2019-01-23

●U-NEXTで『未来のミライ』(細田守)を観た。これはぼくの勝手な思いこみもあるのだろうが、細田守の「悩み(揺らぎ)」と「努力」と「才能」とが押し合いへし合いしているような作品にみえて、すばらしく面白いとはいえないが、しかしまた、決して悪く言いたくはないというような、なんとももやもやする作品だった。すばらしい瞬間に満ちているのに、作品として面白いとはどうしても言えず、すっきりせず、どうしてこうなってしまうのかと思うと同時に、しかし、現状ではこうなってしまう以外にどうしようもないのかもしれないとも思う。
●ぼくは、細田守という作家に特に思い入れはない。「ウテナ」は大好きだが、「ぼくらのウォーゲーム」も「オマツリ男爵」もそこまで面白いとは思わないし、村上+ヴィトンのやつは「へえ」と驚いたが、『時をかける少女』と『サマーウォーズ』はどちらかというと嫌いな作品だ。『バケモノの子』は、まあ、面白いというくらい。ただ、『おおかみこどもの雨と雪』は、嫌いなところが八割、好きなところが二割というくらいだが、その「好きな二割」があまりにすばらしいので、嫌いな部分はどうでもよくなってしまうくらいに好きだ。
●『未来のミライ』は、細田守が悩んで悩んで、考えに考えた末に、その結果としてこうなっているのだろうとひしひし感じられて(勝手な思い入れかもしれないが)、しかしそれが面白いものになっているとは思えなくて、うーん、難しいなあと頭を抱えてしまう。すばらしい場面、すばらしい描写がたくさんあって、それをみるだけで満足することもできないではないし、細田守はやはりすごい演出家なのだとは思う。しかし、こんなにすごい演出家が(様々なものごとを考慮して)つくるものが、なぜ作品として面白いものにならないのだろうかとも思ってしまう。
(子供の描写---いらいらさせられるほどに身勝手な---のリアリティにはこれまでのアニメにあまりみられないほどの踏み込みがあり、特筆すべきであるように思われる。今回は、主に子供の描写に焦点を当てて、シンプルにそれで勝負しようと考えられているのだと思うし、それは十分に実現されていると思う。)
●大俯瞰からはじまりながらも、実はほとんど家の外に出ることがなく(外に出るのは、自転車に乗るために公園に行く時くらいか)、多くの出来事が(家族の歴史とリンクする)「中庭」で起こるというシンプルなつくりはよいと思うのだけど、未来のミライがやってくる理由が「婚期が遅れてしまうから雛人形をしまう」という理由だというのはいかがなものかと思うし、「ひいじいじ」がフィクショナルな「父」として機能するエピソードも、薄いというか浅いというか、あまりにひねりがないように感じられてしまう。
(とはいえ、今までの作品でさんざん批判されてきたことがらについては、かなり意識---配慮---されているように思われた。そこは、努力し、悩んでもいるのだなあ、と。ただ、作品は減点法でみるものではないから、減点ポイントが減ったからといっておもしろくなるというのでもない。)
全体として、個々のエピソードが、何の抵抗も手応えもなくするする流れていってしまう感じ。そもそも、中庭にある貧弱な木が、時間を越えて家族の歴史を交錯させる結節点になるほどの存在感があるのかというと、そうは感じられない。「お話」のレベルで、もう一捻りするというか、お話をもう少しうまく作るだけでかなり違うのかもしれないとも思った。
細田守においては、常に「家族」が問題であり、母がフィジカルで現実的な、べとつく存在であるのに対して、父は希薄であるか不在であり、「虚構」の次元がその役割を代替する、というところは今までの作品と変わらないと思うし、細田守という作家は、そこに囚われている(それこそが作家としての固有性と結びついている)のだなあとは感じた。

2019-01-22

●昨日と18日に、ハーマンの「唯物論では解決にならない」から引用したのだけど、その時に、引用しようかどうかちょっと迷って結局しなかった部分がある。ハーマンはなにげなくさらっと書いているけど、ここは結構重要なのではないかと思い直し、引用することにした。
●「批判」という営為(「批判的であること」)に対する懐疑。
《今日、「唯物論」に訴える多くの人たちは、迷信の暴露や既存の社会制度に対する(左派による)批判という意味において、批判という啓蒙的遺産の復活を求めている。たしかにこの伝統は、多くの誇るべきものをもつ。とはいえ、この伝統が掲げる唯物論の知的脆弱さを考慮すれば、わたしたちがこれを未来に外挿できるのか、あるいはすべきなのかは疑わしい。暴露と革命の仕事は、新しい知的状況のもとで拡張されるべきではなく、むしろ変形される必要があるかもしれない。》

