2019-12-24

CY8ER、メジャーデビューなのか。

CY8ER - 恋愛リアリティー症 (feat.中田ヤスタカ) Music Video

https://www.youtube.com/watch?v=2H-Y-59mViM

苺りなはむ---来年でアイドルとしてのキャリアが十年になる---が、(たとえば「豪の部屋」とかで)BiS脱退からCY8ERメジャーデビューまでの道のりをじっくり語るのとかを聞いてみたい。イメージの作り込みが重要で、あまり「素」(苦労話みたいなもの)を出したくない人なのかもしれないけど。

(CY8ERは、そのイメージの作り込みだけでなく、代表の苺りなはむや他のメンバーの来歴、グループの歴史まで含めて面白い。)

苺りなはむ(Wikipedia)より

《BiSの初期メンバー(「ヨコヤマリナ」名義)、アキシブprojectの発起人・代表兼メンバー(「横山 利奈」名義)。ソロ活動では主に愛称の「りなはむ」を使用していたが、2014年9月頃から現在の「苺りなはむ」名義で活動。2015年にセルフプロデュースユニットであるBPM15Q(現CY8ER)を結成。》

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%BA%E3%82%8A%E3%81%AA%E3%81%AF%E3%82%80

CY8ERWikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/CY8ER

BiS nerve PV バレットタイム Bullet Time(2011年)

https://www.youtube.com/watch?v=GgWt7j9vW7s

りなはむ/アキシブproject発足宣言(2012年)

https://www.youtube.com/watch?v=FVCUUp2QEio

【MV】BPM15Q『はくちゅーむ』(2016年)

https://www.youtube.com/watch?v=1criFbeN9PA

CY8ER - サマー (Official Music Video) (2019年)

https://www.youtube.com/watch?v=XC3N46u8Eeo

 

2019-12-23

●引用、メモ。「対象エピソードの主体」と「メタエピソードの主体」と「メタエピソードを想起する主体」の一致と不一致について(空間と因果)。

「なぜ「私」は、同一の「私」でいられるのだろう?」(青山拓央)講談社現代新書より

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69136

エピソード記憶の重要な特性は、いつ、どこで、なにをしたかに関わっていることだとよく言われるが、ここで主語(「だれ」)が省かれているのはなぜか。エピソード記憶の対象は、通常、その記憶の所有者自身が経験したエピソードであり、それゆえ、主語である「私」をいちいち明示する必要はない》

《だが、そこで言う「私」とは、あるエピソードを認識した主体としての「私」であって、そのエピソードにおける中心的な行為の主体では必ずしもない。

たとえば私は、十数年前、奥田民生さんのコンサートに井上陽水さんが乱入して、『荒城の月』を独唱し、すぐ去って行ったのを覚えているが、このエピソードの中心的な行為の主体は陽水氏である。

他方、私がその乱入を目にしたことに焦点を当てるなら、その主体は私であるが、こちらは、あるエピソードを認識した者としての主体だ。》

《「メタ」という表現を使用して、同じことをこう言い換えてみよう。〈陽水氏の乱入〉というあのエピソードの主体は陽水氏であるが、私がそれを見たというメタエピソードの主体は私である、と。以下の議論では、メタエピソードの参照先であるエピソードを(いまの例では〈陽水氏の乱入〉を)「対象エピソード」と呼ぶことにする。》

《メタエピソードの主体はつねに、エピソード記憶の所有者である「私」だが、先述の通り、対象エピソードの主体がその「私」であるとは限らない。》

《これらのエピソードを思い出す際に私は、メタエピソードの主体である私が、それを想起している私と、同一の主体であることも認識している》。

《当たり前のようで、これは不思議なことである。対象エピソードの主体(…)と異なり、メタエピソードの主体(私)は、その特性が──たとえば日本人の男性であることが──エピソードの内容に普通は反映されていない。事件現場を撮影しているビデオカメラが、普通はそのカメラ自身を撮影してはいないように。》

《現状、あるエピソード記憶の想起は、そのエピソードを「記録」した(認識して覚えた)脳自身によってしかなされない。》

エピソード記憶の大半(定義によっては、そのすべて)において、対象エピソードの主体、メタエピソードの主体、そしてそれらを想起する主体は、いずれも同一の「私」である。》

《それは、ヒトの身体が因果関係の結節点だからであり、身体のこのような在り方は論理的には偶然である。》

《それゆえ、その空間領域は、ある人物がもつさまざまな機能の因果的な結節点となっており、むしろ、そうした結節点であることが、その空間領域をある一個人の領域とする。》

《SF的でない普段の世界にて、「私」がやっていることを「私」がしばしば認識しているのは、前者の「私」と後者の「私」がたまたま近くにいるからだ(たとえば手と目が近くに在るために)。もちろん、ここで言う「たまたま」とは論理的な意味合いのものである。》

