+アレクサンドル)の想像の犠牲となって「魔女」の役を担わされるという意味とは異なる意味になっている。マリアがオットーの犠牲になるのではなく、「私」が〈私〉の犠牲になる(この二つの私は、どちらも私でありつつ別人でもある)。いや違うか。ここで「想像」は「私」にも〈私〉にも属していない。「想像」は半オートマティックに「私」と〈私〉とを分離しつつ、関係づける。ここでは「私」も〈私〉も、どちらも「想像」の犠牲としてあるのだ。

 

したり顔で自分の戯曲をそらんじていたロベールが、「ミニチュア」と「シンポジウム」の境目で、突然倒れる。

あれが彼の戯曲の表現なのか、それともほんとうに突然体調が悪くなったのか、数秒のあいだ、おれたちの誰も見分けられていなかったと思う。(…)(西川)

 

たしかに『想像の犠牲』にはないシーンだったけど、その倒れ方はなにかしらわざとらしいところがあった。彼のその動作ひとつで、私たちは戯曲や演出によって定められて舞台にいるのか、それともただ黒っぽい板の上に突っ立っているだけなのか ? 自分がどこにいて、誰の意思でこのからだを動かしているのか ? それだけのことが、いくつもの灯体からくる熱く黄色っぽいひかりのなかで溶けていくのだった。そのことを考えた私は恐怖して、気づいたときには

 

高木 ひぃっ

 

と自分でも笑ってしまうほど情けない声を出してしまっていた。(高木)

 

 

《私たちは戯曲や演出によって定められて舞台にいるのか、それともただ黒っぽい板の上に突っ立っているだけなのか ? 》このような混乱が、いわば存在論的な白紙状態を作り出し、例えば、殺戮している兵士の映像を見るている私こそが、殺戮する兵士の夢想なのではないかという形で、私と兵士とを結びつけ、《殺戮し、陵辱し、あるいはその一部になっているのではないか》という恐怖と結びつく。少なくともその可能性に対して開かれてしまっていることになる。

(ここでロベールが「誰でもあり誰でもない誰か」として倒れることと、昨日引用した部分で、高木が「ケーテ・へードリッヒとして」泣き崩れる・撃たれて倒れることに違いは重要だろう。)

「わたし」を、誰でもあって誰でもない誰かという位相に落とし込む内と外との主客の逆転可能性は、わたしと、(わたしではない)遠くの他者を関係づける可能性でもあるので、必ずしも否定されるものではない。しかしそれによって、「わたし」もまた加害し陵辱するものの一部であるという可能性をも否定できなくなる。

⚫︎『想像の犠牲』では、誰かが誰かに役を付与する/誰かが誰かから役を付与される、という関係が検討されている。それは常に権力的な闘争ではある。例えば、オットーとアレクサンデルによってマリアに「魔女」の役が付与されるという『サクリファイス』の場合には、その付与の背景に強い権力格差があり、一方的かつ理不尽なものと言える。しかし『想像の犠牲』で行われている役の付与/被付与のあり方は、対立的ではあっても論争的であり、そこには(ロベールという不気味な存在はいるが)決定的な権力者はいない。前作『脱獄計画(仮)』(の戯曲レベル)では存在の根拠の否定し合いのような殺伐とした対立があったが、『想像の犠牲』はあくまで上演をめぐる共同討議の場としてあって、喧嘩をして途中で帰ってしまうことはあったとしても、殺し合うようなことはない。ここでは「存在の根拠の否定し合いのような殺伐とした対立」をどのように避けるのかということこそが主題であるかのようにも思われる。

そして、そのようなあり方として戯曲・作品を成り立たせようとすることこそが、「わたし」が《殺戮し、陵辱》するものの一部であってしまうかもしれないことを避けようとする行為そのものであり、そのための試みとなっているのではないか。

(つづく)

2025-01-07

(昨日から続く)

⚫︎戯曲『想像の犠牲』には二つのプレ・テキストがあると言える。一つは、フィクションのレベルにのみ存在する、「演出家」によって書かれた戯曲である「想像の犠牲」で、この戯曲は実際には『想像の犠牲』の中でそのごく一部が再現されるだけだ。もう一つは、フライヤー、その他に書かれている「演出家」の手紙、およびそれについての「土井」のコメント。この文章は実在する。それは『想像の犠牲』の設定を説明するだけに留まらない重要なテキストであり、フライヤーに書かれた宣伝のための文章などではない。ここには、戯曲『想像の犠牲』の核となると言ってもいいエピソードが書かれている。戯曲『想像の犠牲』を読むより前に、あるいは上演される『想像の犠牲』を観るより前に読んでおくことが必須であろう。

