2021-10-11

●講義のために『ペドロ・パラモ』(フアン・ルルフォ)を読んで、自分がいままでこの小説のラストを誤読していたのではないかと気づいた。いままで、ペドロ・パラモは最後の場面で、(小説の最初に出てきて、主要な語り手であるフアン・プレシアドをコマラに招き入れた)ロバ追いのアブンディオに殺されるのだと思っていた。しかし、よく読むと必ずしもそうとは言えない。

まず、妻を亡くした悲しみから泥酔して我を失ったアブンディオが、妻の埋葬のための費用をペドロ・パラモに無心するつもりで、酔いと悲しみの混乱のうちに自分ではそうと意識しないうちにペドロをナイフで刺してしまうという(凝縮されて充実した)場面がある。そして、それに続く場面。

《「これがおれの死だ」とつぶやいた。

太陽が少しずつ昇ってきて、まわりを鮮明に照らしだした。ペドロ・バラモの前には、荒涼とした無人の土地が広がっているばかりだった。太陽が徐々に暖まってきた。その目がかすかに動いた。現在をかき消して、ひとつの記憶からべつの記憶へと飛び移っていたのだ。不意に心臓が止まったりすると、時間や命の息づかいも停止するように思われた。

「とにかく、新たな夜が来なければいい」と思った。

亡霊の群れで満たしてしまう夜が恐かった。 亡霊たちと顔をつきあわせるのが恐ろしかった。

「もう少ししたら、アブンディオが手を血だらけにして、おれが断った施しを無心にくるはずだ。そのとき、おれは奴を見ないですむように、目を覆い隠すこともできないだろう。奴の声を聞かなけりゃなるまい。 夜明けが訪れてその声が消えるまで、その声がかれ果ててしまうまで」》

この場面は、二通りの解釈が可能だ。ひとつは、ペドロ・パラモは「自分が息子であるアブンディオに殺される場面を妄想、あるいは予言している」という解釈。《もう少ししたら、アブンディオが手を血だらけにして、おれが断った施しを無心にくるはずだ》という言葉は、まだ、その場面がやってきていないことを意味するはずだ。ならば、この場面の前に置かれている「ペドロが刺される場面」は、ペドロによる妄想(自分は息子に殺されたい)であるか、予言(自分は息子に殺されるであろう)であるはずだ。

もうひとつの解釈は、ここでペドロ・パラモは(他の登場人物達と同様に)既に死んでいて、幽霊であり、自分の死の場面を何度も何度も反復して経験している、というものだ。だから、ペドロは、もう少ししたら息子のアブンディオが自分を殺しにやってくることを知っているのだ、と。この場面だけ読めば、この二つ目の解釈の方が適切であるようにも思われる。しかし二つ目の解釈は、これにつづく、この小説の最後の部分によって否定されるだろう。

《肩を叩かれたので、体を起こして身構えた。

「あたしですよ、旦那さん」とダミアナが言った。「昼ごはんを持って来ましょうか?」

ペドロ・バラモは答えた。

「あっちへ行くさ。いま行くよ」

ダミアナ・シスネロスの腕につかまって歩こうとしたが、二、三歩進んだところで倒れた。心の中で何かを哀願するようだったが、ひと言もその口からは洩れれてこなかった。乾いた音をたてて地面にぶつかると、石ころの山のように崩れていった。》

ここには、ペドロ・パラモの死が、《石ころの山のように崩れ》るような死であることが書かれている。これは、ナイフで刺された血まみれの死とはあきらかに異なるように思われる。つまりペドロは、自分が望んだ、あるいは予言した(息子による父殺しという劇的な)死ではなく、たんに石が崩れるように死んだのだということが、突き放されて記述されていると読める。

おそらく、どの解釈が適当か、ということよりも、最後の最後の凝縮された短い場面の連鎖のうちに、解釈が何度もひっくり返るようなねじくれた構造になっているということが重要なのだと思われる。

2021-10-10

●週二回講義があると、どうしても準備に追われてしまう。それに、講義の中身を詰め込みすぎで、一本調子の早口で喋りまくって無理矢理時間内に納める感じに、どうしてもなってしまう。

