2020-08-08

●『MIU404』、第八話。まず、トランクルームに住んでいる人がいる、というのがネタとして興味深い。ドラマでは、世間から身を隠すために住んでいる指名手配犯と、退職後に妻と喧嘩して家出したけど行き場がないから住んでいる人がいるという話なのだけど、これは実際にそういう人がいて社会問題になっているのか、それとも野木亜紀子のアイデアなのだろうか。検索してみたら、トランクルームに住む人は、実際にけっこういるみたいだ。

年収100万円台の衝撃。トランクルーム1畳半に住む40代に聞いた(日刊SPA 2019/09/03)

https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E5%B9%B4%E5%8F%8E100%E4%B8%87%E5%86%86%E5%8F%B0%E3%81%AE%E8%A1%9D%E6%92%83%E3%80%82%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%A01%E7%95%B3%E5%8D%8A%E3%81%AB%E4%BD%8F%E3%82%8040%E4%BB%A3%E3%81%AB%E8%81%9E%E3%81%84%E3%81%9F/ar-AAGHWqZ

人が住むトランクルームの特徴と遭遇したときの対処法(トランクルーム徹底活用.com)

http://trunkroom-katsuyou.com/question/living.html

(このドラマでは、街中の至る所に監視カメラがセットしてあることが、当然の前提のようになって捜査がすすめられる。しかし、今回のトランクルームのように、監視カメラがダミーだという場合もあり、監視カメラのネットワークには穴もあるということが示された。)

(ゲストが、りょうと塚本晋也King Gnuという妙な取り合わせなのも面白い。だが、「犯人」を演じるのは、このような有名人ではない。)

やはり形として面白いと思った。真ん中に、トランクルームの事件があるのだが、それに対してその両端に、二つの父-息子関係のエピソードが並行して語られる。仕事において、橋本じゅんと岡田健史は擬似的な父-息子関係にあると言えるが、そのそれぞれの実際の父-息子関係の非番中のエピソードが語られる。この三つの父-息子関係はどれも問題を抱えており(問題のない父-息子関係などないだろうが)、しかし、この三つの父-息子関係には並行して、互いに相互作用するかのように問題のほぐれがみられるようになる。

(この回ではまた、トランクルームに引きこもることで世間との関係から完全に閉じている指名手配犯と、麻生久美子に保護されることによって、麻生久美子の家族や一部の警察関係者以外の関係から閉じている黒川智花とが並行的に置かれており、そのどちらも「閉じること」のほころびがあらわれる。)

このドラマでは、「犯人の逮捕」は、社会秩序の維持のためでも、犯人への懲罰のためでも、問題の解決のためでもなく、逮捕によって「犯人を救う」という側面が強調されているというのが面白い。犯人は、社会的な関係において(様々なボタンの掛け違えの集積によって)ある行き詰まりの果てのような場所にいる。このどん詰まり状態をリセットするための助けとして、犯人の逮捕がある。逮捕は、公的機関による犯人救済のプロジェクトでもある。犯人は、逮捕されることによって救われるのであり(少なくとも、救われるための機会を得る、のであり)、逆から言えば、逮捕を逃れた犯人は、ラッキーなのではなくて救済の機会を逃したということであって、社会的関係におけるどん詰まり状態をさらに悪化させてしまうことでもある。だからこそ、犯人は捕まえられなければならない。たとえば、三話で逮捕を逃れた高校生、鈴鹿央士は、それによってよりヤバい闇にはまりこんでいく(あるいは、一話で綾野剛は犯人に、「人を殺してしまう前に捕まってよかったね」と言う)。

2020-08-07

●お知らせ。今月は、「文學界」の新人小説月評だけでなく、「新潮」に『月の客』(山下澄人)の書評を書いています。

轟二郎(三浦康一)が亡くなった。フジテレビのドラマ『翔んだカップル』が放送されていたのは中学一年の時(1980年)。おそらく、今観るとスカスカで退屈だろうと思うのだが、当時は衝撃的だった。良くも悪くも、バブル前夜、八十年代初頭の、グローバルな資本主義が充分に準備されていつつもその幕開け直前であることによる、未だ楽天的に、表層的で軽薄でありえた時代の空気そのものが出ている感じのドラマで、中学にあがったばかりのぼくには、新しくてキラキラしている、「来たるべきもの」の象徴であるように見えていた。

(YMOの「ライディーン」や「テクノポリス」が流行っていたのと同じ頃だ。)

(だがそれは「来たるべきもの」ではなく、ある種の楽天性が可能であった最後の時期だった、ということだと思う。今の自分は、当時「来るべきもの」と感じられたものの残り香のようなもののおかげで生きているように思う。)

