2021-07-17

●お知らせ。VECTIONによる権力分立についてのエッセイ、第8回をアップしました。本文はここでひとまずは「結び」ですが、この後に「補遺」がつづきます。また、このテキストは、長いテキストのほんの序章で、この後、3レイヤーサイクルの話は、対称/非対称5レイヤーサイクルにまで発展していきます(が、それはまだずっと先)。

三権分立脆弱性を修正する (Part VI):結び

https://spotlight.soy/detail?article_id=tiv9a3zwd

Conclusion / Fixing Vulnerabilities in the Tripartite Separation of Powers (Part VI)

https://vection.medium.com/conclusion-612c1ab890ba

●西川さんの「分散化ソクラテス」、本題に入ってきた感じ。

分散化ソクラテス:(10)問答法の持続不能性:経済的自立

https://spotlight.soy/detail?article_id=acquklm03

ソクラテスは、他のソフィストと違って、問答法の相手から金銭を受け取らなかったという。彼は、「共同体内で他人を論破して出世する」という明確なゴールを持つディベート術を教えたわけではない。ソクラテス自身が自分の弁論術が出世に使えるわけがないと自覚的だった。なので対価を取らなかった。逆にソフィストたちは生活費を稼ぐため、ディベート術を家庭教師した。だから職を失いたくなくて、共同体のルールや神には逆らえない。ソクラテスとは違う。》

《それはいい。対価の要求は、ある意味で趣味の問題だ。しかし、ではソクラテスはどうやって生活していたのか?他の労働で生活費を稼ぐか、不労所得を得るしかない。》

《もし、前者なら、余技としてしか問答法はできない。後者なら、それは結局経済的自立とは両立していないし、見えないところで他者を搾取しているから、「自由と平等」という問答法の意図と矛盾する。》

The Unsustainability of the Method of Dialogue: Economic Independence

https://asakin.medium.com/the-unsustainability-of-the-method-of-dialogue-economic-independence-fe4fe6b69ee1

東工大の「文学B」の講義の三回目(「描写」と「構造」)で、ボルヘスの「円環の廃墟」(牛島信明・訳)「バベルの図書館」(鼓直・訳)と対比的に取り上げるチェーホフの短篇は、「少年たち」(神西清・訳)「学生」「聖夜」(松下裕・訳)にしようと思った。「少年たち」は、12、3歳の、ちょうど脱子供化しはじめた頃、思春期の少年のちょっと痛い感じを描くという、ある意味テンプレ的な主題だけど、それがチェーホフによっていかに生き生きと表現されているかを分かりやすくみることができると思う。それに対して、「学生」と「聖夜」は、作家としてのチェーホフの「やりたいこと」の核心のようなものが、割とストレートに、しかも濃厚に出ているように思われる。それに、「少年たち」が12、3歳くらいの、ようやく子供である状態から抜け出すくらいの時期の少年の話で、「学生」が、これから自分の人生を切り開いていこうとする22歳の青年(が、みたもの)の話で、「聖夜」はもっと年齢のいった、既に死というものを親しく意識するような人たちの話だということで、ボルヘスの短篇の超俗的な感じとは異なる、時の流れとともに変化していく生身の存在としての人について書かれた小説、という感じが強調されるのではないか、と。

東工大 2021年度 文学B

http://www.ocw.titech.ac.jp/index.php?module=General&action=T0300&GakubuCD=7&KamokuCD=110100&KougiCD=202100885&Nendo=2021&lang=JA&vid=03

2021-07-15

●ここ数日、ボルヘスの小説をいろいろ読み直していたのだが、東工大の講義で取り上げる作品は、思い切りベタに「円環の廃墟」と「バベルの図書館」にしようと思った。ある意味で小説入門のような講義なので、あまりひねった感じにしない方がいいだろう。ただ、この二作はボルヘスの代表作といえるかもしれないが、必ずしもボルヘスの作風を代表しているわけではないと改めて感じた(『ボルヘスとわたし』の自作解説のなかでも、「円環の廃墟」を自分の最高の作品だとする世評に異を唱えている)。この二作は、まるで数式で書かれた小説であるかのように、一行の冗長さもなく、すべての行による緻密な構築によって、過不足なく(まるで結晶のような)一つの複雑な構造体をつくりあげている。そのような小説の代表と言える作品だと思う。ただ、ボルヘスは必ずしもそういう小説を書きたかったわけではなく、もっとシンプルな、悪漢的ガウチョの物語や、故郷であるブエノスアイレスの土地柄を感覚的に表現するような小説を書きたいと思い、書こうとしていたのだと感じられた。

