2021-07-10

●下のリンクは、最近、気になったアイドル曲。情報元は、「アイドル三十六房」(と一部、吉田豪ツイッター)。ライブアイドルの曲を探して聴く面白さは、昔、「坂本龍一サウンドストリート」でやっていた「デモテープ特集」を聴く面白さに近いのかもしれないと思った。

(このような書き方では「デモテープ特集」を知らない人に誤解を与えてしまうかもしれない。すごい完成度に驚くということと、素朴だが、素朴であるが故に可能なコンセプトの面白さを面白がる、ということが同列に扱われる場というような意味。完成度の粒度の違いが階層的関係をつくることなく並立的にあり、それがそのようにある必然性において面白いかどうかがのみが問題となる。完成度の高い楽曲と高いスキルのパフォーマンスのすごさという良さと、ゆるくて未完成であることによって生じる面白さの間に優劣がないという感じ。)

(良いたとえかどうか分からないが、少年野球のチーム同士の試合でも、良い試合は良い試合であり、大リーグのチームの試合でも、つまらない試合は、つまらない試合だ。少年野球の選手と大リーガーでは技術的にも体力的にもレベルが違うが、そのようなレベルとは別にある---レベルを超えてある---「良い」「つまらない」が問題になるような場、というような感じ。)

(アイドル楽曲が少年野球レベルだと言いたいのではない。全然そんなことはない。そうとられかねないので、あまりよいたとえではないか。)

5/19発売 ごいちー『週末メリーゴーランド』Trailer

https://www.youtube.com/watch?v=nvQIBbuYJfM

水硝子 RYUTist

https://www.youtube.com/watch?v=xOhnCvCD6gE

RYUTist - Chewing Happiness(そしゃくの歌) | 日本咀嚼学会公式ソング

https://www.youtube.com/watch?v=46en70A8N2Q

Tiny Heavies (ver.1) / 1/fキュレーション

https://www.youtube.com/watch?v=LUqL88vUhJ0

Ilie (金子理江)/ aimai / Official Music Video

https://www.youtube.com/watch?v=f399Zm2xbVw

アフターフィーバー · Craveit

https://www.youtube.com/watch?v=M5BMeO6raxw

輪廻転生 - Bon Club

https://www.youtube.com/watch?v=CrENeFGQLfw

ルカタマ『おかえりタマちゃん』MV

https://www.youtube.com/watch?v=cRNxvfM06W4

Mia Nascimento /ミア・ナシメント - forget / Summer me

https://www.youtube.com/watch?v=2FhVjzbuK4k

2021-07-07

メルヴィルの「バートルビー」は、基本的にコメディとして書かれているように思う。バートルビーダウンタウンの不条理コントのキャラクター(トカゲのおっさん、とか)のようであるし(ぼくはどうしても、バートルビー吉田戦車の絵で思い浮かべてしまうが)、「せずにすめばありがたいのですが」(酒本雅之・訳)というセリフも、「グランドチャンピオンはね、チャンピオンを経て、チャンピオンを経て、チャンピオンを経て、チャンピオンを経られる人間だけがなれるんだよ」「問題は経つづけられるかどうかなんだよ」、「~を経て、~を経て、経て…」というようなおかしな決まり文句の反復で笑わせるコント(ダウンタウン「経て」)と同様に、読者が、お、来るぞ、来るぞ、と期待し、来たー、となって笑う、というパターンとしてあるだろう(だが、終わり方がコメディではないのだ)。中盤から終盤にかけて、たたみかけるように逸脱が大きくなってくるという展開もコントの書法(コント=短編小説という意味ではなく、コント=お笑いという意味で)だと言えるだろう。

話者とバートルビーの関係も、古い話だがコント55号坂上二郎萩本欽一の関係を思わせる。萩本欽一坂上二郎に無理難題を次々とふっかけて、坂上二郎が追い詰められて汲々としながらも難題に応えていく様の滑稽さ(飛びます、飛びます…)。バートルビーは能動的性向がゼロであることによって逆説的に萩本欽一たり得るような人物で、なにもしないことによって---坂上二郎のように気のいい(しかしどこか狂気を孕んだ)---話者を追い詰めていく。小説は、バートルビーの「なにもしなさ」を、話者による反応の滑稽さ(可能な限りの社会的な寛容さ)を通じて反転的に描くことができる。

