2020-11-01

マルクス・ガブリエルにおいては、過激な存在論と、良識的(常識的)な倫理的提言とが同居しているようにみえる。だから、一方の倫理的提言だけをみると、普通に良識的なヨーロッパ的知識人で、特に目新しいことを言ってはいないようにも感じられる。しかし、その普通に良識的にみえる倫理的提言も、過激な存在論から導かれたものであるはずで、そこに新しさが見出せるのではないか(たとえば、カント的な普遍や道徳は割と強く否定される)。以下、『全体主義の克服』よりメモ的引用。

●まず、中島隆博の発言から。相対主義でもなく、普遍主義でもないこと。重要。

《世界哲学という概念を考えるとき、わたしたちはふたつの考え方と縁を切りたいと思っています。ひとつは「世界の中の諸哲学」という考え方です。世界の諸地域の哲学を集めて、その違いを示そうとするもので、これに関してはすでにいくつかの哲学的な著作がでています。

ところが、こうした理解はしばしば、批判なしに地域的な価値の保存に陥ります。必要なことは、世界哲学において、地域哲学が相互に変容することです。

もうひとつは、長く続いている哲学のクリシェ(常套句)で、範例的な「世界的な哲学」「普遍的な哲学」があるという考えです。これは哲学にヒエラルキーを持ち込むもので、ひとつの中心的な真の世界哲学があり、そこから枝分かれして地域的な哲学があるというものです。こちらの理解も問題があります。》

●「礼」、倫理的消費、弱い規範。まず中島隆博の発言二つと、次いでマルクス・ガブリエルの発言二つ、最後に中島発言。

《(…)わたしは中国哲学のなかで、「食べる」という概念にずっと関心をもっています。儒教には「礼」という概念があります。礼は、食べることや死といったわたしたちの生における暴力の次元に関わっています。わたしたちは生きるために、動物や植物を殺して食べるのですから。》

《(…)そのために、礼は食べるといった消費の形態に関わっています。こうした消費において、どうすれば規範的なものを開くことができるのでしょうか。礼はこの問いへのひとつの答えであって、消費のなかに弱い倫理を発明しようとしています。わたしは礼が倫理的消費のひとつの出発点になりうるように思います。》

《興味深い思想ですよね。現代の倫理学では、道徳的価値と単なるエチケットの間に大きなギャップがあると考えがちですが、それが誤りの元です。(…)

人々は「子どもを虐待してはいけない」は普遍的な道徳であるのに対し、フォークやナイフで食べるか、箸で食べるかは、その人しだいだと言うでしょう。しかし、それは人しだいではありません。フォークやナイフでは、本当に美味しい和食は食べられません。ところがアメリカ人は、自分たちにはそれができると思っています。だから和食レストランで「フォークとナイフをもらえますか」と頼むわけです。これは大きな間違いです。

この例が示すように、弱い規範はアブリオリにあるものではありません。魚の切り身の形に応じて、それに適したフォークやナイフ、もしくは箸の使い方があります。その意味では、礼は偶然的なもので、状況によって、礼のあり方はまったく異なってくるはずです。

しかし、いったんそのゲームに参加するなら、特定の振る舞いが正しいものとなります。規範性は。明確に定義された一連のゲームのなかで、正しい動きと正しくない動きを区別するからです。つまり弱い規範とは、与えられたゲームに固有の規範性を意味します。》

《(…)多くのドイツ人は、魚を丸ごと食べることができません。切り身しか食べられないのです。おそらくドイツ人に魚を丸ごと一匹与えると、ショックを受け、食べることはできないでしょう。彼らはそれが動物であることに気づいてしまうからです。

しかしその一方で、地域によっては、食材や肉そのままの姿を目に見えるように料理するところもあります。とくに中国がそうです。本物の中華料理を目にすると、西洋人たちはショックを受け、食べることができません。西洋人は、動物を食べられる部分と食べられない部分とに分け、食べられる部分にだけ向かいます。それは、動物を食べていると感じずにすむからです。それに対して、中国人は、動物を殺しているということを知って食べているのです。》

《「人の資本主義」がどういうものなのか、わたしとしてはまだイメージの段階ですが、礼はそのヒントになるものです。つまり、礼は、他人とのつながりのなかでともに生き、ともに変容しつつ、共通の体験を豊かにするものです。さきほどガブリエルさんが言ってくれたように、礼はアプリオリに決まったものではなく、わたしたちが歴史的に共同で作り上げ、変化させていくものです。そのため、それは定められた計算可能なものではありません。

