2020-03-19

●『東京のバスガール』(堀禎一)をDVDで観た。すばらしかった。『弁当屋の人妻』は、どこかヌーヴェルヴァーグ的な感触があるが、『東京のバスガール』は日本映画クラシックみたいな風格がある。

それにしても、堀禎一の作品にちらちら見え隠れする「不在の子供(存在するよりも前に消えてしまったかのような子供の存在感)」はとても気になる。『東京のバスガール』でも、吉岡睦雄の幼くして亡くなった妹(兄の吉岡睦雄でさえその存在をほとんど記憶していない)が着ていた浴衣や、その浴衣からつくられた布巾が、複雑に絡み合う大人たちの関係を超越的な視点から(時空の外から)見守っているかのようだし、室内の場面で唐突に聞こえてくる「子供たちが遊び、はしゃぐ声」は、屋外から聞こえてくるというよりも、その場に響いている幽霊(存在するよりも前に消えてしまった者たち)の声のようだ。

(存在するより前に消えてしまったかのような子供たちの声は、『草叢 KUSAMURA』や『夏の娘たち ひめごと』でも、印象的に響いている。)

●『東京のバスガール』を前に観た時の感想。2017年。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20170715

堀禎一のピンク映画は、いまのところDMM動画の配信で全部観られる(このような形での公開が、堀さん自身の望む形であるかどうかは分からないが)。

https://www.dmm.com/search/=/searchstr=%E5%A0%80%E7%A6%8E%E4%B8%80/analyze=V1ECCVYFUwE_/limit=30/n1=FgRCTw9VBA4GAVhfWkIHWw__/sort=ranking/

(『夏の娘たち ひめごと』、『若い肌の火照り(東京のバスガール)』、『マル秘配達人 おんな届けます(弁当屋の人妻)』『不倫団地 かなしいイロやねん(草叢 KUSAMURA)』『団地妻 ダブル失神(わ・れ・め)』)

2020-03-18

●『映像研には手を出すな!』、11話。10話を録画し損ねて観ることができていないので、話のつながりが微妙に分かっていない。ただ思ったのは、映像研のメンバーたちが通っている高校のある芝浜の街(つまり、彼女たちにとっては「現実」の街)が、次第にフィクションの方へ寄って行っているということだ。

映像研が制作中のアニメは、芝浜の街を舞台にしている。また、芝浜という街が「水の街」であることは、シリーズを通じて徐々に強調されてきた。そもそも芝浜は地理的にかなり特徴的であり、変わっていて、それが監督である浅草氏を刺激し、新作のインスピレーションとなっていた。

だが、今回の散策のなかであらわれる芝浜は、「地理的に特徴がある」という範疇をこえて、ほぼ非現実的な、ありえない様相を呈していた。道路や駐車場が水没して、廃墟のようになっている場所(魚さえ泳いでいるので、台風などにより一時的に水が出ているということでもないだろう)に、三人の散策はたどり着く。この光景は、フィクションのためのモデルというより、既に(想像力を介さなくても)それ自体で人類に見放された場所であるかのようで、この場所自体がフィクショナルだ。しかもこの場所は、街を見下ろす高台にある。標高の低い場所ではなく、かなり標高の高いところにつくられた道路が、水没してまったく使えなくなってしまっているというのは、現実的には考えにくい。少なくとも上下(重力)が反転してしまっている。

そもそも彼女たちは、普段歩いている地面よりも低い位置まで降りて、暗渠のような場所に入り込んだはずなのに、それがいつの間にか街を見下ろす高台の水路(水没した道路)にでてしまう。暗渠が道路=トンネルにつながっている。この時点で空間は捻れており、彼女たちの散策の経路が現実的な空間のつながりの外に出てしまっていることを示している。浅草氏は、高台から街を見下ろし、あちらが天国であり地獄でもある、というようなことを言う。つまり、自分たちが生活している地域が既に「現世」ではなくなっているという自覚がある。

おそらく、映像研のつくるアニメ(フィクション)によって、現実の芝浜の街が浸食されていると考えられる。映像研のメンバーは、半ば浅草氏の「頭の中」に入り込んでいると、言もえる。虚構と現実が混じり始めていて、彼女たちはもはや、現実とも虚構とも言えない場所で生きていることになる。

(その後、金森氏が風邪をひくのは、半ば虚構的であるような場所は、現実主義的な金森氏にとっては異質な場所=居心地のよくない場所であったからではないか。浅草氏は水に落ちても風邪をひかない。)

とはいえ、そんな彼女たちもまた、確実にシビアな現実はある。現実は、「納期」や「音楽の発注ミス」として彼女たちの前に立ちはだかる。

 

2020-03-17

●一週間ぶりくらいに外出。横浜の、県立図書館西口カウンターまで本を返却しに行ったら、受付の人が、マスクだけでなく手にビニール手袋をつけて対応していた。電車の混み方や街の人の感じは、普段と変わらなかった。

 

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2020-03-16

●「コタキ兄弟と四苦八苦」、第10話。とりあえず「老苦」という主題が提示されるが、ここには多様な問題の交錯があり、多様な視点がある。兄には兄の地獄があり、弟には弟の地獄があり、その二つはまったく似ていないし、重なることもない。だが、そのどちらもの原因である「父」を前にして、決して重ならない二つの異質な地獄が交錯する。

