2019-05-04

●自分の能力を超えた量の仕事を引き受けてしまったかも、と、ちょっと後悔している。五月いっぱいはきっと、ずっと引きこもってあっぷあっぷしていると思う。

●たしかにこれは、作業しながらのBGMにとてもよい。「宇多丸×BEIPANA 謎ジャンル“Lo-fi Hip Hop”とは何か?」

https://www.youtube.com/watch?v=SGWbB4HvShU

●上のラジオに出演していたBEIPANAのブログ。「Lo-fi Hip Hop(ローファイ・ヒップホップ)はどうやって拡大したか」

https://www.beipana.com/entry/what-is-lofi-hip-hop

2019-05-03

●『さらざんまい』第四話。ここまでで、主要な登場人物三名(一稀、燕太、悠)すべての「秘密」の漏洩が済んだことになる。つまり、この三名それぞれの抱えている問題(関係-物語)が一通りは提示されたことになるのだろう。この作品が全十二話だとすれば三分の一が過ぎたことになり、ここまでを序盤のひとくくりとしてよいのではないか。

(この回では先送りになった、吾妻サラの誘拐-入れ替わり計画が、一稀と春河の関係の新たな局面を露呈させるものとして、中盤以降の展開の端緒となるのではないかと予想される。)

(とはいえ、吾妻サラなどという人物は実在するのだろうか? 握手会は本当に行われるのだろうか? という疑念はある。)

●この回で特筆すべきなのは、悠によって拳銃の発砲が行われたということだろう。これまで拳銃は、包帯を巻かれた上に箱のなかに納められた、(なにかしらの「秘密」を内包するが)既に機能しなくなったオブジェクトのようにしてあった。また、警官(玲央、真武)が所持している拳銃は、発砲する(弾を発射する)ものではなく、ゾンビとなる被害者の尻子玉を抜くための(吸引するものとしての)、穴と管であった。

あるいは、悠と誓との兄弟のもつ武器は、これまでは刀のような、定規のようなものであり、それは手の延長として、身体との連続性をもつものであった。それは刀のようでありながら定規であり、殺傷能力をもつものにはみえなかった。

しかしこの回はじめて、拳銃が、「弾を撃つ」という機能をもつものとしてあらわれた。弾を撃つという機能をもつ拳銃は、(尻子玉を抜くということとは別のやり方で)殺傷能力をもつ。

一稀のもつ箱の中には女装のための用具があり、それは一稀が、偽装と役割転換という役割をもつ人物であることを示すだろう。そして、燕太の箱の中にはミサンガがあり、それは、燕太が繋がりをつくり円環をなすという媒介的役割をもつ人物であることを示しているだろう。

悠の箱の中にあったのが包帯を巻かれた拳銃であり、(過去の出来事とはいえ)この拳銃には実際に殺傷能力があることが示された。

●『さらざんまい』の詳細な聖地巡礼をしている人がいた。「さらざんまい 舞台探訪」(聖地巡礼特集」より)

http://tianlang.s601.xrea.com/Sarazanmai.htm

これをみるかぎり、『さらざんまい』では、現実の浅草、合羽橋周辺が、風景だけではなく地理的な関係も含めて、細かいところまでかなり忠実に再現されているようだ。

一稀、燕太、悠の抱えている問題の性質、実在の地理的関係の忠実な再現(おそらくその一部の意図的改変)、主要な登場人物以外がピクトグラムで表現されている(さらに、一部の人物は顔に文字の書かれた紙が貼られている「顔のない」存在である)ことなどが、「ピングドラム」と共通している。

それはつまり、現実が忠実に再現されているからこそ、かえって、そこに示されている「世界」が、我々が通常現実と呼ぶものとは別の位相にある世界であるかのような気配が濃厚になってくる、ということであろう。そこに示される「世界」は、我々が住んでいる「この現実」からこぼれ落ちて、現実とも異界ともつかない(存在しているとも、存在していないともいえない)、どこでもないところに迷い込んでしまっているもので、いわば世界そのものが幽霊化してしまっているかのようにみえてくる。

(ピングドラム」の物語世界そのものは、「運命の乗り換え」によって消えてしまった幻の世界とも言える。)

 

2019-05-02

●今年一月にあった小鷹研理さんのレクチャーが、テキストになっていた。これは、小鷹さん自身による小鷹研理入門のようになっていると思う。

IAMAS「これからの創造のためのプラットフォーム」×「からだは戦場だよ 2018Δ」共催によるレクチャー『からだの錯覚、日常にひそむ異界の風景』の講演録「からだの錯覚」

http://sozoplatform.org/body_illusion/

●以下、自分のための引用、メモ。

●ミニマルなセルフ(「自分」を成立せしめているプリミティブなレイヤー)

