2021-05-21

●子供の頃の記憶。祖父は酒好きで、夕食の時にビールを飲むのだが、ビールだけではアルコール度数が低いからか、いつも、ビールに焼酎かジンを足して飲んでいた。焼酎のビール割りにはチャッピー、ジンのビール割りにはドッグス・ノーズという名がついているのを、最近知った(祖父は勿論、そんな名は意識せず、ただ、そうやって呑んでいただけだろう)。

2021-05-20

●『大豆田とわ子と三人の元夫』、第六話についてもうちょっとだけ。社員たちが総出で、必死に予算削減を検討しているのに、社長の松たか子は(事情があるとはいえ)一本の連絡を入れることすらしない。これは、社長としての責任を果たしていないと言われても仕方なしいし、社員から不信感をもたれても仕方がないことだろう。実際、事情を会社に知らせることくらいはそれほど困難なことではないだろう。でもおそらく、それらを全部分かった上で、(誕生日でもある)今夜だけは、仕事関連のアクセスのすべてを遮断して、(社会的な責任のある社長としてではなく)自分個人としてあり、友人の死と向き合い、弔い、友人と共にある時間とするのだ、ということだと思う。平時ではなく、会社が大変な危機に直面している時だけに、これは強い意志がないと出来ないことだと思う。

(これはこれとして、一方で社員の側からみれば、そんな社長に不信感をもってしまうというのは、それはそれで当然だとも言える。)

(そして、前回を受けて松田龍平にだけは連絡する、というのがなんとも…。おそらく、前回のことがなければ松田龍平にも連絡しなかったのではないか。)

●だがそれは「誕生日」の一日だけのことだ。それが過ぎれば、葬儀の段取りもこなすし、葬式の後はきちんと仕事もこなす。そもそも彼女は、母親の葬儀の日に社長に就任したのだった。松たか子には松たか子の流れがあり、市川実日子には市川実日子の流れがある。松たか子は一日(一晩)だけ友人と共にあり、そして自分の側に戻ってくる。

(前回の冒頭で、母の葬儀の場面---および、布団がふっとんだ---がリピートされていた。また、それにつづく場面で、会議に遅れてきた高橋メアリージュンが「母の具合が悪い」と言うと、こういう時は仕事はいいからすぐ帰るようにと指示した。これを、今回の遠い先触れだったとみることもできる。)

そして仕事を終えた後、松たか子は改めて市川実日子の部屋を訪れる。恋愛の場であり、多くの人々が訪れる(様々な関係性が交錯する)松たか子の部屋のオープン性に対して、市川実日子の部屋の部屋に入ることが出来るのは、本人以外は松たか子だけだ。そこは、諸々の流れから外れた、二人だけの場所なのだ(松田龍平も、この部屋には入れない)。

2021-05-19

●連続ドラマを、一気観するのではなく、一話ごとに観ることの意味は、中途半端なところで切られて、一週間の間宙ぶらりんの状態に置かれるということだ。つまり、一週間という咀嚼する時間が与えられる。これは貴重なことだ。

連続ドラマの各話の感想を、先の展開が見えないままその都度書くという理由は、続きを観てしまったら「先の展開を知らない」という状態にはもどれないから。知らなかった時の状態を思い出すことは難しい。先の展開を観てしまったら、展開を知らない時点での感想を書くことは二度とできなくなる。

『大豆田とわ子と三人の元夫』というドラマは、そのようなことの意味を改めて考えさせられるというか、味わわせられる。視聴者を戸惑わせる展開をみせ、それにかんする説明も、衝撃を受け止める時間すら与えず、ポンと一年後へ飛ぶ。飛んだかと思うと、「一年飛ばしますよ」という情報だけ与えられて、今週終わりでスパッと切られ、つづきは一週間待ってね、となる。

(そういえば前々回で市川実日子は、最後の晩餐にはコロッケがいいと言い、松田龍平と二人でコロッケを食べていたなあ、と。)

(前回、市川実日子の食事シーンがあったかどうか、今、すぐに思い出せないのだが、もしかすると、松田龍平とコロッケを食べているシーンが---画面上では---本当に市川実日子の最後の晩餐だったかの。いや、晩餐じゃないが。)

●『大豆田とわ子と三人の元夫』、第六話。すべてを潰す回。三人の元夫の未来だったかもしれない三人の女性との関係の可能性を潰し、松田龍平の気持ちの行き先だった市川実日子との関係の可能性も潰す。一話から五話までで積み上げられてきた、恋愛にかんするあらゆる可能性を潰して(本当にアンチ恋愛ドラマだと思った)、最初にあった「大豆田とわ子と三人の元夫」という関係だけが残る(伏線というより、まるで総集編であるかのように、過去の回のセリフが再現される)。振り出しに戻る。ただし振り出しと違って、松たか子は親友を失っている(詳しくは描かれないが、社長としての信頼も失っているかもしれない)。

