2023/01/19

●昨日の日記に書いた多次元、例えば四次元に、神秘的な意味は全くない。たんに四つの座標によって表現される空間ということにすぎない。同様に、十の座標で表現される十次元や、百の座標で表現される百次元を容易に考えることができるし、そのような空間はおそらく数学的にはありふれたものだろう。コンピュータがあれば、百次元空間内の点aと点bの距離も簡単に計算できるだろうし、百次元空間に存在する百次元立方体の体積を求めることもできるだろう。ただそれは、数式、行列式、数値という形で表現されるのみで、その形を具体的にイメージすることができないということだ。

イメージすることのできない多次元状態をイメージ可能な次元に圧縮するということで考えているのは、例えは「顔」のようなものだ。顔は、三次元的な物体だが、それが表現としてもつ「表現座標」は多元的である。個人識別座標、年齢座標、感情座標、疲労度座標、人柄座標、意欲度(関心度)座標、性別座標、健康度座標、(相対する相手に対する)好感度座標、美的座標など、「顔」はそれを所有する人物の状態に関する、多数で様々な表現(座標)が交差した、多次元的表現物であると言える。多様な表現座標の交錯によって作り出される多次元的表現空間が、三次元的な物体として、ギュッと凝縮され、いわば次元数が潰された状態として三次元的に現れている。

多様な表現座標が圧縮されてあることで、「顔」は非常に豊かなニュアンスを持ち、多くの情報を表現する物体となる。人は、他人の顔からとても多くのことを、とても敏感に、そして直感的に読み取ることができる。しかし同時に、だからこそそこには、多くの誤解(短絡・混線)が生まれる余地がある。例えば、怒っているのかと思ったら、ただ疲労していただけだった、というような。

誤解の余地があるということは、解釈の多義性を持つということだ。つまり、多義性はそれ自体でポジティブなものでもネガティブなものでもなく、高次元的な表現の圧縮が行われる時、その表現性(ニュアンス)の豊かさに付随するものとして必然的に現れるものだ、と考えられる。だから(重要なのは表現の多元性の方であって)、多義性そのものを取り上げて称揚したり批判したりしても意味がないと思われる。

2023/01/18

●HO×RN(小野弘人×西尾玲子)の展覧会のトークイベントのための準備や打ち合わせを通じて、改めて「虚の透明性」という概念の持つ重要性というか、面白さを感じるようになった。コーリン・ロウとロバート・スラツキイによるテキストの厳密な解釈をやや踏み越えて拡大解釈をするならば、「虚の透明性」という概念によって、近代絵画(マネから抽象表現主義まで)が生み出した非遠近法的な絵画空間の可能性のほとんどを説明できてしまうのではないかとさえ思う。以下は、コーリン・ロウとロバート・スラツキイによるテキストに引用されている、ジョージ・ケペシュによる「透明性」の定義。

《二つまたはそれ以上の像が重なり合い、その各々が共通部分をゆずらないとする。そうすると見る人は空間の奥行きの食い違いに遭遇することになる。この矛盾を解消するために見る人はもう一つの視覚上の特性の存在を想定しなければならない。像には透明性が賦与されるのである。(…)透明性とは空間的に異次元に存在するものが同時に知覚できることをいうのである。空間は単に後退するだけでなく絶えず前後に揺れ動いているのである。》

例えば、これはかなり逸脱した解釈だが、「虚の透明性」を、感覚不可能な高次元の時空を感覚可能な次元に圧縮するることによって生じる「ゆがみ」や「矛盾」のありようから、元の高次元時空の状態を(身体の全てを用いて)再現しようという観者の努力(積極的な意思)によって生じるもの、と考えることができるのではないか。下の図は、四次元空間の立方体を二次元に圧縮して表現したものだが、この図から、本来感覚不可能な「四次元」の時空を何とか感じようとすることで「虚の透明性」が生まれる、と。

(これは、スタインバーグによるものとも、クラウスによるものとも異なる、より普遍的で広がりのある「グリーンバーグによる近代絵画の規定」への批判の原理にもなり得ると思う。)

そしてそれはたんに「過去」を説明するだけでなく、この概念を、例えばエリー・デューリングの時空論に照らして発展させることで、現在進行形の作品や、来たるべき作品のための指針にさえなり得るのではないか、と。

●そしてこのことは、二つの欲望をぼくの中に掻き立てた。一つは、久々に(一時的に眠っていた)近代絵画マニアとしての血が騒ぎ出した、ということ。近代絵画(ベタに、マネ・セザンヌピカソマティス)について、マニアックに語りたいという欲望がでてきた。例えばマネの絵がいかに変であるのかを、具体的に一枚一枚の作品を示しながら主張したい。モネならば、誰でも見ればわかるし、見たままの素晴らしさで素晴らしいが(「素晴らしい眼だが、たんに眼にすぎない」とセザンヌは言った)、マネの絵はただ見ただけではその面白さは分からないし、その異様さに気づくことさえ難しいかもしれない。(好き嫌いで言うとどうしてもセザンヌマティスになってしまうのだが)近代絵画と言えばまずはマネ(とクールベ)であって、マネが絵画空間上に起こした革命が、そのまま抽象表現主義にまで繋がっていく。では、マネの何が革命的なのかについて、具体的に「ここ(ここがこうなっていいるから、そうなっている)」と言って示したい。