《<自分>を成り立たせているものに、「ナラティブなセルフ」(物語的な自分)と「ミニマルなセルフ」というのがあって、ウチの研究室で出てくるような話は「ミニマルなセルフ」の方。これは、記憶とか、自分がどこで生まれたとか、個人の背景とかとは関係のないところの話で、そもそもの「自分」が「自分」としてあるギリギリのところ、「自分」を成立せしめているところのプリミティブなレイヤーのことを指します。そして、そういう意味での「自分」に切り込みを入れていくことで「自分」を別様なかたちへと組み替えていきたい、そんなことを考えています。》

●頭部のない自分を想像することの困難

《(…)身体のない自分を想像してみるってことをやってみるわけです。そのときに、多分、簡単にできるよって人とそうでない人がいるはずで。それでは次は、身体全部ではなくて、手足だけがない自分を想像してみる。で、これもまあ、意外と簡単にできそうだと。じゃあ、以上を踏まえて、最後に、「頭部のない自分」を想像してみましょう。頭部だけなくて、他は揃っているんですよ。こういう思考実験って、あるのかわかんないけど、僕は最近思いついて、結構面白いと思っているんです。》

《それで、やってみると、<頭部だけない自分>って想像するのがものすごく難しい。ほとんど不可能に近いんじゃないかと思うんですね。逆の言い方をすると、さっきの「身体のない自分」を想像する時にやっていたことって、全ての身体を透明にしていたつもりだったかもしれないけれど、実のところ「見えない頭」みたいなものを捨象しきれていないんじゃないかという、そういう感覚がある。僕たちは(重さを持とうが持たまいが)頭部を起点としてしか世界を見られないというか、そういう形でこういう身体を運用している、あるいは(実物であれ透明化したものであれ)視点を内在した頭部を持っているということと、自分が自分であるということは切っても切り離せない関係にあるんじゃないか。逆にいうと、ここが壊されると、もはやどのようなかたちで「自分」というものが成立しうるのか、途端にわからなくなる。》

●おそらく以下で「粘土」と言われているものは、ある程度の可塑性をもちながら、それ自身としての特性や傾向性をもった物質的なものであり、それによって、この私≑この身体がかたちづくられているマテリアルのようなものなのではないか。

《(…)僕が考えたいのは、(…)この身体をこの身体ならしめている、生々しい可塑的な場所へと降りていく態度についてなんです。だから、解釈と言うよりは事実の上に立っている、今こういう粘土的な場所の上に立っているというところまで降りてくる感じなんです。そういう場所が、僕の中では「ボディジェクト」なんです。そこから身体の偶有性を考える。こういう粘土の上にいまの自分があるということを遡行的に考えるわけです。》

《逆に言うと、この種の状況は外側からのノイズに開かれてて、何かが不意に降ってきた時に粘土の凹凸が変わって、その時に自分が全く別の有様に変わってしまうかもしれない。それに、この粘土の肌理なんかにそもそも意味なんか何もなくて、そうすると、自分がいまこういう身体であることの偶有性、別の身体でもあり得たという想像力を働かせることにつながるわけです。それはもっと言うと他者への想像力にもつながってくる。ここではそういうイメージを持ってもらいたいと思います。》

●セルフタッチ錯覚。自分であるとも他人であるとも登録されていないような未分化状態において、自分の身体を、自分の身体の領域のものとして”発見”していく過程。

《セルフタッチ錯覚とは、他人の身体(O)を触るのと同時に自分の身体(S)を(誰かに)触られるという状況で、本来は他人の身体(O)を触っているにも関わらず、自分の身体(S)を触っている感じが得られるというものです(その意味で、「誰か」の触る行為を自分の行為としてジャックしていることになる)。この(O)は、他人の身体でなくても、例えば机の表面とか人形なんかでも成立します。つまりセルフタッチ錯覚というのは、モノや他人の身体であったはずの(O)が、自分の身体であるところの(S)に吸着して身体化する現象なのですが、これは、例えば初期状態として、自分のこの身体が、自分であるとも他人であるとも登録されていないような極端な未分化状態を想定したとき、僕たちが、自分の身体の場所を、まさに自分の身体の領域のものとして”発見”するための重要な能力なのかもしれない。》

