2023/05/14

⚫︎夢。学校の課題で、スポーツジムで水泳をしなければならない。プールで適当にダラダラ泳いでいればいいと思っていたが、指定の施設に行ってみると、広大なスペースに、(プールというより)たくさんの、様々な種類の水泳シュミレーターみたいな装置があって、一つ一つのシュミレーターに専属のコーチがついていて、体つきからしてガチな水泳部員みたいな人たちがコーチの指導を受けている。自分勝手に適当に泳いどけばいいと思っていたのに、思っていたのと全然雰囲気が違ってめんどくさいなあと思う。できるだけゆるそうな、コーチがついていないで自分勝手に泳げそうな装置を探して、広大なスペースをうろうろ歩くのだが、見つからない。歩いているうちに、ダイビングを教えているようなやたらと深そうなプールに落ちそうになって、物理法則的には絶対に落ちいてる姿勢だったが、もんどりうって何とか持ち堪える。とりあえずシャワーでも浴びて時間を潰そうと思い、広いスペースの対岸のように遠くに見える、シャワーブースがいくつも並んでいるところにまで行こうとする。

本当に巨大な施設なので、シャワーブースに辿り着くまで散歩のように長い距離を歩くことになる。移動しているうちに場の雰囲気がだんだん変わってくる。ガチな水泳部員みたいな人たちばかりだったのに、段々、中高年のおじちゃん、おばちゃんが増えてきて(夢のなかの自分は二十代くらい)、しかも、ごった返すと言っていいような状態になり、方々から「病院で痩せろって言われて、痩せなきゃいけないのよー」みたいな声が聞こえてくる感じになる。中高年の人たちは、個人としてではなく、お友達集団単位で来ているようだ。人々の間をすり抜けるように移動しながら、ふと、持って入ったタオルと財布(小銭入れ)をどこかに置き忘れたことに気づく。ここでは、どのシュミレーターも、シャワーでさえも、30分500円とかになっていて、コインがないと何も使えない。どこに置いたか思い出そうとするのだがまったく思い出せない。そうこうしているうちに、人はどんどん増え続け、しかも、おじちゃんおばちゃんたちは、誰もまともに泳ごうとはせず、持ち込んだ酒や料理を飲み食いし、おしゃべりしていて、空間はでかいが雰囲気は身内ばかりのスナックみたいな感じになってくる。あるいは花見の時期の上野公園みたい。こんなになってしまっては、もうどうやったって自分のタオルと財布は見つけようがないではないかと、諦めたような気持ちになる。

(追記。ぼくは、高校二年の体育の授業以来、一度もプールで泳いだことがないです。)

2023/05/13

⚫︎たとえば、グリーンバーグに批判されるべき点が多々あるというのは分かるし、批判されるべき点は批判されるべきだが、しかしそれでもグリーンバーグが偉いのは、ポロックが無名の時点で「ポロックはすごい」と言ったことだ。目利きというのは、たんに権威が内面化された目を持つということではなく、未然のものに対する判断を積極的に行うということだ。そしてそれはもちろん、間違えることがある。

プロ野球にまったく興味がないので、プロ野球を比喩にする時点で雑な思考になってしまうのだが、「今シーズン優勝はするのは〇〇でしょう、なぜならば…」という言説と、「今シーズン、〇〇が優勝した理由は、~だからだ」という言説は根本的に違う。後者は答え合わせであり、何を言っても「間違い」にはならない。

既に高い評価のある、あるいは既に売れている作家を読んでいる時点で、そこには「これは読むに値するものだ」というお墨付きがついており、なぜ他の何かではなく「これ」なのかという問いの答えが半分以上出てしまっている(というか、そのような問いの答えを「外部」に委託してしまっている、このような態度が「権威主義」なのだと思う)。仮に、その「答え」を批判的に検討するにしても、まずその「答え」が前提とされている。そうではなく、未だ何者か分からない不定形な何かについて、なぜ他でなく「これ」なのかという問いまで含めて考えるのが批評なのではないかと、ぼくは思う。

それは、高名な作家の作品を読むときも、高名な作家の作品として読むのではなく、未知の、無名の作家の作品と出会うように出会い、未知の、無名の作家の作品であるかのように読む、ということだ。

未然のものに対する判断には「正しさ」には還元できないものがある。「間違えることができる」というのが、批評の研究に対する唯一の優位ではないかと思う。

(ちょっと違うが、進行中で未だ完結していないアニメについて考える時、その作品が完結してしまった後にそれについて考えるのではできないことをしているのだと思う。)

2023/05/12

⚫︎ジャンケンは、後から出せば必ず勝つ、ということを、最近考える。

現代における「認識の進化」が確実にあるとする。その、新しい認識によって、過去に関する評価が変化する。これは当然のことだ。「新しいもの」というのは、現在や未来を変えるだけでなく、過去も変える。