マティスにかんしても、どうしてここがこうなっていて、こうなっていることの何がすごいのか、について、具体的に作品に即して説明したいという気持ちがある。画家の人生とか主張とか、美術史上での意味とかではなく、この画面の上で何が起こっているのか、について。例えば、マティスにはダイナミックに変化し続ける制作過程を写真に撮って残している作品がいくつかあるが、それが決して無限のバリエーション展開ではなく(この点でピカソマティスはかなり異なる)、そこで何が探られていて、どうして「ここ」が完成地点なのかについて、それを(あくまでぼくの仮説だが)ちゃんと示したい。

でも、そういうことは「西洋美術入門」のような本には驚くほど書かれていない(百メートル先から物に触れようとしているみたいな、あやふやな書き方しかされていない)。それをちゃんと示しておかないと、近代絵画がやってきた達成がなかったことになったまま、過去の、何となく立派だとされるものとして、ふわっと消費されてしまうだけだという感じがある。近代絵画が、その本質が理解されないまま、派手なARコンテンツの(有名かつ著作権フリーである)都合のいい元ネタのようにして搾取されているのをみるのはとても辛い。なので、「入門書が教えてくれない近代絵画入門」のようなことをやりたい、と。

●もう一つは、「虚の透明性」という概念を、二つの矛盾する像(空間)の並立から、それを見る主体の分裂(さらに、その分裂からの再統合のために要請される新たな時空経験)へと拡張して、そこにエリー・デューリングの時空論を通すことで書き換えると、ずっと放置したままになっている「幽体離脱の芸術論」の続きの展望が見えてきそうだ、ということ。そして、それを考えるために重要な実作として、柄沢祐輔さんのs-houseがあり、桂離宮があるなあ、と。それ以外でも重要なヒントとなる建築の実作を、小野さん、西尾さんからいくつか教えていただくことができた。

以下は、エリー・デューリングの講演、「時間の形としての東京:東京のパラドックス」からの引用だが、これを「虚の透明性」の新たな説明と考えてみると、何が生まれるのか。

《(…)時間が意識に対して現れるのは、異なる速度(あるいはリズム)で並行して展開する二つ以上の運動を一元化するという問いが想起される時だけである。》

2023/01/17

●分厚い。自立する。というか、ハードカバーの本は大抵自立するのか…。

●この本の翻訳が出るのか。

もちろん、読みたいし、読むつもりだが、それにしても、インターネットでリアルタイムに情報が入ってきて、外国語ができなくてもDeepLで翻訳すれば大まかには何が書いてあるか分かってしまう時代に、クラウスが八十年代から九十年代にかけて書いた著書が、二十年から三十年以上も遅れて、ここ五年くらいの間にようやくポツポツと日本語で読めるようになる(『オリジナリティと反復』は九十年代に翻訳が出ていたが、古本が高騰しすぎていて実質上読めなかった)という、恐るべき遅延がここにはあるのだが、こうなったら、遅れを取り戻すための「お勉強」としてではなく、この遅延それ自体をポジティブな意味のあるものと捉え、さまざまな遅さと速さとの折り重なりによって成り立っている「今・ここ」において読む方がいいだろうと思う。要するに、美術批評史的な文脈など気にしないで今の自分の関心に沿わせて勝手に読む、と。ポストモダンも既に終わった現在、(モダニズムに対するカウンターとしてあからさまにポストモダン的である)クラウス(あるいはオクトーバー派)のテキストが今読んでも面白いと思えるポテンシャルを持つかどうかは分からないが。

(下の写真、『反美学 ポストモダンの諸相』もどこかにあるはずだが見つからなかった。)



 

2023/01/16

●昼間は東工大で『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』についての講義をして、夜は、家でリモートで、アートトレイスギャラリーの「虚の透明性」にかんする二回目のトークイベントの打ち合わせをした。頭を切り替えるのがけっこう大変。

(社会派でなければアートじゃないとでも言わんばかりの時代に「虚の透明性」とか言っている。前回は、絵画(近代絵画)篇だったが、次は、インスタレーション・建築篇になる予定。柄沢さんの作品についても話す。)

●手に入れた。重たい、分厚い、自立する。896ページ。

 

2023/01/15

●『冷たい血』。VHSを黒川さんにデータ化していただいた。90年代半ば、『Helpless』『チンピラ』『WiLd LiFe』『我が胸に凶器あり』と、ひたすら驚嘆させられた青山真治に対して、初めて疑問と反感を抱いた五作目(1997年の作品)。この疑問と反感はその後、亡くなるまでずっと尾を引いた。改めて観直すと、この作品に反感を抱いた自分は若くて尖っていたのだと思う(既に30歳だけど)。反感を持つのも分からなくはないが、でも、そのような態度は「若い男性」にありがちな、マウントを取るということとも近い、ある意味「有害な男性性」の発露のようなものだと思う。青山真治の「男の子」性を嫌だと感じる自分自身もまた逃れようもなく「男の子」だった。