(ここで兄は、はじめて、母に優遇され、都合の悪い時はただ逃げていたと思っていた弟にも、弟なりの地獄があったことを知る。この意味で、「父」は兄と弟の媒介となったとは言える。)

古舘寛治(兄)と滝藤賢一(弟)が連れだって、施設にいる父(小林薫)を訪ねる場面。この時に父は既に、都合の悪いことはすべて忘れている。故に兄も弟も、父に抗議し、怒りをぶつけることもできないし、父にはもはや、過去を悔恨する能力も、兄弟に謝罪する能力もなく、また、悪役(悪い父)を悪役として引き受け、徹底して演じきる能力もない。弟の示す苛立ちも、そこで語られる母の壮絶な死に様(父に多くの原因がある)も、その罪の源泉であり、語りの感情の宛先であるはずの父に届くことは決してない。父は半ば別世界にいるので「敵」たり得ない(敵をたたいても意味がない)。そこにいる老いた父は既にかつての父ではなく、二人の憎悪を受け取る(怒りや憎悪の対象としてあるような)、悪の源泉たり得る能力がないから、言葉も感情も素通りしてしまう。にもかかわらず、そこにいるのは、間違いなく「あの父」でしかない父そのものの姿をし、その性質を色濃く示している、鮮明な像なのだ。もはや別世界にいるが、その像の重さだけを強く「ここ」に残している。

ぼけた父には、「あの父」として恨みや怒りを受けるだけの責任能力は既になく、にもかかわらず、まぎれもなく「あの父」が目の前に生々しく現前している。このような状況なので、兄弟は、父を許すことも、許さないこともできない。無視することも忘れることもできない。兄はその父に対して、「ただ哀れに感じただけだ」と言うが、このような言葉では自らの感情を納得させることはできていないに違いない。兄弟の過去の苦々しさは、解決されることもなく、過去として遠くの距離へと追いやることもできず、父の現前(出現)によって一層生々しくなって回帰し、その場にずっと留まる。

そして、兄は兄のいる位置から、弟は弟のいる位置から、それぞれに、その父の呪いが自分の存在の方に折り返され、折りたたまれてくる様を噛みしめ、それぞれに自分なりの行動を起こす。

2020-03-15

●「すばる」の、ふくだももこ、よかった。ちょっと、初期の大道珠貴を思わせる感じもある。ぼくはこういう話(というか、こういう女性の出てくる話)に弱いところがあるなあ、と(ふくだももこは、映画をつくってもいるのか)。

 

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2020-03-14

●草野なつか『王国』がMUBIで期間限定配信されていたり、黒沢清『旅のおわり世界のはじまり』の配信がU-NEXTではじまっていたりするけど、二十二日を過ぎるまでは観ている余裕がない。U-NEXTは「マイリスト」がどんどん溜まっていくばかりだ。

(期間限定の無料配信で『弁当屋の人妻』を観たので、『東京のバスガール』や『夏の娘たち』も観直したくなった。両方ともDVDがあるので観ようと思えば観られるのだが…。『東京のバスガール』は一時間ちょっとの映画で、それくらいなら時間がつくれるかも。ただ、時間はあったとしても「頭がいっぱい」で受け入れる余裕がない。そしてYouTubeのどうでもいい動画をだらだら観てるうちに時間がすぎることになる。)

『王国』草野なつか(MUBI) 4/10まで

https://mubi.com/films/domains?lt=2r6v5gug09w6t94662agrraai97kh33z5t9asz1585188005&utm_content=film_still&utm_campaign=film_of_the_day&utm_source=newsletter&utm_medium=email

●そういえば、佐々木敦の小説に(とても重要な役割で)出てきていたので、『眠り姫』(七里圭)が気になって、改めてもう一度観てみたいと思ったのだが(ずいぶん以前に観た時には、どちらかというと否定的な感想をこの日記に書いたと思うのだが)、AmazonPrimeには『眠り姫』は入っていなかった。

Prime Video 七里圭 (Amazon)

https://www.amazon.co.jp/s?k=%E4%B8%83%E9%87%8C%E5%9C%AD&i=instant-video&__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&ref=nb_sb_noss

2020-03-13

●坂中さんが書いていることに、とても納得した。「この瞬間とさっき」(at-oyr)。

https://ryo-ta.hatenadiary.com/entry/2020/03/11/000000

《(…)もしかしてジャズにおけるアドリブというのは、各人が自由に個性を発揮するためにあるのではなくて、各人が時間をずらしながらお互いに呼応するための、本来なら同時に体験されるべきことをあえて分解してやり取りを時系列に配置することで、本来の対話を聴いた者の脳内に再現させるためにやることなのかもしれないな…などと思った。》

《「この瞬間が最高だ」とか「この流れがすばらしい」と感じるとき、それは単独ですばらしいわけではなくて、そう思わせるに至った別のきっかけが必ずあったはず。音楽はいま聴いている個所が過ぎたら、もう次の個所へ移ってしまうのだが、すべてが混ざり合うわけでもなく、すべてが単独でばらけているわけでもなく、不思議に混ざり合ったり分離し合ったりしながらゆっくりと消失していく。その感じを「良い」と言ってる。》