とはいえ、バートルビーは本質的には(サディスティックな欲望によって坂上二郎を追い詰めていく)萩本欽一とは異なっており、他者を追い詰める意図はなく(そもそも他者に興味はなく)、最期まで能動性がゼロのままで、なにもしないことを貫いて、ただ静かに消えていく。このラストが「コメディでない」ことによって、全体としてコメディ化せず(コメディとして完結せず)、完結しないので全体が(笑いによって)解決されないまま宙に浮く。笑って済ませるところが、笑って済ませられなくなり、笑えなくなって、むしろ急速にすんとさせられ、余韻やひっかかりとして、バートルビーの(能動性を拒否する)存在が感触が残り続ける。

(「バートルビー」の話者は、社会的に許容し得る最大限の寛容さを表現していると思われる。しかし、バートルビーのそこには収まらない。人間の社会とは根本的に相容れない、脱去する存在だろう。)

2021-07-06

●(昨日からのつづき)ムージルの『トンカ』で、トンカの母語はおそらくチェコ語であろう。しかし、彼女の暮らす環境ではチェコ語はマイナーな言語であり、公的にはメジャーな言語であるドイツ語を使う必要がある。だからトンカは、働き口である《彼》の家ではドイツ語を使う。故に、ドイツ語では自分の感情や考えを十分には表現できない。

(これはたんに使用言語の熟達度の違いだけでなく、その言語を使うことではじめて表現し得る、ある文化的な体系のようなものも含めて「違う」のだ。)

一方、《彼》にとってドイツ語は母語であり、トンカに対してもドイツ語で話しかけ、そして、トンカがドイツ語を用いて《賢く》話すことができるようになることを(その要求が当然であるかのように)望む。しかし、《彼》の方はチェコ語を理解せず、理解しようと考えることすらない。ここに明らかな非対称性があり、《彼》の側の傲りが現れている。

しかしそれでも、トンカが《彼》に対して心を開いていたことを示すエピソードとして、トンカの故郷の歌を、トンカがその歌詞をドイツ語に翻訳して、二人で歌うという場面にあらわれていると思う。

《(…)夏だった。日が暮れると、空気が顔や手にちょうど同じくらいの温度に感じられ、歩きながら目を閉じると、からだが溶けて無限の中をただようような気がした。彼はそのことをトンカに言った。彼女が笑ったので、自分のいったことがわかるかと彼はたずねた。

ええ、わかりますとも。

しかし彼は疑い深く、きみ自身のことばでそれを話してごらんといった。彼女にはできなかった。

それではやはり、きみにはわからないんだ。

いいえわかります---そして突然彼女はいった---歌をうたわなくては。》

《(…)あるオペレッタの一節をトンカはうたったが、それはおそろしく下手だった。(…)おそらく彼女は、今までに一度だけ劇場に行ったことがあり、それ以来このあわれな音楽が、彼女にとっては、かがやかしい人生の神髄なのだ、そう、彼は考えた。だが実は、このわずかなメロディさえ、以前勤めていた商店の朋輩から聞きおぼえたものにすぎなかったのだ。》

《「うたいたいといったのは、本当はこんな歌ではないのです。」

彼の眼に好意的な光が浮かんだので、彼女はまた小声でうたいはじめた。しかし今度は、彼女の故郷の民謡だった。二人はそうやって歩いていき、そしてその歌の単純な節まわしは、日ざしの中で舞う紋白蝶のように悲しかった。この時、文句なしにトンカは正しいのだった。》

《(…)二人はいっしょにうたったのだった。トンカは彼にまず歌の文句を原語で語ってきかせ、それからドイツ語に訳してみせた。そうして二人は手を取りあって、子どものようにうたったのだった。息をつぐために途中で切らなければならなかった時には、彼らの前にいつも小さな沈黙があった。夕闇が彼らの行手にひろがっていた。こういうことすべてが取るに足らぬことだったにせよ、その夕暮れは、彼らの感覚とぴったりひとつになっていた。》