《もし、ある脳(の一部)で記録したエピソードが──クラウドと電子端末との関係のように──他の場所に在る複数の脳(の一部)で思い出せるようになったなら、その一致は保証されない。》

《このとき、ある人物を一個人たらしめているのは、空間領域のまとまりではなく、因果関係のまとまりだ。世界中に散在する諸物が1人の「私」を構成するのは、因果的な1つのネットワークによる。》

《空間領域のまとまりの消失は、エピソード記憶の土台を揺り動かす。言い換えるなら、因果関係のまとまりのみによって「私」が構成されるとき、エピソード記憶の概念は大きく変質するに違いない。》

2019-12-22

●「正しい」という判断にも、複数の異なる地盤があり得る。倫理として正しい、真理として正しい、美的に正しい、と。これらはそれぞれ別のことがらであり、それぞれ食い違う。真、善、美は、互いに相容れない部分をもつ。

倫理としては正しくないが、真理としては正しい、真理としては正しくないが、美的には正しい、美的には正しくないが、倫理的に正しい、倫理として正しくないが、美的には正しい、美的には正しくないが、真理として正しい…、などということがあり得る。

故に、「正しさ」もまた、絶対的な判断基準ではあり得ない。「正しい」からといって、正しいとは限らない。

2019-12-21

●RYOZAN PARK巣鴨保坂和志の小説的思考塾vol.7(以下は、ぼくの主観や解釈が---おそらく勘違いなども---入っていて、正確なレポートではないです)。

今回は、いくつかの実例が示されながら、けっこう実践的なことが語られた。たとえば、村上春樹の「ウィズ・ザ・ビートルズ」(「文學界」八月号)という小説の一部が引用され(僕はこれを読んでいないが)、その細部が批判的に検討される。1964年に高校生だった語り手の《僕》は、学校の廊下で「ウィズ・ザ・ビートルズ」というLPレコードを《大事そうに胸に抱えてい》る《彼女》とすれ違う。そして《僕》の記憶ではそのレコードは、日本国内盤でも米国盤でもなく、英国のオリジナル盤であることが《はっきりしている》、と書かれる。

しかし、まず第一に、1964年当時、日本ではロックは一般的にシングルレコードによって受容されていて、アルバムとして聴かれるのは一般的でなかった。さらに、現在と違って「輸入盤」が普通に出回っているような環境ではなかった。湯浅学によれば、その頃、「ウィズ・ザ・ビートルズ」のオリジナル盤など、日本には十枚もなかったのではないか、と。だから、普通の高校生であるはずの《彼女》が、学校の廊下で「ウィズ・ザ・ビートルズ」を大事そうに胸に抱えている---そしてそれをそれとして《僕》がすぐに理解する---というシチュエーションはちょっとありえないだろう、と。

(若い作家が知らないで書いてしまうならともかく、村上春樹はこの時代に生きているのだから、知っているはずなのだと思うのだが。)

つまり村上春樹の小説において、1964年という時代も、「ウィズ・ザ・ビートルズ」というアルバムも、ビートルズの存在も、薄っぺらなイメージであり、小説を組み立てるために使える「都合のよい駒」でしかなく、それ自体として尊重されていない、と。ほかにもこの小説には、精神疾患にかんして、「今の情報を当時の人が知っていたかのように」書いてしまっている部分がある。当時の人が、「現代の人がもつ感覚による言動」を示してしまっている、と(当時は今よりもっと深刻なタブーであり、故に差別や偏見も根深く、大きかったはず)。

小説にとって、時代背景も、風景も、人物も、作者にとっての「都合のよい駒」であってはならず、それ自体として自律した厚みをもっていなければならないはずだ、と。そのような「それ自体として自律した厚み」は、小説を書くときの助けにもなる(細部が豊かになり、リアリティが増す)が、都合よく操作できない異物でもありえる。それが重要だ、と。

村上春樹だけでなく、ほかにも、日本の現代作品や作家が個別にとりあげられ、引用され、具体的に批判的に言及された。小説では「説明」をせざるを得ない場面もでてくるが、その説明自体が面白くないと、小説は面白くなくなる。「恐ろしいことに芥川賞作家になってしまっているけど、この人はいつまでたっても下手で説明ばかりする…」。

●それらの「悪い例」に対して「良い例」として挙げられていたのが千葉雅也「デッドライン」だった。

物事が説明なしにいきなり描かれる(説明がなくても事後的にかなりの程度、理解できる)、説明せざるを得ないところでも説明がおもしろく書かれる、人物がたくさん出てくる(人物の出入りが激しい)がそれぞれ厚みがある、一人称からの視点の逸脱や、過去形と現在形が入り交じるなど、いわゆる「小説の規範」(規範は書き手にとっての「壁」である)から逸脱が随所にみられ、融通無碍に書かれているが、「規範からの逸脱」それ自体が自己目的化されているわけでもない。《家賃はけっこうしそうだった》と書かれるが、小説ではなかなか《けっこうしそうだった》とは書けない。

