2019-12-31

●引用、メモ。佐藤雄一「リズモロジーの方へ3---セザンヌリズム 中」(「ART TRACE PRESS 3」)より。ここで言われる「準個物性」という概念は、セザンヌの作品に深く切り込んでおり、セザンヌについて考える時に非常に重要な示唆を与えてくれるものだと思った。

《(…)とりわけ晩年のセザンヌに顕著であるように、イリュージョニスティックに現実のミメーシスを描くというより、筆触や色彩そのものの自律性を重視するがゆえに、細部では個物が溶解します。したがってセザンヌの画面の中では、現実にある個物がある程度折り重なって、結果ある程度大きいひとまとまりの弁別可能な個物が存在します。したがって個物の数は少数となり、ドメインの数を極端に増やすことは不可能です。つまり、ドメインの数え方は可変であるものの、それによって変わるドメインの数はある程度せまい範囲にしぼられてきます。数え上げることが可能であるという意味で個物性が保存され、しかも一つの画面内で、その個物の数が極端に増えたり、一つもしくは無になることはありません。セザンヌ絵画のこの性質をこの稿では「準個物性」と呼びます。》

《(1)セザンヌが最晩年まで輪郭をある程度重視し、絵画のなかで現実風景の「大まかな弁別性」を保存する意図がみえること。(2)輪郭よりも筆触や色彩の自律性とそれにねざした絵画の全体論的な構成が優先される場合(パッサージュ)も、「準個物性」が存在すること。》

●また、下に書かれるような「(「作品」を扱う)テキストのあり方」についての記述にも強い共感をもつ。

《(…)この稿ではレイコフらの認知言語学における「暗喩」の定義を前提にします。しかし、認知言語学の「方法」を用いることはしません。つまり統計やプログラミング手法を用いてセザンヌの作品を実証的に、あるいは実証を装って、裁断することはしません。また美術史的知見を最大限尊重しますが、基本的にはそこからも逸脱したものとなります。本稿は、両者をふまえつつも、科学的実証からも美術史的なコンテクストからも逸脱した一つの「暗喩」となることを目指します。つまりこれを読むほかならぬあなたの身体的認知を更新できるか、その一点にのみ賭けるということです。》

2019-12-30

●絶対に自分が好きに決まっている改めて映画を観ることで、映画を観られるようになろうとするリハビリ中。

『ring my bell』(鎮西尚一)をDVDで。自分が絶対好きだと分かっているものを選んで観ているので当然といえば当然なのだが、すばらしかった。

(『スリップ』---DVDソフトのタイトルは『み・だ・ら』---や『ring my bell』を、もっと多くの人が観られるようにするには、どうすればいいのだろうか。)

●下のリンクは、最初に『ring my bell』を観た時の感想。そこには、《終盤の残り二十五分くらいで、ここまで来て、三角関係の軋轢みたいのとか、ドラマっぽいことをはじめちゃう必要があっただろうか》と書いてあるが、今回観て思ったのは、その部分があるからこそ、青春映画として素直に観ることも出来る作品になっているのだと思った。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20110528

●そしてまたすぐ借りてきて、繰り返し観たのだった。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20110530

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20110531

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20110601

(ぼくはアンチベストテン主義者---「ベストテン」という形式で作品を評価することに対して否定的---なのだが、過去に2011年の一度だけ「映画芸術」の年間ベストテンに参加したことがあり、その時に、アンチベストテン主義者として、三本のベストワンを選ぶということをやった。十本という決められた数の作品を順番に配置して示すという行為は、作品に対する評価というより、たんに評者が「自分のポジション」を示そうとするマウンティングとしか思えない---しかも、あらためて決められたフォームのなかでのマウンティングだとしか思えない---から。だから、最も良かったと思う作品が(たまたま)三本あった、という形にした。一位が三本、以上…、と。だけど、それはやってはいけないことだったようで---自分でも、そんな半端なことをするなら参加すべきではなかったと後から反省したのだが---その後一度も「映画芸術」からベストテン参加の要請はない。)

(その時に選んだ三本のベストワンは、鎮西尚一『ring my bell』、堀禎一魔法少女を忘れない』、いまおかしんじ『若きロッテちゃんの悩み』。)

●鎮西さんの映画は、現状、アクセスするのがとても難しくなってしまっている。Amazonでも『ring my bell』のDVDは品切れになっている。ただ、FANZAの成人作品として、『女課長の生下着 あなたを絞りたい』、『ザ・ストーカー』、『ring my bell』を配信で観ることができる。

(『女課長の生下着』、『ザ・ストーカー』、『ring my bell』の三本のうち、ピンク映画は『女課長の生下着』だけで、『ザ・ストーカー』と『ring my bell』はR15指定ですらないはず。)

(ちょっと前まで、YouTubeに『パチンカー奈美』が違法アップロードされていて、観ることができたのだけど---これもすごく面白かった---今はもう削除されている。)