●錯覚を強く感じる人と、まったく感じない人。

《なんで僕がこういう研究をやっているのかというと、こういう研究って、錯覚を感じない人はわざわざやらないですよね。そもそもわかんないというか。でも、僕は幸い、ものすごく錯覚を感じてしまう方の人間みたいで、モノが身体に転じる時の「ストン」という気持ち良さを一度知ってしまった後は、もうずっと、病みつきになってしまっているようなところがある。それが一つ目の動機。他方で、これほど強烈な錯覚を、目の前の人はまるで感じていないというような場面に多々遭遇することになると、自分にとってのあたりまえが隣人にとってのあたりまえではないこと、そのような身も蓋もない(しかし強烈な)現実を自覚できるようになる。そこを探求したい、というのがもう一つの大きな動機なんです。》

《おそらく、ある錯覚について、感じる人と感じない人はそれぞれに異なる<粘土>を持っていて、その土壌に固有の凹凸が足場となって、それぞれが特異的な世界のパースペクティブが形成されている、、僕はそのような見立てを持っている。だから錯覚の感度の個人差を考えることは、「自分とは何者か」という、極めて個人的な問題意識とつながっているわけで、そのような意識は、当然、他者に対する想像力を考えるための足がかりにもなる。》

●「錯覚」の強さや頻度は、たとえば「同期の正確さ」のようなものに依存するというより、錯覚する人は、むしろ精度の粗さを越えて「能動的に騙されにいく」。

《でも、ここで重要なのは、錯覚を感じる人の多くは、(少なくとも当初は)触覚の違いをかなり強く意識した上でも錯覚状態に入れるということです。かなり感度の高い人は(僕も含めて)、机の表面を自分の身体の皮膚と見做すことさえできる。そもそも他人の手を触っていることははじめからわかっているわけだし、触感とか温度感覚がまるで違うのものに触れているということもわかっている。でもそれを、ある時点でまるごと無視してしまうような回路を作動させて、能動的にのこのこと騙されにいくような感覚がある。この、「違いを意識したうえであえて錯覚の渦中へと転がりこむ」というプロセスが、実は、錯覚者全般にとって実際に起こっていることなのです。》

《こうやって大勢で一斉に錯覚を体感してみる意義というのは、やっぱり、目の前に自分とは180度違う感じ方をしている人がいるという、その現実を直視することだと思うんです。僕らと彼らは、全く異なる粘土を土台として、それぞれに固有の世界への志向性が立ち上がっている、ということを実感する。そういう他者たちと僕たちは共存している。これは錯覚者の側である僕の言い分だけど、現に僕がそこに見ているものが、隣人から否定される。何もないと。。これって、やっぱり僕にとって、すごい衝撃なんですよね。だから、僕にとって、人と人がわかり合うなんて、土台無理な話なんだ、というある種の冷めた感覚がある。「土台無理」という現状認識から、そのうえで、そういう分かり合えない人たち同士が共にあるということの意味を考える。セルフタッチアラカルトは、その種の問題を考える上で、このうえない良質なトレーニングだと思うのです。》

●ぼくが強く興味をひかれるのは、通常、(アバターに「自己」を感じる)フルボディ錯覚が生じないとされる「対面状態」にある対象に対しても、ある特定のレイアウトにおいては、「そこにいるわたし」という錯覚が(自分との「対面」が)生じるということだ。

一つは、斜め上からの視点を「見上げる-見下ろす(目が合う)」という関係にある時で、もう一つは、横たわった時に、容易に重力反転(「見上げる-見下ろす」の反転)が起こることによってだという。

《「Recursive Function Space」の右手側の体験は、要するに、右手でカメラを持っていて、そのカメラは常に自分の(アバターの)頭部にレンズを向けている、ということなんです。そのような右手から出発して自らの頭部へと収斂するカメラからの風景を、自分の視点として体感するというものなのですが、視点をアバターの周囲でぐるぐると回していると、アバターに対して何とも言えない、ゾワゾワってくるポイントがいくつかあることに気付きます。(…)ここで問題にしたいのは、(フルバディ錯覚が起きないとされる)対面状態です。対面状態というのは、基本的に自己と他者との関係性をビルドするフレームで、自己の分身的な投射が起きづらいとされています。ただ、「Recursive Function Space」で右腕を目一杯に上に振り上げ、その右手の先からアバターを見降ろしてみる、ということをやってみるんです。そして、そこに見えているアバター(である自分)が、今度は、右手の方を見上げてみる。そうしてそんなアバター(である自分)と目が合ってしまう時、、この体験はとてつもなく僕にとってやばかった。》