このテキストには、「演出家」の経験として次のようなことが書かれている。

《(…)僕はある映像を見ました。ぬるついた空気と一目でわかる曇り空の住宅街で、アパートの窓から、SNSにアップされるために短く切り取られているその映像は、歩道を歩く、モスグリーンのセーターを着た小太りの男が、後ろから何発かの銃で撃たれる瞬間を映していました。撮影者が、私にはわからない何かしらの言葉を小さく放ちながら画面がクローズアップされると、倒れた男の反対側というのか、画面左下に、軍服を着た男が歩くのが見える。》

《僕がそのとき感じたのは、土井さん、この男は、自分ととても似ている。ということでした。人種も体格も違う、映像から感じ取れる具体的な共通点のなにひとつない、人を撃ち殺したての、ある国の兵士に、自分は似ている、という感じを持ちました。》

《浜辺から一本隔てた、ヤシの等間隔に並んでいるサンタモニカの明るい通りを歩きながら、僕はそのことを思い出している。僕は、僕の知らないうちに、加害し、陵辱し、あるいはすでにその一部になっているのではないか ? という奇妙な恐怖のことをです。》

ここで書かれる「奇妙な恐怖」こそが戯曲『想像の犠牲』のキーとなるモチーフであり、そして、「演出家」による「奇妙な恐怖」への態度(として、彼によって書かれた「想像の犠牲」)に対する、集団的な検討・議論、それを経てたどり着いた「批判」が、戯曲『想像の犠牲』としてある。「演出家」による「奇妙な恐怖」への態度は、ほぼそのままアンドレイ・タルコフスキーの『サクリファイス』における態度と重ねられており、つまりこの戯曲はタルコフスキーを下敷きにした、タルコフスキーへの批判となっている。

もちろんこの批判は単純な否定ではなく、タルコフスキーを検討することによって、結果としてタルコフスキーを批判せざるを得ない地点に到達するという形になっている。

⚫︎『想像の犠牲』の最初のモチーフは、『サクリファイス』において、マリアが、郵便配達員のオットー(およびアレクサンドル)から一方的に「魔女」の役割を押し付けられて、それをまっとうさせられることの理不尽さについての着目だったと聞いた。マリアは、一方的に魔女の役割を負わされた上に、「世界が救われた」のちには、役割を背負わされたことそのものさえ忘れさせられる(「核戦争」もなかったことになり、アレクサンドルの自己犠牲のみが残るようになってしまっている)。戯曲『想像の犠牲』においては、「演出家」から一方的に「役割」を負わされた土井≒マリアが、その役割を一応は引き受け、それを遂行しつつも、その理不尽さを繰り返し、さまざまなレベルにおいて問うていく(ここでぼくが「土井」と「マリア」とを「≒」で結んでしまうこと自体が、すでに役の押し付けなのだが)。そして結果として、その役割の遂行それ自体が「演出家による役割の押し付け」に対する(クリエイションメンバーたちとの共同的な)批判的検討になっている。

だがここでの「演出家」による「役割り」の付与は、タルコフスキーの映画ほど一方的で理不尽なことではない。土井は明らかに「演出家」の問題意識(奇妙な恐怖)にかなりの部分で共鳴しており、彼女は自分の意思で上演を引き受けているはずだ(とはいえ、「自分の行動は、自分で決めるものですよ」というロベールの台詞ほど、この戯曲で胡散臭く響く言葉もないだろう)。しかしその上演はうまくいかなかった。その、うまくいかなかった上演の問い直しとして、その経過をアーカイブとして残す戯曲の執筆と、他のメンバーとのコメント上での対話があり、その問い直しを通して、「演出家」の仕事の中から「演出家」への批判と乗り越えの契機を見つけ出す(タルコフスーから石原吉郎へ)。このとき、「上演の破綻」の顛末が、そのまま「上演の再検討」の過程と重なっているという、この戯曲のふしぎな多重構造が現れる。ここで、上演のありかたに当初から批判的であり、上演を破綻に導いた多くの要員を担っているように思われる「加藤」と「高木」という二人の人物こそが、上演の再検討において重要なヒントを提示する役割を担っているように思われる。