●そして、また撮ってほしい。

2019-12-29

●映画を観られるようになるためのリハビリ。要するに、絶対に自分が好きに決まっているという映画を観ることで、疎遠となってしまった「映画を観る」という行為と自分とを近づけ、徐々に親しくさせていこうとしている。

赤ちゃん教育』(ハワード・ホークス)をU-NEXTで。十代の時に決定的な経験として刻みつけられてしまった映画が、相米慎二『ションベンライダー』とホークスの『赤ちゃん教育』だった。もう一つ付け加えるなら、鈴木清順ツィゴイネルワイゼン』。この三本は、五十回以上は観ているはず。

ぼくにとって「芸術」とは、抽象的な変換作用によって、現実的な時空(三+一次元)を超えた運動や変化を生じさせること、あるいはそれを捉えること、あるいはそれになること、なのだと思う。十九歳くらいでこの映画をはじめてVHSで観た時、あまりの衝撃に、そのまま連続して朝まで何度もリピートして観て、一体これは何で、ここでは何が起こっているのかと、途方に暮れたという記憶がある(一睡もせずにそのまま予備校に行って、デッサンを描く気にもならずぼんやりしていたと思う)。この時、ふいに「芸術」に触れてしまったのだと思う。

勿論、今観て、当時受けたショックと同等のものを受けるということはないのだが、その代わり、当時はただただ圧倒されていたが、今ではその時には見えなかった細かいニュアンスや複雑な構造を、前よりは細かく感受することができる。当時の自分が、この映画にあんなに魅了されたのかということに納得できる。

2019-12-28

●映画を観られるようになるためのリハビリ。『稲妻』(成瀬巳喜男)をDVDで観た。すばらしかった。また、少しずつ映画が好きになってきている感じ。

(ぼくはこの映画が大好きで、成瀬のなかでは『流れる』と並んで一、二を争うくらいで、冒頭からあらゆるカット、あらゆるモンタージュ、あらゆる空間設計が素晴らしいと思うのだけど、特に、終盤、家族のごたごたに嫌気がさした高峰秀子が、衝動的に、郊外---世田谷---で一人で住むために二階の部屋を借りるのだけど、この二階の部屋の空間がほんとうにすばらしい。)

(この映画には、独身の女性が下宿する二階の部屋が三つでてくるのだが、そのどれもが素晴らしい。)

2019-12-27

●引用、メモ。小鷹研理さんのツイッターから。

https://twitter.com/kenrikodaka/status/1209711630239404033

《M1のぺこぱのつっこみを見てて、真っ先に連想したのが、なだぎのディラン・マッケイ。そういえば、最近見ていいなと思った、涼宮ハルヒキョンの延々と続く自分語りにも、ディラン・マッケイを感じてた。過剰な「自分語り」「自分ツッコミ」は、自らを、語る主体から語られる客体へと反転させる。》

《ところで、自らの語りの殻の中に閉じこもるような自己愛的・自己防衛的な所作に当然付帯するであろう、くどくどとしたイヤらしさみたいなものが、彼らの場合、なぜ、あれほどまでに解毒されているのだろう。ここには、一人称と三人称との間の、例ののっぴきならない位相関係の反映があるように思う。》

《世界(他者)と自己の間に生じる摩擦を、過剰な語りによって不断に調停していくことで、自らを他者化し、かえって難局を突破していくようなリアリティーを、とりあえず、ここではディラン・マッケイパースペクティブ命名しておこう。来年の授業とかで、少し掘り下げて考えてみたい。》

(小鷹さんが書く通り、ぺこぱの特徴は、ナルシシズム云々にあるのではなく、ボケを否定しないツッコミにあるように思う。ボケ---非常時---に対して、まず「とまどい」として脊髄反射的に否定的反応を示してしまうのだが、まさにその反応が発動している最中にある種の「思い直し」が生じて、否定が反転して肯定---受け入れ---に変化する。否定が肯定へと折り返す。この、肯定への変化---受容的巻き込み---が、否定的反応が起きている時間の幅のなかで起こるところが面白い。そしてそのような折り返しを可能にする「時間の幅」は、起きている状況を自分に対して再説明するかのような「反省的自己記述」(による結論の先延ばし)によって確保されているようにみえる。)

https://twitter.com/i/web/status/1210437625447772166

《「笑い」も「痛み」も「恐怖」も予期と応答のズレに対する反応の三つの異なる位相であると考える。笑いは、ズレを想定内のものに書き換え、痛みと恐怖は、行動によってズレを解消するように働きかける。そのようなかたちで、いずれも自我の安定的な運用に寄与している。対して、僕が考えたい位相は、》

《笑いの予感、痛みの予感、恐怖の予感の圏域に留まる、まだ明確にラベリングされない無意識の震えのことであり、ズレによって不安定化する自己に対して、即時的な処方箋を与えることなく、不安定な状態を維持したまま、むしろ不安定性を利用して、じわりじわりと自己の変態へと誘っていくようなもの。》

