2019-09-26

●本を読んで、なるほどと納得させられたり、おもしろいと思ったりしても、時間が経つとその多くを忘れてしまう。強い説得力があるように感じられた論の展開があったとして、後からそれを再現しようとしてもぼんやりとした流れしか辿れなかったり、そもそも、おもしろいと思ったことそのものを忘れてしまっていたりする。

この日記で本やテキストを引用するのはそのための備忘録といえる。それには二種類の意味があって、おもしろいと思ったことをピックアップして置いておくことと、本を全部(あるいは、関心のある部分を通して)読み返さなくても、引用しておいたところだけをざっと読めば話の流れをだいたいは思い出せるようにしておくこと。

前者の場合は、自分がおもしろいと反応したところを書き写すだけだが、後者の場合、どの部分を引用して、どのように並べれば、できるだけ少ない引用量で、論の展開を要約できる(思い出せる)のかを考える必要がある。このとき、テキストをだいたい三回読むという感じになる。

まず、最初にふつうに読む(この段階で、書き込みや傍線がたくさんつく)。つぎに、どの部分を取り出せば要約になり得るのかを考えながら、読んだところを振り返る。そして、選んだところを実際に書き写す(打ち移す、と言うべきか)

書き写すという行為は体に刻むという感じもあって、これだけやると、それなりに頭に残る。それに、引用部分を書き写している時に、自分が最初に読んだ時に誤読していたと気づくことや、読み落としていた部分があったと気づくこともけっこうある。

(読みながら、本に傍線を引いたり、書き込みをしたりするというのも、ただ「読む」だけでなく、読むという行為に書く---描く---という別の系列の行為を織り込んでいくという意味もある。体を動かす行為を織り込まないと、読むこという行為に集中できずに、すぐに飽きてしまうということもある。)

それでも、時間が経つとやはり多くの部分は忘れてしまうのだけど。

 

2019-09-25

●引用、メモ。『ブルーノ・ラトゥールの取説』(久保明)、第四章「近代とは何か」より。その三。

●存在様態探求

(『存在様態探求』において)彼はまず、ANTは「いかなる手段を用いても状況を制圧したものが正しい」というマキャベリ主義的発想を学問的に正当化するものだ、という従来からの批判の妥当性をある程度認めるところから議論を始める。》

《「社会」と「自然」への還元を同時に回避するANTの手法では、諸現象の推移を社会的な合理性(対立の調停や合意形成)に依拠して捉えることもできないし、自然の事実を的確に捉える科学的な合理性(理論や技術の精緻化)に依拠して捉えることもできない。この二種類の還元を通じて理性的な審級を確保することになれた人々にとって、ANTが理性的思考を放棄して事実を構築する恣意的な力に訴える粗暴な方法論に見えるのは致し方ないことである。》

《この問題を乗り越えるために、諸アクターの関係性が現実を構築している、というANTの発想を拡張する仕方で、諸アクターの様々な関係の仕方がそれぞれに異なる仕方で構築の善し悪しを判断しうる価値基準ないし適切性条件(Felicity Condition)を生み出していると考える「存在様態論」が構想される。》

《ラトゥールは、ここでもまた、近代的な還元の論理を退けることを通じて非近代論的な分節化を担う存在様態を一つ一つ補捉していく。》

●対応説→指示の連鎖

(…)まずもって標的とされるのは、現実に存在するモノ(Thing)と人間の精神(Mind)の対応(Correspondence)を措定する対応説である。私たち人間の営為においてモノと精神、対象と表象、世界と言語の間の厳密で透明な対応関係を要求する近代的発想を、ラトゥールはマウスの決定操作を想起させる「ダブル・クリック」という言葉で呼ぶ。》

(…)アマゾンの森林をめぐる事例分析で検討したように、科学的実践の中心には世界それ自体の改変がある。この事例において、科学者達は、世界を虚心坦懐に観察してそれに対応する言葉を探すのではなく、世界に一連の変換を加えることで「循環する指示」(同書では「指示の連鎖」(Chains of Reference)と呼ばれる)を作りあげることに従事していた。指示の連鎖が絶たれれば、報告書に書かれた言葉は妥当性を失う。言葉は、言葉以外の諸アクターによる指示の連鎖に後から添えられる。(…)諸アクターが隊列を整えて指示を連鎖させることで、世界と言明の対応が一時的に産出される。》