(そのほかに、現代アニメにも通じるような過去改変---「夢」と「記憶」を媒介とした過去改変だという意味ではいかにもボルヘスっぽい---の物語である「もうひとつの死」、ミステリのパロディであると同時に、「バベルの図書館」系の自作に対する批評でもあるかのような「自分の迷宮で死んだアベンハカーン・エル・ボバリー」などが強く気にかかった。)

まるで数式のような、結晶のようにソリッドなボルヘスの小説に対して、伸びやかに、生き生きと飛び跳ねるような感覚的描写をもった作品として、チェーホフの短編をいくつか対比的に示して、小説というメディウムのもつ表現の幅広さを感じてもらいたいのだが、それにふさわしい作品をみつけるために、次はチェーホフの短編を読む。

以下は、ボルヘス『創造者』(鼓直・訳)から「鳥類学的推論」という印象的だった短い断片(最後の一文は、飛躍しているというか、論理的につながっていないように思うのだが…)。

《目を閉じると鳥の群れが見える。映像は一秒そこそこしか持続せず、見えた鳥の数もはっきりしない。その数は限定されたものだったのか、それとも限定されないものだったのか? 問題は、神の存在というそれを含んでいる。神が存在するとすれば、その数は限定されたものである。神は、わたしが何羽の鳥を見たかをご存知だから。神が存在しないとすれば、その数は限定されたものではない。誰もそれを数えることはできなかったのだから。この場合、わたしが観たものは一羽以上、十羽以下の鳥であると仮定しても、それは、九羽、八羽、七羽、六羽、五羽、四羽、三羽、或いは二羽だったことを意味しはしない。わたしが見たのは、飽くまでも十と一との中間の数であって、九、八、七、六、五……のいずれでもない。問題の整数の推測は不可能であり、故に、神は存在する。》

2021-07-14

●U-NEXTで、『花束みたいな恋をした』を観た。「大豆田とわ子」にハマった者としては(同じ坂元裕二脚本の近作である)この映画をスルーするわけにはいかなかった。ただ、観始めて30分くらいは、あまり良い印象はなかった。有村架純菅田将暉は、なんとと言ったらよいのか、サブカルともオタクとも少し異なる、やや濃いめの文系ユースカルチャー全般みたいなものが好きな二人なのだが、冒頭の30分くらいで飛び交っている様々な「固有名」を聞いて、舐めてんのか、と、そういう名前さえ出しとけばお前ら食いつくんだろ、みたいな態度が透けてみえるように思えて、いやいや、たんに普通の恋愛ドラマに濃いめのカルチャーをまぶしたくらいで騙せると思うなよ、少なくとも『中二病でも恋がしたい!』とか、そのくらいの本格的なやつを観てから出直せよ、みたいな「マウントをとりたくなる」気持ちにはなった。

有村架純菅田将暉はすごくぬるい。たとえば、有村架純はアイスクリーム店でバイトするのだが、普通はこういう趣味の人は、まず、書店、古書店、あるいはライブハウスやイベントスペースやカルチャーセンター、搾取されるかもしれないが単館系の映画館、上手くいけば出版関係などでバイトしたいと思うのではないか(どこもバイト代は安そうだが、アイスクリーム店がそんなに給料がよいとも思えない)。しかし、そのような作り手や送り手側にがっつりかかわるような場は選ばずに、普通におしゃれめなアイスクリーム店を選ぶ。あるいは菅田将暉ははイラストレーターを目指し、先輩の写真の作品の個展などに足を運んだりはするが、彼の部屋にイラストレーションやデザインにかんする本が目立つことがないし、また、人間関係のある先輩以外の人の展覧会を積極的に観て回る様子もない。好きなイラストレーターが話題にのぼることもない。