《(しばし「ボディジェクト指向」における痛みの予感について考えている。)》

https://twilog.org/kenrikodaka/hashtags-R4

《以下、「痛いと叫ぶべきときに笑った患者、ミッキー」 p66-69 (『脳の中の天使』V.S.ラマチャンドラン)》

《「ジョークやユーモラスな出来事はみな、次のような形式にしたがっている。あなたはまず、段階を追ってストーリーを語り、聞き手をしだいにまちがった予想に導いていく。そして最後に予想外のひねりをもちこみ、そこまでの内容をそっくり再解釈せざるをえなくして、落ちをつける。」》

《「(中略)ふくらんだ予想がしぼむことは必要条件だが、十分条件ではない。もう一つ、新たな解釈がささいなことでなくてはならないという、重要な要素がある。(中略)道を歩き始めた医学部の学部長が、目的地に着く前にバナナの皮ですべってころんだとする。」》

《「もし頭がぱっくり割れて血が噴き出したら、あなたは助けに駆け寄り、救急車を呼ぶだろう。笑いはしない。だがもし、彼がけがをせずに起き上がり、高価なズボンについたバナナの汚れをふきとったら、わっとわらいだすだろう。これがドタバタ喜劇と呼ばれるものだ。」》

《「重要な違いは、一つめの場合には緊急の対処を要請する本物の警報があったという点である。二つめは、まちがい警報で、あなたは笑うことによって、近くにいる仲間に急いで助けに駆け寄って資源を浪費しなくてよいという情報を伝える。笑いは「だいじょうぶだ」という自然の信号なのである。」》

《「説明がつかないのは、出来事全体に、わずかにシャーデンフロイデ(他人の不幸や災難を喜ぶ感情)の傾向が伴っている点である。」》

《痛みの感覚は側頭葉の奥に畳み込まれた島で処理された後、前頭葉の前部帯状回に送られる。痛みの<不快さ>が生じるのはこの段階。『痛さを笑う』シンドロームの患者はこの経路に障害を持つ。つまり「島は基本的な痛みの感覚をもたらすが、それが恐怖につながらないという状態になる。」》

《「(中略)したがってそこには笑いの二つの重要な構成要素がある。警報を受けたという(島からの)切迫した明白な指示と、「たいしたことではない」という(前部帯状回の沈黙による)続報である。よって患者は、抑えきれない笑いを起こす。」》

《くすぐりも同じ構造。いっぱいに膨らんだ危険の予期とその解除。「牙や爪が肋骨に食い込んで命とりになるかと思ったが、それは波のようにくねるただの指だった。そして子どもは笑う。」》

《「このまちがい警報説はドタバタ喜劇を説明づける。(中略)まちがって想起された危険の予想をしぼませることによって、想像上の危険性に資源を浪費してしまう結果を回避する役割を果たしているのかもしれない。」》

《「ユーモアは、究極の危険性 --- 私たちのような自己意識のある生きものが、つねにかかえている死の恐怖---との無駄な闘いを防止するための効果的な対策として役立っているとさえ言えるかもしれない。」》

《最後に、「間違い警報説」による「挨拶におけるほほえみ」の解釈。》

《「類人猿は、ほかの類人猿が近づいてくると、、潜在的に危険なよそものが近づいてきたとみなすため、顔をしかめて犬歯をむきだし、戦う用意があることを示す。これがさらに進化して、反撃してくる可能性のある侵入者に警告を発する攻撃的なしぐさとして、儀式化された脅しの表情となった。」》

《「しかし近づいてきた相手が友達だとわかった場合は、その脅しの表情が途中でとまり、中途半端なしかめ面が慰撫と親しみの表情となる。この場合も、潜在的な脅し(攻撃)がだしぬけに中止される。これは笑いの必須要素である。ほほえみに笑いと同じ主観的感情がともなうのは不思議ではない。」》

2019-12-26

吉田豪の記事で、チックスチックスというグループが存在したことを知る。全然知らなかった。

渋谷系を掘り下げる Vol.7 吉田豪が語るアイドルソングとの親和性

https://natalie.mu/music/column/360757

(Jackson Sistersのカヴァー)Miracles  CHIX CHICKS(2009年)

https://www.youtube.com/watch?v=F471NaokUVw

Break up to make up PV CHIX CHICKS(2009年)

https://www.youtube.com/watch?v=vuZ6fe-5F2k

●なるほど、「ラブリー」みたいだ。
奈良沙緒理 HAPPY FLOWER
https://www.youtube.com/watch?v=MyGacwAiHuw

●アイドル三十六房のRグランプリで三位だったsommeil sommeilがよい。

南波一海のアイドル三十六房年忘れ!R-グランプリ2019 191226

https://www.youtube.com/watch?v=ConQtM--Wds&t=4827s

sommeil sommeil「愛の旅」

https://www.youtube.com/watch?v=zZyY0Q-9Xxw