今、九回目の『ペドロ・パラモ』についての講義のスライドをつくっているのだが、これも、グスグズしているとすぐ追いつかれてしまうな。

(はみ出してしまったジェイン・ボウルズを、どこに組み込むかもまだ決まっていない。組み込むためにはどこかを削るしかないのだが。)

2021-10-09

新潮新人賞の「彫刻の感想」(久栖博季)、とても周到に構成・構築された小説だと思った。

樺太に居住するウィルタという民族のナプカという少女が、戦中に家族と別れ、日本人の家族にもらわれてフイという日本の名に変わる。フイの一家は戦火を逃れ北海道に渡り「あきお」という息子を産む。小説では、ナプカ(フイ)の母、オーリのエピソードから、娘のナプカ(フイ)、フイの兄の茂、フイの息子のあきお、あきおの娘である杏子のエピソードが、時系列の蝶番から外れて、互いに互いを包み合うかのように行きつ戻りつしながら語られ、そこに、北海道の風土や、熊(羆)、トナカイ、鹿、アザラシ、鳥たち(不死鳥)といった動物たちの(現実的でもあり、神話的でもある)イメージが織り込まれていく。フイの息子のあきおは、母がナプカという名で(も)あり、ウィルタに属していたことを知らず、民族の記憶はそこで途切れ、また、杏子は同性愛者で子供をつくらず、ウィルタとしての「血」もそこで途切れる。

ただ一人、フイの(もらわれた先の、血の繋がりのない)兄である、彫刻家の茂だけが、フイの出自を知り、彫刻としてウィルタの記憶を引き継ごうとしている。また、孫娘である杏子は、しばしば自分と祖母のフイとを同一視し、シャーマンのように自らのうちに祖母の記憶を反復的に蘇らせる。そのためなのか、父あきおの代で途切れたウィルタとの繋がりは、一方でロシアからの郵便を通じて、もう一方で彫刻家である茂を通じて、杏子の元で通じることとなる。とはいえ杏子は子供をもたないので、それも杏子の代で途切れるだろう。

「血」や「記憶」あるいは「魂」といったものの、伝承と断絶が織りなす複雑なネットワークが、歴史と、神話的動物まで含んだ北方の風土を背景として描かれている、という感じだろうか。政治的に読めば、少数民族が日本という大きな流れに同化させられる過程とも読めるかもしれない。

周到に編まれて密度も濃い高度な小説だと思うが、文章やイメージの作り込み、比喩といった表現を、妙にひねりすぎているように感じられるところがないわけではなかった。とはいえ、濃くて面白かった。

2021-10-08

●大学の講義がはじまっているのだが、ぼくは、大学の様子も知らず、学生たちの雰囲気も知らず(一人として学生を目の前にすることなく)、学生たちの反応も分からないまま、一人、遠く離れた部屋にいて、ただ、時間が来たらPCの前で喋りはじめ、時間が来たら喋り終わるというだけで、手応えというものがなく、これでホントにいいのか、よくないとしたら、よくないということをどうやって知ればいいのか、と不安になってくるのだが、とはいえ、基本的に引きこもりで、人と接するのも苦手なので、実際に大学に出向いて、学生を前にして講義するより、こちらの方が自分には向いているのかもしれないとも思う(Zoom使いがもう少し手際よくなれば)。

●デュラスの『ロル・V・シュタインの歓喜』についての授業のためのスライドが、どう考えても講義一回分の時間をまるまる使わないと収まらないものになってしまった。これでも、絞れるだけ絞って、この小説の特異性を感じられるために最低限必要だと思われる四つの場面に絞っているのだが。

(ならば、ジェイン・ボウルズをどこにもっていけばいいのか…)

ジェイン・ボウルズとデュラスとを講義の同じ回に考えたのは、どちらも、「存在(狂気)」を基盤とした小説で、それは「意味(差異)」を基盤とした小説とはあり方が違っているので、読み方もちょっと違うということを示したかったから。これでは正確な言い方ではないか…。意味(差異)の構築によって存在(狂気)を覆い尽くそうとする小説と、存在(狂気)の上に不安定に意味(差異)が乗っかっている小説との違い、というべきか。ジェイン・ボウルズとデュラスは後者で、前者と言えるのは、たとえばクロソウスキーとか。

