2024/03/13

⚫︎異様なくらい鮮明でリアルな夢を見た。グループ展に参加している。その展覧会で公開制作のようなことをする。そこで作った作品は、今のリアルのぼくの作風とは異なり、多量の油絵の具を使い、キャンバスにかなりの厚塗りをするものだったが、その絵の具の感触、粘度や匂いなどを鮮明に憶えている。その作品について、グループ展の参加者の一人から、何とかいう海外の作家の作品に似ていると指摘され、その人がスマホで検索して作品の写真を見せてくれる。たしかに、見た目としてはまったく似ていないとは言えないが、そもそもコンセプトが根本的に違う、というような話をした。その場にいた別の数人も巻き込んで行われたその対話は、批難されるとか難癖をつけられるという感じではなく、積極的で建設的な面白い議論であったという満足感があった。展覧会終了後に打ち上げに行こうという話になる。

駅に向かうが、駅のホームに至るまでのコンコースがやたらと巨大で複雑な経路になっており、その複雑さを面白がった。男性3人、女性3人の6人での打ち上げだったが(そこにはリアルな知り合いは一人も含まれず、すべて夢の中独自の人物だった)、6人が座るといっぱいになってしまうような小さな酒場だった。もともといた2人組の客が、6人が入り切れるようにと場を譲ってくれる。大丈夫、我々はこっちで飲むからと言い、すぐ隣にほとんど似たような店があった。打ち上げはとても楽しく、気がつくと午前二時を回っていた。ああ、今日もまた帰れない、始発までどこで時間を潰そうかと思いながら外に出ると、午前二時なのに真夏の真昼のように明るい。そこで、もしかしたらこれは夢なのではないかと気づく。

これが夢だとすると、今日ここで知り合った人たちとは目が覚めたらもう二度と会えないのだなあと悲しく思う。しばらく歩くと海が見え、強い日差しでキラキラ海面が光っていて、海風も心地よいが、振り返ると、背後にもやや遠くに建物の隙間から海が見え、前も後ろも海だということは、これは確実に夢だなあと思う。6人でぶらぶら歩いているうちに、一人減り、二人減り、という感じで人が消えていく。彼らはどこか自分の世界に帰って行き、もう会えないのだなあとのだと思う。最後に自分が一人残り、自分もまた、もうすぐこの世界を去らなければならないのだととても残念に思う。

(目が覚めて起きようとする時、右足のふくらはぎがつった。ずっと痛くて、一日、右足を引きずって過ごす。)

2024/03/12

⚫︎『光りの墓』(アピチャッポン・ウィーラセタクン)をブルーレイで。改めて、これは本当に素晴らしいと思う。コロンビアで撮影されたという『MEMORIA 』も面白いのだけど、アピチャッポンの世界はやはり基本としてタイの風土の中でこそ成立しているように思われる。

古い学校の建物を利用したできたばかりの病院。眠り続けてしまう病にかかった兵士たち(男性ばかりのようだ)のみが入院している。そこに、かつてこの学校の生徒だったこともあるという初老の女性が、兵士のうちの一人の若い男性をケアする仕事でやってくる。この女性は足が悪く、右足は左足より10センチ短いという。右足にだけ底の厚い靴を履き、杖をついている。彼女には、ネットで知り合って移住してきたというアメリカ人の夫がいる。さらにこの病院には、眠り続ける患者たちの「夢」を見ることができるというシャーマン的な若い女性がいる(彼女は、芸能人を使って行われている化粧クリームのキャンペーンの手伝いの仕事もしていて、普通に世俗的な人だ)。

この映画は、物語を語るというよりも、高精細の映像、開かれたフレーム、非常に繊細に拾われ丁寧に作り込まれた音声によって、あらゆる矛盾を溶かし込んでしまうような驚くべき鷹揚さを持つ時空を立ち上げる。病院の周りには大きな池があり、林のような公園があり、そしてなぜか軍隊がそこここに重機で穴を掘っている。池には奇妙な物体が浮かんでいるし、林では木の影で野糞をする人もいる。

眠り続ける兵士は、時々ふと目を覚まし、しかしすぐにまた唐突に眠りに落ちてしまう。眠り続ける男のケアをし、たまに目覚めた時に食事を共にして語り合うことで、女性と男とは交流を深め、女性は男のことを新しい息子と呼ぶようになる。公園の東屋のようなところで食事をし、兵士を辞めて饅頭屋のチェーンを始めたいという夢を語りながら、男はまた、すっと寝入ってしまう。そこへシャーマン的な女性がやってきて、男の手に触れ、彼が見ている風景をおばさんも観たいかと彼が言っている、と言う。

