2019-08-22

hulu大島渚の『太陽の墓場』(1960)。とてもよかった。

松竹時代の(短編を除いた)初期三作における大島渚の飛躍は驚くべきものだと思う。『青春残酷物語』からより攻めたつくりの『太陽の墓場』へ、そして『太陽の墓場』からさらに、さらに攻めたつくりの『日本の夜と霧』へと。しかもこの三作はすべて1960年という同じ一年のうちにつくられている。「調子に乗っている」というよりほとんど「増長している」と言ってもいいと思われる攻めまくりの姿勢。1960年という一年で、大島渚はまさに、つくる映画の質として「世界の大島」となったと言えるのではないか。これらをつくっている時、大島渚はまだ二十代だ。

(ぼくは自分が同時代として経験した、相米慎二の『翔んだカップル』、『セーラー服と機関銃』、『ションベンライダー』という初期三作での一作ごとの飛躍を想起してしまう。)

大島渚は通常、松竹ヌーヴェルヴァーグの作家と呼ばれる。実際、初期三作は『勝手にしやがれ』の次の年につくられているし、世代としてもヌーヴェルヴァーグと同世代と言える。ただ、作風からいえば、むしろポストヌーヴェルヴァーグの世代(ベルトルッチアンゲロプロスなど)に近いように思われる。そして大島渚は、ベルトルッチよりもアンゲロプロスよりも「早い」のだ。ベルトルッチの『革命前夜』が1964年、アンゲロプロスの『1936年の日々』が1972年。ベルトルッチアンゲロプロスがそれらの映画をつくっている時に大島渚を既に観ていたかどうかはわからないとしても、大島渚の方が先行していることにかわりはない。これはやはりすごいことなのではないかと改めて思ったのだった。

(ベルトルッチのデビュー---『殺し』1962---よりも『日本の夜と霧』の方が早いというのは驚くべきことだ。さらに、アンゲロプロスの『1936年の日々』(1972)よりも大島の『儀式』(1971)の方が早いのだ。)

(『青春残酷物語』がヒットしたことで、『太陽の墓場』をより攻めた作り方でつくることができたのだろうし、その『太陽の墓場』もヒットしたことで----撮影中にすでに文句をいわれていたみたいだが--あまりにも攻め過ぎている『日本の夜と霧』を---公開から四日で上映中止になるとしても---とにかく完成させることはできたのだろう。つまり「受けた(売れた)」ことで、松竹は大島組の攻めの姿勢---わがまま---を受け入れるしかなかったということではないか。松竹の撮影所の内部で大島組は、大人たちから眉をひそめられるような、勢いづいた生意気な若者たちの集団だったのだろう。初期三作を松竹という体制のなかでつくることができたのは奇跡的なことで、そして同時に、この三作は松竹の撮影所という伝統に裏打ちされた豊かな資源が背景にあることによって可能だったのだろうと思われる。そのような意味で、大島渚という映画作家は、才能と時代背景との奇跡的な同期によって生成されたのだなあと思ったのだった。)

 

2019-08-21

U-NEXTで『みな殺しの霊歌』(加藤泰)。時代劇、任侠物、股旅物などをつくってきた撮影所の職人監督が、(68年当時の)「現代」的なテイストの映画をつくる。しかも、独立プロダクションでつくったのではなく、松竹というメジャーな会社で(独立プロ的テイストを模倣するかのようにわざわざモノクロで)このような映画をつくったということは、当時の、松竹ヌーヴェルヴァーグ以降の新興の独立プロダクションや、若松孝二などピンク映画の存在が、文化的なレベルだけでなく、興行的なレベルでも、メジャーにとって無視できない勢いとしてあったことを表しているのだろうか。