松たか子のマンションに、本来その場を占めているはずの、松たか子、豊嶋花、市川実日子以外の(そして会社関係者以外の)、主要な登場人物のすべてが集う(岩松了とその妻まで)。そして、会社関係者は全員、会社に集っている。松たか子が占めるべき(松たか子が中心となるべき)二つの場に、彼女が不在。

物語上の主要な二つの問題(恋愛と会社の経営)にとって重要な出来事が、松たか子のマンションと会社で展開されているなか、彼女はそのどちらの問題の展開からも外れている。ドラマの中心となるべき人物が、ドラマ上で主要な二つの問題のどちらにも参加していない。その「不在」が、表の主要な問題をサボタージュしてまでも向き合うべき、より重要な、背後にある「別の問題」(友人の死)の存在と大きさを表現する。

マンションでは、恋愛巧者たちの恋愛ゲーム(攻防戦)、ザ恋愛ドラマ的展開が行われており、会社では、会社を守るための社員たちの必死の共働が行われている。これはどちらも、市川実日子がそこから脱落してしまった、彼女にとって理解出来ないルールで行われるゲームの世界だ。本来、どちらの場でも中心を占めているはずの松たか子は、その二つの場の両方から離脱する(失踪する)ことで、最後に友人と共にあった。

(身近な人の「死」の問題という水脈は、表にある恋愛と労働という問題とは別に、潜在して、まさに伏線---伏せられた線---として存在していた。この物語は「母の死」からはじまっていた。母の死が、元夫たちとの関係を再度つなぎ直した。)

(市川実日子は本当にふっといなくなる感じで、最後の市川の姿が思い浮かばない。このまま、いっさい市川を出さないで終わるのかと思ったら、さすがにそこまで非道な展開ではなく、最後の方にちらっと回想シーンが入った。

松たか子は泣かない。ただ、マンガを読んでいる時に、絶妙に「泣きそうな顔」になる。)

●女たちの能動性と男たちの受動性。女性たちは一方的にいいよってきて、一方的に離れて行く(石橋以外)。男たちは当初アプローチに戸惑い、受け入れ体制が出来たところで去って行かれる(松田以外)。

一方に、過剰に見られる女(芸能人)、瀧内公美がいて、他方に、存在を気づかれない女(ホテルの従業員)、石橋菜津美がいる。過剰に見られる者と過剰に見られない者がいて、男たちはそのどちらでもなく、まさに「一般人」である。過剰に見られる/ 見られない存在が、そのどちらでもない存在に近づこうとする時、そのギャップを埋めるために「嘘」が媒介となる。過剰に見られる女は、台本通りのセリフで誘い、台本通りのセリフで別れる。過剰に見られない女は、嘘(不当解雇・パワハラ)によって存在を主張し、嘘(温泉旅館の娘だから裕福・心配しなくてよい)を理由として去って行く。

(我々は、石橋菜津美に気づかない岡田将生を責めることはできない。視聴者もまた、ドラマのちょっとした細部に気づかずに通り過ぎ、後になってからやっと「そういえばあの時…」と気づく---あるいは気づかないまま---のだから。)

松田龍平石橋静河との間にある「嘘」は三角関係に起因するものなので、他のペアとは異なる。ここで嘘は、岡田義徳に対する嘘であって、この場合「嘘」が二人を共犯者とする。既に、松田が岡田に告白することで「嘘=共犯性」は消えている。「嘘」の媒介的作用が無効化されてもなお、石橋は松田を求める。だからこのペアだけ質的に他のペアと異なる。

(自らを積極的にプレゼンしていく石橋静河の清々しさ。)

(角田晃広岡田将生が、餃子の具を溢れさせるのに対して、松田龍平の餃子には具が入っていない。このようなキャラ対比が鮮やかだ。)

2021-05-18

田村正和をはじめて意識したのは何時(どの作品)だったのかもう憶えていない。テレビドラマでは『夏に恋する女たち』(中学生の時に観た大人のおしゃれドラマ)、映画では『無理心中 日本の夏』(高校生の時、「戦メリ」関連の大島渚特集上映で観た)の印象が強くある。古畑任三郎はおそらく一本も観ていない(いや、二、三本くらいは観てるかも、憶えていないだけで…)。

2021-05-17

●U-NEXTでゴダールの『カルメンという名の女』が観られるようになっていたので、観た。かなり久々だと思うが、いつ以来だろうか。はじめから最後まで、ひたすら「かっこいい」と感嘆するばかりだった。超絶技巧と繊細さに、ぶっきらぼうな粗っぽさが奇跡的に同居している感じ。繊細さと粗さの同居はゴダールのいつものことなのだけど、ここではそれが特に上手く共存・配合されていると思う。