礼としての消費は、人々が出会いながら、そこで起きる計算を超えた偶然的な出来事を歓待するものでなければなりません。》

●複合(化)、中立性、普遍化というプロセス。中島×1、ガブリエル×4。

空海にとって、もっとも根本的な問題のひとつは複数の言語でした。サンスクリット語と中国語と日本語の関係をどう考えればよいのか。(…)現代のわたしたちは、経典の翻訳を洗練していけば、経典に表現された大文字の意味に到達できると思っています。(…)

しかし空海はそうした考え方を拒否しました。空海からすれば、事は翻訳の問題ではなかったからです。サンスクリット語は神聖な言語でしたし、安定した書記システムとしての日本語はまだありませんでした。そうすると、空海の問いはこうなります。どうすれば、中国語や日本語といった言語をこの神聖な言語に重ねることができるか。この問題系のもとで、意味と言語について考えるために、複合語が登場します。複合語を通じて異なる言語をひとつの組み上げようと着想したのです。》

《わたしたちはさまざまな伝統の間での対話を通じて、複合的なものに到達します。人々はどのような形であれ、非対称性を事前に想定することなく、対話的な状況に入らなければなりません。

その場合、オリエンタリズムは排除しなければいけませんし、逆に、アジアの伝統が優れていると思って対話に入るべきではありません。どちらが優れているか、劣っているかということではないからです。どれも思考なのです。思考、つまり考えることの本質は権力関係に立つことではありません。グローバルな世界で哲学が果たす役割は、権力関係を中立化することです。それは、倫理は中立的なものに向かうと考えることです。

倫理とは、政治的な分布において左派を守ったり、右派を擁護したりするものではありません。そうした擁護は、むしろ倫理の対極にあるもので、政治であり、闘いです。中立性という概念は、中島さんの言う複合語という点からも説明できますし、ガダマーが「地平の融合」と呼んだ形式として考えることもできます。》

《(…)普遍化することを複数化できるかもしれませんね。(…)

普遍が「動き方」すなわち「道」とつながっているならば、つまり、もし普遍性がきっちり定義されたゴールではなく、「動き方」であるとすれば、当然、多様な「動き方」があることになります。

あらゆるスタイルのダンスに共通していることは、もちろん踊ることです。(…)しかし、「これが本当のダンスだ」と言えるような原ダンスがあるというわけではないのです。ダンスにはさまざまな踊る動きがあり、そこに何らかの共通点がありますが、それを見つける唯一の方法は、一緒に踊ることなのです。

ですから、ふたつの異なるスタイルのダンスを一緒に踊れば、そこに複合が生まれます。その複合がどのようなものになるかは、一緒に踊ってみるまでわかりません。わたしたちは複合の結果を事前に予想することはできないのです。》

《しかし、勘違いしないでほしいのですが、わたしはハーバーマス派ではありません。ハーバーマスはこう考えています。わたしたちがお互いに議論をすれば、理由を与えたり訪ねたりするゲームを通じて、普遍的に受け入れられる結果が得られるのだと。彼は、そういったゲームが普遍的なゲームでないことを理解していません。論理的な体系のなかで理由を与えるだけでは不十分なのです。

というのも、発言には背景や文脈があり、それは生きているものだからです。たとえばドイツと日本は、ふたつの異なる社会システムで、多くの文化的な要素から成り立っていますね。実に複雑なコミュニケーションのモードがあるのです。》

《伝達可能性という理念は、ハーバーマスが大学でゼミを運用するモデルに基づいて、それを過度に一般化したものにすぎないのではないかと思うことがあります。当然ですが、ゼミのような状況では、誰かがルールを作らなければなりませんし、誰かが上司なのです。そこには教授がいて、そして学生がいるのです。》

●非政治的な中立化のプラットフォーム。ガブリエル発言。

《(…)今準備している『虚構』という本の第三部で、社会的存在論を展開しているのですが、そこでは、社会をつなぎ合わせる接着剤は意見の相違であると論じました。これは、ハーバーマスの合意モデルとは正反対のものです。

具体的にはこういうことです。人間はそれぞれ、事物を異なって見る為に、常に異なる意見を表明しています。これは、それぞれの人の空間的な位置や個性によるものです。誰もが異なる心の歴史をもっています。あらゆる心の歴史をひとつの統合するようなア・プリオリなルールブックなどありません。