轟二郎は、当時、既におじさんにしか見えない風貌だったが、主人公のボクシング部の先輩で、高校生役だった。他の出演者は、芦川誠桂木文柳沢慎吾秋山武史など。東京ヴォードヴィルショーの佐藤B作や坂本あきら東京乾電池ベンガルなどがテレビに出だしたのもこのドラマくらいからだったと思う。

翔んだカップル』のNG集の動画があった。

https://www.youtube.com/watch?v=eOMCRD1O7HI

上に「当時、既におじさんにしか見えない風貌だった」と書いたけど、それは当時中学生だったぼくの印象であって、今観ると、高校生には見えないとしても、充分に若者のように見える。

(上の動画で、エンディング曲がかかると、感情的に動かされるものがある。当時も今も、来生たかおの曲は好きでも嫌いでもなく、特に興味もないのだけど、中学の頃に来生たかおの曲が流行りすぎていて、環境音のようにいろいろな局面で自然に耳に入っていたので、耳にすると自動的にこの時代の空気とある種の感情が濃厚に惹起される。ぼくにとって八十年代前半は黄金時代なので、それはほぼ幸福な感情だと言える。とはいえ、自分から能動的に来生たかおの曲を聴くということはまずなくて、昔も今もそれはどこかから聞こえてくるものだ。)

2020-08-06

●今でもまだガラケーなのだけど、接触確認アプリを使えるようにするためにスマホに買い換えましょう、というメールがauから来た。スマホを使わないのは、ツイッターに決して手を出さないのと同様、(過剰接続から)自分を守るためということが大きい。ノイズに対する耐性がとても低く、微少なノイズでもそれを拾ってそちらに気を取られてしまう傾向がある。たとえば、ガヤガヤした居酒屋では、他の席の会話が頭の中に強引に入り込んできて、目の前の人のする話が入ってこないこともしばしばある(カクテルパーティー効果が効かない)。今の環境でも、ネットから余計な情報が入ってくると気持ちをそちらに持って行かれて、やらなければならないことがまったく出来なくなる。なんでこんなにどうでもいいことをいつまでも検索しつづけているのだ、と自分であきれる。そして、そのどうでもいいことに傷つけられる。ただ、現状では、PCの置いてある机の前から物理的に距離をとることで切断することが出来る。スマホのように、いつでも手元に置いておける端末をもつのはとても怖い。

2020-08-05

●下の動画の、12:19あたりから、頭をトントンとたたかれているところで、まるで自分の頭がたたかれているように感じる(イヤホンまたはヘッドホン着用で)。眼を瞑って音だけ聞いても、頭のどの部分がたたかれているのか分かる。すごく変な感じ。

ASMR 超cool! ハールワッサーヘッドマッサージ(バイノーラル録音)

https://www.youtube.com/watch?v=KnybW0jXpQ8&t=758s

2020-08-04

●「With/Afterコロナのアイドルを考える」というシンポジウムで、エビ中やukkaのマネージャーである藤井ユーイチが、「銀行やコンビニでは喋って接客しているのに、アイドルの現場だけ接触が問題視されることに納得できない」みたいな意味の発言をしたのを受けて、吉田豪が、「ただ、コンビニは今けっこう出てますからね、店員の感染は、(…)いや相当多いですよ、ウチの下のコンビニも今閉ってますからね」と言っていてちょっとビビった。シンポジウムが行われたのが7月29日で、吉田豪が住んでいるのは新宿二丁目

今、新宿に住んでいることの肌感覚はどんなものなのだろうか。コンビニが閉っているというのは、なかなかの非常時感ではないか。

動画は期間限定公開らしいので、そのうち観られなくなるかもしれないが、上のやりとりは、1:50:30あたりから。

コロナ・アイドルサミット~With/Afterコロナのアイドルを考える~

https://www.youtube.com/watch?v=Mjb9-RQQZeU&t=7564s

2020-08-03

グッチ裕三は(ビジーフォーも)ずっと苦手だったけど、この人ほんとに音楽マニアなんだなと知れる動画をみつけて、感じ方が少し変わった(ていうか、すげえな、と)。教育テレビでこんなことをやっていたのを知らなかった。「ハッチポッチステーション」。ダジャレと言えばダジャレなのだが。

