●『ring my bell』(鎮西尚一)をDVDで。いい。すごい好き。驚いた。こういう作品だとは観る前には思いもしなかった。なんというのか、「こういう自由があったのか!」というような発見の興奮がある。この作品を観られてうれしい。そして、この映画はぼくにとって、三十年前に見た夢がまったく新しいかたちになって甦った、みたいな感じでもある。どこかで見たことがあるものが、まったく異なるかたちや機能で現れている。
ただ正直に言えば、終盤の残り二十五分くらいで、ここまで来て、三角関係の軋轢みたいのとか、ドラマっぽいことをはじめちゃう必要があっただろうかと疑問には思う。最後まで朝練(水辺と斜面)と合宿(家)と図書室(と学校)で押し切って欲しかった(植岡喜晴とかも朝練に参加すればいいのに…、とか思った)。絶対それで行けたと思うのだが。というか、そうなったときに一体どんなことになるのかをぜひ観せて欲しかったのだが。
●これって基本として、八十年代のシネフィルノリの、例えば黒沢清の『ドレミファ娘の血は騒ぐ』とか(正確には九十年の作品だけど)鎮西監督自身のものとしては『パンツの穴・キラキラ星みつけた』みたいなことを、今更あえてベタにやろうとしているという感じがあると思うけど、もう一方で、それがデジタルのビデオカメラで撮られていることと、そこにcore of bellsの二人が出演しているという、二つの現代性が加わることによって、それがびっくりするほど異なった表情として現れている(単純に、音楽が違うことでこんなに違うのか、と思う)。
ある映画の企画がまずあって、そのなかの「ある役」をcore of bellsの二人が演じるというのではなく、はじめから鎮西尚一とこの二人のコラボレーションとしてこの映画があるという感じがする。core of bellsを撮るにはどのようにすればよいのか、あるいは、この二人と仕事をするとすれば、どのような形があり得るのか、ということの探求から、結果としてこういう形の映画となったということだと思われる。だから、この人のためにこの役をつくるというようなアテ書きみたいなものとも違うし(それだとどうしても「映画」が先にある)、core of bellsを対象としたドキュメンタリー(それだとまず最初にcore of bellsという対称-存在が前提とされる)というのも違う、まさにコラボレーションと言えるものが成立しているのだと思う。だから、鎮西尚一、core of bells、デジタルビデオの三者が、この映画ではすごくうまく絡み合ったということだと思う。「こういう自由があったのか」というのは、その感じなのだと思う。
実際、こういうことが低予算でなら成り立つのだとしたら、映画には出来ることが(もっともっといろんな「やり様」が)いっぱいあるように思う。というか、それが「映画」である必要は別にないんだな、と。つまり、ある人と別のある人とがいっしょに仕事をする時、その媒介としてカメラや録音機材がある、ということでいいんじゃないだろうか。その一方がシネフィルであり、もう一方が音楽家であって、その結果として、こういうものが出来た、と。
●たまたまツタヤの店頭で見つけて、鎮西尚一の映画にcore of bellsの人が出てるってどういうことなのだろうか、という興味だけで借りてきたのだけど借りてよかった(ぼくは音楽のことは何も知らないけど、以前ぼくのトークイベントに来てくれた瀬木さんから直接CDやDVDをいただいたことがあるので、core of bellsという存在は知っていたのだった、それにcore of bellsは小林耕平ともコラボレーションしている)。
●あと、ぼくはどうしても音楽には疎いというか、音楽から遠いという感じがあるのだけど、映画から聴こえてくる音楽には、ある程度は反応できるのかも、と思った。