(詳しくは830日の日記を参照)

《科学的実践は「指示の連鎖」という存在様態[REF(Reference)を生み出す。それは「精神と現実の間をつなぐロープではなく、むしろ、身体が育つほど頭と尾が大きくなっていくヘビのようなもの」だとラトゥールは言う。》

●「自然」の位置づけ→再生産

《次に問題となるのは、(…)「パストゥールが制作する以前に乳酸発酵素は存在したのか」という問いが示すような「自然」の位置づけである。》

《科学的対象としての乳酸発酵素は、指示の連鎖[REF]が形成され維持される限りにおいて実在するのだから、それが構築される前から存在していたわけではない。ただしパストゥールの制作以前に何らかの微生物が存在していて、それがパストゥールの実践と関わりをもつようになったのだろうことを否定する必要もない。それをパストゥールの捉えた乳酸発酵素と完全に同一のものだとみなすことができないだけだ。むしろ、一九世紀のパストゥールとの出会いによって、微生物にも変化が生じたのである。》

《パストゥールと出会う以前から反復されていた微生物の営みは、人間に無限に先行し、人間が後から関わるようになる「再生産」[REP(Reproduction)の様態として把握される。再生産とは、それを通じて諸存在が反復の断絶を乗り越え特定の軌跡を定めることができる存在様態である。モノと知性の透明な対応を絶対視する存在様態[DC(ダブル・クリック)によって、再生産[REP]と指示[REF]は誤って単一の物質(Matter)に合成されてきた。これに対して、存在様態論において、科学的な客観性は指示と再生産という異なる存在様態の交差(REP]・[REF)として捉えられる。》

●主体(精神)→変容

(…)客体(物質)だけでなく、主体(精神)もまた存在様態の誤った合成として捉え直されていく。》

《近代的な「精神」は、心理学や精神分析や司法制度や文学などの領域を横断する諸アクターのネットワークによって構成され続ける「不可視のモもの」(感情、個性、無意識、意志など)を、ネットワークに先行するものとして想定される個々人の「内面」に誤って合成したものに他ならない。「不可視のもの」は、再生産の存在者[REP]と同じく、人間に無限に先行して存在している。[REP]が一貫性を保証するのに対して「不可視のもの」は変容(メタモルフォーゼ)を増幅する存在様態[MET]によって生じる。両者の交差を通じて構成される存在(REP]・[MET)は自らに固有のリズムをもつ。人間は後にそこから滋養を得て、支枝を伸ばし、エネルギーを得ることはできるが、それを取り替え、生みだすことは決してできない。》

●象徴→虚構

《非近代社会が「不可視なもの」を補捉し明示化し儀礼化するための膨大な努力を払ってきたのに対して、近代社会はそれらを「精神」へと押し込める。換言すれば、モノと知性の透明な対応への希求[DC]によって、物質の世界に収まらないあらゆる余剰物が「象徴的なリアリティ」の世界に放り込まれるようになる。とりわけ「常に人間という主体が意味づけ解釈するもの」だと誤解されてきたのが、言語をはじめとする虚構という存在様態[FIC(Fiction)である。》

《象徴論的、記号論的、文芸批評的な「人間」や「文化」への還元は、科学・技術における「自然」への還元と相互依存の関係にある。モノから切り離された象徴的な意味は、モノに帰することができない。だからそれは、人間の「精神」やその集合的な有様(「文化」)によって一方的に規定されるものとなる。》