(対立しながらも、上演を肯定的に進めようとする土井と西川に対し、そもそも演出家の戯曲に懐疑的で、上演の途中でいなくなってしまう高木、そして、土井・西川が戯曲をタルコフスキーを軸として読もうとするのに対して、石原吉郎の軸を推してくる加藤。さらに、最初に石原の詩を口にするが、コメントを書き入れないため内心が知れず、内心が知れないために得体の知れない不気味な存在であり続けるロベール、という人物の配置。)

⚫︎高木は、上演の途中で劇場からいなくなってしまったという。だから土井によって書かれた「ベタなレベルの戯曲」には、途中から高木が登場しなくなる(はずだが…)。しかし高木は、自分が存在しない場面にも事後的に「コメント」によって介入し、そこにはセリフも書き込まれる。だから、上演される『想像の犠牲』では、高木がいない場面にも高木役の俳優が舞台上に存在することになる。この多重性がすごく面白いし、この戯曲の構造上でも重要な意味を持つ。存在しないはずの高木は、にもかかわらず、他人のセリフにまで介入する。

 

土井 あんまり大きな声を出さないでください ! (土井) (わざとらしく、そして言い終わった後にうすら笑う) (高木) 今私がこうして大げさに、当てつけるみたいにやるしかなかったのは、高木さんがコメントで私に対するト書きを書いたからです (土井)

 

この土井によるセリフの前には、高木自身によって書き込まれた、そこに「存在しないはずの高木」のセリフがある。そのセリフに対して、土井が応答するセリフをコメントとして書き込んでいるのだ(あんまり大きな声を出さないでください ! )。この、土井が書き込んだセリフに、高木が今度は「ト書き」として介入する(わざとらしく、そして言い終わった後にうすら笑う)。ここで、自分のセリフに押しつけられた一方的な指定に抗議するように、土井はさらに自分のセリフを付け加える(今私がこうして大げさに、当てつけるみたいにやるしかなかったのは、高木さんがコメントで私に対するト書きを書いたからです)。おそらく、上演においては一つのつながったセリフとして発せられるしかないこの土井のセリフは、三段階の時間展開をもつ土井と高木との対立的対話によって成立しているが、この対話は現実空間ではなく、テキスト上で行われている。このセリフでは逆に、存在するはずの高木の声が(上演時には)消えてしまうことになる。

この後、ロベールによって石原吉郎の詩が導入され、それについで、加藤が、土井や西川の戯曲の解釈には、演出家における石原吉郎の影響が見逃されてしまっていることに対する抗議がなされる。

当の石原の詩には、ケーテ・へードリッヒとエルナ・へードリッヒという二人の少女(フロイライン)が登場する。そこで、ケーテは射殺され、エレナは凌辱される。土井によって書かれた「ベタなレベルの戯曲」では、ロベールによって、土井が凌辱されたエルナとして見立てられる仕草がこの後に書き込まれているが、射殺されたエルナについての検討は特になされていない。そこに、「存在しない高木」が介入し、「そこの存在しない者」として、自ら進んでケーテの役割を担う。この場面はこの作品のクライマックスの一つであろう(太字部分がコメントとして高木によって付け加えらけた)。

 

ロベールが土井と高木のそばにやってくる。高木のことを見つめ、ケーテ・へードリッヒとして倒れるようにうながす。

 

高木 なんですか ? 私は初演で、あそこから出ていって、もうここにいませんでした。なんですその目は ? 今度はケーテ・へードリッヒになって射殺されろってことですか ? そういうことですか ? 何か絶望的なくらいにね、ケーテを演じたい気持ちがふつふつ湧いてきますよ。やったらいいんですよね ? やりますよ。むしろやらせてください。あはっ !