だけど、この映画ではそのぬるさこそが重要であり、そのような「ぬるいオタク」を中心に据え、ぬるくある存在を肯定的に描くというところに重点があるのだと、しばらく観ていくと気づく。有村架純菅田将暉は、濃ゆいコミュニティに積極的に参加することのないぬるいオタクであるからこそ(「濃くない友人」はいるとしても)孤独なのであり、普通の人とも、ガチオタの人とも話があわない(どっちつかずで、中途半端である)。そのような、「同じようにぬるい(が故に孤独な)」二人が出会ったということが貴重なことなのだ。この映画は極端な人の物語ではなく、あくまで中庸な人の話だ。オタクと呼ばれる多くの人は、一方でちゃんとした定職をもって真面目に働き、もう一方で、自分の稼いだお金で「推し」に課金することを喜びとする。あるいは、作り手や送り手を目指す人は、低い収入や不安定な立場、将来の見通せなさなどを引き受けつつも、制作(製作)活動をつづけることを選ぶ。だが二人はどちらでもなく、その中間のいいとこ取りを、なんとなくふわっと実現させようとする。そんなに都合のいいことがあるのか、甘いだろう、と言いがちだが、そのような言葉は既に「この社会のあり様」に汚染されてしまっている。

もしそれが上手くいくのならば、それこそがまさに中庸であることによって実現される「奇跡」であって、それは肯定され、祝福されるべきだろう。そしてこの映画は、そのような奇跡がたとえ一時であっても成立したことを示している。

だがこの映画は、そのような奇跡を言祝ぐ映画ではなく、一度は成立した奇跡が、じっくりと時間をかけてじわじわ崩壊していく過程を(まるで化学の実験のような感じで)冷徹に提示していく。そしてその崩壊の主な原因は、中庸であることの弱さであり、もっと言えば、中庸であることの弱さを認めない「この社会のあり様」であると言える(このような「社会のあり様」は、まず最初に、「広告代理店的」であるとされる有村架純の両親によって二人の間にもたらされる)。菅田将暉は、中庸なところから徐々に「普通に働く人」の方へ移動していき、有村架純の方は、中庸なところから徐々に「作り手や送り手に近い立場の人」の方へと移動していく。どちらかを選択せよという社会的な要請が強く働いてしまうのだ。

恋愛は、一見ごく個人的な関係のようにみえるが(というか、実際そうであるが)、もう一方で異性愛的恋愛がつくる男女のカップルは、「この社会」を構成する最小限の基本単位であるから、そこには否応なく「社会」が深く貫入してくる。仮に、どちらか一方を選択せよという社会的な要請が強いとしても、二人ともが同じ方向へ(たとえば、二人そろって「作り手送り手側」へ)近づいていくように移動すれば、二人の関係(いい感じ)は維持されたかもしれない。しかしそうはならず、二人の方向がばらけてしまったことの背景には、「この社会」ではまだ、男性に期待される役割と女性に期待される役割との間に歴然とした違いがあることが作用しているようにみえる。菅田将暉は決してマッチョな価値観をもつ人ではないが、そんな人でも「男」が「会社」に入るとそちらの方へと誘導されてしまう。恋愛に否応なく「社会」が貫入してくる様を描いているという点で、この映画はきわめて社会派的である。

(逆に、男は外で働き、女は家庭を守る、というような価値観がきわめて強く作用していた時代であれば、二人の関係はすんなりその枠に収まって、破綻していなかったかもしれない、とも言える。)

(そもそも、入社前は「五時で帰れる」などと上手いことをいいながら、入社してしまえばこき使い、意義を唱えようとするよりも前に先回りして「五年我慢すれば楽になる」といってつなぎ止めて、人のもつ責任感をたてにとって拘束しようとするなどというのは、まったく悪質で詐欺的な手口だ。)

だがこの映画は、恋愛はあっけなく壊れてしまうという映画ではなく、むしろ、一度成立した関係は実はなかなか破綻しないという映画であろう。ここで描かれるのは、心はとっくに離れてしまっているのに、互いにそのことをなるべく(自分自身に対して)気づかないようにして、相手に対して最大限の配慮をはらいつつ、関係がずるずるとつづいていく様だろう。むしろ、恋愛を破綻させるのはとても難しい、という映画であるようにみえる。有村架純菅田将暉も、どちらもとてもいい人であり、たとえば菅田将暉の先輩のようにDVでもあれば、二人の関係はもっとすんなり解消できたかもしれないが、菅田将暉は一線を越えるようなことを決してしない人であるために、関係の解消はどこまでも先延ばしされる。