《これに対して、虚構の存在者[FIC]は、他のアクターの絶えざる配慮がなければ持続せず、他のアクターに完全に依存することによって、当のアクターをそれ自身に依存させるものとして指示される。ただし言語や芸術作品などの虚構の存在者は、人間の主観や想像力によって生みだされるのではなく、反対に、それらが存在しなければ人間は主観や想像力をもつことができない。虚構こそが個々人の「内面」を生みだすのだ。近代人は(…)、非人間的な存在者との媒介項同士の関わりあいの成果を「精神」の産物と取り違えてきただけにすぎない。》

《非言語的な諸アクターはそれ自身において発話=分節化しているのであり、だからこそ言語という虚構[FIC]は、それらの分節化の連鎖に屈曲を与え、諸アクターに新たな形象を与えることができる。ラトゥールの議論において、論文や報告書がアクターと呼ばれることはあっても、言語そのものはアクターと呼ばれない理由がここで明らかになる。言語は極めて独立性の低い存在である。話し言葉はちょっとした発声のミスで単なる音声になり、書き言葉はわずかな書き損じによってただの描線になってしまう。言語を言語にしているのは、言語的要素間の関係だけでなく、非言語的な諸アクターの関係性と結びつきである。だから、言語は、特定のアクターとしてではなく、特定の関係性のあり方(存在様態)として捉えられる。》

《一般に私たち人間を人間以外の存在から区別する最大の特徴の一つとされてきた「言語」なるものは、まさに私たちが他の存在者たちとの媒介項同士の関係に内在していることを示すものとなる。》

●まとめ

《指示[REF]はその連鎖の安定性において、再生産[REP]は断絶を乗り越える持続性において、変容[MET]は変化の筋道の産出において、虚構[FIC]は他のアクターとの相互依存の強度において、構築の良し悪しを問う価値基準(適切性条件)を自ら生みだす。前述したように、種々の存在様態は、人間に限定されない諸アクターが特定の仕方で織りなす関係性の効果である。したがって、意味がそうであるように、価値もまた人間の専有物ではない。価値は世界に外在する視点から与えられるのではなく、世界に内在する諸関係の只中において動的に生みだされる。ここからラトゥールは、ノンモダニズムに基づいて「近代的なるもの」を組み直していくために、様々な存在様態を追跡していく。》

(…)パストゥール以前には乳酸発酵素は存在しなかったという主張は、一見すると、「私たち人間が認識できないものはこの世界に存在しない」ことを含意しているように思われる。だが、存在様態論では、人間に無限に先行しているが、十分に分節化されている存在様態として、再生産[REP]、変容[MET]、習慣[HAB]が挙げられている。私たちはそれらの存在様態に正確に対応する知識を獲得したり、それらを取り替えたり、ゼロから生みだすことはできないが、指示[REF]や虚構[FIC]との接続を通じて、そこからエネルギーを得て支枝を伸ばすことはできる。「不可視のもの」は認識できない。だがそれと関係することはできる。》

《種々の存在様態からなるこの世界は、私たち人間に専有されるものではなく、私たちに遠く先行する存在様態と私たちの身近にある存在様態が様々に交わるなかで現に駆動されているのである。》

 

2019-09-24

●引用、メモ。『ブルーノ・ラトゥールの取説』(久保明)、第四章「近代とは何か」より。その二。

●プレモダン・モダン・ノンモダン

《非近代社会の多くは、自然と社会を区別せずに混ぜ合わせているという理由から「前近代的」と呼ばれてきた。例えば、呪術や妖術は、人間の社会的な想像力を喚起するものにすぎない呪文や呪薬をあたかも自然を動かす力であるかのようにみなすものであり、トーテミズムやアニミズムは、自然の存在を擬人化して不当にも人間の社会的関係のなかに位置づけるものだとされる。》

《例えば、ある村に住む人とそれを取り囲む森林の関係を考えてみよう。彼らにとって森には多くの精霊が住んでおり、儀礼や供儀や互酬といった精霊たちとの多様な関係を軸としながら、森林内の動植物へのアクセスも村内の親族関係も方向づけられている。》