加藤泰の映画だから立派なものではあることは確かだけど、それでも、どこか流行(時代)に日和った感じを受けてしまうことを否定できない。現代的風俗の採り入れ方が中途半端だとか(食堂の長髪の青年の描写とか)、警察の存在の仕方が観客への説明(いいわけ)のためにあるような感じになってしまっているとか、「振り切れていない感じ」を感じてしまった。ハードで暴力的な、暗い階級闘争の話だと思うのだが、そこに山田洋次的な---山田洋次はこの映画に「構成」という役割でかかわっている---庶民派左翼的要素がうまく混じらないまま同居している感じ(自殺してしまった少年が働いていたクリーニング店や近所の食堂の描写、少年が好きだった曲が「いつでも夢を」だったりすること、など)

(単純に、同時代の大島渚鈴木清順はもっと振り切っているよなあ、と思ってしまった、ということ。)

ただ、それが必ずしも作品を弱めているということでもない。むしろ味わい深いものにしているとも言える。特に、この映画の倍賞千恵子の存在はとても面白いと思った。倍賞千恵子は、冷酷な殺人鬼と化した佐藤允が唯一心を開く女性として出てくる。彼女は最初、食堂で働く、けなげで明るい「下町の太陽」的な、いかにも庶民派左翼的ヒロインであるかのように登場するのだが、実は彼女には、繰り返し家族を苦しめるどうしようもない不良の兄がいて、ある時にあまりに酷い行いに思いあまって兄を殺してしまい、その罪で執行猶予中であるという背景が明らかになる。無理矢理につなげたかのような表と裏の大きな落差は、この映画の混じり合わない要素の齟齬から生まれたものかもしれないが、それによって倍賞千恵子の演じる人物が重層化、立体化され、強い印象が付与される。

この映画が公開された1968年は、テレビドラマ版の『男はつらいよ』がスタートした年でもあり、そこでもヒロイン「さくら」にはどうしようもない兄(寅さん)がいる(テレビ版「男はつらいよ」では、さくら役は倍賞千恵子ではなく長山藍子だが、翌年---1969---に公開される映画版では一作目からさくら役は倍賞千恵子になっており、後に国民的な映画となるこのシリーズにおいて、さくら=倍賞千恵子と言ってよいだろう)。勿論、兄思いのさくらは寅さんを思いあまって殺したりしないのだが。とはいえ、『みな殺しの霊歌』の春子=倍賞千恵子もまた、兄思いでなかったはずはないと思われる。

(テレビ版の寅次郎は、最終話で奄美大島でハブに噛まれて死んでしまう---ウィキペディアより)

表のキャラクターとしての倍賞千恵子は、『みな殺しの霊歌』においても「男はつらいよ」同様のさくら的なヒロインであった。『みな殺しの霊歌』における倍賞千恵子の表と裏を媒介とすることで、『みな殺しの霊歌』の倍賞千恵子は、置かれた状況によっては(兄を殺さなかった)男はつらいよ』の倍賞千恵子であり得たかもしれないし、『男はつらいよ』の倍賞千恵子もまた、状況によっては(兄を殺した)『みな殺しの霊歌』の倍賞千恵子となってしまったかもしれないという交換可能性が惹起される。

北海道から東京に出てきた労働者の男が五人の有閑マダムを次々と惨殺するという陰惨な『みな殺しの霊歌』のなかに、溶け合わない要素として『男はつらいよ』的なものが含まれているとすれば、「男はつらいよ」シリーズの内にも、『みな殺しの霊歌』のような匂いがどこかに潜在しているのではないか。『みな殺しの霊歌』を観ることによって、春子=倍賞千恵子とさくら=倍賞千恵子を交換可能とする倍賞千恵子という存在による媒介的横断によって、そのような感覚が生まれる。

日本の六十年代終盤という時代における表象のありようにおいて。

(「沓掛時次郎」のような映画をつくっていた加藤泰---しかも松竹で---1968年には『みな殺しの霊歌』をつくった。おそらくそのような時代の要請があったのだろう。一方、同じ年に「男はつらいよ」のプロトタイプとなるテレビ版がつくられており、同作は松竹を支えるような、国民的なシリーズとなっていく。加藤泰も、この後は東映京都で「緋牡丹博徒」シリーズ---東映の既定路線である任侠物---をつくることになる。従来通りの撮影所の既定路線に戻っていく。)