《自分のアバターって、言ってみれば単なる人形ですよ。なんだけど、この特定のレイアウトをとるときに、なんだかよくわかんないけど「そこに自分がいる」という感覚になる。この他人なりアバターは、もちろん自分とは違うんだけど、一方で、自分の収まるべき場所、本来いるべき場所なんだと思う、みたいな。なんだか放って置けない類の強烈な既視感が発せられている。グッと捕捉されている感じ、というか。》

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《再度、小鷹研究室の作品の話に戻ると、「I am a volleyball tossed by my hand」でも「Recursive Function Space」でも、HMDを装着している体験者は、物理的なレベルでは上(天井の方)を見上げ、主観的なレベルではHMD空間の中で下(地面の方)を見降ろしている。この特徴的なレイアウトを『天空を見降ろす』という言葉で代表させました。ここにはある種の反転が生じている。そして、実際、本当の幽体離脱も、いろんなケースが報告されてはいるけれど、寝転がっている状態の自分を上から見降ろすかたちが典型的なレイアウトであると言われています。実際、みなさんが幽体離脱と聞いて思い描く絵もそのようなものだと思います。そうした事実をつなぎ合わせてみると、どうやら寝転がってる状態というのは、視線の先にある天空を地面として”誤って”感覚すること、その種の重力錯覚を感じやすい特別な状態にあるのではないか、そのような推測ができるわけです。》

《とにかく、世界を転覆させたかったら寝転べばいいんですよ。反転した世界を体感したければ、ただ寝転べばいい。リラックスした状態で横になる。そうすると、突然、視点が地面から天空へとワープする。そして、これはやってみるとわかるんですが、この転調は、ものすごく気持ちがいい。》

●そして、「ご長寿早押しクイズ」の重要性。ここでご長寿たちにおいては、自分の頭のなかから聞こえてくる声(思いつき)と、自分の外から聞こえてくる声(他人の声)との区別が怪しくなっていて、それによって、この場全体が「一つの脳」のように機能しているように思われる。

ご長寿早押しクイズ名人戦8 part2

https://www.youtube.com/watch?v=zg2iX9mZPjk

《ここで顕著なのは、自分もまた他人であり、他人もまた自分である、とでもいうような、自分と隣人たちの神経回路が全部つながってしまっている感じだと思うんです。あるいは、一人の脳の中でうごめいている膨大な連想の連鎖が、全てダダ漏れとなっているような感じというか。これまでの話とつなげるならば、ご長寿は、隣から聞こえてきた言葉を、あたかも自分の無意識の中の響きとして受け取っている感じがするんです。出演者の反応をよくみてみると面白いのが、みんな、隣の回答者から漏れてきて言葉に対して、「ハッ」としてひらめいた表情をみせて、目をすごく輝かせて、堂々と全く同じ回答や、少しだけずれた回答を被せてくるでしょう?この感じ、ひらめき問題を考えるうえで、すごく重要なことだと思ってて。「ご長寿早押しクイズ」でよくみる、矢継ぎ早に怒涛のごとく言葉の連想が展開していき、次第に音楽的な塊へと成長していく時、ご長寿たちは、すごく楽しいんだと思います。だって、毎回毎回ひらめきまくってるから。隣人の言葉を、自らの内なる言葉として受け取り、無意識がざわめきまくっている。「ご長寿早押しクイズ」の気持ち良さは、この種の、「ひらめき」が発動する条件に対する寛容さ、自由さにあると思うんです。そして、僕たちが創造的になるためには、ときに、「ご長寿早押しクイズ」でご長寿がみせるような”勘違い”が必要な気がするんです。》

2019-04-30

●U-NEXTで『こえをきかせて』(いまおかしんじ)を観ていて、川瀬陽太の奥さんの役をやっている人がとてもいいなあと思って調べたら、丸純子という女優だった。

(コロッケを食べる場面がとてもよい。)

『こえをきかせて』は、お話的には東京か、そうでなくても大都市圏でないと成り立たないと思われるような話なのに、どうみても都市部には見えない土地でロケをしていて、話と場とのちぐはぐさがちょっと面白いのだけど、このちぐはぐさをもうちょっと積極的に生かすこともできたのではないかとも思った。

2019-04-29

●お知らせ。511()から629()まで、名古屋のSee Saw gallery + hibitというギャラリーで、井上実さんの個展が行われます(日、月、火は休みです)

http://www.seesaw-gallery.com/exhibitions/2019/1335

その初日、511日の18時から、井上実さん、建築家の柄沢祐輔さん、ぼくの三人で、トークイベントを行います。

(井上さんの「空き地」という作品を、ぼくは自分の本『虚構世界はなぜ必要か?』の装画として使わせてもらっています。)

