2020-01-07

●下の動画で語られていること、すごく面白い。というか衝撃的だった。この発想はなくて、虚を突かれた感覚。

ゆっきゅんと絵恋ちゃんのやってこれなんです 第17回「日本が12月のときトルコは何月?」(YouTube)

https://www.youtube.com/watch?v=vrVkRBpZJok

(1:35くらいから)

「人生が変わったね、それ知ってから」

「転機だったんですね」

「日本が12月のときに、トルコも12月なんだって」

「……、ん」

「日本が12月のとき、他の国、何月だと思う」

「なに言ってんすか」

「バラバラだと思うじゃん、国ごとに」

「………」

「だって時差とかあるじゃん」

「時差はあるけど……、えええええ、じゃ、日本が12月のとき、トルコは7月とか、そういうのが、いろんな国にバラバラに…」

「バラバラにあって、しかもなに、12ヶ月とは決まってないと思ってたの、一年に…」

「そんな自由じゃないですよ……、意外と」

「けっこう、きっちりしてるんだ」

「そう、けっこうきっちりしてる」

「世界、すごいきっちりしてて、びっくりして…」

「え、でも、たしかにそれなんか、もし、自分が決めてよかったら、絶対決めますもんね、自分で」

「うん、そうだよ」

「不自由なんですよね」

「世界が?」

「世界が」

「元バイト先の先輩に会ったときに、今度、12月にトルコに旅行に行くんだ、ていう話をね、何ヶ月も前にしてて、で、へーっ、トルコはそのとき何月なんですかねえって言ったら…」

「(笑)」

「今の、ゆっきゅんの反応みたいになって…、えっ、て、えっ、」

「何言ってんの…、て」

「何言ってんの、てなって、トルコも12月だよって、えーっ、て」

「えーっ、て」

「え、え、てことは、てことは、他の国は?、…全部12月だよ。えーっ。え、え、12月だけ?、12月だけ?、…12月だけじゃない、まいつきー!、……っていうすごい衝撃があったんですよ」

(…)

「思ってたより世界ってつまんない」

(…)

「海外旅行行っても12月ってことだもんね」

「普通じゃん、それって、…新しい世界みたいのない」

「ないんだ、新しい世界なんてないんだっ…、ていう絶望だったんだ」

「悲しかった、悲しかった、すごい」

「もっとこう、意味がわかんない、バラバラの時間がひろがっていると信じたかったのに…」

●おそらく、絵恋ちゃんの元々もっていた感覚の方が、人にとって自然なものであるように思われる。しかし人はどこかの段階で、《世界、すごいきっちりしてて、びっくりして…》という衝撃と失望を味わい、そちらの方に自分を慣れさせる。しかし、世界の時空のありようは本当にそんなに《きっちり》しているのか。《きっちり》している世界の方が怪しくないだろうか。ここで語られる絵恋ちゃん的な視点で世界を見ること(構成し直すこと)は、とても重要な芸術の問題だと思った。

2020-01-06

●お知らせ。「文學界」二月号から一年間、「新人小説月評」を担当することになりました。

https://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/

その月に出た文芸誌に掲載されるすべての「新人」の小説を読み、(基本的に)すべてについてレビューする、というコーナーです。なお、ここで(「文學界」によって設定された)「新人」の定義とは、「未だ芥川賞を受賞していない作家」であって、デビューして何年以内、というような基準ではありません。

(たとえば「群像」の一月号には、飛浩隆の短篇が掲載されていました。81年にデビューしたベテランであり、日本SF大賞星雲賞日本短篇部門・長編部門などを受賞されていて、既に高い評価のある重要な作家ですが、ここではあくまで「新人」として扱われます。)

●この話を打診された時には、「これは自分のやるべき仕事だろうか」ととても悩みました。

おそらく、雑誌「文學界」のなかで最も地味で目立たないページであり、読む人も最も少ないページではないか。その反面、未だその資質の方向も定かではなく、言及されることも多くはないと思われる「新人」の小説から、できる限りのポテンシャルを聴き取ろうと努力し、そこに何かしらの形としての評価やコメントを返さなければならないという仕事は、責任が重く(よって気も重く)、かつ、単純に作業としてかなり多くの時間や労力がとられてしまう。