しかし、現在の基準から過去に関する評価を変えるというとき、いつもモヤモヤするのが、でも、これって後出しジャンケンと一緒ではないかという感覚だ。それはいわば、正解が分かっている時点から、正解が分からずに試行錯誤していた人々を断罪している感じがしてしまう。自分が安全な位置にいるみたいで、これってフェアなことなのかな、と思ってしまう。

(結論として正しいことと、態度としてフェアなこととが、食い違っている感じ。)

断罪しているのではなく、認識を変えているのだ、が、しかし、過去に「権威」であったものを、「評価し直す」というときに、「ザマアミロ」的な、下剋上的な気持ちよさを、どうしたって感じちゃっていることは否定できない。

でもこの時、現在にいて「再評価」している自分は、過去の時点で、同時代的に「権威」と闘っていた人、あるいは、否応なく「権威」に巻き取られてしまった人、時代の制約の中で試行錯誤して間違ってしまった人とは、全く違う位置にいるのだということを認識していないと、後出しジャンケンをしているのと同じになってしまう。

現在にいて、常に「間違うことのできる」位置にいる自分と、正解を持って、過去に対して「答え合わせ」をしている自分との乖離。

認識を変えること、それ自体を否定しているのではない。認識を変えることそのものが、現在における「権威」に対する闘いともなる。その時、わたしは「認識を変える」現在にいる。ただ、振り返って歴史的に他者を評価するという行為の持つ根本的な「不遜さ」を、常に意識していないと、と思う。

(また別の話だが、よくある、既にヒットした商品や作品について「〇〇はなぜ売れたのか」みたいな記事を目にしたときに感じる嫌悪もまた、後出しジャンケンに感じる嫌悪と同様なものだ。問題を解いているのではなく、答え合わせをしているだけ。自分では何一つ考えていないし、何一つ「賭け」ていない。こういうのは、少なくとも「次に売れるのは〇〇だ、なぜならば…」という、不確定な要素を含んだものでなければフェアではない。負ける可能性のないジャンケン、間違える可能性のない思考や行動に価値はないと思う。)

2023/05/11

(昨日の日記の言い直し。)

⚫︎『水星の魔女』で、社会改革を実現しようとするシャディクには、あるべき社会の明確なヴィジョンと、そこに至るための詳細な道筋(策略)があり、そしてそれを実行し得る力がある。ただし、彼の考える改革は、将棋の盤面上で限られた駒を取り合っているようなもので、そのヴィジョンには「世界そのもの」が変わり得るということ、つまり、この世界には「新しいもの」が生まれることがあるのだということが含まれていない。「新しいもの」が生まれることで「前提条件」が変わってしまうことがある。

それは、将棋をしているうちに将棋のルールが変化してしまうとか、駒の持つ意味が変わってしまうとか、盤面そのものが書き変わってしまうとか、そういうようなことだ。将棋では決してそのようなことは起こらないが、「この世界」では起こり得る。

シャディクは、『ガンダムUC』におけるフル・フロンタルに当たる位置にある。そして、「UC」において、フル・フロンタルの構想が棄却され、バナージとミネバのカップルがリーダーの座につくのは、ただ一つの理由、つまり彼らが「新しい(つまり「若い」)」ということによるのだ。バナージとミネバには、経験がないだけでなく、具体的なヴィジョンもほとんど無いに等しい。しかしそれでも、「新しさ」だけが「現状の世界」の「外」であり、未来の希望であるのだった。

だが『水星の魔女』では、ヴィジョンと力を持つのが若者(シャディク)であり、「新しいもの」の可能性を担っているのが、過去の怨嗟に縛られ、自分の娘でさえ手段として使うようなプロスペラである。つまり、若く、善意に満ちた者ではなく、過去に強く囚われている者(しかも、シャディクら子供の世代ですらない、先行世代=母)が「新しいもの」の役割を担うという逆転がある。これが『水星の魔女』に仕掛けられた一つのねじれだと言えると思う。

(「UC」におけるバナージやミネバと同様に、「水星」において無垢な魂を担うスレッタは、無垢であるが故に母に支配され、無垢であるが故に怪物化する。ここにも大きなねじれ―-あるいは「UC」への批評-―が仕掛けられている。)

新しい世代による「社会の改革」と、古い世代による「新しさの実現(世界の改変)」は、どちらも「現状の社会」に対して否定的であり、その転覆を狙っているという点では共通しているが、両者がどの程度、共通の利益を持ち、妥協可能なのか、不可能なのかは、今のところわからない。シャディク-ペイル社連合と、プロスペラ-ミオリネ-グエル連合の正面対決があるのか、それとも、そのような構図を表面では保った上で、裏でシャディクとプロスペラが怪しい駆け引きをするのか…。