2021-07-05

ムージルの『トンカ(三人の女)』。これは難解な小説だ。カフカベケットには難解さを感じないが、ムージルは難解だと感じる。観念とロジックとイメージとを、普通ではあまり考えられないやり方でモンタージュしている。それがある圧縮された塊をつくっており、自分なりのやり方でそれを解凍しないと読み進められない。

古井由吉が書いていたが、トンカはおそらくチェコ語母語とする人で、身内や同族で話すときはチェコ語を使うが、村の外に働きに出ようとするとそこはドイツ語圏となるのでドイツ語で喋るのだろう。そういう環境が前提としてある。日常会話くらいのドイツ語は出来るが、自分の考えや感情の深いところまではドイツ語では表現できない。トンカが無口な女性であり、《彼》からは脱去するような存在であるように見えることの一因はそこにあるだろう。

主人公の《彼》はブルジョアのボンボンであり、自分が属するブルジョア的な「世間」を嫌って、合理的な化学を志すような人物だ。ブルジョアのボンボンが、素朴に見える異邦の女の中に神秘のようなものを(勝手に)見出して、惹かれて、結果として裏切られる。こういう話はおそらく掃いて捨てるほどある。そのようなクリシェをあえて採用し、クリシェをギリギリまで追い詰めて絞り込む。

《彼》を取り囲む強いブルジョア的な「世間の規範」があり、そこから脱するために《彼》が依拠する学問的、合理的な思考がある。しかし《彼》にはブルジョア的世界に対する愛着もある。母に対するアンビバレントな感情がそれを現わしている。母とヒュアチントとの関係に対する強い嫌悪など。ヒュアチントが体現するような「精神」こそがブルジョア的な規範であり、《彼》の学問は、ヒュアチントのようなブルジョア的精神への否定としてある。とはいえ、《彼》にとって「世界(現実)」は、ブルジョア的世間と合理的な学問という相容れないものの混交によって出来上がっている。

トンカは、そのような《彼》にとっての「現実」を揺るがす。それはまず、トンカの存在が素朴な生の肯定そのものであるように感じられるところからはじまる。トンカという存在は、《彼》にとって、自分が失ってしまった「世界への素朴な信仰」を体現しているように感じられる。《彼》は、トンカを愛することを通じて、世界を素朴に肯定するための通路を得るだろう。一方、そのようなトンカは、資本主義的な現実やブルジョア的な規範のなかで、貶められ、汚されて、みすぼらしい存在であるかのように扱われる。ブルジョアで学もある《彼》は、そのような女性を上から目線で保護しようとする。トンカも彼の愛を受け入れているようにみえる。

そんなトンカの元に、《彼》に由来しない妊娠と性病とが発現する。合理的に考えても、世間知的に考えても、トンカが《彼》を裏切ったとしか考えられない。しかし、トンカは裏切りを否定する。トンカが妊娠していること。トンカが《彼》を裏切っていないこと。この、相容れない二つの事実を共に肯定する(受け入れる)にはどうすればいいのか。これは、《彼》にとって「現実(世界のリアル)」をどのように構成(信仰)するのかという大問題である。《彼》は、観念とロジックとイメージとを駆使して、相容れない二つの事実の両立をなんとしてでも成立させようと試み、一瞬、成立できたと思い、すぐに、いや、そんなことはなかったと思う。このような必死な思考=試行をジグザクにつづけるなかで、《彼》にとっての現実がだんだんと解体されていく。観念とロジックとイメージのモンタージュは、徐々に夢のようなヴィジョンに近づいていく。

苦悩する《彼》の傍らに、トンカは常に存在し、しかし何も語らない。そしてトンカは、あっけなく死んでしまう。死ぬ直前にトンカもまた夢をみる。

《自分が間もなく死ぬことを、と彼女は言った、わたしは眠りの中で知りました。どうしてかわからないけど、とてもうれしく思いました。ひと袋の桜んぼをわたしは手に持っていました。その時わたしはこう思ったのです。まあ、どうしたの、その前に急いでこれを食べてしまわなくてはだめよ!……》