(つまり『みな殺しの霊歌』は、メジャーな映画会社とその外にあったインデペンデントな流れとの一瞬の交点のように存在し、故に折衷的な中途半端さは感じられるものの、折衷的であることによってはじめて生じる---伝統的メジャーとも新興のインデペンデントとも違う---ある種の特異性が獲得されているように思われる。この折衷的交錯は、1968年という時代によって要請され、実現したものなのではないか。)

 

2019-08-19

AmazonPrimeで、イーストウッドの『チェンジリング(2008)を観た。記憶していた話と全然違っていて、はじめて観たかのように前のめりで観てしまった。エンターテイメントというのはこうあるべきなんだなというような感じで、なめらかに引き込まれ、先を予測できない展開に次々と転がされていき、しかし最後には、これ以外に終わりようがないという、納得できるところにきちんと着地させられる。140分があっという間だった。

記憶していたのと違った点は、もっと、アンジェリーナ・ジョリーの確信が揺らぐような(自分のリアリティが信用できなくなるような)話だと思っていたのだけど、そうではなく、彼女の信念は揺らぐことなく、リアリティの話というより、社会的な理不尽と、それと戦う強い信念、そして正義が実現される、というような過程に重きが置かれている話だったということ。

ぼくなどは、そもそも自分の信念やリアリティが信用できないという話に慣れてしまっている。警察に圧力をかけられたり、精神病院に強制的に隔離されたりすると、自分(観客)が信じていることの方が危うくなってしまうという話にリアリティを感じてしまう。あるいは、90年代の黒沢清などがそうなのだが、最も狂った者こそが「信念」を持つ(狂気に支配された者のみが信念を持ちうる)、という話にリアリティを感じるようになっている。

(人が信念を持つ、というより、運命=狂気=信念に人が掴まれる、という感じ。)

しかしこの映画では、アンジェリーナ・ジョリーの確信は揺らぐことなく、しかもその信念は狂気ではなく、社会的な承認を勝ち得ることに成功し、理不尽な圧力をかけていた者たちは失脚する。ここではリアリティよりも正義が問題であり、社会的に正義が実現されるか否か、というところが重要な点となる。権力による理不尽な圧力に対して、市民の良識や、司法による公正なジャッジが有効に機能し、それをひっくり返すことができるということが信じられている。この映画は、アンジェリーナ・ジョリーとその息子に起こった悲劇というよりも、腐敗した公的権力による個人への理不尽な圧力、それと戦う信念、良識と公正なジャッジによる信念の勝利、というような話にウェイトが置かれている。アンジェリーナ・ジョリーの信念が揺らがないこと(誰も---観客も彼女自身も---彼女の「正気=正義」を疑わないこと)と、警察の理不尽VS信念と良識や公正さの闘いという構図にウェイトが置かれていること、によって、この映画はエンターテイメントとなりえているのだと思う。

(この映画には、1920年代のアメリカにおいて女性たちが置かれていた地位の理不尽さを描くことを通じて、それ以上のもの---現代にも通じる社会的な不公正さとそれに抗する信念の称揚---を示そうとするという側面もあるだろう。)

とはいえ、「アンジェリーナ・ジョリーとその息子に起こった悲劇」は、警察による理不尽な対応より前に起こってしまっている。だから、彼女の信念が「正しい」と社会的に承認され、社会的な正義が実現され、理不尽に振る舞った者たちが失脚したからといって、彼女の悲劇が解決するということはない。

つまり、エンターテイメントとしての対決とその解決は、彼女に起こった悲劇の、あるいはこの作品が提示するモチーフの、解決(あるいは結末)にはならない。この映画はこのままでは終われない。あるいは、この映画のモチーフはここから始まると言えるかもしれない。