常識的に考えれば、「新しいもの」を占有する「古い母」から、それを奪取するのが、ミオリネ-スレッタ(そしておそらくエリィ)という「娘たち」の、個としてのつながりなのではないか、ということになるが。

2023/05/10

⚫︎『水星の魔女』17話(実質18話)、第二期の入ってから毎回しびれる展開だ。

ベネリットグループの総裁選は、とりあえず、格差と分断の是正を目指す社会改革派であるシャディク-ペイル社連合と、私的動機派である、プロスペラ-ミオリネ-グエル連合(プロスペラはエリィのため、ミオリネはスレッタのため、グエルは亡き父と家族のため)との、二つの勢力になった感じだ。私的動機派は、それぞれの利害の一致によって協力関係にあるが、実質的にはプロスペラに操られている。プロスペラの計画は順調に進んでいるようだが、今後、「エリィの意思」が重要な問題になってくるのではないか。スレッタは母に支配されているとしても、エリィはどうなのか。エアリアルの動きが止まる時にスレッタに「ごめんね」と言ったのは、実際に動きを止めるスイッチをいれたミオリネの声ではなく、エリィの声だった。

(差し当たって、社会改革派と私的動機派との争いは、エアリアルの奪い合いということになるのか。)

『水星の魔女』で、学園の外、あるいは、ベネリットグループのグループ内勢力争いの外を見ている人物は、シャディク以外には、実際に外の世界を放浪してきたグエルしかいない。ミオリネが、スレッタには「ガンダムとか何にも縛られない世界」で幸せになって欲しいと言うのに対して、グエルは「そんな世界はないよ」と言う。スレッタが、仮に母による支配から逃れられたとしても、「この世界」の権力・勢力関係からは逃れられないし、スレッタが、ガンダムに乗っても命を削られないという特殊能力を持っているとすれば、この世界の勢力争いに巻き込まれることは避けられないだろう。だとすれば、「この世界」の勢力関係を書き換えるしかない。グエルがそう考えるとすれば、思想的にはシャディクの方に近いと言えるはず。

とはいえ、グエルは放浪を通じて、自分の圧倒的な「無力」を思い知らされているから、社会の改革といった大きなことは考えず、自分にとって「大切なもの」である、家族と会社を維持することを第一に考えるのかもしれない。

ミオリネには、社会の改革への動機も、権力への欲望もない。彼女にとって重要なのはスレッタであり、スレッタを守るために、プロスペラによる「世界」の改変のための片棒を担がされているに過ぎない。対して、グエルには、シャディクと通じるような、社会の改革への「動機」はある。

(養子であるシャディクには、初めから父への冷静な距離感があるが、グエルには、父―-明らかに問題のある父-―との間に強い支配-被支配関係がかつてあり、それは強い執着でもあり、その点ではスレッタに近いと言えるかもしれない。面白いのは、というか、皮肉なのは、スレッタにとっては呪いの呪文である「すすめば二つ」が、グエルにとっては解放の魔法として作用したということだ。)

プロスペラの狙う「世界の改変」の具体像は未だ見えてこない。ここではとりあえず「私的動機」としているが、もしかするとそのように振る舞っているだけで、彼女の行動は実は「ガルドの理念」と深く関わっているということも考えられる。そうだとすれば、『水星の魔女』では希薄だと思われている「ニュータイプ的主題」が展開されるとになることもあるかもしれない。

プロスペラの世界改変によって担われるニュータイプ的、あるいはエヴァ的な軸があり、シャディクやグエルによって担われる社会改革の軸(「ガンダム的な軸」)があり、ミオリネとスレッタによって担われる個と個の関係の軸(「ウテナ的な軸」)があって、この三つの軸が立体的に交錯しているという全体の構図は変わっていないと思われる。

社会改革の軸だけでは、いわば将棋の盤面での駒の取り合いをしているだけのようなところがあるのだが、それに対してニュータイプ的な軸では、この世界では「新しいもの」が生まれるという出来事が生じるのだし(それは思想かもしれないし、テクノロジーかもしれないし、身体の物理的変化かもしれないし、宇宙そのものの変化かもしれないのだが)、それが否応なしに、権力関係も含めた「世界」を書き換えていくのだ、という側面が表現されている。

(強化人士であるエラン五号が、エラン四号とは対照的なキャラとしてとても「いい味」を出しているが、彼の存在が全体の構図にどのように効いてくるのだろうか。)

ウテナ」で、ウテナとアンシーは学園の外に出る。あるいは「シン・エヴァ」でシンジとマリは「エヴァ的世界」の外に出る。しかし、「そんな世界はない(「外」はない)」というのがガンダムだ。「外」があるとしたら、それは「新しい何か(ニュータイプ)」しかない、と。