すごく雑な言い方になるが、「存在」には意味がない(「存在」は「意味」によって把捉できない)ので、「存在」は無意味や穴や空隙としてしか表現できない。その、無意味や穴の外堀を意味(差異)によって埋めていくことで、逆説的(ネガティブ)に無意味や穴の在処を示そうとするか、あるいは比喩的な「深み」によって表現しようとするのが、普通のやり方というか、多くの作品のあり様だと思うのだが、そうではなく、無意味そのものが直に露呈してしまっていて、そのまわりに辛うじて積み木のような不安定な意味(差異)が仮構されているというのが、ジェイン・ボウルズやデュラスの小説のあり様だと思われる(とはいえ、デュラスの構築はとても複雑だ)。

たとえば、『ロル・V・シュタインの歓喜』を、三角関係、不倫、覗き、みたいな、そういう「欲望の構造」の小説(「欲望とは他者の欲望である」みたいな)として読んでしまうと、とても薄っぺらなものにみえてしまう。たしかにこの小説は、ロル、マイケル、アンヌ=マリの三人の関係が、後に、ロル、ジャック、タチアナの三人において再演されるという形をとっているし、ひとまずはそういうものとして読むしかないのだが(とはいえ、三人の関係は三角関係ではない)、ロルという人物は、そのような欲望の構造を操作する「主体」としては、底が抜けすぎている。むしろこの「底が抜けている」ということの方が関係の構造よりも重要で、欲望の構造はこの「抜けた底」を露呈させるために仮構されたものだとみた方がよいと思われる。

ロルが組織しようと画策する「欲望の構造」は、「私の快楽」を保証する安定した構造でもないし、「決してそこに到達できない」ことによって機能する(馬の鼻先のニンジンの)ような構造でもない。到達したらどうなるか分からないその未知の構造にロルは到達しようとする。いや、存在には意味がないとすれば、そこに到達すると無意味そのもの、穴そのものになるしかなく、それは通常は狂気(意味・差異の破綻)と呼ばれる状態であり、つまり到達しても破綻しか待っていないと思われる。しかしそれこそが求められる「未知」の状態なのだ(「不可能なもの」ではなく、あくまで「到達可能な未知のもの」としての「存在=差異の破綻」だろう)。

2021-10-07

●『ロル・V・シュタインの歓喜』(マルグリット・デュラス)の語り手がジャックだと書くことは、それだけで重大なネタバレになる。

《以下に、事細かに述べるのは、タチアナ・カルルが話したそのうわべの見せかけとやらと、T・ビーチのカジノの夜に関して私がでっち上げた話を、まぜこぜにしたものである。それをもとに、ロル・V・シュタインについての私の物語を語ることにする。》

上記のようにあからさまに語り手の存在を意識させながらも、小説の途中までは、それを誰が語っているのか分からないまま小説は進行する。どうやらロルを愛しているらしいその語り手の《私》は、小説が三分の一程度進行したところで、タチアナの愛人であり、(タチアナの夫である)ピエール・ブニュールの医局にいる医師、ジャック・ホールドであると名乗る。

結婚して故郷のS・タラを離れたロルが、十年後、夫の昇進によって再び故郷へ帰ってくる。そして故郷を散歩している時に、女学校時代の友人であり、「T・ビーチの事件」の時に傍らにいたタチアナが、男と密会しているのに出くわす。ロルは二人を尾行し、ホテルに入るのを見届けるだけではなく、ホテルの裏にあるライ麦畑から、二人が密会するホテルの窓を覗き見する。その後でロルは、タチアナの現在の住まいを調べ、タチアナ宅を訪ねようと画策するのだが、この、ロルがタチアナ宅を訪ねるというタイミングで、《私》が語り手であるとジャックが名乗りをあげる。

つまり、ロルが覗いていたホテルの窓、外からロルがタチアナを見ていた時に、その部屋の内側にいた男こそが語り手であった、と。読者は、ロルが外から窓越しに部屋のなかを見ていた場面を読んでいる時はまだ、語り手が部屋でタチアナの相手をしている男性だということを知らない。だが、それを知った後に改めてその場面を読み返すと、なんとも複雑な視点の「入り交じり(混交)」があることに気づき、この小説の記述の複雑さ(視点や欲望の複数的絡み合い)を感じる。