この作品の主題として置かれる「愛を証明する」という問題について、ぼくは一ミリも理解できないし、リアリティも感じない。ただの深刻ごっこ、文芸ごっことしか思えないと、当時は思った。今でも同様に理解できないが、今では、ぼくには理解できないとしても、それが重大な問題であるような人も存在するかもしれないとは思う。

その上で、マッチョな男が、ファルス(拳銃)を失い、文字通り胸の内に空虚を抱えて存在する、そのありようを映画として時空化する造形はとても見事だと思うし、映画作家としての青山真治の力量を改めて強く感じた(明らかに、これ以前の作品とは違うやり方を意識的に模索しているし、それがかなりの程度うまくいっているように思われる)。球場での心中の場面など、ああ、「心中」をこう撮るのか、と感心した。

(この作品は「空虚」を肯定するのではなく、マッチョな男はファルスを取り返す。しかし、取り返したファルスは以前と同じものではない。既に全ての銃弾が撃たれた後で、弾を撃つことはできない。引き金を引いても空振りしかしないファルスと―-そして右の肺を失った空洞と―-共に、彼は今後生きていく。)

この作品は黒沢清の『復讐 運命の訪問者』、『復讐 消えない傷痕』と同じ年のもので、リアルタイムで観た時には、黒沢清の乾いていて屹然とした「空虚」に対して、湿った弱さと文学臭を含む「空虚」をあまり好ましくは思えなかったが、それは当時のぼくが黒沢清に過剰に思い入れしていたからで、今から見ると、十分に拮抗していたのだと感じる(黒沢清の乾いた即物性に対して、意識的に文学趣味を強く匂わせるとか、哀川翔に対して石橋凌とか、そういう対抗心はあったのではないだろうか)。

とはいえ、それでも、物語のありようや主題のたて方にかんしては、今でもすんなりとは受け入れられないし、少なくない抵抗を感じもする。

(『WiLd LiFe』『冷たい血』『シェイディー・グローブ』という「個人主義カップル三部作」について、まとめて考え直してみたいという気持ちが、ちょっとだけある。)

●日記を検索したら、『冷たい血』を前に観たのは(97年から十年後の)2007年の9月だった。そしてさらにそれから十五年と数ヶ月。

furuyatoshihiro.hatenablog.com

2023/01/14

●びっくりするほどリアルで生々しく、そしてどこまでも幸福な夢をみた。目覚めて、ベッドの上にいる自分を認識したとき、え、今のは夢だった、マジで、嘘でしょう、と、愕然とした。夢の余韻でしばらく動けなかった(夢の最後の方で、靴下だけで靴を履かずに外を歩いていることに気づき、イベント会場を出るときに、靴を履かないいまま出ちゃったのか、と思ったことをはっきり憶えている、イベント会場から駅まで歩く間に、とても奇妙な、恐竜を小さくしたような動物が路上で眠っているのを見た、容易に跨げると思った低い柵を跨ぐのに思いの外苦労して、しばらく立ち往生もした)。こういう夢を、毎日とは言わないが、頻繁にみることができれば、現実がそんなに幸福ではなくても充分に生きていけるのではないかと思った。

ぼくは悪夢体質で、頻繁に悪夢をみるが、悪夢をみるのはいつもシラフで眠るときで、アルコールが入った状態での眠りでみる夢は、ほとんどいつも幸福だ。アルコールと相性のいい体を持って生まれたことに感謝したい。

●夢をみたのはこの記事を読んだからかもしれない。夜、外で裸で寝ても死なない程度の温暖な気候さえあれば、それだけで人はけっこう生きていける。

gigazine.net

2023/01/13

●『水星の魔女』。実質13話の12話。「えーっ」という感想。予想していなかったというより、望んでいなかった展開。ここまでやってしまうと、今まで積み上げてきた物語の構築をすべて台無しにしてしまうのではないか。このあと、一体どういう展開を考えているのだろう。

途中で、母親のヤバさが全面に出てきて、この母親はやっぱヤベー奴だとゾクゾクしていたのだが、だからといって、娘を一気にそこまで押しやってしまうのはどうなのか。確かに、これまでの展開でも「母親に洗脳されているヤバい感じ」はちょこちょこ出ていたが、スレッタが、あまりに急激に、魔女(≒ニュータイプ)というより「怪物」になってしまった。

(あと、パターナリステックな「父」たちが死に始めていて、そんなにあっけなく死んじゃうの、みたいな戸惑いもあった。)

一方に母親に洗脳されているヤバい感じがあって、しか他方に、ミリオネなど学校の友人たちとの関係によってまともな感じで成長していくという側面があって、その危ういバランスの押し引きが今後も続くのかと思っていたら、(多くの場合に肯定的に受け取られる)素直でまっすぐで一途なキャラのネガティブな側面(極端な方向へと一気に振れてしまう)が全面に出てきた。

これが、単に観客の感情を波立たせてアテンションを集めようというだけの安易で極端な鬱展開でないのだとしたら(そうであって欲しいが)、この物語がどこに向かっていて、何をしようとしているのか、すっかり分からなくなってしまった。