2023/05/09

⚫︎昨日のつづきというか、耳馴染みのいいメロディが様々な文脈を跨いで転用されていくというのはよくあることだけど、それにしても「東京節」のメロディの汎用性と耐久性の高さはすごいと思う(エリー・デューリングの言うプロトタイプ的な)。

面白いのは、「聞け万国の労働者」というメーデーの歌があるのだが、このメロディが軍歌からの転用であるということ。普通に考えて、なんでメーデーの歌を軍歌から取ってくるのか、思想的に相容れないだろ、ということになると思うのだが。軍歌側の人から見ても、なんで軍歌を共産党の歌みたいなものに転用するのか、となるだろう。

これがどういう経緯で成立したのかと思っWikipediaの「メーデー歌」の項をを見ると、《「アムール川の流血や」「歩兵の本領」で歌われていた旋律は、校歌や応援歌に流用されていたため全国的に有名であり》とあるので、既に様々に転用されているメロディだったで、それが元々軍歌であったという「匂い(文脈)」が極めて希薄になっており、それこそみんなに「耳馴染みのある」メロディだからという理由で採用された、ということだろう。もしかすると転用した人(作詞の大場勇)は、軍歌だとは知らなかったのかもしれない。

聞け万国の労働者(SFMS 961230西成三角公園) - YouTube

そもそも「東京節」のオリジナルである「ジョージア行進曲」にしても、南北戦争北軍の側の歌なのだけど、そういう政治性は消えて、2023年の日本で「フジパンの歌」として転生している。

音楽の持つ、あるいは音楽に限らず文化的事象全般がそうなのかもしれないが、この、良くも悪くも融通無碍で無節操な側面(転用しまくり、されまくり、みたいな)を、どう考えたらいいのだろうか、と思う。厳密に「政治的に正しく」批判すべきなのかどうかよくわからない。

(明らかなマジョリティが、マイノリティの文化を一方的に搾取するのは問題だと思うが、しかしその時、力の差が「どの程度」であれば転用が許され、どの程度以上であれば許されないのか、あるいは、オリジナルとは何なのか、誰ならば何を代表する正当な権利があると、誰が決めるのか、という問題になると思う。)

(例えば。忌野清志郎(ザ・タイマーズ)の「デイ・ドリーム・ビリーバー」を、その文脈や政治性を脱色してCMに使っていたりするのをみると、いや、流石にそれはないだろう、と、ぼくも思うのだが。)

⚫︎小島信夫の『寓話』では、ある話が元の文脈から切り離され、別人によって語り直されることで、その話が童話のような、夢のようなものになるという効果について書かれている。出典の示されない語りが、語り継がれるうちに文脈から切り離されても成り立ちうる自律性の高い形式を得る。童話のような効果とはそのようなものだろうと思う。「東京節」のメロディも、そのようなものとして2023年にも生き続けていると言っていいのではないか。

⚫︎追記。上の動画で西成で「聞け万国の労働者」を演奏しているのは、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットです。

ソウル・フラワー・ユニオンのメンバーが、1995年、阪神淡路大震災の被災者のために結成したユニット。現地のボランティア・スタッフと連絡を取り合い、震災後の1年間で100回を超える慰安ライヴを行なった。電気のない被災地で演奏するために、三線、チンドン太鼓、アコーディオンなど、電気を必要としない楽器だけを使用して、アイヌ民謡や、戦前戦後の流行歌などを演奏。96年にはファースト・アルバム『アジール・チルドレン』を発表。その後も活動を継続させ、ベトナムのダナンや、マニラのスモーキーマウンテンなど、世界中の音楽が熱望されている場所に赴き、演奏活動を行なっている。

ソウル・フラワー・モノノケ・サミット - TOWER RECORDS ONLINE

2023/05/08

⚫︎普段、全くテレビを観ないので知らなかったのだが、CMから「東京節」のメロディが聞こえてきて、このメロディはまだ現役なのかと、その息の長さに驚いた。

森七菜、スナックサンドを無邪気に頬張る! お馴染みのCMソングも歌唱 フジパン「スナックサンド」新CM - YouTube

森七菜、可愛い歌声披露 フジパン新CM「スナックサンドのうた♪」篇 - YouTube

 

東京節(パイノパイノパイ) - YouTube

東京節・添田知道/ 土取利行(弾き唄い)Tokyo bushi/Toshi Tsuchitori - YouTube

 

⚫︎ぼくが、親に初めて買ってもらったレコードも「東京節」のメロディだった。

ザ ドリフターズ ドリフのバイのバイのバイ - YouTube

⚫︎オリジナル、「ジョージア行進曲」。南北戦争の時代の曲だ。

ジョージア行進曲/ハーラン&スタンリー Marching Through Georgia/Harlan and Stanley - YouTube

⚫︎追記。こんなのもあった。CMではけっこう使われているのか。

ロッテ パイの実 CM 1980年 - YouTube

furuyatoshihiro.hatenablog.com