まず、覗き見しているといっても、ロルはライ麦畑に横たわって窓を眺めているのであり、《これだけ離れていると、ふたりがなにか喋っても彼女には聞こえない》《 (…)彼女には、彼らが窓のむこうの部屋の奥を通るときしか見えない》という距離があり、詳細に見えているわけではない。だが、つづいて次のように書かれる。

《男がまたしても灯りの中を通るが、今度は服を着ている。そして彼にほとんど続いて、タチアナ・カルルがまだ裸のまま通る。彼女は立ちどまり、顔をかすかに仰向けて反りかえり、上体をぐるっと回転させ、腕をあげて両手で受けとめる構えになりながら、髪を体の前にもってきて、それを縒りりあわせて上にもちあげる。乳房は細い身体に比してぼってりしているが、すでにかなりしなびていて、タチアナの全身でそんなに傷んでいるのはそこだけだ。 ロルはその昔この乳房の付け根がどんなに清らかだったか思い出したはずだ。タチアナ・カルルはロル・V・シュタインとおない年だ。》

普通に読んでいると、タチアナの乳房が《すでにかなりしなびて》いるのを見ているのはロルであるように読んでしまう。読者は語り手が誰なのかまだ知らないし、段落の最初の部分、《男がまたしても灯りの中を通るが、今度は服を着ている》というのは、あきらかにロルの視点(を、語り手が想定して語っている)であるように思われるからなおさらだ。とはいえ、窓の外から乳房が「しなびている」というところまで見えるだろうか、と疑問には思う。

だが、次の段落を(語り手が誰かを知った後で)読むと、これは完全に内側からの視点であり、つまり、ロルの視点を想定して語られているはずの場面に、語り手の視点がずうずうしく混じり込んでいるのがはっきりと認識できる。というか、語りがここで、自分の正体を明かさないままで自己主張しているのが分かる。

《私は思い出す。 彼女が髪の世話にかかりきっているあいだに男がそばに来て、かがみこみ、やわらかで量のある髪の中に顔をうずめ、 接吻し、彼女のほうは髪をもちあげつづけ、彼のすることには構わずにつづけ、それから放すのだ。》

ここで、タチアナが「髪の世話にかかりきっているあいだ」に、男が「髪の中に顔をうずめ、 接吻し」ているのを至近距離で見る(思い出す)ことが可能なのは、その行為をしている本人以外ではありえず、それを《私》が思い出すのだとしたら、もうこの時点で、語り手(《私》)がタチアナの愛人であることが事実上明かされてしまっているのだ(ということを、再読してはじめて気づくのだが)。

だとすれば、一つ前の段落では《乳房は細い身体に比してぼってりしているが、すでにかなりしなびていて、タチアナの全身でそんなに傷んでいるのはそこだけだ》という描写と感想を行っている主体がロルであるかのように書いているが、そうではなく、語り手が自分のもった感想をあたかもロルのものであるかのように語らせているのだ、ということが分かる。なにしろロルは、外から窓によって区切られ限定された一部分を見ているだけのなだから(タチアナの全身を見られるはずはないのだから)、タチアナの全身で「そこだけ」が傷んでいるなどという判断はできないはずだ。

この小説はなんと複雑なのかと思い、そして、そのような複雑な書き方でしか書けないことを書こうとしている、ということも強く感じる。

2021-10-06

●『ロル・V・シュタインの歓喜』(マルグリット・デュラス)における、三人の主要な登場人物たち(ロル、ジャック、タチアナ)の力関係の構造について考えて、図にしてみた。

小説の全体の構図は下のようになっている。

f:id:furuyatoshihiro:20211008191007p:plain

まずは、三人の力の及ぶ範囲を示した図。ロルは、自らの欲望の遠近法の内部で、ジャックとタチアナの関係を操作することができる。ジャックは、ロルの奇妙な欲望の遠近法を外からの描写(記述)によって顕在化できる(全体の語り手)。タチアナは、この物語の起源となる「T・ビーチの事件」を外からの描写(記述)によって顕在化できる唯一の人物である。