●ぼくは、20171115日の日記に、井上さんの作品について次のように書いている。

《たとえば、井上実の絵画はそうなっている。一つの平面に、異なる階層が同時に現前してしまっているような感じがある。異なる階層というのは、異なるレイヤーというのとは違う。異なるレイヤーが共存している絵画など、今では既にありふれている。そうではなく、雑なたとえ方になるけど、「ニワトリ」と「鳥」と「動物」とが、一枚の絵のなかで、同じ強さで並列的に現前しているという感じになっている。だから観ているとほんとうにくらくらする。井上作品の異様な密度はおそらくそこから来ている(たんに、描写の細密さからくるわけではない、それだったら8K映像とかには勝てない)。ぼくが知る限りでは、現役の作家で井上実以外にそれができている作品をつくっている人はいない。》

●あるいは、20161125日の東京新聞の美術評には、次のように書いた。

《全体と部分とがどこまで細かく見ても同じ構造をもっている図形をフラクタルという。近似的なフラクタル構造は、リアス式海岸の海岸線やブロッコリーの形、腸の襞の構造など、自然界の様々なところに見出される。フラクタル図形は、マクロへ、ミクロへと見るスケールを変化させても特徴が変わらないので、通常のスケール感の足下を崩され、眩暈のような感覚を生む。

フラクタル構造とは異なるが、井上実の絵画にみなぎる強い充実感は、スケールや感覚を転倒させるような多層構造が作られているところからくると思われる。モチーフは、一辺二、三〇センチ程度の範囲の小さなスケールの折り重なる植生で、それが一辺一、二メートルの大きな画面へ拡大される。点描のような小さなタッチの集積で描かれるが、スーラなどの光学的点描とは異なる。キャンバスが透けるほどの薄塗りで、タッチの大きさにばらつきがあり、タッチの集積の粗密さも均質ではない。植物の重なりは執拗なまでに詳細に再現されるが、写真のようなリアルさが目指されているのではない。

大きな画面が小さく繊細な薄塗りのタッチで埋め尽くされ、庭の片隅にあるようなささやかな植生が、拡大されて詳細に描かれる。抑制された色彩による一つ一つのタッチは、桜の花びら一枚のようにささやかだが、大画面を埋め尽くすそれは桜吹雪のように圧倒的だ。描かれるのは片隅の植物だが、拡大されたそれはまるで妖怪や精霊や動物の霊気などが密集する森の奥のようでもあり、濃密である。画面には植生が細密に描かれているが、それは同時に、繊細な色彩のリズムがつくる抽象絵画のようでもある。

小さいと同時に大きく、ささやかであると同時に圧倒的で、静かであると同時に騒がしく、細密画であると同時に抽象画である。アニミズムの森のようなみっしりとした植物の重なり合いが、実は片隅の野草の姿であること、生命が横溢する饒舌な画面が、実は繊細で抑制された薄塗りのタッチでつくられていること、騒がしく過剰なものが、実は静かでか弱いものたちによって支えられていること。

井上実の絵画には、性質が逆であるものが互いに相手を支え合う多層構造があり、それらが同時に響くことで、充実した視覚体験をもたらす。》

●ぼくは本気で、井上実は、現在の世界で最も重要な画家の一人であると思っている。しかし、そうであるにもかかわらず、その実作を観ることの出来る機会は残念ながら希少である。もし可能ならば、この機会に観ることをお勧めします。

INOUE MINORU WORKS

http://inoueminoru.wixsite.com/kaiga/works

 

2019-04-28

●とても懐かしい。八王子駅の良質な古本屋さんリスト!

https://twitter.com/Kaym11165/status/1122530510410899456

●何年か前、以前住んでいた場所の近くに用事があって行った時に、学生の頃から二十年以上もの間、(本を読んだり、書き物をしたり)すごく長い時間をそこで過ごした喫茶店がなくなってしまっていてショックを受けたのだが、古本屋は今も健在のようでよかった。

●まつおか書房と佐藤書房は、距離にして百メートルも離れていないし、さらに百メートルも離れていない場所に、地下一階から地上五階まであるくまざわ書店(古本屋ではない)があり、一カ所に寄ると自動的に他も寄ることになる。八王子駅前のこの三角地帯でどれだけ本を買っただろうか。