《自然の秩序を変更せずに社会の秩序だけを変更するのは不可能だし、その逆も真実である。》

《さて、その村に、母国の強力な支援を受けた近代主義者たちがやってくるとしよう。》

《彼らはまず、森の精霊という「可視化された思考の対象となった怪物」に狙いをつける。それは非合理的な未開人の信念の産物にすぎず、人々が豊かで自由な生活を送る権利を阻害している。だが、そう主張しても、村人は聞く耳を持たない。近代主義者たちが諦めなければ、彼らはキリスト教を布教し学校を建設し、教科書に載ったボイルやホッブズの偉業を解説しながら何世代にもわたる啓蒙を試みるだろう。》

《やがて、村人の中から学校育ちの若いリーダーが現れる。村の前近代的な慣習と精霊の盲信という偶像を破壊するための長年にわたる闘争をへて、彼は最終的な勝利を収める。都市から招いた材木業者を中心として、森林資材の管理体制が築かれ、伐採された木材は鉄道網をたどって世界各地に輸出され、高級木材として人気を博し、村に多大な収入をもたらす。裕福になった村人たちは観光事業に乗りだすかもしれない。森林には小道と観察小屋が作られ、かつて精霊という主を持っていた動植物は双眼鏡やオペラグラス越しに観光客の目を楽しませる観光資源となる。旅行者の中には休暇で訪れた欧米圏の植物学者がいるかもしれない。彼女は森林の珍しい植物に目を付けて、製薬会社と連携した新薬の開発が始まる。かつての貧しい村は、いまや自然に囲まれた理想的な「スローライフ」を体現する滞在型宿泊施設として、各国のライフスタイル誌や旅行サイトで高く評価されるようになった。》

《この極めて非現実的だがどこか見覚えのある近代化のストーリーにおいては、まさに翻訳を否認する純化の実践が翻訳の実践を加速させ、拡大させている。翻訳を一定の範囲に限定する起点となっていた精霊が盲信として退けられることで、村民と森林を起点にして膨大なアクターを野放図に結びつけて変化させることが可能になる。かつては精霊の住処であった木々は都市の材木業者と結びついて高級木材となり、植物の一部が海外の製薬会社と結びついて新薬の成分となり、動植物は小屋と結びついて観察される対象になり、村人の生活は海外のライフスタイル誌と結びついてスローライフの宣伝となる。村はまさに、「人間と非人間を大々的に混合し、何ものをも括弧に入れずにどんな組み合わせも排除しなかったからこそ成功した」のである。》

モダニズムの観点から非近代社会と近代社会を比較すれば、一方に自然と社会の不当な混合があり、他方には両者の正当な峻別があることになる。》

《これに対して、ノンモダニズムの観点から両者を比較すれば、いずれも翻訳の実践を基礎とした人類の営みである。》

(…)テクノロジーも伝統技術も実践においては人間と非人間が関わる翻訳の過程でしかないにも関わらず、(モダニズム)純化された「自然」と「社会」の一方に両者を振り分けようとする(…)むしろ、科学の強力さは、翻訳を否認することで可能になる野放図な翻訳に起因する。(…)私たちは、「自然」と「社会」を峻別し、両者を極限まで遠ざけるからこそ、科学が解明する「自然」という、社会の外側にある領域からやってくる科学技術によって社会が極限まで変化するという期待や恐れを抱くことができるのである。》

 

2019-09-23

●引用、メモ。『ブルーノ・ラトゥールの取説』(久保明)、第四章「近代とは何か」より。その一。

●自然と社会、翻訳と純化

《諸現象を「自然」にも「社会」にも還元しないことを指針としてきたラトゥールの議論は、なぜ両者への還元がなされるのかという論点を必然的に伴う。そして、この論点に関わる議論が「近代とは何か」という問いへの応答を構成する。つまり、近代的な知や制度こそが、世界を「自然」と「社会」に分割し、あらゆる現象を両者に還元することを自明視させてきたとされるのである。しかしながら、還元は「近代なるもの」の反面にすぎない。ラトゥールによれば、近代社会では、「自然と社会」「客体と主体」「非人間と人間」などの対句によって表される二つの領域に属するはずの諸要素を混ぜ合わせる翻訳(ないし媒介)のプロセスを通じて両者のどちらにも還元できない様々なハイブリッドを増殖させてきた。だが同時に、翻訳のプロセスは常に否認され、二つの領域は完全に切り離されたものとして「純化(Purification)されてきたのである。》