2019-01-21

●引用、メモ。グレアム・ハーマン「唯物論では解決にならない」(「現代思想」2019年1月号)より。
唯物論のふたつのタイプと、それに対するオブジェクト指向哲学
《今日の唯物論にも、ソクラテス以前の哲学に由来するふたつの基本的なタイプを見いだすことができる。一方にはマルクス主義者や物理学者たちの系譜において好まれる唯物論がある。彼らにとって、究極的な物質的要素こそがあらゆるものの根源なのであって、高次の存在者はそこから派生するまやかしにすぎない。このまやかしが実在性を帯びるのは、ただ究極的な物質的基体から表出するかぎりにおいてなのだ。(…)この系譜の唯物論は、一般に批判的な雰囲気をもっており、古来から今日にいたるまで啓蒙的な立場の人たちによって好まれてきた。〔彼らにしたがえば〕天使や神、素朴心理学についてはいうまでもなく、テーブルや木、脳でさえもが、究極的要素の観点から消去されねばならないのだ。》
《だが一方で、アペイロンの唯物論がある。この唯物論からすれば、科学における物理的存在者でさえも、じゅうぶんな深さをもつものではない。というのも、そうした存在者は「宇宙の最下層」とみなされている以上、すでにあまりに特殊な構造をもってしまっているからだ。(…)〔この種の唯物論にしたがえば〕宇宙は、そもそも微少な物理的部分からできているのではなく、むしろ形なき---あるいは、わずかに形をもった---全体である。個々の部分は、その全体から一時的で局所的な強度としてのみ現れるにすぎない。世界はその性格からして前個体的なものであり、なによりもまず流動や流出、生成変化からなる。世界は根本的に連続体であって、これを局所的な領域へと切り分けるあらゆる試みは、そもそも一時的で相対的なものにすぎないのだ。たいていの場合、このタイプの唯物論には批判的な雰囲気はなく、全体論的で肯定的な傾向がある。(…)情緒も社会的実践も、粒子に劣らず実在的である(粒子でさえも、宇宙全体の束の間の現出にすぎない)。》
オブジェクト指向哲学は形式の権利を主張する。形式は、それぞれの規模において〔固有の〕構造をもつ。それは、勝ち誇った物理的存在が属す特権的な層に還元されることもなければ、諸差異を越え絶えまない流動における連続的変化とみなす宇宙的全体論に還元されることもない。〔たとえば〕猫やテーブルは不滅ではないかもしれないが、それにもかかわらず環境の変動に抵抗する。》
●「湖」という「対象(オブジェクト)」は「形式」である。
《要するに、湖はひとつの形式なのである。〔しかし〕科学者は湖を唯名論的に捉え、それを一連の変化する水の集合に対するたんなるニックネームとみなすだろう。〔科学者にしたがえば〕水の集合が、時間をかけて、ただ緩い意味において「ミシガン湖」と呼ばれうるほどにじゅうぶんな家族的類似性をもつにいたったにすぎないのだ。他方で、全体論的な立場は、湖をたんに相対的な〈湖性〉の領域とみなすだろう。つまり〔全体論にしたがえば〕湖は基本的に近隣の湖や岸辺と連続した領域なのである。以上のふたつの唯物論が逸しているのは、湖が自らの近隣の湖や因果的構成要素から切り離す方法だ。そうした切断があることによって、湖は〈非-湖〉のあらゆる力が自らのうちへと出入りすることをある程度許容し、しばらくのあいだ(たとえ永久にではなくとも)存続する形式でありつづけることができる。》
オブジェクト指向哲学は、対象を形式としてあつかう。形式は、自らが生じてきたところへと勝手に崩れ去っていくことはない。(…)哲学の仕事とは、自ら記述し認識する仕方ともけっして同一ではない、捉えがたい形式を研究することである。対象の形式は、物質的基体と具体的な(任意の瞬間・任意の文脈における)現れとのあいだに隠れている。形式は世界の床板のうちに隠れているのであって、その床板を、すでに知っているとみなされているもの(床板を構成する物質や床板がもつ効果)によって置き換えたとしても、形式を知ることはできない。》
●「対象」は、つねに触発しあっているのでもなければ、つねに関係しあっているのでもない。
《(…)わたしは最初に対象の無関心性を主張しておきながら、そのあとで、おそらくわたしの意志に反して、対象どうしのある種のコミュニケーションに言及していることになる。しかし、〈コミュニケーションし、かつコミュニケーションしない〉という対象のこうした二重の運命は、オブジェクト指向哲学の核心をなしている。この核心的な論点は、まさに対象と関係とのあいだの「均衡」を生み出すためにこそ設計されたものだ。》
《重要なのは(…)関係は自動的に生じることもないし、容易に生じることもないということだ。人間は、周囲で生じる小さな事柄の一々によって影響されることはない。それは、構造プレートがたえず大地震を引き起こし、火山が絶えず噴火しているわけではないのとおなじことだ。事物はつねに触発しあっているのでもないし、つねに関係しあっているのでもない。(…)というのも対象は、それが無関心なものであるかぎり、まったく活動していないからである。》
《(…)もしわたしたちが、対象は宇宙的な〈物質-エネルギー〉に取り巻かれることによって、つねにすでに関係しあっているのだと想定してしまうならば、〔対象どうしの関係を〕真剣に説明することはできなくなってしまうだろう。》