わたしが自分の人生のなかで培ってきた思考と、あなたがあなたの人生のなかで築いてきた思考、つまりわたしたちの心の歴史が、今ここで重なり合っています。それはわたしたちが思考を共有しているからです。しかし、それぞれ別々の思考をしている以上、常に衝突する可能性はあります。お互いにそれぞれの考えがあり、それが知らないうちに対立することだってあるからですね。

わたしたちの対話が暴力的でないのは、こうした衝突の可能性を中立化しているからです。それは、対話を前に進めるために、わたしたちを結びつける話題に焦点を当てることによって中立化しているのです。意見が衝突するような話題が生じた場合でも、対話を続けることができれば、わたしたちは対立を首尾よく収めることができるでしょう。

(…)そのためのルールブックはありません。ハーバーマスなら、理性というルールブックがあると考えるでしょうけどね。》

《(…)わたしが考える普遍性とは、中立性のプラットフォームを作ることです。中島さんの用語を使うならば、普遍化するプロセスとしてのプラットフォーム、ということになりますね。

大学、教育、出版といったこれまでの制度には、さまざまな形の非対称性があります。だからこそ、新しい制度を早急に創設する必要があります。それは、グローバルな世界秩序における哲学の使命、すなわち普遍的な平和という使命なのです。そうすれば、哲学が世界哲学になりますね。》

《その意味で、大学は中立化という対抗的な力を備えるべきだと思います。これは左派的な従来の哲学者モデルとは異なります。哲学は反対勢力の立場を占めるべきではありません。というのも、それは政治家にとって与しやすい立場だからです。政治家は敵との戦い方を学者よりもよく知っているのです。》

《それに対して、わたしたちが得意とするのは中立化であり、考えることです。政治家は考えることが得意ではありません。しかし、彼らこそ考えることが必要なのです。今のわたしの戦略は、考えなければならない状況に政治家を連れ出し、中立化することなんです。》

2020-10-31

●『全体主義の克服』(マルクス・ガブリエル・中島隆博)は、新書で対談本なので、そこまで突っ込んだ議論がなされているわけではないが、しかし、『なぜ世界は存在しないのか』だけでは充分にはみえていなかった、マルクス・ガブリエルの過激な部分やルーツ(中国哲学との関係)がちらちらと垣間見える。彼が、自然主義(自然科学によってこの世界が解明できるという考え)をかなり強い調子で否定することにやや戸惑いを感じていたのだが、その理由が、なんとなくだが、うかがえる感じもある。

以下、マルクス・ガブリエルの発言部分からの引用。

●無底。

《(…)王弼の『老子』読解は、シェリングの洞察とよく似ているのです。具体的に言えば、わたしが哲学史上、最も気に入っているシェリングの「無底(Ungrund)」という概念に近いものが、王弼の解釈にも、そしておそらく原典の『老子』にも見出すことができるのです。

ある意味で、わたしが哲学者となったのは、無底という概念を知ったときでした。実際、わたしは多くの論文で無底の概念を取り上げています。

では無底とは何か。それは、「現実=実在は、統一的な法則に支配された存在者の体系ではない」ということです。

これはシェリングの考え方で、ニュートンやカントの思想の流れに真っ向から対立するものです。ニュートンやカントは、現実=実在を、思考に与えられた多くの点の集まりととらえ、それぞれの点は自然法則に従っているがゆえに、まとまりをなしていると考えます。カントはそうした自然法則の背後に何かがあるのではないかとまでは考えたものの、答えは出せませんでした。

シェリングと王弼は、こうした議論の前提に疑問を投げかけているのです。わたしは、あらゆる中国哲学は、「現実=実在は、法則に支配された存在者(物)から成り立ってる」という近代的な誤った考え方を否定していると思います。

あるいはこう言った方がよいかもしれません。中国哲学には「万物」という観念があり、その万物がそこから生じてくる底(Grund)そのものは物ではないと考えていると。この「無物」が、わたしの読解では「無」であって、それが存在する物すべての背景となっています。

これは素朴な二元論とは異なります。素朴な二元論では、一方に、法則に支配された物の領域があり、他方に法則なき暗い底があると考えます。たとえばショーペンハウアーは、仏教と重ね合わせてこうした見方を示していました。ちなみに、それは明らかにアジアの哲学的伝統からの影響ですが。