仮にこの、(互いに相手に対して最大限の配慮を行う)関係の先延ばしを一生つづけることができたならば、二人の関係は別の次元に到達し、二人はとてもよいカップルであった、ということになるかもしれない。実際、そうなりそうな一歩手前までいくのだが、そうはならないのは、二人にとって「奇跡」の経験があまりに大きすぎるからであろう。目の前で、かつての二人の「奇跡」の再現のようなものを見せられることで、このまま、あたかも「奇跡」などなかったかのように関係をつづけることは出来ないと、二人は思ってしまう。つまり、幸福で奇跡的な出会いこそが、二人の関係の「別次元への昇華」を妨げたとも言える。あるいは、恋愛関係になりさえしなければ、二人は最良の一生の友人だったかもしれない。その、どちら(奇跡あり/奇跡なし)が良いとは、簡単には言えない。

(オダギリジョーが出てきた時、またお前なのか、と思ってしまった。そして、最後の方で有村架純がオダギリとの浮気を匂わすような発言をする場面で、ああ、そこをちゃんと誤魔化さないのだな、と思った。)

(有村架純は、菅田将暉と付き合うことによって、菅田の先輩の彼女である韓英恵と知り合い、友人となる。有村架純韓英恵との友人関係は、韓が先輩と別れた後でもつづくし、有村が菅田と別れた後もつづくだろう。有村架純は、女性たちとの関係において浮いており---あるいは「浮かないように」演じている必要があり---それまで韓英恵のような同性の友人はおそらくいなかった。そのことによって彼女は孤独であった。しかし、「ぬるいオタク」としての有村架純の孤独は、菅田将暉によってというよりもむしろ韓英恵という存在によって埋められたように思う。しかし、菅田将暉にとってそのような存在であったと思われる「先輩」は死んでしまうのだ。)

(ところで、「花束みたいな恋」という比喩がどういうことなのかよく分からなくて、映画を観れば何か分かるのかとも思っていたが、結局よく分からないままだった。)

2021-07-13

●プリミティブなスキャナー版画をつくってみた。

正方形を下の形で切り分けた二つのパーツと、その元になった正方形という、三種類のパーツの組み合わせだけで出来ています(昨日のものも含めて)。

(チープなスキャナーなので、肉眼で観るのと発色がかなり違う。薄めの紫が紺色みたいになってしまう、など。おそらく、モニターによっても発色はかなり違うのだろう。)

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2021-07-11

●お知らせ。VECTIONによる権力分立についてのエッセイ、第7回をアップしました。

三権分立脆弱性を修正する (Part V, 2/2):局所的な逆転、相対主義、権力分立維持

https://spotlight.soy/detail?article_id=wi2nculp8

Local reversal, Relativism, Maintaining division of power

https://vection.medium.com/local-reversal-relativism-maintaining-division-of-power-be498ec8ac73

●10月からはじまる東工大の講義(「文学B」)では、一回目は授業ガイダンスを予定している(ただ、それだけでは時間が余ると思うので、文学と当然かかわりがある、近代芸術、現代芸術の流れの基本的な話をしたいと思う)。

で、二回目は、ホメーロスイーリアス』、オウィディウス『変身物語』、旧約聖書(ここまで紀元前、小説以前)のいくつかの断片を読んで分析し、そこからいきなり20世紀初頭のルゴーネスが聖書を題材として書いた短篇小説(「火の雨」「塩の像」)を詳細に読む。それにより、「小説」というものによって何が(どんなことが)書けるようになったのかという「感じ」を体感してもらえるようにしたいと考えている。

三回目では、チェーホフボルヘスの短篇をいくつか読むことによって、小説における「描写」と「構造」を体感する、という授業を考えているが、具体的にどの作品を取り上げるかはまだ決まっていない。

そして四回目。ホーソーンの「ウェイクフィールド」、メルヴィルの「バートルビー」、そしてウェルズの「白壁の綠の扉」という、主に19世紀(ウェルズの小説は20世紀に入ってすぐのものだが)に英語(米英)で書かれた、いわば「世にも奇妙な物語」といえる三つの短篇を読むことで、小説によってある種の夢の領域=「心の---潜在的な---脱社会的傾向性(社会問題や人間関係には決して還元されない領域)」の存在が表現可能になったということを示したい。また、「バートルビー」は素朴とは言えないものの、「フェイクフィールド」と「白壁の綠の扉」は現代の眼からみるととても素朴な小説に見えるのだが、その素朴さによってこそ捉えられるものがあるということを言えればいいと思う(「ウェイクフィールド」など数行で要約できるし、もしかしたら本文を読むより「要約」を聞くだけの方が喚起性が高いとさえ言えるかもしれない)。

今月中に、(全14回中の)ここらへんくらいまでの講義の内容をきちんとつめておきたい。