ここまで彼女を支えてきた強い信念はあくまで理性的なものであり、それは正義という承認を得られるもの(正しさや承認によって支えられ得るもの)であった。だが、彼女がラストに口にする「希望」は、ほぼ「狂気」と同義であり、この希望=狂気は、他者や社会や正義による承認によって支えられるものではない。理性的な信念に支えられてきたアンジェリーナ・ジョリーが、狂気とも言える(根拠によって支えられたものではない)希望を得ることで、この映画は終わる。

(だからこの時にはもう、社会的正義の体現者であり、アンジェリーナ・ジョリーの支援者であったジョン・マルコヴィッチにできることは何もなく、彼女は彼から離れて一人で歩き出す。彼女の希望は、彼女一人によって支えられた、彼女一人のものであろう。)

チェンジリング」というタイトルは、最初の「息子の偽装」にかかっているというより、ラストのエピソードにこそかかっていると言える。自分の息子の換わりに他人の息子が帰ってくること。それも、「自分の息子の行為」によって、他人の息子が帰ってこられたのだということ。あるいはそれを、「他人の息子の証言」として「自分の息子(の行為)」が帰ってくる、と言い換えることもできるかもしれない。この、現実的には交換不可能な交換可能性が、彼女に(「失意」ではなく)希望を与える。しかしこの希望は救いでもあると同時に呪いでもある(彼女はいったん息子を諦めかけ、新たな人生へと歩を進めようとしかけていたが、呪いとも言える希望によって引き戻され、息子を諦めることが一生できなくなる)。この作品全体の重み、あるいはこの作品のモチーフは、ラストのこのエピソードにかかっていると思う。

 

2019-08-18

●『瞼の母(加藤泰)U-NEXTで観た。木暮実千代の堂々とした美しさ。そして、中村錦之助が、とても、かわいい。このかわいさこそが中村錦之助のスター性なのか。

(『沓掛時次郎 遊侠一匹』を観ていた時、人を何人も平気で殺している中村錦之助が、なぜこんなに優しそうに見えるのだろうかと思ったのだが、これは、優しさというより、かわいさなのだなあ、と。)

 

2019-08-17 

●huluで『カリスマ』(黒沢清)を観た。久々に観たのだが、思っていた以上に面白かった。1999年公開だから、もう二十年前の映画だ(「偽日記」も1999年からはじまっているのだが)

ぼくが黒沢清に最も熱狂していたのは97年から99年くらいの時期で(もちろん八十年代からずっと持続的に強い関心をもっていたのだが)---あくまでぼくにとっての、だが---黒沢清絶頂期の最後くらいに当たる作品。古い企画が復活したという作品なので(『地獄の警備員』くらいの)初期の黒沢清の要素と、Vシネマ量産時代以降の黒沢清の要素が混じっていつつ、初期やVシネマ期を自ら解体しているような感じもある。

『カリスマ』は100分ちょっと映画だが、最初の70分くらいは、中心的な問題があり、その問題に対する態度の違いによる各陣営の対立がある、という形で進んでいく。しかし最後の30分は、その問題が消えてしまった後というか、そもそも問題は偽の問題に過ぎなかったかもしれず、問題が消えてしまえば、問題を問題として支えていた基盤のようなものこそ成り立たなくなってしまうという様が描かれる(カリスマの木は、ある意味で「父の名」のようなものだ)。それにより、対立していたどの陣営も、どの人物も、方向を失って狂っていくという展開になる。この映画には、問題と対立があり、問題の崩壊にともなう対立の崩壊があり、問題と対立の崩壊にともなう各陣営のアイデンティティの崩壊があるばかりで、解決や結論というものがない。秩序は壊れ混乱し、対立による均衡でギリギリに抑えられていた暴力と死が、にじみ出るように至る所に蔓延し出す。