しかし、老子と王弼を踏まえると、こうした二元論は素朴です。老子と王弼が言っているのはこういうことです。「穴」や「窓」や「器」といった外に開かれたものが出てくる底がある。つまり、物の背景自体は物ではない。このことに気づくと、物と思われたものも物ではない、つまり「無」であることがわかる。

これが、わたしなりの「無」というテーマのとらえ方です。もし法則に支配されたシステムのもとに、点のような物があるという誤った概念をもつと、その「無」は、物のもっている安定性を得てしまします。》

●原事実、原偶然性。

《わたしは、後期シェリングの議論をこんな風に読んでいます。机の上にペットボトルがありますね。でもさっきまではありませんでした。では、机にペットボトルがない状態からある状態への移行をどう考えればいいでしょうか。

シェリングによれば、ペットボトルが置かれる以前の状況をすべて知り尽くしても、机の上にペットボトルが置かれるようになることを知ることはできません。たとえ「こういう場合なら、ペットボトルがあるだろう」といったような予見的な知識をもっていたとしても、それは単に、特定の条件に関わる問題を提起するだけです。その条件は、どこから来るのでしょうか。その条件が由来する条件を知っても、さらにその条件の条件自体はどうなるのでしょうか。わたしは条件の条件の……条件という知識はもてません。

結局、あるのは事実だけです。シェリングが言うように、この事実が存在するという事実---その事実性---にそれ以上の根拠はないのです。》

《(…)彼はそれを「それ以前を考えることのできない存在」とも言います。他の存在がその背後にあるとは考えられない存在のことですね。ですから、「それ以前を考えることができない存在」は、ペットボトルにも宇宙にも自然にもなりえます。何であってもいいのです。

しかし、事実の背後に考えうるものはない。これが「無底」の意味するものです。するとここに、後期シェリングのトリックが出てくるのです。原事実を根拠づけるような理由がないことを考えると、原事実がないことの理由もないというものです。

人々は常に、偶然性は何かが存在する理由がないことだと考えてきました。しかし、シェリングは、偶然性が存在することを排除するものもないというのです。つまり、原事実が存在することを排除するものはなく、事実がいきなり生起するということです。これは実に現代的な議論です。》

《たとえば、無限の側面をもった立体を想像してみましょう。その立体のひとつの側面にわたしたちがいるとします。そこには無限の時間があります。立体は常に回転しています。これがわたしたちが置かれた状況です。でもわたしたちの状況がそのように示されたものであることの理由はありません。その背後には何もないのです。シェリングは、この立体のようなモデルを一般化したわけです。

あなたは、この立体はどこにあるのか、どうなっているのかと、統計的あるいは物理的な説明を求めるかもしれません。

しかしシェリングに言わせれば、それは間違っています。立体の状況をそのように説明するための、すでに存在しているリアルなものなど必要ありません。あなたに必要なのは、存在するものの無限の可能性だと言うでしょう。このまだ存在していないもの、存在していない可能性が、すべての物において実現されていくのです。》

●原事実は絶えず反復される。

《だからシェリングは、原事実は絶えず反復されていると考えました。原事実は物のなかに維持されているのです。宇宙の始まりや時間の始まりがあるということではなく、物事は一連の出来事の途中に生起するのです。ということは、常に別の出来事が生じているということです。物事は常に可能的なものから存在するものへと直ちに生起します。

わたしたちは、物事はつながっていると考えがちですが、シェリングはそれを幻想だと退けます。その代わりに、原事実がその間ずっと反復されていると考えるのです。かつてヘラクレイトスが巧みに語ったように、シェリングも「時間はサイコロで遊ぶ子供である」ということを念頭に置いています。》

2020-10-30

●『全体主義の克服』(マルクス・ガブリエル・中島隆博)をパラパラ読んでいたら、マルクス・ガブリエルが、ハーバーマスハイデガー(特にハイデガーだが)について衝撃的な告発をしていて、そんなことが書かれている本だとは予測していなかったので不意打ちされて動揺している。ハイデガー、完全にアウトな人だった……。ハイデカーのナチスへの加担は、心情的な傾倒という程度のものではなかった、と。これは、哲学に詳しい人ならみんな知っている話なのだろうか。

ナチスが政権を取る直前から亡くなるまでの間に、ハイデガーが書き続けた三四冊のノートがあり、「黒ノート」と呼ばれていて、それが公開された、と。以下、引用はマルクス・ガブリエルの発言から。