(ここでグッチ裕三がやっていることは何なのか。まず、オリジナルのモノマネというレベルがある。ここでは、選曲の妙、オリジナルのマニアックな再現性、そして誇張の有り様などが、オリジナルに対する創造性となる。さらに、オリジナルと日本語の間でダジャレ的---ソラミミ的---なスリップが起こり、そしてそのスリップに導かれるようにして、童歌が召喚され、オリジナルと接合される。とはいえ、ここでスリップは言語---歌詞---のレベルだけで起こっているのではなく、メロディの類似性など、音楽的なレベルでのスリップも起こっており、その接合の妙---接合のなめらかさだけでなく、強引さもまた、面白味となる---が創造性となっている。それにより、オリジナルに寄生しながらも、そこからズレてゆく、ある奇妙なキメラ的なものが生まれる。)

ビールと酢

https://www.youtube.com/watch?v=kLFh9M0MeXU

ハッチポッチ「おべんとうばこ」(ジェームス・ブラウンカン)

https://www.youtube.com/watch?v=vHunSoxAlPI

ハッチポッチクラリネットこわしちゃった」(ジョン・トラボタル)

https://www.youtube.com/watch?v=irEsOqwGv3M

ハッチポッチ「山口さんちのツトムくん」(マホービン・ゲイ)

https://www.youtube.com/watch?v=exVQnmpKo2s

やぎさんゆうびん by マイケル・ハクション

https://www.youtube.com/watch?v=bXxGbI7zuRU

ハッチポッチ「母さんのうた」(アースウィンドアンドーナツ)

https://www.youtube.com/watch?v=RnGz6aA-ylU

いっしゅうかん by デーブ・パープル

https://www.youtube.com/watch?v=ZOVM6DbeJgY

おうま by YONTANA (Horse's parent and child)

https://www.youtube.com/watch?v=YajQFW2E9iA

グッチ裕三 with グッチーズ】犬のおまわりさん~ボヘミアン・ラプソディー

https://www.youtube.com/watch?v=-nASHzcFji0

2020-08-02

●『日本蒙昧前史』(磯﨑憲一郎)には、大阪万博太陽の塔の右目に籠城した目玉男のエピソードが出てくる。目玉男は、終戦から四年目の夏に旭川で生まれたと書かれている。つまり1949年生まれということだ。その後、成長した目玉男が姉と近所の子供たちと連れだってフキノトウを探しに出かけ、家からどんどん離れて遠くまで歩いて、河川敷に出て、その川で八頭のインド象が水浴しているのを見る、という印象的な場面がある。この時、子供たちは浜村美智子の「バナナ・ボート」を口ずさんでいたと書かれている。この曲のレコードが出たのが1957年なので、この時、目玉男は少なくとも八歳以上で、三つ年上という姉は十一歳以上であるはずだ。だが本文では、これは目玉男の六、七歳の頃の記憶で、だから姉は九歳が十歳だったと書かれている。これだけならば、この程度のズレを特に気にする必要もないのだが、この後、姉は十一歳の時に交通事故で亡くなってしまうのだった。「バナナ・ボート」は、姉が亡くなった年にヒットした曲だ。このことを考えると、この場面の見え方や味わいが変わってくる。

つまり、この場面がまるまる、姉の死後の話だとも考えられるようになる。「バナナ・ボート」は彼岸から聞こえてくる歌かもしれない。この場面をよく読んでみると、目玉男は、草のなかに蛇のような何かを見つけて、それをがむしゃらに棒でつついているうちに、子供たちとはぐれそうになるのだが、《しかし姉だけが一人、気が遠くなるほどの彼方の、小高い丘の上に立って、こちらに向かって手招きをしていた》というのだ。

《姉はそのまま歩き続け、弟も小走りで付いていった、母親が待つ家はもうとっくに見えなくなっていたが、そろそろ帰ろうとはいわせない、頑なな雰囲気がこの日の姉にはあった。やがて二人は立派なアーチ橋の架かる、広々とした河川敷に出た、川を遡った遥か上流には、雪の残る大雪山系が見えた。土手を下りるとき、ようやく姉は弟と手を繋いでくれた、そしてあともう少しで川岸に到達するという場所まで来て、そこで初めて、流水に太い脚を浸している、巨大な生物の存在に気づいたのだ。八頭の、本物のインド象が水浴していた、長い鼻で大量の水を吸い上げ、一気に吐き出して自らの背中を濡らすと、その硬い皮膚は、午後の日射しを受けて銀色に輝き始めた。》

いきなり川に象があらわれるという突飛な場面に、なんとも言えない彼岸的な様相がつけくわえられる。弟は必死で姉の後を追うのだが、ここで《ようやく姉は弟と手を繋いでくれた》と書かれているのも味わい深い。こうした、ちょっとした時間のずれ(あるいは逆転)をつくることで、夢とも現実ともつかない、生と死との中間地帯のような領域が開かれる。