 

高木は泣き崩れる。(高木)

 

サクリファイス』におけるマリアを、アレクサンドル(とオットー)によって凌辱された存在と見るならば、タルコフスキーを軸に演出家の戯曲を読む土井によって書かれた戯曲に「凌辱されたエルナ」のみが登場するのは理にかなっているとも考えられる(土井≒マリア≒エレナとして)。しかし、ことの発端である演出家の手紙に書かれているのは「射殺された男」であった。ならばここで「射殺されたケーテ」が検討されないのは、加藤による抗議の通り、片手落ちだと言えるだろう。だからこそここで高木は、「ケーテの役を押しつけられる」役を、自ら進んでするのだろう(セリフの前の、「押しつけられる」ト書きの部分も高木が書き込んでいるのだ)。そしてこの役が、かつての上演では途中で帰ってしまった、「存在しない高木」によって「ベタなレベルの戯曲」に事後的に付け加えられたコメントとして初めて現れることにも大きな意味がある。初演の再現・再検討として「ベタなレベルの戯曲」が書かれなかったならば、コメントレベルでなされた「不在の高木」とのこの批判的な対話は成立していないのだから。つまり、「いないはずの高木」の介入によって、単なる再現・記録ではなく再検討・批判にまで達することになった。

(つづく)

2025-01-06

⚫︎戯曲『想像の犠牲』について。一読してまず思い浮かべたのは、『ゴジラ・シンギュラポイント』と『シュタインズゲート』。そして大江健三郎。さらに高橋洋の、特に映画美学校の学生たちと共作している一連の意図的にチープに作られた映画群。

特に、高橋洋の『ザ・ミソジニー』『白昼鬼語『うそつきジャンヌ・ダルク』『同志アナスタシア『彼方より』などとの強い関連が感じられる。しかし、同時に、高橋が着地させるところには決して着地させないという強い意志が感じられ、その意味では高橋批判でもあり得る。

(これとはまた別の話だが、フィクションにおける『シュタインズゲート』以降の想像力というものが確実にあるなあと思う。アート的なものからエンタメ的なものまで幅広くみられるものとして。相対性理論の解釈としては間違っているとはいえ「世界線」という言葉が日常会話でも使われるようになったのは確実に「シュタゲ」の影響だろう(「シュタゲ」の影響から「シュタゲ」を知らない人にまで広まった)。「ゲーム的リアリズム」と一見似ているが、根本的に異なるものとしての『シュタインズゲート』以降の想像力については、まとまったものを書いてみたいという気持ちがある。)

⚫︎読みながら、その都度何度でも、「これはどういうことなのか」と立ち止まって頭を整理する必要があるくらいに、ちょっと他にない複雑さというか、複層性を持ったテキストだろう。

まずこのテキストでは、自らが「戯曲(テキスト)」であることが、テキスト自身によって何度も確認される。だがこのテキストは、かつてあったことの記録であるという意味で(テキスト外の)過去へ向かう志向性を持ち、かつ、上演のために書かれたものであることで、上演されるであろう(テキスト外の)未来への指向性を持っている。

(戯曲が、自分自身がテキストであることを強く意識して書かれている以上、「上演」される場合も、それが「テキストを上演している」ものだということを強く意識させるものとなるだろう。)

この戯曲には、かつて一度だけあった上演とその破綻の過程が記されている。そしてこのテキストは、その上演にかかわった当事者の一人である土井によって書かれている。ゆえに彼女は、作者であり、登場人物でもある。さらにこのテキストには、上演にかかわった土井以外の人物(そしてテキストを書いた土井自身)のコメントが、署名入りで、太字で書き込まれている。それは、土井の書いたテキスト・記録を読んだ当事者たちによる異議、批評、批判であり、さらに他人のコメントに対する土井からの応答もコメントとして書き込まれている。だからこの戯曲は、当事者たちによる複数の記憶と視点、立場によって組み立てられた「過去の記録」である。ただし、五人の当事者(土井、西川、加藤、高木、ロベール)のうち、ロベールだけはコメントを書き込んでいない。

かつてあった「上演」は、アメリカに住む演出家の書いた「戯曲」と彼から土井へ宛てられた「手紙」を元にして、特に演出家という役割を置かずに、土井がリーダー的な立場にありながらも、全員の共同制作として行われた。つまりこの戯曲(上演の記録)は、かつての上演とほぼ同じ形で成立していると言っていいだろう。以上が、山本ジャスティン伊等によって設定されたフィクションの枠組みである。