シャーマン的な女性が男に代わって、というか、その「若い兵士として」、初老の女性を、現実的には(というか、映画を観ている観客の「知覚」的には)林のような公園である、夢の中の宮殿をエスコートする。そこは、林のような公園であると同時に宮殿であり、シャーマン的な若い女性は彼女自身であると同時に、今、眠っている若い兵士でもある。宮殿には大広間があったり、部屋中が鏡である王子のための化粧室があったりするし、同時に、林のような公園には、初老の女性が老人会で作った蘭の花があり、大木に刻まれた洪水の痕跡があったりする(こちらは、実際に画面に映っている)。二人はその両方を見ている。初老の女性もまた、兵士の夢の中の王子の化粧室の鏡に映った自分の姿を観ているようだ。

その後、池の見えるベンチに座る二人。初老の女性は、夫が飲んでいるサプリメントで、アルツハイマーやリウマチを予防するものだと言って、ペットボトルの水に複数の粉状のものを混ぜ、これを飲むと私も起きていられると、シャーマン的な女性に飲むように促す。常識的に考えれば、「ここ」にいるのは眠りの病にある若い兵士ではなく、シャーマン的な女性の身体であり、彼女が薬を飲んでも兵士には効かないはずだ。しかし、ここは現実の公園であると同時に夢の中であり、彼女は彼女であると同時に兵士でもある。

シャーマンでもあり兵士でもあり、彼女でもあり彼でもあるその人は、薬を飲むことはせず、初老の女性の悪い方の右足に、その液体をかけ、脚を舐める。これは、慈しみの行為であると同時に、あからさまに性的な接触であるように見える。しかしこれは、一体、誰と誰とが接触しているのか。シャーマン的な女性と初老の女性なのか、若い兵士の男性と彼をケアする初老の女性なのか、この時空が夢の時空でもあるならば、若い兵士と初老の女性の年齢差も意味がなくなり、二人の固有性すらあやふやとなり、誰でもあり誰でもない二つの身体の接触であるかのようでもある。魂と体は分離し、それぞれの固有性すら消えていく。

(ここは病院であり、科学と医学が支配する。しかし同時に、シャーマン的な女性や、宇宙のパワーを説く怪しい瞑想家が出入りしている。廊下には普通にニワトリが歩いてもいる。そしてかつては学校であり、学校であった記憶の層に初老の女性はアクセスできる。また、もっと古い層として、かつてここは王宮であり、その時代の戦士たちが今もなお(現在の兵士たちの生気を吸い取りながら)闘っているという。若い兵士はこの層に引き込まれて眠っている。さらに、病院の周りには軍隊が常駐し、シャーマンの女性は広告業界(あるいは化粧品業界)で働く人であり、そこには政治や資本主義の層もある。民間信仰の偶像が現実化し、池には奇妙な物体(生物?)が浮かんでいるし、空には巨大なゾウリムシが浮遊しているし、野糞をする人も普通にいる。これらのすべての層が、互いを排除することなく溶け合っている。)

ただ、このようなことを「言葉(意味)」として書いてもあまり意味はないかもしれない。重要なのは、このような出来事が起こることが何ら不思議ではなく、それを普通に受け入れることができるような時空のありようが、この映画全体を通して感覚的に形作られているということだろう。そしてそのための重要な背景として、タイの風土や環境があるように思われる。

2024/03/11

⚫︎スーパーデラックスで『フリータイム』(チェルフィッチュ)を観たのは16年前の3月だったが、今でも憶えているが、会場に入って舞台上の美術を見た時に嫌な感じがした。中途半端に状況を(舞台がファミレスであることを)説明していて、中途半端にオブジェとして自己主張していて、これからここで演劇を始めるのに邪魔にしかならないように思えた。しかし、始まってみれば、この舞台美術があったからこそ、この作品はこうなったという、この作品の固有性を決定するような、作品そのものと不可分であるような装置だった。まさに「これからここで演劇をするのに邪魔にしかならないような装置」が、この作品をこのようなものにしていると思った。

この作品を特徴づけるような(ぐるぐる円を描いている)前屈の姿勢も、セリフとも物語内容とも無関係に、俳優たちが常に足元を気にしているというか、地上20センチくらいの高さが常に意識されている(無意識に意識されているかのように意識されている、常にその高さを足が弄んでいる)感じも、このような装置との相互作用の中でしか出こないだろう。演劇を観ていて、こんなに足元に注目することも、そうそうない。「その空間」の中でこそ立ち上がる演劇というのがあるのだなあと思い知らされた。

(作・演出の岡田利規は、この装置をどのように発注したのか気になる。こういう装置が出てきたから、このような演出になったのか、あるいは、初めから地上20センチくらいの高さ/低さが意識されるような装置を作るように要求していたのだろうか。)

chelfitsch.net

2024/03/10

⚫︎とても久しぶりにチェルフィッチュ『フリータイム』のDVDを観た。やはりこれはとても素晴らしい。2008年なのか…。六本木のスーパーデラックスがなくなったのがいつだったのかももう憶えていない。『王国(あるいはその家について)』に出ている人がいて、随分と若い。

