2020-09-15

●チャンネル登録者数が百万人を越えているYouTuberの動画を観ていて、その人が「ホンマに」と言った時に、「本間に」と字幕が出て、ああ、誤変換のチェック漏れなのだろう、と思っていたら、次に「ホンマに」と言った時にも「本間に」で、その後もずっと「本間に」だった。登録者が百万人以上いて、ほとんどの動画が何十万回も再生されているのに、これを指摘する人は誰もいないのだろうかと思った。

それで、グーグルで「本間に」を検索してみたのだが、どうも、最近では「ホンマに」を「本間に」と表記する人が増えているみたいなのだった。「雰囲気」を「ふいんき」と読む、みたいな感じなのか。面白い。

《「ほんまに」は漢字では「本真に」と書きます。

「本真に」は、スマホですぐに漢字変換できないために、若い人の間で「本間に」という誤字が流行っています。》

https://hinative.com/ja/questions/7873284

「雰囲気」は「ふイんき」!? ~慣用読みの今~ (日本語研究室)

https://www.tv-asahi.co.jp/announcer/nihongo/labo/lab_016/body.html

●あと、どうでもいいことだが、呑み食い系の動画を観ていて、ビールの大瓶を「だいびん」と言っている人がいて、ぼくには「おおびん」という言いが耳に馴染んでいるので、ちょっとした違和感があったのだけど、考えてみれば、「小瓶」は「しょうびん」で「中瓶」は「ちゅうびん」なので、「大瓶」も通常なら「だいびん」ということになるのか。和語(訓読み)と漢語(音読み)の結びつき問題。

東おおびん、西だいびん? ビールの大瓶読み方問題、言葉の原則からいうと…

https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201909/0012696987.shtml

●「しゅんでる」という言葉も、YouTubeの動画で最近知った。

2020-09-14

●『王国(あるいはその家について)』の最後にかかっていた曲が、とても印象深かったのだが、これか。

(コメント欄を見て、この映画の英語タイトルが『Domains』であることを知った。)

Grim - Heritage (1987)

https://www.youtube.com/watch?v=6wdOSJb4MFA

日本のアーティストなのか。

異形のユニット~GRIM「Folk Songs For An Obscure Race」(A Challenge To Fate)

https://blog.goo.ne.jp/googoogoo2005_01/e/7f2d40c420185a9061ce2673478acf44

映画『王国(あるいはその家について)』予告編

https://www.youtube.com/watch?time_continue=103&v=A_WBzCk3PDM&feature=emb_logo

2020-09-13

●(『王国(あるいはその家について)』について、もうちょっと。)

この映画には、カットの終わりにカチンコが写っているカットがいくつかある。カチンコにはおそらく、シーン番号、カット番号、テイク数などが書かれている。このことがまず示すのは、この映画は、リハーサルの場面をドキュメンタリーのように追っかけて撮ったものではなく、一つの場面というまとまりをつくり、さらにそれをカット割りして、分けて撮っているということだろう。つまり、現実の流れのままの時間を撮影して、それを後から編集したのではなく、最初から、虚構的に分割された上で組み立てられる時間の構築が意図されている。リハーサルを撮っているのではなく、リハーサルをしているかのように演じられた場面が演出されている。これはわりと重要なことで、それは、ここで行われているのがリハーサルの撮影ではなく、一つ一つの場面としての、虚構のたちあげと構築だということを示しているから。

通常は、カチンコが写っているところを残すということは、撮影された場面に二つの次元があることを示す目的であることが多いだろう。演じられた虚構の次元と、それを撮影している現実の次元がある、と。つまり、虚構の次元に対するメタ的視点として、現実の次元の存在が示される。だが、この映画では、撮影している現実の時間の次元が、メタ的な機能をもっていないというところがユニークなのだと思う。

