(一昨日からつづく)
⚫︎『想像の犠牲』では、誰かが誰かに「役」を付与し/誰かが誰かによって「役」を付与される、という出来事が相互的に連鎖する。それは、戯曲と上演との関係において、過去にも未来にも向けた、さまざまな人によって反復され得る出来事のことをあらわしてもいるだろう。しかしもう一方で、時間軸上での多くの人々への「役」の反復だけでなく、内側・外側に何重にも折り畳まれる「役」の反復をも問題にされている。ある場面、ある人物をわたしが描写する、あるいは想像する時、想像された人物をわたしが動かしているのか、それとも、想像された人物によってわたしが動かされているのか、わからなくなる、というような。
ロベール 男はこのように〈弟〉に向けて日々あたらしい小説を口述していく。そのうち登場人物である男のからだ、いやそれ以上に見ている景色や感じ方の細部までことこまかに想像できるようになっていく。ほとんど現実と変わらないほどに。……そこで、ある妙な考えが浮かんでくる。(…)
ロベール (…)その夢想は時に自分自身のからだを置き去りにするほどだった。やがて私は白昼夢にうなされるようになった。私の思考をを借りて彼はものを考え、私の感覚を奪って彼は感覚し、歩き、しゃべり、身を隠し、引き金を引いているのではないか ? そのとき、私が想像しているのか、それとも、想像のなかの彼が私にそれをさせているのか? そもそも彼は想像のなかにいるのだろうか ? 私は、私の想像の犠牲になるのだろうか ? 〈お前が存在するのではない。お前の代わりに私が存在するのだ。〉
このような内と外との反転可能性が(「役」を付与する/付与されるということとはまた別のやり方で)「わたし」と(遠くの)「他者」とを関係づける。この反転可能性はボルヘスを想起させもするが、ボルヘスの場合は「意思」によって他者を作り出し、その他者はある意味分身でもあるが、ここでは半ばオートマティックに内側に「他者」が生まれて、主客が逆転してしまう。この反転可能性が、演出家の手紙に書かれていた、自分と映像に映る兵士とが似ていて、兵士の加害に自分も加担しているのではないかという「奇妙な恐怖」の強い根拠となるだろう。
そして反転可能性は、「ただ(自分として)存在すること」と「役を演じること」との境界線をも消失させ、「わたし」を、誰でもあって誰でもない「誰か」にしてしまう。ここでロベールが口にする「想像の犠牲」とは、マリアが、オットー(+アレクサンドル)の想像の犠牲となって「魔女」の役を担わされるという意味とは異なる意味になっている。マリアがオットーの犠牲になるのではなく、「私」が〈私〉の犠牲になる(この二つの私は、どちらも私でありつつ別人でもある)。いや違うか。ここで「想像」は「私」にも〈私〉にも属していない。「想像」は半オートマティックに「私」と〈私〉とを分離しつつ、関係づける。ここでは「私」も〈私〉も、どちらも「想像」の犠牲としてあるのだ。
したり顔で自分の戯曲をそらんじていたロベールが、「ミニチュア」と「シンポジウム」の境目で、突然倒れる。
あれが彼の戯曲の表現なのか、それともほんとうに突然体調が悪くなったのか、数秒のあいだ、おれたちの誰も見分けられていなかったと思う。(…)(西川)
たしかに『想像の犠牲』にはないシーンだったけど、その倒れ方はなにかしらわざとらしいところがあった。彼のその動作ひとつで、私たちは戯曲や演出によって定められて舞台にいるのか、それともただ黒っぽい板の上に突っ立っているだけなのか ? 自分がどこにいて、誰の意思でこのからだを動かしているのか ? それだけのことが、いくつもの灯体からくる熱く黄色っぽいひかりのなかで溶けていくのだった。そのことを考えた私は恐怖して、気づいたときには
高木 ひぃっ
と自分でも笑ってしまうほど情けない声を出してしまっていた。(高木)
《私たちは戯曲や演出によって定められて舞台にいるのか、それともただ黒っぽい板の上に突っ立っているだけなのか ? 》このような混乱が、いわば存在論的な白紙状態を作り出し、例えば、殺戮している兵士の映像を見るている私こそが、殺戮する兵士の夢想なのではないかという形で、私と兵士とを結びつけ、《殺戮し、陵辱し、あるいはその一部になっているのではないか》という恐怖と結びつく。少なくともその可能性に対して開かれてしまっていることになる。
(ここでロベールが「誰でもあり誰でもない誰か」として倒れることと、昨日引用した部分で、高木が「ケーテ・へードリッヒとして」泣き崩れる・撃たれて倒れることに違いは重要だろう。)
「わたし」を、誰でもあって誰でもない誰かという位相に落とし込む内と外との主客の逆転可能性は、わたしと、(わたしではない)遠くの他者を関係づける可能性でもあるので、必ずしも否定されるものではない。しかしそれによって、「わたし」もまた加害し陵辱するものの一部であるという可能性をも否定できなくなる。
⚫︎『想像の犠牲』では、誰かが誰かに役を付与する/誰かが誰かから役を付与される、という関係が検討されている。それは常に権力的な闘争ではある。例えば、オットーとアレクサンデルによってマリアに「魔女」の役が付与されるという『サクリファイス』の場合には、その付与の背景に強い権力格差があり、一方的かつ理不尽なものと言える。しかし『想像の犠牲』で行われている役の付与/被付与のあり方は、対立的ではあっても論争的であり、そこには(ロベールという不気味な存在はいるが)決定的な権力者はいない。前作『脱獄計画(仮)』(の戯曲レベル)では存在の根拠の否定し合いのような殺伐とした対立があったが、『想像の犠牲』はあくまで上演をめぐる共同討議の場としてあって、喧嘩をして途中で帰ってしまうことはあったとしても、殺し合うようなことはない。ここでは「存在の根拠の否定し合いのような殺伐とした対立」をどのように避けるのかということこそが主題であるかのようにも思われる。
そして、そのようなあり方として戯曲・作品を成り立たせようとすることこそが、「わたし」が《殺戮し、陵辱》するものの一部であってしまうかもしれないことを避けようとする行為そのものであり、そのための試みとなっているのではないか。
(つづく)