ここまでのことを、昨日の日記を引用して整理しておく。

《(1)「演出家」が書いた戯曲の上演がなされたという事実(その戯曲が〈弟〉を介して土井に託されたという事実)がテキスト外に想定される。(2)「戯曲の上演」の顛末を書いた戯曲・テキスト(土井が書いた)がある。(3)土井の戯曲に対して、上演時の出演者たちのコメントが書き足される(太字で示され、レイヤーの違いが可視化されている)。(4)以上、(2)と(3)とが重ね合わされたものが戯曲『想像の犠牲』であり、(1)から(3)までの三つの層を、山本がフィクションとして設定し、実際に戯曲『想像の犠牲』を書いた。》

⚫︎土井によって書かれたベタな戯曲の層と、後から他者たちによって加えられコメントの層という二層だけではない。「過去の再現」としてのこの戯曲のあらゆる場面は、(1)戯曲としての過去=再現のあり方と、それにかんする土井/それ以外の関係者の態度・意見、(2)未来における上演としての過去=再現のあり方と、それににかんする土井/それ以外の関係者の態度・意見、という二つ(四つ)の層が重なっている(というか並立されている)とも言える。さらにそのすべての層において、過去を再現するにあたり「誰かが誰か他人の役を演じること」の意味が問われる、という、おそらくこの戯曲において最も重要な層がある。自分を演じるにしても、過去の自分と現在の自分にはズレがあるし、そもそも、誰かが何かを語る時、語る人物は語られる誰かを演じることを避けられない(「Aが「お前はバカだ」って言ってたぞ」、とBが誰かに言うとき、Bは「お前はバカだ」と言っているAを演じることになる、など)。

例えば次の引用部分で「土井」は、セリフの後半で「西川」の言葉を引用しつつ西川を演じている。

 

土井 (…)こうやってベンチを再現してもらうと、ハイボールを飲んでいた西川さんの、アルコール混じりの息と一緒にかけられた言葉が、今度は私の腹の底から吐き出されようとしているのを感じるんです。〈土井さん、土井さんの口からまた演劇の話を聞くとは思ってませんでした。おれらが「演出家」の作品で共演した『脱獄計画』が最後で、正直、土井さんはもう俳優をやめたんだと思っていたんで。〉

 

この「西川として語る土井」の言葉に、今度は「土井として語る西川」が応えることになる。

 

西川 〈西川さんの言うとおりです。すでに演劇から離れた自分に今更なんでとは、私も〈弟〉さんに言いましたよ。でもあの人には、むしろそっちこそ心当たりがあるんじゃないかって言われて(…)〉

 

⚫︎この程度のことはこの戯曲ではまだまだ初級で、次のような驚くべき部分もある。

 

土井 〈今回の『脱獄計画』がほかと比べて難しいかというと、俳優のくせして、というのもアレですけど、他人の言葉を喋ること自体、私は本当に毎回、苦労するので、…〉という感じで、私は端的に緊張から曖昧な返事をしたと思います。今になって思うんですけど、私が俳優をやめたのはこの質問に関わることだったかもしれない。〈他人の感情を演じていられない〉〈俳優の個性が役に吸収される それが怖い〉(土井)

 

西川 コメントで書かれている以上は土井さんがそう言うのを想像するだけだけど、そのセリフも堂に入っているのが目に浮かびますね。(西川)

 

土井 そういう勝手な想像でこっちが演じてるみたいな目で見ないでほしいって言ってるんですけど。(土井)

 

最初の「土井」のセリフで「〈〉」内にあるのは、「戯曲における現在時」から遡った過去のインタビューでの発言を思い出して再現・発話している部分で、その後に、過去の発言について語る、「戯曲における現在時」のセリフが続く。それに続く「太字」の部分は、戯曲が書かれた後で、発言主であり戯曲も書いた「土井」によって付け加えられたコメント(この部分の「〈〉」は単に映画『サクリファイス』からの引用であることを示すもの)。時系列的には、「戯曲における現在時」を回想している位置(戯曲の未来)からの発言とも言える。つまりこの「土井」のセリフには三つの時間の層が含まれている。