《「純化」に慣れ親しみ「翻訳」を否認し続けてきた「近代人」とは私たち自身のことであり、その自明の前提の水面下を捉えることが要求されるのである。》

●『リヴァイアサンと空気ポンプ』(ティーブン・シェイピン、サイモン・シェイファー)から参照された、17世紀のロバート・ボイルとトマス・ホッブズの論争より

(…)ボイルは、体系的な科学実験の有力な実践者であり、実験の基づく新たな自然科学を提唱した実験主義者のなかでも最も重要な人物の一人として登場する。一方のホッブズは、ボイルのもっとも強力な論敵であり、ボイルの主張や解釈を否定しようとしただけでなく、実験によって確実な知識を獲得することはできないという全面的な批判を展開した。》

《当時、水銀が溜まった水槽に逆さまに置いた水銀管の一番上にできる空隙(トリチェリ空間」)の発見が、「真空」の存在を肯定する真空論者とその存在を否定する充満論者(すべての空間には物質が充満していると主張する者)の激しい論争を引き起こしていた。ホッブズは充満論者の側に立って、真空論者を激しく批判した。ボイルは、論争のどちらの側からも慎重に距離をとっており、自分たちはただ空気の重量を計っているだけだと主張しながら、空気ポンプを用いた実験による論争の収束を目論んでいた。》

(…)シェイピンとシェイファーは、論争に関わる当時の諸状況をを極めて詳細に記述することで、そこに現代の私たちが自明視する区別が存在しなかったことを鮮やかに描きだしていく。ホッブズの政治哲学には彼の科学理論(自然哲学)と密接に結びついており、ボイルの科学実験もまた実験を支える共同体の構築を通じた政治的含意を色濃くもっていた。両者の主張は、いずれも存在論や認識論や神学や政治的状況を横断する広範なコンテクストに関わっていたのであり、だからこそ激しい論争が展開されたのである。一七世紀中頃まで、「知識」とは、論理学や幾何学などの論証がもつ絶対的な確実性によって保証されるものであって論証的な確実性を持たない「意見」とは厳密に区別されており、実験に基づく見解は「意見」に分類されていたからである。》

(…)ボイルを含む実験主義者たちは、自然に関する学問が論証によって絶対的な確実性を持つことは不可能であると考えた。自然現象をめぐる仮説は常に暫定的で改訂の余地がある。だが、実験によって得られた事実に基づくことで蓋然性を高めることができる。つまり、彼らは、論証的な確実性の代わりに実践的な確実性によって知識を定義し直そうとしたのである。》

《真空論者は「この世界に真空は存在する」という命題を論証しようとしたのに対して、実験主義者は前述した定義に基づいて「このポンプの内部に真空が存在する」という事実をただ示そうとした。事実は命題を論証するものではない。ボイルらは、真空論者と充満論者の論証における対立を無効化するものとして、実験が生みだす事実を提示しようとしたのである。》

《しかし、この「事実」なるものは当時の知識観において必ずしも確かなものではなかった。実験によって空気がほとんどない状態がつくられたように見えても、それは観察者の不確実な感覚の産物であり、真空の存在を論証できなければ確かな知識とはなりえない。(…)彼らの論争は、ある主張が妥当な知識であるかだけでなく、「妥当な知識とはいかなるものであるか」をめぐって生じている。》

《そこで彼らが依拠したのはが、「目撃」や「証言」といった聖書解釈や刑事法に由来する概念である。法廷において、目撃者の証言は絶対的なものではないが、信頼できる人物による複数の証言が一致すれば、十分な蓋然性を持つとされる。実験によって得られる「事実」は、被告人に判決を下すことを判事に保証するような実践的な確実性、つまり集合的な目撃と証言によって妥当なものになるとボイルは論じた。》