撮影される対象が、リハーサル室で「演じている人」なのだから、撮影の対象それ自体に、既に、虚構の次元と現実の次元との二層があることは明らかで、だからそれが「撮影されている」現実の時間が明らかにされたとしても、ことさらそれによってメタ的な視点が強調されるわけではない。演じること=虚構の次元、撮影すること=現実の次元ということにはならない。

「演じている人」というのはつまり、現実のなかから虚構の次元をたちあげようとしている人、ということだろう。

おそらくこの映画では、「フィクションのたちあげ」にかんする、四つくらいの層の重なりがある。まず、テキストが書かれることによるフィクションのたちあげの層がある。そして、テキストを演じることによるフィクションのたちあげの層があり、フィクションを演じる人を撮影する(カット割りやフレーミングなど、撮影レベルでの演出も含む)ことによるフィクションのたちあげの層がある。そしてさらに、撮影された映像や音声をモンタージュすることによるフィクションのたちあげの層もある。フィクションのたちあげというのは、現実の次元から虚構の次元がたちあがるということだから、どの層もそれ自体で、現実の次元と虚構の次元の両立(分離)が起こっていると考えられる。

この四つの層には階層性はなく(どこかの層が、別の層へ奉仕するのではなく)、重ねられ、相互作用しながらも、各々がそれ自体として自律してありえる強さをもっている。

どのような映画であっても、この四つの層は潜在的に存在するとも言える。しかし、この映画では、「演じている人を撮影する(ドキュメンタリー的にではなく)」ということによって、それぞれの層で、その都度でのフィクションのたちあがりが強く意識化されるのではないか。この映画では、フィクションと同時に、様々な層でその都度生じている「フィクションがたちあがる様」が捉えられているのではないか。

2020-09-12

●(ちょっと、昨日の付け足し、というか、言い直し)

『王国(あるいはその家について)』(草野なつか)の、元々のテキスト(脚本)がどういうものだったのかは分からないが、おそらくそのおおよその感じは、映画後半のテキスト読み下し(いわゆる「本読み」)の場面からうかがい知ることはできるだろう(テキストのすべてを読み下しているのではなく、省略はあるのだろうが)。

後半で示されるテキストのおおよその流れと比較してみると、映画前半で繰り返し上演されるいくつかの場面は、もともとあったテキストが表現していること(言いたいこと)の核心を表現するために、最低限必要な場面はどれと、どれと、どれなのか、という視点から選択されたものであるように思われる。

逆に言えば、それらの場面は、ただそれだけで言いたいことが言い切れると感じられるくらいに、多くのことを凝集して表現している、とても強いものだということだろう。さらにもう一回裏返せば、それらだけで充分に言いたいことを言い切れるのに、物語としての体裁(あるいは形式的整合性)を保つために他の場面も付け足して構築してしまうと、説明的になってしまうというか、屋上屋を架すようになって、かえって表現として弱まってしまうのではないかという感覚(テキストへの批評)があったのではないか。

そこで、物語としての形式を整えるというより、抽出された核心的場面に絞って、それを様々なフレームの切り取り方によって切り取って、何度も検討し直し、それらの場面に潜在的に含まれているものをより深く探り出すのと同時に、場面と場面との組み合わせ方をも何種類も検討することで、複数の場面間の関係によって表現され得るものをも、深く探っていくというやり方が採られたのではないか。

同一の場面の複数のバージョンが、ズレを含みつつ反復されていくという形式では、多くの場合、冗長性と分散性をもつ作品になる傾向があると思うのだけど、この作品の特徴は、それが主題の深層へ向かう深掘りという方向に作用しているのがとてもユニークだと思う。テキストの潜在性をできるだけ深く掘っていく反復。

この映画において、その深掘りのための語彙は、主に俳優の演劇的な演技であるように思われる。特に、その発声の制御において、俳優たちの演劇的演技のスキルが、この映画の表現のための重要なピースになっているように感じられた。