そしてそのうちの、未来の位置からの発言(コメント)に対して、「西川」がコメントをさらにつけている。これは、「戯曲(の現在時)」に対するコメントではなく、「コメント(戯曲の未来、戯曲の外)」に対するコメントで、二人は「コメント」という(戯曲の時間の外にある)レイヤーで対話していることになる。ベタな戯曲(戯曲の現在時)の部分は、過去の再現であるから、土井と西川は「この場面」を現実の過去の出来事として共有している(と、設定されている)。つまり、西川はこのセリフを言った時の土井を見ている。しかし、コメント部分はあくまでテキストであり「言葉(文字)」としてしか存在しないので、西川は《土井さんがそう言うのを想像するだけだけど(…)目に浮かびますね》と言うしかない。この「場面」は過去から現在までの時間の中には存在せず、西川は、(「ベタな戯曲」の未来としてのコメント・レイヤーよりも、さらに)未来にあるはずの上演時に、土井がそう発話する(演じている)場面を先取り的に想像して、《そのセリフも堂に入っている》という感想を言っている。

そして、未来を先取りするような「西川の想像」に対して、土井は、さらにコメントを重ね、(上演されるべきの)未来の「土井」が、(コメントレイヤーにある)現在の「土井」の像として想像されてしまうことへの不快感を表明していると言えるのではないか。《そういう勝手な想像でこっちが演じてるみたいな目で見ないでほしいって言ってるんですけど》という言葉は、最初の「土井」のセリフの太字部分を演じるであろう(開かれてあるはずの)「未来のx」が、「現在の土井」の像として固定されてしまうことへの不満を示すのだ。

このように、たったこれだけの短い部分に、恐ろしく複雑な多層的構造が作られている。「戯曲の現在」からの過去→「戯曲の現在」→「戯曲の現在」の未来としてのコメントレイヤー→コメントレイヤーにおける対話→「コメントレイヤー」から先取り(予兆)された未来としての「(戯曲+コメントの外にある)上演」。これらの層が錯綜している。

(一体、これをどうやって「上演」したらよいのだろうか、と考えると途方に暮れるが。)

⚫︎追記。以下の文章の逡巡と錯綜具合があまりに大江的なので、読んでいてニヤニヤしてしまった。こんなに大江的な文章を、大江健三郎以外で見たことがない、と思った。

 

土井 そうやって〈弟〉から私に渡された手紙を読んだことが、今回の上演に私が踏み切るきっかけになった、それは事実。それも上演の告知が始まった時点で、ある程度の量があるフィクショナルなテキストを公開する「演出家」のやり方をマネて、私たちのフライヤーにも彼からの手紙を引用する、要するにあのことだけど…

 

(つづく)

2025-01-05

⚫︎戯曲『想像の犠牲』を、ようやく読み始められた(半分くらい読んだ)。ひとまず、読み進めるための整理。

⚫︎設定として、まず、アメリカにいる「演出家」と呼ばれる人物によって書かれた戯曲(「想像の犠牲」)があり、それは(演出家の)〈弟〉経由で土井に届けられた。「演出家」はこの戯曲をアンドレイ・タルコフスキーの映画『サリファイス』を下敷き書いたとされる。戯曲はかつて一度だけ上演された。その上演は、統括的な演出家を置かずに、土井がリーダーシップをとりつつも、出演者全員がクリエイションメンバーとして参加する形でなされた。これは、(フィクション内での)事実として戯曲(テキスト)の外にある。

そして、その一度だけなされた上演の経緯を、(アーカイブとして)出演者の一人であった土井が戯曲という形で書くことになる。それが戯曲『想像の犠牲』の元になっている。さらに、土井によって書かれた戯曲に対して、当時上演に参加した出演者(クリエイションメンバー)たちが、それぞれ名前入りでコメントを書き入れている。土井が書いた部分に対して、コメント部分は太字で示されている。土井の書いた戯曲と出演者たちのコメントの二層によって、現に、読むことのできる戯曲『想像の犠牲』というテキストが成り立っている。ここまではフィクションである。

それは実際には、山本ジャスティン伊等が書いた。山本ジャスティン伊等によって書かれた『想像の犠牲』は、タルコフスキーの映画『サリファイス』を下敷きにしている。

(「演出家」の戯曲がタルコフスキーを下敷きにしているという設定だから、山本の戯曲も結果としてタルコフスキーを下敷きにすることになる、のか、山本がタルコフスキーを下敷きにしたから、「演出家」がタルコフスキーを下敷きにしたという設定になった、のか。)