人には誰でも能力の限定があり、その人に固有の守備範囲のようなものがあって、その外に転がった球については適切に受け止めることが難しい。ぼくがある作品を退屈で弛緩していると感じたとしても、それが本当に弛緩しているのか、その作品のもつポテンシャルを自分が上手く受け止められていない(知識が足りていない・チューニングをあわせられていない)だけなのか、分からない。だから通常は、ピンとこない作品については語らないし、少なくとも何かしらの思考過程を示したり、保留をつけたりすることなく、断定的に否定的な評価を下すということはしない。

しかし「新人小説月評」という枠のなかでは、来た球すべてを拾いにいかなければならないし、そして全ての球に対して何かしらの形で返球することが強いられる(しかも、それにかけられる時間、紙面=文字数は極めて限られている)。だから、そのようなことをできるだけ避けるように努力は当然するが、それでも「不十分な読みによる粗雑な断定」のようなことを「ゼロ」にすることは---限定された能力しかもたないので---不可能だろう(そして、そのような不当な扱いをされた作家は、そのことをずっと忘れないだろう)。

 (そのために「新人小説月評」の評者は二人いるのだが。)

しかも、一年間やったとして、その集積がひとつのまとまった仕事となるわけではない(連載が一本の長編評論になる、というようなことにはならない)。

こうみてくると、割に合わない仕事で、受けることにあまり「得」はないように思われる。しかし、一つは、ぼくは自分の「守備範囲」が極めて狭いと感じており、一種の「千本ノック」を受けるような気持ちで、多少でも柔軟性を鍛えたいという思いがあり、また、こういう機会に強制的に読まされるのでなければ読まないような小説のなかから、重要な(未知である)何かを見つけ出すこともあり得るのではないかという期待がある。未だ、形も評価も定まっていない掴みがたい何ものかに直に触れる機会をもつということは、非常に重要なことだと考える。そして、そこから、ぼくだからこそ触れ得る何かを(一作でも)つかみ出すことが出来たとしたら、自分がやる意味となるかもしれない(そして、それは結果として自分自身を変えることにもなるはず)。

もう一つは、身も蓋もないはなしだが、一年の間、定期的な収入が保証されるということは小さくないことだ、というところもある(お金は常にないので)。

2020-01-05

●先週、見逃してしまった「日曜美術館」の岡﨑乾二郎の回の再放送を観た。ここで岡﨑乾二郎もぱくきょんみも、一貫して「芸術」という言葉を使っていたことに感銘を受けた。

ペインティングの作品をつくっているところが、ちらっと映し出されていた。それを観て思ったのは、あの(アクリルメディウムを駆使してつくられる)絵の具の塊は、筆触(タッチ・ストローク)なのではなく、それぞれのひと塊が、それぞれに自律した塑像なのだな、ということだった。筆触にみえる一つの塊は塑像されたものであり、その一つ一つ内に、それぞれに異なる、折り返しや折りたたみや捻りによって構成された固有の空間構造を含んでいる。いわば、一つ一つの筆触(に見えるもの)が、それぞれ「あかさかみつけ」だったり「うぐいすだに」だったりするのだと思う。

(レリーフ作品よりも、浅い奥行きに圧縮されてはいるが、空間構造的には同等の複雑さをもつ。)

だから、同一の「形」が、異なる色彩、異なる位置、異なる関係性において反復されている、というより、ある「空間構造」が、画布のなかで、異なる色彩、異なる位置、異なる関係において反復されているのだと言えるのではないか。

ここで言う「空間構造」とは、塑像された絵の具の塊の、折り返し、折りたたみ、捻れ、によって構成されるリテラルな---彫刻的な---空間構造であって、絵画作品において、色彩や形態の関係性によってたちあがる、イリュージョンとしての空間構造、あるいは、一層目、二層目、三層目、といった絵の具の層的構造、とはまた別の次元にあるものだ。