《「黒ノート」にまつわる議論はとても複雑ですが、ざっとまとめると、こういうことです。

ハイデガーは膨大な量のノートを遺していて、そのほとんどを「存在」について考えるのに費やしています。つまり、後期のハイデガー哲学の曖昧なバージョンのように読めます。後期のハイデカーは、そもそも曖昧模糊としているのですが、ノートに書かれているのは言葉そのものも非常に曖昧で、よくわからない思考が延々と続きます。

ところが、政治的な思索として、ハイデガーとは何者なのかを、はっきり示す部分があるのです。ここまでのわたしたちの議論で、ハーバーマスがある仕方で右派的であるという話をしてきましたが、ハイデガーの場合は、「ごく普通のナチ」だったのです。

ハイデガーが一九三〇年代から一九四〇年代にかけて、弟と交わした書簡が最近出版されました。これを読むと、ハイデガーがどんなふうに国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に投票し始めたのか、つまりいつから彼がナチになったのかがわかります。それはごくありふれた政治的な理由ですが、いずれにしろ彼は徹底した本物のナチ支持者だったのです。

「黒ノート」で衝撃的なのは、戦争が始まってから、一九四〇年代の末にかけて書かれた部分です。ハイデガーは、はっきりこう信じていました。技術的な疎外〔技術によって人間が駆り立てられることで疎外されていくこと〕の知的かつ歴史的な起源は、ユダヤ人およびユダヤ的精神であると(『ハイデガー全集』第九六巻、五六頁)。

というのも、ユダヤ人が世界を脱呪術化させたとハイデガーは考えていたからです。脱呪術化という考え方はマックス・ウェーバー社会学から学んだものです。これもまた注目すべき点です。》

ウェーバーユダヤ人が技術と近代、そして合理主義を発明したと主張するために、こうした聖書の考え方を取り上げました。しかし、彼はそれにまったく反対しておらず、単に記述しているだけです。ウェーバーは、これを特定の目的のためにねじまげたりはしませんでした。

さて、ハイデガーです。彼はこの種の話を突然受け入れるようになります(同全集、九七巻、一五九頁)。「黒ノート」を書き始める以前に発表された論考では、その手の話は目立っていません。以前の論考ではむしろ自然を数学的に理解することは、デカルトデカルト主義に結びつけられていました。

しかし、「黒ノート」では、デカルト主義がユダヤ人に置き換わったのです(同全集、九四巻、四六~四七頁)。『存在と時間』(一九二七年)は、ユダヤ人であるフッサールが監修する『哲学および現象学研究年報』に発表されたものですから、フッサールの手前、ユダヤ人と書けなかったために、デカルト主義に差し替えておいたのでしょう。》

ハイデガーが『存在と時間』を「尊敬と友情の念を込めて」フッサールに捧げたことは有名な話ですが、ナチスが政権を掌握し、ハイデガーフライブルク大学の総長になると、うってかわって、一九四二年に刊行された第五版では、その献辞そのものを削除しました。》

《これもよく知られた話ですが、石と動物と人間の区別についてハイデガーが書いていますよね(『形而上学の根本諸概念』)。石には世界がなく、動物は世界という点で貧しく、人間は世界を創造する動物である。それは、無生物の自然、動物、人間を区別するものです。

そして「黒ノート」では、彼はユダヤ人のことを「世界がない」と呼んでいます(同全集、九五巻、九七頁)。》

《かつてハイデルベルク大学に在籍していたマンフレート・フランクは次のような話をしてくれました。ほかの人からも同じことを聞いていますが、一九六〇年代にハイデガーハイデルベルク大学で講演をしたときに、そこにいた共産主義者の学生たちが抗議行動を起こしました。大騒ぎになりそうでしたが、ハイデガーは教室に入ると、静かにするようにという身振りをして、学生たちはともかく着席しました。

そして、ハイデガーフライブルク大学の総長に就任したときに彼が行ったナチ支持の演説は間違いだったと明言したのです。誰もが「ハイデガーは自分の罪を認めている」と思ったのですが、そのあとハイデガーが言ったのはこうなんです。「総長就任演説は間違いだったが、政治的な間違いではなかった」。