《王立協会を中心にして、裕福で信頼すべき地位にある人々が実験家や目撃者や証言者として実験を取り囲む共同体が作られていく。こうした実験を中心とする共同体の形成は、当時において明らかに政治的な含意をもっていた。》

《実験は常に独断と専制に警戒しながら進められ、いかなる単一の権威も---それはまさにホッブズの政治哲学が確立しようとしたものだが---信念を押しつけることはできない。知識の力は実験が明らかにする厳然たる事実から生じるのであって、特権的な個人や組織に由来するものではない。健全な知識が適切に形成され使用されることは有益な政治的効果をもち、競合する意見の自由な応酬は社会の安定を導く。》

(ホッブズにとって)実験結果に基づいて真空の実在を示唆する主張は、単に哲学的に不適切であるだけではなく政治的にも危険なものであった。ホッブズは『リヴァイアサン(一八五一年)において、「非物体的な実体」という観念を軸とする存在論的発想を、秩序の頽廃と災厄をもたらす自然哲学として厳しく攻撃している。彼の唯物論的一元論において、世界は物質で充満しており、物体でないものは存在しない。》

《非物体的なものについて語るものは、それによって君主や法といった世俗的な権威に従わないことを正当化する。》

《実験が特定の経験を生み出し、それを経験した人によっての確実性をもつことは認められる。だが、彼(ホッブズ)にとって、あらゆる人が納得せざるを得ないような確実性は、幾何学や論理学のような論証的知識にのみ許された特権であった。》

ホッブズはまた、ボイルをはじめとする王立協会の実験主義者たちの主張に反して、彼らの実験室が必ずしも開かれた公的なものではないことを批判する。実験室へのアクセスは事実上制限されたものであり、したがって目撃や証言もまた私的なものでしかなかった。実験主義者たちは人々が目撃する事実こそが確実性を生み出すと言うが、もし実験室を本当に開かれた場所になってしまったら、実験する多様な人々の雑多な経験が報告されるだけであろう。信頼に足らないとされた人々を暗黙裡に排除する実験室共同体の排他性、党派性をホッブズは問題にしたのである。》

ホッブズにとって、絶対的な確実性をもつ論証的な知識は、あらゆる人間を強制させる力をもつ。自分たちの利益を守るためには「リヴァイアサン(国家)服従しなければならないという命題(社会契約説)は、理性を持つ人であれば誰でも受け入れる論証的な知識である。だからこそ、服従を強いる主権者は服従する臣民の正当な代理人たりうる。》

《実験共同体は、論証的な知識の埒外にある「真空」などの非物体的実体を持ちだして、論証的な知識に基づく政体に従わない党派的空間を拡張しようとしている。》

●「自然」の成立

《実験共同体の形成においては、空気ポンプや実験家を起点にして様々なアクターが変化している。一連の翻訳を通じて、「真空」は宇宙論的な思弁の対象から実験室で目撃される対象へと変化し、裕福で信頼できる地位にある人々は刑法や信仰をめぐる証言者から実験的事実の証言者へと変化し、実験を取り巻く人々は事実に基づく共同体によって秩序の問題への解決策を体現する集団へと変化する。そして、実験室の内外でこうした人工的な構築作業(「翻訳」)が行われるほど、「事実」は人間の活動から完全に離脱していく(純化)。「目撃」や「証言」といった法的な語彙で語られていた事実は、のちに自然現象や法則の「発見」という言葉で語られるようになっていく。》

《実験を取り囲む信頼すべき裕福な目撃者たちの役割は、その後、検証実験によって事実を精査する同僚の科学者、科学的実践を支持し莫大な資金援助を行う国家行政、それをあてにして日々を営む一般市民たちによって分散的に担われるようになる。(…)ニュースが伝える最新のテクノロジーに期待を抱き、偉大な科学的発見の解説記事を読み、国家予算を科学的探求につぎ込むことに反対しない私たち自身もまた、科学的実践の間接的な目撃者/証言者なのである。》