つまり、岡﨑乾二郎のペインティングにおいては、彫刻的・塑像的にリテラルに構成された空間構造と、絵画的、イリュージョン的に構成された空間構造とが、相互作用しつつ、同居していると考えることが出来る。色彩をもつ彫刻によって構成された絵画。絵画を構成する一つ一つのピースとしての筆触(にみえるもの)の自律性の高さは、その形態や色彩としてのキャラクターによってだけではなく、塑像的空間構造のキャラクターにも由来している。

作品を構成する一つ一つのピース---筆触(に見えるもの)---が既に、それ自体として魅力的な形態的キャラクターをもっているだけでなく、作品全体に匹敵するかのような、複雑な空間的構造をもっていること。そのようなフラクタル性が成立している、のではないか。

塑像的な空間構造の集積-関係によって絵画空間がたちあがり、絵画空間-関係の中から個々の塑像的な空間構造が浮かび上がってくる。このような、異なる空間構造の間で起こる相互貫入的な「空間のたちあがり」の循環は、全体と細部との間で生じる拮抗というよりも、ある細部と別の細部との関係を観ている時にも、その過程で頻繁にみられるはずだ。

岡﨑乾二郎のペインティングを目の前にしている時に感じる、目眩のような、圧倒的なとりとめのなさ、あるいは、非常に魅力的なのだが、その魅力の在処をどこに着地させればいいのか分からないもどかしさ、解決されないもやもやとふわふわ。これらを生じさせる原因のひとつに、上記のような構造があるのではないか、と、テレビを観ながら思った。

2020-01-04

●名前は聞いていたが今まで聴いてなかった(あまりにもアイドルっぽすぎる感じなのでちょっと敬遠していた)のだが、ukka(元・桜エビ~ず)、よかった。

(キャッチーなメロディーをもつロックテイストのバンドサウンド---この記述がぼくのイメージするものの表現として適切かどうかの自信がないのだが---に対して割と苦手意識があるのだけど、間にアイドルという媒介を挟むとすんなりと受け入れられるのはなぜだろうか。)

ONIGAWARA × 桜エビ〜ず「それは月曜日の9時のように」 @ 新宿LOFT -New Album「octave」(8/21 release)-

https://www.youtube.com/watch?v=9jRnj6Q-4Vs

桜エビ〜ず「リンドバーグ」MV -New Album「octave」(8/21 release)-

https://www.youtube.com/watch?v=a8h_vOIaRWo

桜エビ〜ず「さいしょのさいしょ」@ 新宿LOFT -New Album「octave」(8/21 release)-

https://www.youtube.com/watch?v=qXhQEDSHJg0

桜エビ〜ず「214」MV -New Album「octave」(8/21 release)-

https://www.youtube.com/watch?v=p4gu1nWjBKI

E TICKET PRODUCTION - Right Now feat.水春(桜エビ~ず) ミュージックビデオ

https://www.youtube.com/watch?v=BDfjALfnbpM

2020-01-03

●自分が好きに決まっている映画を改めて観ることで、映画を観られるようになろうとするリハビリ中。『残菊物語(デジタル修復版)』(溝口健二)をU-NEXTで(DVDを持っているけど、配信で観られるならそっちの方が面倒でない)。

素晴らしいに決まっているが、素晴らしい。古くさい新派風の物語(歌舞伎俳優の話だが)が、映画というメディウムと出会うことでまったく新しい別物へと変質する。新派的な物語、新派の俳優、歌舞伎の舞台、それらのものを素材とすることで、映画が自分自身の潜在性を顕在化させる。その、変換する作用(あるいは、変換させる力)そのものをみているようだ。戦前の映画だが、その「変換作用」そのものの在りようは古くは感じられない。

2020-01-02

●芸術が社会に向かうこと、芸術が社会の一部であると認めることを、「芸術が社会に向かって閉じられる(あるいは、芸術が社会に閉じ込められる)」ことだと、ぼくは考える。そうではなく、芸術が社会に対して閉じられることによって、なにかよくわからない別のもの(あらかじめ名指すことの出来ない、未知とも既知ともつかぬなにものか)へと開かれる可能性が生じる、と考える。

(当然だが、社会的なことを否定しているのではない。それには還元されない別の次元---反社会的ではなく、非社会的な領域---があり、芸術はそこにかかわる、ということを言っているだけ。)