つまり、彼が言いたかったのは「自分が本当に計画したことを公の場で言うべきではなかった」ということです。公の場でこれを言うのは間違いだった。それは戦略的な間違いだったけれど、もちろん国家社会主義は正しい政府である。彼が言ったことはそういうことです。でも学生たちは理解できませんでした。

暗号を使うようにハイデガーは自分はまだナチだと言い、学生たちはそれを聞いてどうしたらいいのか分からなかった。(…)》

《(…)ハイデガーは、戦後のドイツでナチが力を維持できるように援助していました。それがハイデガーが裏でやっていたことです。彼はそれを死ぬまで続けたのです。》

《メディアもショックを受けていますが、報道されている以上に、「黒ノート」の中身はひどいものだと思います。ここまでひどいとは誰も予想していなかったでしょう。「黒ノート」の公開で、ハイデガーは完璧なまでのナチのイデオローグであったことが判明したのですから。》

《(…)私自身、ハイデガーで哲学の本格的なトレーニングを受けたので、彼のそうした部分を最初のころは本当のことだと思っていませんでした。今のわたしの見方は非常に極端かもしれませんが、ハイデガーが残酷なナチだという見方は、「黒ノート」のような数々の証拠で確認されたと言わなければなりません。》

2020-10-29

●世界があまりに殺伐としているように感じられるなか、マティスの「私の芸術は知的労働者のための安楽椅子でありたい」という発言の重要性について考えている。いまこそ、「知的労働者のための安楽椅子」が必要な時なのではないか、と。死なないためにも。

マティスは、第二次大戦中のヴィシー政権下でも感覚の快楽(充実)を追求していた。これはしかし、「ヴィシー政権下でも」ではなく「だからこそ」だとも言える。「安楽」や「癒やし」というと、安易で簡単なものだ(あるいは、現実から目を逸らすための「逃げ」だ)という誤解があるが、深いところでの感覚の快楽は決して安易なものではなく、癒やしもまた、決して簡単に行えるものではない(絡まった瘤はそう簡単には解れない)。それはとても困難なことで、高度な達成を必要とするし、革新的な踏み出しが必要な場合もある。そして、(少なくともある種の人にとって)そのような過程は必要不可欠のものだ。

(「癒やし」はやり方を間違えると大きな後遺症を残してしまかいねない危険なものでもあるだろう。)

クソな世界やクソな人々のなかで、それでも正気を保って生きていくためには、感覚をよろこばせ、疲労を癒やして、心をやわらかくさせ、知的な好奇心や興奮を奮い立たせられる---あるいは、現実とたたかえる---状態を静かに準備することを可能にするような上質の安楽椅子が必要だろう。それは、サウナや温泉やキャンプなのかもしれないし、ヨガや瞑想なのかもしれないし、アイドルの現場に通うことなのかもしれないし、ナイトクラビングなのかもしれないし、極上の料理なのかもしれないし、上質なドラッグなのかもしれないし、散歩と昼寝なのかもしれない。

(感覚によろこびを与えてくれるものを享受することと、いわゆる「消費する」こととは異なる。)

そのようなものと同列の位置に、芸術(や哲学など)もあり得ると信じたい。たとえば、不意をつかれる「アイデア」や、予期できないような他者からの「視点」や、信じられないようなパス回しによって繋がっていく見事な「思考の展開」や、練りに練られた極上の「概念」や「技巧」(そして、そのようなものたちを感じさせる「感覚」)によって、人が癒やされることがあるはずだと思う。というか、そういう密度と厳密さを持ったものでなければ癒やされないという人がいるはずで、そういう人たちのために開かれた「安楽椅子」としての芸術というあり方が(も)必要だろうと思う。

2020-10-28

●『たまこまーけっと』と『たまこラブストーリー』の音楽を、最近亡くなったインスタントシトロン片岡知子がやっていたことを今になって知った。吉田豪が「渋谷系はアニメのなかに生き続けている」みたいなことを言うのは、こういうことなのか。

「もち蔵のテーマ」片岡知子

https://www.youtube.com/watch?v=gBbUcuaH_Os

たまこまーけっと OP「ドラマチックマーケットライド」

https://www.youtube.com/watch?v=AtFpPAVAy8k&t=94s

●『たまこまーけっと』の制作現場レポートという動画があった(多分、DVDの特典映像なのだろうと思う)。監督の山田尚子が、キャラクターデザイン、総作画監督堀口悠紀子、オープニング原画の石立太一美術監督の田峰育子、色彩設計の竹田明代、撮影監督の山本倫と、スタッフの仕事場を訪ねてレポートしている。こういう動画は見入ってしまう。