《従来の論証的知識観において、宇宙論的な「自然」は人間の理性的な思考と完全に融合すべきものであった。ボイルなどの実験家が携わった異種混交的なネットワークの組み替えによって、人間の外部に存在し実験を通じて目撃(「発見」)され、その精緻な理解を漸進的に獲得しうる「自然」なるものがはじめて想定可能になったのである。》

●「社会」の成立

(…)近代国家は、まさに人々(国民)と主権者(国家)を起点としながら膨大な非人間要素(土地、貨幣、兵器、活版印刷、資源、工場、物流等)のネットワークを大幅に組替えていくことによって発展してきた。同時に、そうした媒介と翻訳の実践こそが、人間の群れとそれを代表する主権者のみによって構成される「国家=社会」への純化を可能にする。ホッブズの議論において、極めて形式的かつ抽象的に構想された「理性によって自ら服従する人々」は、一体どうやって互いに結びつくことができたのか。その主な回路が、社会契約論のような論証的知識だけでなく、土地や財産の所有制度、資本主義市場、書物や新聞の大量生産、鉄道や時計による時空間の標準化などであったことは明らかであろう。》

《しかしながら、こうした異種混交的なネットワークの組替えは、最終的には、人間のみの代理関係からなる近代社会(国民国家)の制御下にあるものとして把握される。媒介の働きは捨象され、モノや技術は仲介項に変換される。食糧問題や核兵器や環境問題など、近代社会は人間以外の存在者との関わりにおいて多くの問題を抱えてきた。だが、本当の問題は人間以外の存在者ではない。それは常にそれらを制御し選択している社会の側、私たち自身の問題なのだ。そう言いながら、私たちは日々せっせと自らを無数の非人間的媒介項と接続し続けている。》

●自然と社会の分化と「神」の位置づけ

《ボイルは敬虔な信仰者であったが、自らの宗教的著作を実験室と強く関係づけることはなかった。彼の弟子たちは、神の存在を想起させるあらゆる要素を「自然」から払拭する。その行き着く先は、精妙な自然法則に神の摂理を感じた経験を(論文では一切言及せずに)インタビュー等で言葉少なに語る偉大な物理学者たちの姿であろう。》

ホッブズは市民契約を導く論証的知識を神が人間に与えた唯一の学問だとみなす一方で、霊的世界を語る聖職者たちを批判した。彼の弟子たちは、「社会」の起源の神の関与を一掃する。その行き着く先は、「聖なるもの」を社会の統合に寄与する集合表象や象徴体系として把握することによって、宗教的次元を社会的なものに還元する社会学者たちの姿であろう。》

(…)ボイルとホッブズの論争から一世紀後に展開されたカントの理性批判において、神の実在は私たち人間が原理的に認識できない「もの自体」へと変換される。同時に、外側から世界を捉える権能が、創造主としての神から人間理性(超越論的主観性)へと部分的に委譲される。》

《科学が解明する「自然」が人間の活動とは無関係に存在することは、神の代わりに「人間なるもの」を据えた近代という神学の侵すべからざる基盤であり、私たちにとってそれが覆される可能性を考えるだけでも嫌悪をもよおしてしまう暗黙の前提なのである。》

 

2019-09-22

16日の樫村さんのトークでちらっとタイトルが挙げられていたシュワルツェネッガーの『プレデター(1987)U-NEXTで観た。なるほど。

非人間的な存在との生存を賭けた激しい争いの果てで発せられる、「おまえは誰だ」という問いに対し、非人間の側からもまた「おまえは誰だ」という問いが返ってくる。「~とは何か」と問いを発せざるを得ない存在としてある自分の「存在」が、向こう側から戻ってくる問いによって---ある意味鏡像的に---照射され、それによって「問い」そのもの(問い-答えという機構)が無化され、「問うている自分のありよう=存在」が露呈してしまうような、なんとも言えない不快な感触が生じる。存在論的ないやーな感じ。舞台が(感覚入力が過剰な)ジャングルであるというところにも、来るものがある。