そんななか役所広司が、一人勝手に、まったく何の根拠のない新たな問題をたちあげる。彼こそが、新たな世界のありようの指針を示してくれるのではないかと期待する人もいるが、彼の行為からは根拠も意味も共同性も何も見いだせないので、誰も彼の行為を理解できず、結局は彼のもとを去る。だが彼は理解されなくても意に介さずに、無意味としか思えない行為を淡々とつづける。だが、そうしているうちに何故か、彼の無根拠な行為に、周りの人々の方が、勝手に根拠を付与しはじめる。そしてそこにまた、縮小再生産された対立の構図が生まれそうになると、役所広司はそれをあっさり破壊する。だから秩序は与えられず、誰も依って立つ場所を見いだせない。

この映画では一番最初に、「世界の法則を回復せよ」という呪文のような言葉が与えられる。この言葉は、『地獄の警備員』における「知りたいか、それを知るには勇気がいるぞ(うろ憶え)」と同様、映画そのものを縛ってしまうほどに強いフレーズとしてあるだろう。しかし『カリスマ』においてこのフレーズは、解体され、無力化されてしまうものとしてある。

そもそもこのフレーズは正確とは言えない。「世界の秩序(あるいは規則)を回復せよ」ならば分かるが、「法則(少なくとも自然法)」は、瓦解したり、失われたりしないし、よって回復されることもないものだ。世界(宇宙)は、法則の上にのって存在しており、法則の外に出ることは原理上できない。秩序や規則であれば、崩壊したり回復されたりもするが、法則(自然法)とは、誰がどうあがいても常に正確に作動してしまうもののことだろう。なので、「知りたいか、それを知るには勇気がいるぞ」は、映画を決定づける決めフレーズになり得るとしても、「世界の法則を回復せよ」は、適切ではないことによって決めフレーズたり得ない。役所広司はおそらく、映画の最初の70分の展開のなかでそのことに気づいたのだろう。彼の口から出る「あるがまま」という言葉は、「法則」は常に正確に作動し、誰もその外に出ることができない(故に、「回復する」こともできない)という事実を意味しているだろう。彼の視点や行為は、人間たちの秩序や規則や倫理の外にある「法則」の側からのものとなっている。

(自由も服従も「人間的価値」であって「法則」ではない。対立構図を成立させるための共通の人間的基盤がなければ、対立---違い---の根拠となる「(依って立つ)価値」が成り立たないので、「あるがまま」とするしかなくなる。)

(破壊された二番目のカリスマの木の残骸から新芽が出ていることもまた「法則」の側の出来事であり、「価値」の側の出来事ではない、と、役所広司は考えるだろう。)

法則は善悪の彼岸にあり、役所広司はその位置から世界を見ている。しかし、映画はここで終わるのではない。対立構図の縮小再生産を避けるために松重豊を銃で撃った役所広司は、彼をそのまま死なせることなく、応急処置をして病院まで運び、生きさせようとする。これは彼の意思であり、最低限の倫理だ。法則の世界から倫理の世界へ、「あるがまま」の世界から「人間的価値」の世界へ、役所広司も結局は戻ってこざるを得ないのだ。

しかし、森のなかでの対立構図が崩れてしまった後、一体「何処」に戻ればいいのか。戻る場所は自明ではない。それどころか、彼には戻る場所など何処にもないからずっと森にいたのだし、戻ろうとしている先は何故か焼け野原になってさえいる。だからこの映画には結論も解決もない。森のなかで善悪の彼岸に位置に達し、「怪物」と化したかもしれない役所広司もまた、人間の世界へ「戻ろうとする」ほかないのだ。しかし、戻ろうとしたからといって、戻れるとは限らないし、戻る場所があるとも限らない。

既に戻るべき場所などありはしないのに、それでも戻ろうとする意思(松重豊を生かそうとする意思)によって行動すること。この根拠のない意思こそが役所広司(「あるがまま」ではない、人間的な)狂気であり、彼はこの狂気によって(他の人たちが陥っている狂気である)混乱を免れているとも言える。でもこれは、解決とは言えないし、出口もない。