2019-01-20

●『社会的なものを組み直す』(ブリュノ・ラトゥール)と『自然なきエコロジー』(ティモシー・モートン)が届いたのだが、この二冊をあわせるとちょうど一万円(税抜き)で、本は高いものだなあと改めて思う。
●アニメはあまり観なくなってしまったけど、『ケムリクサ』は面白そう。ダークな『けものフレンズ』であり、未来がゼロだと確定してしまったわけではない『少女終末旅行』という感じ。
異物として世界にあらわれた「わかば」は、ほぼそのまま「かばんちゃん」であると考えられて、「赤虫」を「セルリアン」と考えると、まったく『けものフレンズ』と同じ構造とも言えるけど、ただ、登場人物たちの彷徨する目的が、生きるために必要な(世界にあとどれくらい残されているか分からない)「水」を得るために強いられたものだという点では「けもフレ」とは異なっていて、『少女週末旅行』に近づく。
(そして、どちらとも違うのは、荒廃した世界のなかに「わかば」と名付けられた、未来を予感させる人物が生まれるというところだろう。)
けものフレンズ2』は、かばんちゃんの物語のつづきじゃないのか、とも思ったし、キャラクターの感じもずいぶんかわってしまったなあ、とも思ったけど、これはこれで楽しいとは思う。

2019-01-19

●『オブシェクタム』(高山羽根子)、よかった。「文藝」に載っていた、芥川賞候補になった小説(「居た場所」)はそこまでよいとは思えなかったのだけど(優等生っぽいなと感じてしまった)、こちらはとても面白かった。作家のやりたいことを、よりダイレクトにやっているというか、資質がより生かされているように思った。
文芸誌とか、芥川賞とか、そういう方向ではなくて、どちらかというと、天沢退二郎とか、稲生平太郎とかに近い匂いがするように感じた。そこまでディープにファンタジーに入っていく感じではなく、現実的な生々しさもあり、また具体的なイメージの解像度がより高いのだとしても、その具体的なイメージの配列によって結ばれる焦点の在処というか、作家を動かしている指向性としては、そっちなのではないか、と。
「居た場所」では、個々のイメージたちの配列がひとつの焦点---あるいは「深さ」のイリュージョン---をつくりださないように、多焦点的になるように意識的に配慮されていたと思うのだけど、「オブジェクタム」では、イメージは深さのイリュージョンを生むように配列されていて、その深さのイリュージョン---それは消失点としての謎の感触と一種のノスタルジックな感傷をともなう---のありようやその感触こそが、この小説の独自の質をつくりだしているように思われた。
(「居た場所」の方が現代小説っぽくて高度だともいえるのだけど、その「現代小説っぽさ」が、どこか無理して装われたもののような感じがしてしまい、「オブジェクタム」にある俗っぽさの方に、作家の美点が出ているように感じられた。)