(1)「演出家」が書いた戯曲の上演がなされたという事実(その戯曲が〈弟〉を介して土井に託されたという事実)がテキスト外に想定される。(2)「戯曲の上演」の顛末を書いた戯曲・テキスト(土井が書いた)がある。(3)土井の戯曲に対して、上演時の出演者たちのコメントが書き足される(太字で示され、レイヤーの違いが可視化されている)。(4)以上、(2)と(3)とが重ね合わされたものが戯曲『想像の犠牲』であり、(1)から(3)までの三つの層を、山本がフィクションとして設定し、実際に戯曲『想像の犠牲』を書いた。

(Dr. Holiday Laboratoryの前作『脱獄計画(仮)』、山本による短編小説「想像のなかの役回り」も、『想像の犠牲』のフィクション世界と繋がりがある。)

さらには、(5)山本による戯曲『想像の犠牲』は、それだけで言語表現として自律的に存在するように書かれている。逆にいえば、これを「そのまま」上演するとどういうことになるのか、よくわからない。あるいは、「このテキストだけ」をみても「上演されたもの」を想像できない。ただし山本はこの戯曲を、自分が主催する劇団の上演のために書いた。

そして、Dr. Holiday Laboratoryによる公演『想像の犠牲』が、昨年12月13日から15日にかけてロームシアター京都で実際に行われた(ぼくは観られなかった)。この公演においては、「演出」に山本の名前がクレジットされている(演出家が存在する)。

 

2025-01-04

⚫︎『ヤンヤン 夏の想い出』(エドワード・ヤン)DVDで。この日記を検索してみると、前に観たのはエドワード・ヤンが亡くなったことを知った2007年の7月だった。

え、こんな映画だったっけ。こんなベタな映画だった ? 、というのが最初の感想。結果としてこの作品が遺作となってしまったとはいえ、エドワード・ヤンがこれを作ったのはまだ53歳(52歳 ? )の時だ。それなのにこれは、巨匠が最晩年に作る、あまりにベタなので泣いてしまう、泣くしかないだろ、みたいなやつだ。半分はもうこの世の人ではない、みたいな人が作る映画に思える。

ああ人間、ああ人生、みたいな。『牯嶺街少年殺人事件』にある、悲劇に至るしかない必然として、あらゆるものが緊密に絡み合い、キリキリ絞られるような緊張した痛切さではなく、半ば世界の外から、慈しみと諦観と共に現世を見つめている感じ。諦めの先にある慈悲がすべてを包む、ような。

家族の話である。息子は性に目覚めてモヤモヤし、娘は初めて男と付き合ってモヤモヤし、父親は初恋の相手と数十年ぶりに再開してモヤモヤする。そのすべての事柄が期待通りに運ばず、ただ悲しさがじんわりと世界を満たしていく。そしてその傍らで、お婆さんが穏やかに一生を閉じようとしている。

自分に何が起こっているのかすらもわからずに、性的なものの発動にただ戸惑っている息子(ヤンヤン)も、こちらから積極的にアプローチしたわけでもないのに、向こうから近づいてきては理不尽に離れていく男性の行動に傷つく娘も、まさに今、生々しく「それ」を経験している只中にあるはずなのに、それらがあたかも父親の過去とシンクロするように配置されているため、未来の目から折り返して眺められた懐古性に浸されているように感じられる。そしてその父親における、初恋の相手との再会による、関係(過去)のやり直しへの期待と失望という出来事もまた、亡くなりつつあるお婆さんの存在からくる、終わりから遡行される視点によって現在進行形的な生々しさが減ぜられる。

それらは確かに、今、ここで起こっているが、同時に、かつて何度も起こったし、今後も繰り返し起こることであり、それらは等しく痛切で生々しいが、同時に、それらは等しく時間の中で遠くなっていく、みたいな感覚。あらゆる物事に失望し、悲しみに満たされているが、それは絶望というほどの深さ・強さにまで達せず、そのような中でも、目の前にある一つ一つの出来事を受け入れて、慈しんで生きていくしかない。それはわかるし、否定はしないが、でも、それでいいのだろうかという疑問も、誤魔化すことはできなくある。わかるけど、いいんだけど、泣けるけど、全面的には乗れない、という感じ。