ハンドアウトのペーバーには、検討されるいくつかの小説の引用が載っている。それらはスマホによって書き写されたのだが、つまらない説明をする小説は、文が、スマホが「予測」する通りの展開をみせるので書き写すのが楽だったが、「デッドライン」の文章は、スマホの予測とはまったく違う展開なので、書き写すのが大変だった、と。そのようなレベルでも、「デッドライン」の文では紋切り型ではないモンタージュがなされていることがわかる、と。

●小説では、(作家自身より)頭のいい人の「頭の良さ」は書けない。「デッドライン」には徳永先生という「頭の良い人」が出てきて、「頭の良い人」を書くことに成功しているようにみえるが、これは、徳永先生の「頭の良さ」が書かれているというよりも、徳永先生という「変な人」のおもしろさが書かれている、とみるべきではないか、と。

●小説を書く上において、登場人物は多い方がよい(出しっぱなしで、そのまま二度と登場しなくてもよい)し、人物は実際の知り合いをモデルとする方がよい。それによって、ちょっとした一言でも厚みやリアリティがでる。人物は悪く書かない(よく書く方がより頭を使う)。そして、人物は時間の経過によって変化する(印象が変わる)ということを意識する、と。

●あと、第一作には自分がもっているすべてをそそぎ込むこと。出し惜しみをしてはならないし、納得できないものは何度でも捨てて書き直す覚悟が必要だ、と。すべてをそそぎ込んだ第一作目がなければ、その次はない、と。

2019-12-19

ヴェンダースアメリカの友人』をU-NEXTで観る。昨日につづいて、映画を観られなくなってしまったことへのリハビリのとして。これもすんなり最後まで観られた。

(ここ数年、ずっと観返したいと思っていたのだがソフトがみつからず、最近、U-NEXTのラインナップに加わったのだった。)

アメリカの友人』を前に観たのは、ずいぶん昔だ。おそらく、偽日記をはじめるよりも前だったはず。

(ロードムービー三部作や『パリ・テキサス』などは、何度か観返す機会があったが、『アメリカの友人』はなかなか観られなかった。)

ヴェンダースという名前、および『アメリカの友人』という映画の存在を知ったのは『シネマの記憶装置』によってで、読んだのは八十年代はじめ頃だと思う(確か「スピルバーグなら聡明に避けるような罠に、いちいち自らひっかかりにいっているような映画」というような「褒め方」がされていたと記憶している)。そして、『アメリカの友人』がはじめてのヴェンダースで、観たのは八十年代中頃のいつか。高校生だったか、浪人していた頃だったか。

なにより、風景というか、街の空気(ハンブルク・部屋から見下ろされる港・かもめ・夜・寒さ)のヴィヴィッドな描写が新鮮だったという印象が残っている(ロビー・ミューラーというカメラマンの名前はすぐに憶えた)。そして、ブルーノ・ガンツの、いかにも「病に蝕まれているおっさん」という存在感(顔色の悪さ)と、デニス・ホッパー疲労が凝固したような存在感。

最初にこの映画を観た時は、物語を追えなかった。というか、追う気が起きなかった。ただ場面場面を、人のたたずまいを、風景を、空気感や光の移り変わりを追っているだけで充分に魅了された。そういう風に観る映画だと、映画自身が言っているように思えた。これがヴェンダースなのか、と思った。

(物語が分かっても、特にサスペンスとして観る必要もないし、そうなっていないところがいいのだ、と。)

(ニコラス・レイサミュエル・フラーのような大御所だけでなく、ヴェンダースと世代の近いダニエル・シュミットジャン・ユスターシュなど、映画監督がたくさん出演していて自主映画みたいな素人っぽい「内輪ノリ」感も新鮮だった。)

(とはいえ、『ベルリン・天使の詩』以降のヴェンダースをみると、ヴェンダースの映画においてぼくが好きだと思っていたものの多くは撮影のロビー・ミューラーに由来していたのではないかとも思えてくるのだが。)

2019-12-18

ブレッソンの『ラルジャン』をDVDで観た(日記を検索したら、前に観たのは2002年だった)。最近、映画やドラマを観られない(何を観ても、観はじめて30分くらいで興味が途切れてしまう)のだが、これは最後まですんなりいけた。

アニメを観ても、最近では興味が持続しない。特に、事件があってから京アニの作品を---あまりに辛くて---まったく観られなくなってしまっていて、そのため、アニメからいっそう遠ざかる感じになってしまった。

(事件の後、ある新聞社から京アニについてのコメントを求められたのだけど、「すいません、何も言えません」としか答えられなかったし、今でもまだ何も言えない。ただ、ようやく、「京アニ」という文字を書き、「京アニについては何も言えない」「京アニの作品を観られない」ということをこの日記に書くことは、出来るようになった。)