(おそらくその理由の一つに、テキストに書き込まれたセリフ、そして対話の有り様が、通常の意味で自然なもの---現実的な場面で人々が語る言葉---とはかなり異なった、生硬で構築的なものであるということもあるだろう。生硬なセリフや対話に、表現としての緊密な質感を与えるためには、演劇的な演技---発声---のスキルが必要なのだろう。)

とはいえ、この作品はあきらかに事後的な「編集(再検討)」によって(リニアな時間の流れとは別種の時間を構成---モンタージュ---することで)成立している作品であり、このような編集と同等の効果を、生身の身体を用いて、連続的な時間のなかで創造するのは困難だという意味で、撮影によってはじめて可能になる作品だというべきだろう。

(「撮影によって可能になるもの」の「撮影」について、具体的に深く考えるためには、あと何回か観直す必要がある。)

2020-09-11

新文芸座による24時間限定「上映同時間」配信で、ずっと気になっていた『王国(あるいはその家について)』(草野なつか)をようやく観た。これはすごかった。興奮した。

https://domains-okoku20200911.peatix.com/view

演劇でもなく、映画でもない、その間のどこでもないところに、非常に濃密なフィクションがたちあがる。濃厚というのは、そこに「ある」とは言えないが、「ない」というわけでもない(直接的に「これ」と示されているわけではない)、過去や無意識といった背景(文脈)が、濃厚な霧のように漂い、登場人物たちに絡みつき、渦巻くように相互に作用し合っていているのが目に見えるようにさえ感じられた、ということだ。

声がたちあがり、視線がたちあがり、表情がたちあがる。それらにより、同じセリフが、同じ場面が、その都度その都度で改めて、何度もたちあがる。たとえば、この映画で最も多く繰り返される場面で、昔荒れていたが今はそうでもないという中学にそれでもまだあるといういじめが話題にあがった時に、澁谷麻美がみせる、とまどいのような、逡巡のような、「間」が生む表情。繰り返される度に微妙に異なった表情となるが、この「間」の背景には明らかに非常に重たい文脈が存在すると感じられる。その文脈について作中で説明されることはない。しかし、場面が、「間」が、繰り返されることで、具体的には知らされないその背景に、しっかりとした手触りのある存在感が生まれる。あるいは、登場する最初のカットを観た瞬間に(あるいは最初の発声を聴いた瞬間に)、この人は抑圧的な傾向がある人物に違いないという直観を抱かせるような、分厚い背景を既に纏っている足立智充の佇まい。映画がすすむにつれて最初の直観の正しさを徐々に確認していくことになるのだが、直観に対する確信が深まっていく過程はそのまま、最初はそうは見えなかった笠島智が実はかなり追い詰められていたのだということを(じわじわと)知る過程でもある。

この映画が面白いのは、(ある完成形に向けた)リハーサルを撮影しているようには、はじめからまったく見えないというところではないか。リハーサルではなく、その都度その都度、最もミニマムな形でフィクションがたちあがる。そしてまた、切り取り方を変えた同じフィクションの異なるバージョンがたちあがる。行っては戻り、行っては戻りしながら、表現の力が蓄積され、あるところで不意を突くようにフィクションに展開がみられる。ミニマムな形での、同じフィクションの異なるバージョンが、互いに互いを幾重にも映し合うことで立体化するのは、そのフィクションによって語られることがらだけでなく、語られることのないフィクションの背景(文脈・地)でもある。断片化というよりフレームの切り直し、繰り返しというより複数のフレームの重ね合わせ、が、背景(地)を濃厚にしているように感じられる。見えない地が見えないまま折り重なって厚くなる。

フレームの切り直しと、切り直された複数のフレームの重ね合わせによって、もともと「その場面」が持っていた可能性が(並列化されるというよりも)、煮込まれたように凝集されていっていると感じられた。

(リヴェットの冗長的な面白さとはまったく似ていないと思った。)