有楽シネマで観た『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』の二本立てと、シネヴィヴァン六本木で観た『カルメンという名の女』の、どちらがゴダール初体験だったか忘れてしまったが、『勝手にしやがれ』と『気狂いピエロ』は「へー、これがゴダールね」というくらいの感じであまりビンと来なかったのだが、『カルメンという名の女』にはガツンとやられてしまった、という記憶がある。あれからもう四十年近く経つ。

(当時ぼくは、『カルメンという名の女』を観てはじめて「人の顔」を発見したというくらいの強いインパクトを受けたのだった。それまでの自分は「人の顔」を個人を識別する徴くらいにしか見ていなかったのだなあ、と、目からうろこが落ちたような感じ。)

ゴダールは、67年に商業映画から離脱して、80年に『勝手に逃げろ/人生』で再び商業映画に復帰するのだけど、この時期の、ゴダールが「今、まさに映画を再発見している」という感じの作品は特に好きだ(『勝手に逃げろ/人生』『パッション』『カルメンという名の女』)。

四十年近くも前の映画によって、当時とまったく同じ映像と音を体験出来るのだけど、映画の外では四十年の時間が経っており、自分も四十年分歳を取っているのだという、このギャップにはなかなかくるものがある。映画を観ている自分が、時間のどの位置にいるのか混乱してしまう。当時の自分が今もそのまま観ているようであり、当時の自分とは遠く離れた自分が観ているようでもある。

(とはいえ、昔はボカシが入って見えなかった部分がほぼ完全に見えるようになっているし、字幕も当時とは別のものになっていた。「それを暁と呼ぶ」が「それは夜明けです」みたいになっていたのに驚いた。そういう意味では、昔とまったく同じではない。)

2021-05-16

●お知らせ。 Spotlight (日本語)とmedium(英語)に、VECTIONのアカウントをつくりました。ガバナンスにおける権力分立の望ましいあり方について考えるエッセイを、週一のペースで公開することを目標にしています。長いエッセイを、少しずつ出していきます。

Spotlight

spotlight.soy

 

medium

vection.medium.com

 

久保ミツロウ能町みね子YouTube動画で、能町みね子が話題にしていた「ファッション イン ジャパン」という展覧会が気になって、即、図録をネットで注文してしまった。

広島そして島根会議【第61回 俺たちデトックス女子会会議室】

https://www.youtube.com/watch?v=dZuf-6Wgs_0

ファッション イン ジャパン 1945-2020―流行と社会

https://fij2020.jp/

この図録をパラパラ観ているだけでとても楽しい。今、毎日多量の文章を読み込んで、それにかんしての(ほんの数人しか読まない)少なくない量のテキストを書くという苦行のなかにいるので、そのストレスがかなり癒やされる。

ファッションが面白いのは、その構造、形式、概念、フォルム、色彩の配置、を見て楽しむことがそのまま、それぞれの時代の空気を感じることと直結している感じがあるというところではないか。それは、古い時代の写真を(過去の風景や人の姿の具体性を)見るということとも少し違っていて、いったん人の手(頭)によって造形・加工(虚構化)されていることによって、時代の空気が濃縮されたり、エッジが立てられたりすることで、「空気そのものがそこにある」感が強く出るのではないか。加工物によってはじめて生まれる、具体物とは異なる生々しさがある、というのか。

2021-05-15

●『今ここにある危機とぼくの好感度について』、第三話。変わらず、現実や権力のあり様を単純化、紋切り型化しすぎていることで、批判の論点がブレてしまって、何が言いたいかよく分からなくなっているように思うのだけど。ただ、松坂桃李のキャラはだんだん面白くなってきている。

気になったのは、イベント推進派の教員や学生たちに、苦情を直接受け止めている広報課の職員へのケアについての意識がないこと。推進派教員は広報課長に「申し訳ないが、そこは我慢してください」と言うだけだ。リベラルにありがちなブラック労働容認的空気(言論の自由のためには広報課職員が犠牲になるのも仕方ない的な感覚)への批判的視点がないように思う。

(かろうじて、広報課の女性職員が「わたしもう耐えられません」と課長に泣きながら訴える場面があるが、松坂桃李の「心のない」対応との対比による笑いで流されて、この問題についてこれ以上深く触れられることはない。)

総長が、上からの権限でイベントを強引に実施する時に、もっとも大きな負担を受けるのは、増え続けるであろう苦情を受け続けなければならない広報課の人たちではないかと思う。ジャーナリストや観客を守るために警備を強化することは出来るが、広報課の職員たちを守るための対策はどのようにすれば可能なのか。こういうところに、現実的に困難で大きな問題があると思うのだが。

ただ、総長(松重豊)が本音を言い出すと「英語」になる、というのは皮肉が利いていると思った。総長は日本人には期待していないということが(それが無意識だとしても)、これによって表現されている。「意味があること」を言う時には英語で言う。日本語は国内コミュニティにしか届かず、故にそこでの事情に縛られ、国内でのポジション取りのための抗争の道具にしかならないからむなしい、という諦観は(残念だけど)リアルだと思った。