顔出しはしていないけど、堀口悠紀子の姿を(そして、実際に絵を描いているところを)はじめて見た。ホワイトボードに絵を描いていて、え、その絵をそんなに躊躇なく消してしまうのか、もったいない、みたいな感じ。

制作現場レポート 第01話 「山田監督の、~堀口悠紀子の懐に潜り込みたい~」

https://www.youtube.com/watch?v=lmSjPQBpMyA

制作現場レポート 第02話 「山田監督の、~アニメーターに突撃したい~」

https://www.youtube.com/watch?v=0KmRulhZYDs

制作現場レポート 第03話 「山田監督の、~美術ボードをチェックしたい~」

https://www.youtube.com/watch?v=rOpXHuMU1uY&t=435s

制作現場レポート 第04話 「山田監督の、~竹田色に染められたい~」

https://www.youtube.com/watch?v=QpL2qyaZeXo

制作現場レポート 第05話 「山田監督の、~撮影現場を撮影したい~」

https://www.youtube.com/watch?v=Z0OE7jqg678&t=179s

2020-10-27

●ユリナジアのダンス動画で、知らなかったミュージシャンを知る。その三。

yurinasia. : んoon

https://www.youtube.com/watch?v=G0m_eGUtggw

んoon - Summer Child | TOWER DOORS

https://www.youtube.com/watch?v=8aP5uMGLl1Y

んoon - Amber (Summer ver.)

https://www.youtube.com/watch?v=Ni9BGk8sMwQ

んoon - Gum

https://www.youtube.com/watch?v=BSf6f6qE754

んoon - Tokyo Family Restaurant

https://www.youtube.com/watch?v=Nk5g60yFc-k

んoon - Freeway

https://www.youtube.com/watch?v=ltOZDp7E3BY

んoon - Summer Child [YouTube Music Sessions at FUJI ROCK FESTIVAL’19 "ROOKIE A GO-GO"]

https://www.youtube.com/watch?v=uS-bu_2xd7M

yurinasia : AATA  Blue Moment

https://www.youtube.com/watch?v=-7aIcKKLPwA

AATA「Blue Moment

https://www.youtube.com/watch?v=SjJEifoRX5g

AATA「Airport」LIVE

https://www.youtube.com/watch?v=upjH2_6OC9w

AATA「Sway」

https://www.youtube.com/watch?v=LN-NApbhNG4

AATA - Sway | One Song One Shot

https://www.youtube.com/watch?v=fgxXWqdXSZw

●火曜TheNIGHTに出ていた「彼女のサーブ&レシーブ」というアイドルがとても面白かった。最近、片岡知子が亡くなったインスタントシトロンの「Still be shine」という曲を歌っていた。何か関係があるのかと思って調べたら、インスタントシトロンの人がプロデュースしているアイドルだった。

Still Be Shine  Instant Cytron

https://www.youtube.com/watch?v=AgdDzd7P0d4

6/13ライブ映像 彼女のサーブ&レシーブ

https://www.youtube.com/watch?v=pMpFiPYYwp4

2020-10-26

●kojikojiという人。

せもたれ feat. Kojikoji, Akusa

https://www.youtube.com/watch?v=3nD_46jkL-Y

l o f i c h i l l // r e m i x (SUKISHA×kojikoji)

https://www.youtube.com/watch?v=XOywfTMjtmI

CAREFREE (feat. kojikoji) · lo-key design · kojikoji

https://www.youtube.com/watch?v=zmOsfabexRc

スイセン (feat. kojikoji) · NSK · kojikoji

https://www.youtube.com/watch?v=RYyhaW9E5gQ

BLUE - LUCKY TAPES feat. kojikoji (romanji lyrics)

https://www.youtube.com/watch?v=TuXNjlbzFKw

ZIW - 寝言feat.kojikoji (Official Music Video)

https://www.youtube.com/watch?v=fUUai0Cm28Q

BASI/普通feat.鎮座DOPENESS(kojikoji Cover)

https://www.youtube.com/watch?v=TIIRpL6HjGY

愛のままに BASI feat.唾奇(kojikoji Cover)

https://www.youtube.com/watch?v=iM0eEpYuolQ

kojikoji(コジコジ)

https://spaceshowermusic.com/artist/12707715/