f:id:furuyatoshihiro:20211008191033p:plain

次に個別に、その受動性と能動性をみてみる。まずはタチアナ。タチアナは、ロルの欲望の遠近法のなかでロルとジャックに利用される(受動)。しかし、それなしでは物語が成立しない起源である「T・ビーチの事件」におけるロルについて、外から描写(記述)する唯一の権利をもつ(能動)。

f:id:furuyatoshihiro:20211008191107p:plain

次にジャック。ジャックは、ロルの遠近法の内部で役割りを演じさせられ、利用される(受動)。しかし同時に、自分がその内部にあるロルの遠近法を、外から描写(記述)する権利をももっている(小説の語り手である)。

f:id:furuyatoshihiro:20211008191140p:plain

そしてロル。ロルは、自らの遠近法の内部でジャックとタチアナを操作し利用する主体である(能動)。しかし、T・ビーチの事件についてはタチアナから、遠近法の構造についてはジャックから、描写(記述)される対象である(受動)。また、最初の事件はアクシデントであり、制御不能であった(受動)。

f:id:furuyatoshihiro:20211008191204p:plain



このように、どの人物も完全に能動的(主体)でもなく、完全に受動的(対象)でもなく、その有り様もそれぞれ異なる(すべての人物が、メタレベルとオブジェクトレベルの両方に同時に---異なるあり方で---位置している)。そしてこの能動と受動の組成の違いが、それぞれの人物の欲望のあり方の違いをあらわしてもいるだろう。

 

2021-10-05

●「早稲田文学 2021年秋号」に掲載される小説「ライオンは寝ている」のタイトルは、もちろんThe Tokens の「The Lion Sleeps Tonight」からきているのだけど、この曲をはじめて知ったのは、「ライオンは起きている」というタイトルで日本語カバーされたバージョンで、それはビートたけし主演の『刑事ヨロシク』(1982年)というドラマの主題歌に使われていた。オリジナル曲を知ったのはもっと後で、たしか大瀧詠一がパーソナリティをしているラジオ番組でこの曲がかかり、大瀧詠一が「ライオンは寝ている、起きてない」と曲紹介した時だった。大瀧詠一の声やこの時の抑揚も含めて、「ライオンは寝ている、起きてない」という言葉(発語)を、なぜかその後もずっと憶えているのだった。曲そのものより、この時の大瀧詠一のフレーズの印象が強く残った。

The Tokens - The Lion Sleeps Tonight (Wimoweh) (Audio)

https://www.youtube.com/watch?v=OQlByoPdG6c

ライオンは起きている ''The Lion Sleeps Tonight?''

https://www.youtube.com/watch?v=6CLw1EwrBWU

(ウィキペディアをみたら、トーケンズが必ずしもオリジナルということではなく、「Mbube」(ズールー語でライオンの意味)というタイトルの原曲があるようだ。)

●『刑事ヨロシク』は久世光彦演出のドラマだった。久世光彦は、TBS時代はヒットメーカーだったが、退社後は、どちらかというとひねった(ひねりすぎた)マイナーな感じのドラマをつくる人という印象になった。『刑事ヨロシク』も、野心的ではあってもそんなに面白いとは思えず、人気的にもいまいちだったように記憶している。ただ、ぼくは、久世光彦が『刑事ヨロシク』の翌年に演出した『あとは寝るだけ』というドラマ(これも人気はあまりなかったと思う)が大好きだった(好きだったという以外のことはあまり憶えていないが)。三木のり平堺正章樋口可南子といった人が主役だが、脇役として小劇場系の俳優(東京乾電池とか東京ボードビルショー)がテレビに進出しはじめたくらいの時期だと思う。このドラマに出ていた、まだほとんど無名だった小泉今日子がすばらしくよかったという印象が残っている。

(というか、このドラマの放映中に人気が急激に上がった感じで---それは、このドラマが原因だということではまったくないのだが---だから、ドラマがはじまった時点ではほとんど無名だったということだと思う、おお、こんな人がいるのかと驚いた記憶がある。)

(こうやって思い出すと、当時---八十年代前半---はびっくりするくらいテレビをたくさん見ていたのだなあと思う。面白くても、面白くなくても、とりあえず見ていたのだなあ、と。)

YouTubeに、こんな動画があった。

あとは寝るだけ

https://www.youtube.com/watch?v=ogrg_4tm1vQ