楳図かずおの「半魚人」のラストで、完全に半魚人になって海へと去っていく友人が、主人公が吹くハーモニカの音に一瞬だけ振り向いてこちらを見る。この仕草から、友人に最後まで残っていた一片の人間性を読み取ることもできるが、そうではなく、非人間的なもののまなざしによって「見られる」ことによって、見られた側の人間性の根拠の方が揺らがされてしまうという風に読むこともできる。そのとき、半魚人のおぞましい非人間性が、人間という存在の怪異の方に転移される。この感触に近いものが『プレデター』からも感じられた。

(ここで問題になっているのは半魚人への変身でもあり、半魚人は非人間化した未来の人間の姿でもある。)

「~とは何か」と問いかけることそのものが「存在の露呈」にヴェールをかける一つの防衛の身振りであるとして、人間的な行為としての(答=真理が期待された)「問い」が、誰にも受け取られることなく、その問いの先にある非人間的な存在からただ折り返されることで、「問い(とその答え)」という機構が崩れ、「~とは何か」と問うている何か(問いの発生源)としての「この、これ(わたし)」のありようの異様さが焦点化し、それが不快感として浮かび上がる。

プレデター』の場合、「問い」の向かう先にある非人間的な存在が、最初は、透明でありながら背景から微妙にズレていて、明快には掴めないがまったく見えないわけではない何かという形であらわれる(半端な光学迷彩みたいな感じ)。まったく見えないわけではないが、ジャングルそのものと中途半端に一体化している。それによりまず、「見えるもの=真理」という「防衛としての見ること」が微妙に揺るがされる。

だがその非人間的な何かは、ジャングルに遍在する(ジャングルそのものの魂であるような)精霊のようなものではなく、異物であり、最後には、醜く、おぞましい、異形のエイリアンの個体として姿をあらわす(逆に       シュワルツェネッガーの方が---泥を被ることで---エイリアンに対して「見えない者」となり、その意味で両者は対称的でもある)。「おまえは誰だ」という問いに対して「おまえは誰だ」と問いを返してくるのは、異形の者として既に視覚化されたエイリアンである。だからここで、エイリアンの異形が人間の「存在」の異様さの鏡像となっているとも言える。「存在」の感触を露呈させるのは、対象の中途半端な不可視性であるより、非人間的なものによる「問い」の折り返し(「問い-答え」という機構の無効化)の方であろう。

シュワルツェネッガーとエイリアンは、ある意味では鏡像的ではあるが、たとえば『ソウル・ハンターズ』でレーン・ウィラースレフが描く、ユカギールのハンターとエルクの間に成り立つような、ミメーシスを媒介とした誘惑的な関係は生じない。エイリアンは徹底して非人間的な異物であることによって、人間の存在の異様さを照らし出す。

〔追記。たとえば、私たちが宇宙を見上げ、この宇宙に私たち人類が存在しなかった可能性について考える時、それについて認識する者がなく、それでも存在する宇宙は充分にあり得るが、しかし、その時の「宇宙」とは一体「何であるのか」という「問い」を発せずにはいられないとする。しかしこの「問い」には答えようがなく、そもそもどのような認識を得られればそれが「答え」として成立するのかさえ分からない。故に人は、宇宙に向けられた、というか、宇宙から強いられた「問い」が、決して「答え」には向かわず、そのような問いを問わずには居られない自分自身の方へ戻ってきて、答えに向かうあてのない無意味な問いを、それでも「問わざるを得ない何か」としての「自分の存在」の異様さを意識せざるを得なくなる。この時、宇宙のとりとめのなさは、わたしという存在の無根拠さ(異様さ)という感情が形作られるための源泉となり、その意味で宇宙と私とはある程度鏡像的であるが、その鏡像的関係には同格性はなく、圧倒的に非対称であり、ミメーシスを媒介にするものではあり得ないだろう。〕

(いや、実はエイリアンも多少人間的であり、そこが弱いと言えば弱いと思うのだが。)

(なんとか生き残ることができて、ヘリコプターで運ばれている時のシュワルツェネッガーの忘我の顔こそが、おぞましいものとして造形されたエイリアンよりも、存在論的なおぞましさをもつ。)