そしてトンカの死後、《彼》のもとに、「相容れない事柄を共に肯定する」という問題は偽の問題にすぎなかったとでも告げるようなヴィジョンが訪れる。

《彼はひどく疲れていた、彼は陽光の中に立ち、彼女は地下に横たわっていた、しかし何はともあれ、彼は光のこころよさを感じた。あてもなくあたりをながめている彼の眼に、不意に、大勢の子どもたちのうちのひとりの、泣きわめいている顔がうつった。その顔は真向から日に照らされ、いまわしい蛆虫のようにくしゃくしゃに歪んで、八方に伸びちぢみしていた。その時思い出が心の中で叫んだ。トンカ! トンカ! 彼は、足もとから頭までまるごとの彼女の存在を彼女の全生命を感じた。かつて知らなかったものの一切が、この瞬間彼の前に立っていた。眼から眼帯が落ちたような気がした。》

これは、小説の最初の方に出てきた場面の反復でもある(ここには、《彼》の愛情と同時に「上から目線」がみられるだろう)。

《たとえば、ある日彼はトンカといっしょに用足しに出かけた。道で子どもたちが遊んでいた。突然ふたりの眼に、泣きわめていてる小さな女の子の顔がうつった。その顔は蛆虫のようにくしゃくしゃに歪んで、真向から日を浴びていた。光の中にあるこの顔の無残な鮮明さには、彼には、彼らがその圏内から出てきた死にもまがう、生の啓示であるように思われた。だがトンカは、単純に「子どもたちが好き」なのだった。彼女はその女の子の方に身をこごめて、ふざけてみたりあやしたりし、この一件をおどけたこととしか感じていないらしかった。どんなに彼がむきになっても、この光景が外見ほど単純ではないのだと、彼女に悟らせることはできなかった。どの側面から接近しようと、彼はとどのつまりは、いつも変わらぬ彼女の心の不透明さにぶつかって立ちどまってしまうのだった。トンカは愚かではなかった。しかし何ものかが、彼女が賢くなることを妨げているように見えた。》

2021-07-04

タブレットを買ったので、はじめての電子書籍として、試しにドゥルーズの『フランシス・ベーコン 感覚の論理』を買ってみた。理由は簡単で、紙の本よりも四百円以上値段が安かったから。そのかわり、電子版にはベーコンの絵の図版がまったく入っていない。だが、半分はベーコンの画集と言えるような(大きくて重たくて分厚い)旧訳版をもっているので、図版はそれと付き合わせれば問題ない。新訳版のほうが旧訳版よりもずっと分かりやすい訳になっているだろうと思われるのに、新訳版を今まで買っていなかったのは、(旧訳版だけで本棚の場所を充分に広く占有してしまっているし)旧訳版があれば十分ではないかと思っていたからで、その意味でも「場所を占めない」電子版ならば買ってみようという考えもあった。

最初の「1 円、舞台」という章だけ、さらっと読んでみた。文字の組み方、レイアウトが紙の本とは根本的に違っていて、タブレットで読みやすいような形に整えられているので、思いの外読みやすかった(ページ数という、空間的限定を意識しなくていいので、文字の組み方に余裕がある)。ハイライトとして四色の傍線を引けて、傍線部分にはメモも残せるようになっているので、(四色ではぼくには足りないし、紙の本ほど自在にマークすることができるわけではないが)書き込みながら読むということが一応はできるので、ドゥルーズの文章でも、ちゃんと---紙の本と比べてこれといった困難を感じずに---読むことができた(訳文もかなりわかりやすくなっていた)。これは、思っていたよりかはいいのかもしれないと感じた。

(ただ、このKindleという仕組みの根本をアマゾンに押さえられているという感覚は、読みながらも時々感じられた。同じ本を読んでいる他の人たちが多く「ハイライトした」部分が「共有」されている(四人の人がこの部分をハイライトしました、という表示がでる)。そのこと自体は、同じ本を複数で読んでいる感じで、あるいは、買った古本に前に読んだ人によって線が引かれていたみたいな感じでもあって、面白いとも言えるのだが、その面白さ---共同性---の根本部分をアマゾンという巨大企業に握られているのだなあ、という、ちょっとした抵抗感は拭えない。)