2019-01-18

●引用、メモ。グレアム・ハーマン「唯物論では解決にならない」(「現代思想」2019年1月号)より。ハーマンはすごくおもしろいことを言っている。
●実在としてのハンマーは、「壊れ」得ることにより自立している(他と非関係的である)。故にそれは「形式」である。
《(…)ハイデガーは、目に見えるハンマーが自立したものとして見られるのに対して、〔円滑に〕機能しているハンマーは全体的なシステムに属しているのだと論じたことになる。しかし、わたしがたびたび論じてきたように、この解釈は正しくない。ハンマーの自立性は、ハンマーがときどき孤立した事物として見られるという事実に由来するのではない。ハンマーの真の自立性は、ハンマーが壊れうるという事実に由来するのだ。さらに、ハンマーがこのように壊れうるのだとすれば、この事実はハンマーを、目に見える形態の王国からも、体系的な機能の全体論からもはみ出た余剰へと変貌させる。ハンマーは、わたしたちによって見られているかぎりにおいて、わたしたちとの関係において存在する。またハンマーは、釘や板、建築計画との関係に巻き込まれているかぎりにおいて、これら他の諸事物との関係において存在している。しかし、ハンマーが壊れるという事実が示すのは、ハンマーが深く非関係的であるということだ。ハンマーは、わたしたちや他の道具によってなされる我有化に抵抗するのだ。わたしたちによる知覚からも、あらゆる暗黙の作動からも隔たり、ただ深さのうちに横たわるこの実在的なハンマーとは、いったいなんだろうか。このハンマーは、他のあらゆる事物とと区別された構造や性質をもっている。したがって、それもまた形式=形態であるということになる。》
●隠喩とミメーシス。
オルテガの例にならって、「杉は炎のようだ」と言ったとしよう。無頓着であったり、あるいは、かつては何度も詩を読んだがいまはもう興味を失っているといったりしたことがなければ、この隠喩(ここでは直喩という特殊な形をとっているが)がもたらす効果はありふれたものではない。たしかに杉と炎は、形において類似している。だが、この類似性は偶然的なものにすぎない。杉と炎の出会いは、チャーチルルーズヴェルトの出会いに比べれば、はるかに思いもよらないものである。オルテガによる分析に従えば、明白な〈炎-性質〉が木そのものの特徴として杉のまわりに群がるということが生じているのだ。とはいえ、それは簡単にアクセスできる知覚上の杉ではない。というのも、この〔知覚上の〕木は、すでにそれ自身のありふれた性質を有しているからだ。むしろ隠喩における杉は、ハイデガーが言う意味での壊れたハンマーに類似している。わたしたちの注意はそれに釘づけになるが、それは退隠した謎のままでありつづける。》
《(…)性質はけっして対象なしに存在することはできない。したがって、〈炎-性質〉は、いかなる感覚的対象にも帰属できないのであれば、実在的対象に帰属しなければならない。ところが、すでに確認したとおり、実在的な杉は(他のあらゆるものと同様に)そもそも退隠しているのだ。ここから導かれるのは、実在的な杉は他のいかなるものにも触れることができず、したがって詩的な〈炎-性質〉にさえも触れることができないということだ。》
《わたしたちが杉と炎について語るとき、これらの語が指示する実在的対象はともに退隠している。それらは、因果的なアクセスをも含む、あらゆる可能な直接的アクセスの彼方に位置しているのだ。〔しかし〕この場合に居合わせる、ただひとつの実在的対象がある。退隠することなく、この状況にまるごと巻き込まれている対象---それは、詩の読者(あるいは一読者でもある作者)としてのわたしたちひとりひとりである。実在的杉は不在であり、それに感覚的な〈炎-性質〉を結びつけることは望みえない以上、わたしたちはつぎの奇妙な帰結を認めなければならない。つまり、わたしたちひとりひとりが、〈炎-性質〉に結びつくことになる実在的対象なのだ。べつの仕方で言えば、読者としてのわたしたちひとりひとりが杉の木になるのである(わたしたちがうんざりしたり、冷めたり、気が散ったりしていないかぎりで)。》
《驚くべきことに、以上のことが意味するのは、長らく見放されてきたミーメーシスの概念を擁護しなければならないということである。だがそれは、芸術とは自然物をまねた模倣物を生み出すことだという意味ではない。芸術は、俳優が石や木、ジム・モリスンニクソンを模倣するような意味において模倣するのだ。木という役割が、木からわたしたちへと転移する。そしてわたしたちは、かつての木とは異なる、〈炎-性質〉をまとった木となるのである。》
●美(芸術)に参与するその人自身が、美のメディウムを提供する。つまりメディウムそのものとなる。
《おそらくどんな美的内容の形式も、その内容を鑑賞する者の没頭(inolvement)のうちに見いだされなければならないのだ。このことのひとつの含意は、すでにしばらくまえから広まってきている。すなわち、皮肉、自己反映、敬遠、引用符のなかにあらゆるものを入れること---これらの終焉である。どこでもないところからあざ笑い、こき下ろすような批評のあり方は、料理評論家やワイン評論家たちのような批評によって置き換えられるべきなのだ。彼らは自らがあつかう対象にどっぷりと浸りきっている。》
《(…)「あらゆる良質な芸術は真摯なものである」ということが事実なのだとしたら、どうだろうか。良質な芸術は、わたしたちを舞台のなかに位置づけ、実在的対象の代役をつとめさせ、〈炎-性質〉を従えた杉の役を演じさせる。まさにそうすることで、わたしたちの〔真摯な〕没入を呼び覚ますのかもしれない。そうだとすれば、あらゆる芸術は舞台芸術の一分野となるだろう。形式が内容を打ち負かすのは、内容が背景的メディウムを指示しなければならないからではない。むしろ、美に参与する人自身が、居合わすことのできない杉や石の代役をつとめることによって、メディウムを提供するのである。》