メインテーマとしてある一家の話に対して、差異をもって反復するバリエーション的なサブテーマとして、(父からみた)義弟夫婦の結婚と出産と不貞というコメディ的なパートがあり、隣家で起こる悲劇的な事件に至ってしまう性的関係ゴタゴタのパートがある。(『牯嶺街…』とは異なり)ここでは悲劇も類型的であり、コメディ同様に戯画的である。それらは、二つの異なる極端な例としてメインテーマの家族の話を際立たせ、彩りつつも、どんな出来事も既に過去にあり、そして未来にもあり続けるというようにして、メインテーマを相対化もする。

この映画には二つの超越的な視点があって、一つは、人生を終えつあることで世界全体を回想化するかのようなお婆さんの視点で、もう一つは、ほとんど天使であるようなイッセー尾形の視点だろう。

この映画で最も印象に残るのが、イッセー尾形によるトランプマジックの場面だ。商談相手である父にマジックを披露した後、彼は言う。このマジックにトリックはない。わたしは、ここにあるすべてのカードの配置・順番を知っている(それが頭に入っている)、ただそれだけのことだ。この世界に魔法はない、正直にやるだけだ、と。

⚫︎50歳代前半のエドワード・ヤンはあまり幸福ではなかったのかなあ、と、どうしても思ってしまう。

2025-01-03

⚫︎正月の親戚の集まりのときに、叔母さんや従姉妹から、小説を読んだけど難しかったと言われた。『セザンヌの犬』は、時空構造や因果構造をかなり複雑に作り込んでいるとはいえ、書かれていることそのものは、自分の思ったこと感じたことをストレートに書いていることが多いから、親戚に読まれるのは恥ずかしい。おじいちゃんとかおばあちゃんとかペル(犬)とかのことを実際に知っている人に、としひろくんはこういうふうに思ってたのか(叔母さん)、とか、おじいちゃんの夢は似たようなものをわたしも見たことがあって共感した(従姉妹)、とか言われるととても恥ずかしい。言われるまで、こんなに恥ずかしいと予想していなかった。

⚫︎弟の長男(中一)の身長が185センチを超えていた。

2025-01-02

⚫︎この木は、少なくとも50年前から、この場所に、ほぼこのままの姿で立っている。4、5歳から10歳くらいまで、河原のこのあたりはぼくにとって世界の中心のような場所だった。といっても、小学校高学年にもなれば見向きもしなくなって、その後はずっと忘れたままだったが。

この木にはよく登った。木登り、ということをした唯一の木かもしれない。見た通り貧相だし、あまり上まで登ると枝が折れそうなので、そんなに高い位置に行けるわけではないが、木の中頃まで登って、「木登りをした」という満足感にまで至ることのない大して高くもない中途半端な高さから、川の方や、逆の方向を、長い時間見下ろしていた記憶がある。

(幼稚園では登り棒が大好きだったし、塀の上とか屋根の上とか、高いところに登るのが好きだったから、「高さ」という点ではまったく満足できていなかった。)

幼い頃に世界の中心だったような場所も、大規模な河岸工事があって当時の面影は(ここに川が流れているということ以外)ほとんどない。この木のみが、当時のあの場所と、今あるこの場所とを結びつけている。というか、この場所が「あの場所」であることの唯一のしるしがこの木だ。

しかし、そんなことがあるのだろうか。こんなに貧相な木が、50年以上も、成長もせず、たち枯れることもなく、ほぼそのままであり続けることなどできるのだろうか。そもそも、大規模な河岸工事があったのに、この何の変哲もない木だけが、切り倒されることもなく残されるなどということがあるのだろうか。よくよく考えてみると、「あの木」はこの木よりも5メートルくらい上流側に寄った場所に立っていたようにも思えてくる。

この木は本当に「あの木」なのだろうかと疑い出すと、何とも中途半端な高さから下を見下ろしていたあの記憶さえも怪しく思えてくる。元々、ぼくは木登りなんかしたことはないんじゃなかっただろうか。

この木は「あの木」ではないのかもしれないし、木登りなんかしたこともないのかもしれない。しかし、たとえフェイクであったとしても、この木がこのようにここに立っていることによって、今この場所が、かつてのあの場所であることが得心され、こことそことが重ね合わされている。