(日記を読んであの日のことを思い出す。)

furuyatoshihiro.hatenablog.com

2024/03/09

⚫︎『不適切にもほどがある ! 』、七話。今回は、現代のドラマ視聴者ディスみたいになっている。ディスというか、「たまたま六話とか七話だけ観たとして、それが好きだったら、ぼくにとってそれは好きなドラマです」と言う岡田将生の「いい奴っぷり(好感度)」によって(つまり、河合優美が「今、ここ」にいる経緯を問うことなく、それを謎として保留したまま、現状そのものを楽しみ、それ以上追求しないという態度によって)、伏線回収とか、細かい考察とかばかりしている現代視聴者の在り方(そして、そのような視聴者を前提として作られるドラマのあり方)に疑問を呈しているという感じ。それってあまりにも「狭い」ものの見方ではないか、と。そもそも、「終わり」が決まっていて、そこから逆算されるような物語ばかりが高く評価されるのはおかしいということが、「終わりが決まっている」阿部サダヲという存在を通して強く示されている。とはいえ、この『不適切にもほどがある !』というドラマがそもそも、最後にどこに落ち着くのか、どんなどんでん返しがあって、どのように伏線が回収されるのかとということにかんする「意外なオチ」を強く期待させるような作りになっている上に、伏線回収を求めるような現代視聴者の「反応」をあらかじめ織り込んでいるような作りであもあるので、一周回って、自虐的自己言及にもなっているという、複雑な在り方をしている。この絶妙なアイロニーの感覚が、このドラマの基調としてあるように思う。

(ぼくは、クドカンのドラマでは『マンハッタン・ラブストーリー』が好きなのだが、それにちょっと近い展開になってきているようにも思う。)

⚫︎ムッチ先輩の眉毛、これは『フリクリ』なのか。このドラマのムッチ先輩やエモケン先生が素晴らしいのは、人物造形としては明らかに「紋切り型」そのまんまのキャラでありつつ、紋切り型を越えた、あまりに自由な動き方をするところだ。登場人物たちはみんな、ムッチ先輩が「中卒のヤンキー」だからといって舐めている。しかしそんな中、ムッチ先輩は誰にも予想できないような飛び抜けた動き方をする。前回は、阿部サダヲと吉田羊がしんみりと「余命」についての秘密を語り合っている場にちゃっかり居合わせてしまうのだし、今回も、適当に誤魔化せるだろうとたかをくくってタイムマシンの仕組みを教えると、ちゃんと未来にいけてしまう。みんな、ムッチ先輩は馬鹿だから簡単に騙せると思っているが、蛙化現象にかんしても、タイムマシンにかんしても、誤魔化せると思ってもまったく誤魔化されていないばかりか、一回り上の行動を見せる。

エモケン先生にしても、時代遅れになった過去の業績によって今なお傲慢であるという、残念なウラシマタロウ的ベテランの紋切り型のように登場しつつ(それだけだったら単純な老害ディスにしかならない)、実は阿部サダヲとも気の合う気のいいおっちゃんであり、エゴサの結果でわかりやすく心が折れてしまうような弱いメンタルであり、傲慢なようでいて実は裏ですごく努力していたり(傲慢なように見せて実は久々の新作にすごく気合を入れている)、など、紋切り型からどんどんズレていく、このズレる動きそのものがギャグとなっている。このドラマでは単純な善/悪のようなものは存在せず、あらゆるものが様々な側面を持つということが、複雑に屈曲したアイロニーによって示されている。

⚫︎ちょっと前までは、素人感、手作り感に溢れるプールイYouTubeチャンネルに出ていたファーストサマーウイカが、今では、地上波の、こんな立派なドラマに出ているのだなあと、しみじみする。

⚫︎二十歳前後の時に『赤ちゃん教育』に出会って以来、というか、小学生の時に『マカロニほうれん荘』に出会って以来というべきかもしれないが、超絶的なコメディに目がないのだが、今のクドカンはコメディライターとして冴えまくっているなあと思う。

2024/03/08

⚫︎『マカロニほうれん荘』に衝撃を受けた派だったぼくは、『Dr.スランプ』が登場した時に、それまでとは異質な、何か決定的に新しいものが現れたという驚きを感じるとともに、その世界にどこか馴染めない感じがして、それが「少年マンガ」から離れるきっかけとなった(13歳くらいだったから年齢的にもそういう歳だったと思う)。『Dr.スランプ』の一巻は買ったと思うけど、それ以外の鳥山明には縁がなかった。今に至るまで、『ドラゴンボール』にはほんの少しも触れたことがない。思えば、鳥山明とは決定的にすれ違った人生だ。三、四年遅く生まれていたら、『ドラゴンボール』もすんなり受け入れていたかもしれない。まさに縁がなかった。