2023/05/09

⚫︎昨日のつづきというか、耳馴染みのいいメロディが様々な文脈を跨いで転用されていくというのはよくあることだけど、それにしても「東京節」のメロディの汎用性と耐久性の高さはすごいと思う(エリー・デューリングの言うプロトタイプ的な)。

面白いのは、「聞け万国の労働者」というメーデーの歌があるのだが、このメロディが軍歌からの転用であるということ。普通に考えて、なんでメーデーの歌を軍歌から取ってくるのか、思想的に相容れないだろ、ということになると思うのだが。軍歌側の人から見ても、なんで軍歌を共産党の歌みたいなものに転用するのか、となるだろう。

これがどういう経緯で成立したのかと思っWikipediaの「メーデー歌」の項をを見ると、《「アムール川の流血や」「歩兵の本領」で歌われていた旋律は、校歌や応援歌に流用されていたため全国的に有名であり》とあるので、既に様々に転用されているメロディだったで、それが元々軍歌であったという「匂い(文脈)」が極めて希薄になっており、それこそみんなに「耳馴染みのある」メロディだからという理由で採用された、ということだろう。もしかすると転用した人(作詞の大場勇)は、軍歌だとは知らなかったのかもしれない。

聞け万国の労働者(SFMS 961230西成三角公園) - YouTube

そもそも「東京節」のオリジナルである「ジョージア行進曲」にしても、南北戦争北軍の側の歌なのだけど、そういう政治性は消えて、2023年の日本で「フジパンの歌」として転生している。

音楽の持つ、あるいは音楽に限らず文化的事象全般がそうなのかもしれないが、この、良くも悪くも融通無碍で無節操な側面(転用しまくり、されまくり、みたいな)を、どう考えたらいいのだろうか、と思う。厳密に「政治的に正しく」批判すべきなのかどうかよくわからない。

(明らかなマジョリティが、マイノリティの文化を一方的に搾取するのは問題だと思うが、しかしその時、力の差が「どの程度」であれば転用が許され、どの程度以上であれば許されないのか、あるいは、オリジナルとは何なのか、誰ならば何を代表する正当な権利があると、誰が決めるのか、という問題になると思う。)

(例えば。忌野清志郎(ザ・タイマーズ)の「デイ・ドリーム・ビリーバー」を、その文脈や政治性を脱色してCMに使っていたりするのをみると、いや、流石にそれはないだろう、と、ぼくも思うのだが。)

⚫︎小島信夫の『寓話』では、ある話が元の文脈から切り離され、別人によって語り直されることで、その話が童話のような、夢のようなものになるという効果について書かれている。出典の示されない語りが、語り継がれるうちに文脈から切り離されても成り立ちうる自律性の高い形式を得る。童話のような効果とはそのようなものだろうと思う。「東京節」のメロディも、そのようなものとして2023年にも生き続けていると言っていいのではないか。

⚫︎追記。上の動画で西成で「聞け万国の労働者」を演奏しているのは、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットです。

ソウル・フラワー・ユニオンのメンバーが、1995年、阪神淡路大震災の被災者のために結成したユニット。現地のボランティア・スタッフと連絡を取り合い、震災後の1年間で100回を超える慰安ライヴを行なった。電気のない被災地で演奏するために、三線、チンドン太鼓、アコーディオンなど、電気を必要としない楽器だけを使用して、アイヌ民謡や、戦前戦後の流行歌などを演奏。96年にはファースト・アルバム『アジール・チルドレン』を発表。その後も活動を継続させ、ベトナムのダナンや、マニラのスモーキーマウンテンなど、世界中の音楽が熱望されている場所に赴き、演奏活動を行なっている。

ソウル・フラワー・モノノケ・サミット - TOWER RECORDS ONLINE