推測でしかないが、おそらく最初に濃密なテキスト(脚本)があって、そのテキストの潜在的な力を最も多く引き出し、強く表現するにはどうすればよいのかという思考によって、このような形式が生まれたのではないだろうか。映画の後半に、テキストをはじめから順に読み下している場面があって、それによって初めて、断片化され繰り返されていた場面が、時系列としてどのように並んでいたのかを知ることが出来る。そして、テキストの読み下し場面を観て思うのは、もともとあったテキストが思いの外、理路整然と、別の言い方をすると段取り的、説明的な形できっちり書かれていたのだなということだ。たとえば、笠島智が追込まれているという事実が「ファミレスでの喫煙」によって分かりやすく表現されている。そして思うのは、そのままの形で演出・上演されていたとしてもそれなりにはよい作品になっただろうが、しかし、そうではなく「今あるような形」でつくられた方が、このテキストが本来孕んでいた可能性をずっと強く明確な形で表現できているのだという納得だ。

(テキストを読み下す場面で重要なのは、フィクションの設定上では、その場面ではそこにいないはずの人物がそこにいるということではないか。特に、澁谷麻美と笠島智の二人だけの場面で、ずっと足立智充のアップが映し出されているところ、など。)

この映画の多くの場面が、リハーサル室かスタジオのような場所で演じられ、撮影されている。しかし時折、この映画が示す物語の舞台となった場所で撮影されたであろう場面が挟まれる。これにより、白いタイルに外からの光が反射しているというような、切断されたままでの反映が起こる。そしてこの切断されたままの反映は、映画の中程で、それまで何度も繰り返された澁谷麻美と足立智充が言い争う場面が改めて実景のなかで演じられる時に、不意に折り重なる。

冒頭の取り調べの場面と、終幕の手紙を読む場面は、スタジオのような抽象的な場所でもなく、実景でもない、(通常のフィクションであるかのような)取調室風の場所で演じられ、撮影されている。それは、これらの場面が「この映画の時間・空間」の内にあるというより、外枠のようにしてあるということだろうか。

最初に書いたが、ここではフィクションが、演劇でもなく、映画でもない、その間のどこでもないところでたちあがっているように感じられるということは、この映画のリアリティのあり様としてとても重要なことではないかと思う。そして、この映画と、『夏の娘たち ひめごと』(堀禎一)や『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』(黒川幸則)とが、同じ撮影者によって撮影されているということも重要であるように思う。

2020-09-10

●加納エミリの新作、よさげ。

加納エミリ / 朝になれ Asaninare (Short ver.) 2020.9.25 Digital Release

https://www.youtube.com/watch?v=QlA2VLq6JIA&feature=youtu.be

●宮野弦士がスタッフから抜けたあとのフィロソフィーのダンスは……、うーん、なんというか微妙だと感じてしまう。曲とか歌割りとかの問題だけでなく、衣装も統一感出し過ぎだと思うし、基本的なコンセプトが揺らいでいる気がする。

(コメント欄も概ね不評なので、重ねて悪くは言いたくはないのだけど。)

(トラブルの顛末も気になる……。)

フィロソフィーのダンス「ドント・ストップ・ザ・ダンス」MV

https://www.youtube.com/watch?v=6mRH390l-jk&feature=youtu.be

比べてはいけないのかもしれないけど、比べてしまう…。

フィロソフィーのダンス/ヒューリスティック・シティ、ミュージック・ビデオ

https://www.youtube.com/watch?v=oJXujY-RVD4

2020-09-09

Netflixで、『ビー・バップ・ハイスクール』(那須博之)を久々に観直した。85年の映画、原作は83年から。楽しかった。この映画の、実際に走る電車のなかでの乱闘(橋の上を走る電車からそのまま川へ落下)みたいな場面は、もう二度と撮影できないだろうと思う。

それにしても、『ビー・バップ・ハイスクール』の二人のヒロインの名前が、泉今日子と三原山順子なのだということについて、約四十年後の今になってみると、しみじみ感慨深いものがある。四十年後にこんな世界がくるとは当時は思ってもみなかった。