2024/03/17

⚫︎マルドロールちゃんのうたの新作に気づいていなかった。圧倒的な密度の大作になっている。二、三度観たくらいでは歯が立たない。

東北きりたんと読む遠藤知巳『情念・感情・顔 「コミュニケーション」のメタヒストリー』 - YouTube

一見錯綜しているようだが、ざっくり捉えれば、前半の「情念」の歴史学から、中盤以降は、その情念を宿らせられる支持体となるキャラクター、主に「顔(表情)」という記号のありようについての言及に至るという流れになっているように思った。キャラクター(消費)のキャラクター(消費)による自己言及(≒自虐)的な探究の継続が、前回の「声」に続いて、今回「顔(表情)」を、特に、情念が貼立けられる宛先としての「顔」という領域への欲望を主題化するというのは普通に納得できる。

(後半、自体記号としてのキャラクターにかんする言及は無茶苦茶面白いし、前半の(ぼくの自分勝手な言い回しに無理に変換すれば)「情動」の幽体離脱性について語られているところもとても興味深い。)

何重にも自己の内側におり重ねられた自己言及(≒自虐)が作り出す多重化されたアイロニーは、内と外とを攪拌して相互貫入させる「虚の透明性」的な多重平面を形作っているように見える(というのは、あまりに自分の関心に引き寄せすぎる解釈だが)。複数のキャラクター(声)による分け持たれた役割と、リレー的にバトンが受け渡されるたびに微妙にスタンスを変える言表の展開、次から次へとたたみ込まれる速い展開に必死でついていこうとした先に訪れる、両方を同時に聞き取ることが不可能である同時的発話(できごと)。それによって生まれる層の重なりの不透明さ(空間の厚み)。これらの要素からなる、複数キャラクターによって分裂する「一人読書会」は、要約であり、書評であり、書評を超えた論の独自な展開でもあると同時に、自身の欲望をだだ漏れ的に垂れ流しつつ、垂れ流し的な欲望を形象化する(フィクション化する)実践を通じた欲望のあり方の自己分析・自己分節・自己考察でもあり、自身の欲望を原資としてなされる現在への考察であり、その分析を再度折り返した自己変化への促しでもあると思われる(自己変化といっても「ちゃんと成長しよう」みたいなことでは勿論ない)。そして、論の展開と欲望の自己言及が相互作用する。

(ポルノ的表象にしばしばみられる「ベニスを持った美少女」ではあるが、それが「親指ペニス」であるところが渋い。)

「映像作品」としても、もはや、新しい物好きの先鋭的な学部生が「卒論のテーマにしたい」と言って担当教員を困らせるという域にまで達しているのではないか。

(そして、現在では、これを一人で作れる技術的環境があるということもまた、驚くべきことだと思う。これだけの声・語り口を、誰かに演じてもらうことなく、一人で組織できる。)

《フランシス・ゴールドンに遡るモンタージュ写真による顔の理念型の生成もはや遠く、理念型の諸特徴を不定形な連続体に溶解させるAI技術が浸透した現代に至ってなお、不可思議な意味の停止点として寓意画的に生成されている顔の表象の氾濫は、管理社会論なり消費社会論なりの構えを取れば容易く批判できますが、もとよりそれは大っぴらに肯定できないいかがわしさとして否認されつつ生き延びてきた視線のメカニズムの現れであり、この観相学的な知は、「深い」批判によって停止するはずもない「浅さ」として批判と承認とに相互に支えられながら(618-619頁)、今なお、ここでなお、駆動し続けています》

2024/03/16

⚫︎噂に聞いたいまおかしんじの映画はこれか。観たい。

tengokuka-movie.com

⚫︎この画像を見て、自分がいかに70年代末の「少年チャンピョン」から大きな影響を受けていたのかを思い知る。全部読んでいた。「花のよたろう」「ブラックジャック」「がきデカ」「750(ナナハン)ライダー」「エコエコアザラク」「青い空を、白い雲がかけてった」「らんぽう」「ロン先生の虫眼鏡」「手っちゃん」「ゆうひが丘の総理大臣」「ドカベン」、そして何より「マカロニほうれん荘」。

画像は以下の動画からのスクショ。

【漫画家による極限の漫画分析】れいとしょう#01『マカロニほうれん荘』特集 - YouTube

小学校一年生の時に最初に好きになったマンガは「ドラえもん」(藤子不二雄)だったが、その後、「ハレンチ学園」(永井豪)「まことちゃん」(楳図かずお)「がきデカ」(山上たつひこ)という、強烈な、下品・アナーキー・反権力ギャグマンガの洗礼を受け、さらにそこから、その洗礼さえも上書きするようなニューウェーブの衝撃として、「1・2のアッホ!!」(コンタロウ)「すすめ!!パイレーツ」(江口寿史)「マカロニほうれん荘」(鴨川つばめ)「らんぽう」(内崎まさとし)があって(小学校五年生くらい)、それらによっていわば認識論的切断(飛躍)が促された。今のぼくの「前衛芸術好き」の素地が、これらニューウェーブギャグマンガによって作られた感がある。

(こうみると、それは鳥山明には馴染めないはずだ、と思う。「マカロニ…」の衝撃の1、2年後には「パラレル教室」や「不条理日記」(吾妻ひでお)を読んでいる。そっちの方に行ってしまうのだ。)

⚫︎あらゆるマンガのキャラクターの中で最も好きなのは「きんどーさん(きんどーちゃん)」だと断言できる。

 

2024/03/15

⚫︎『不適切にもほどがある ! 』、第八話。とにかくコメディとしての密度がすごい。それとと同時に、今回はシリアスな苦い回でもある。

(前回は、自己言及的自虐を通じてやんわりと現代の視聴者へ疑問を呈する感じだったが、今回は「わかりやすい悪役」まで持ち出した、現代の視聴者への強めの批判になっている。この「わかりやすい悪役」のあり方に引っかかる人はいるかもしれないが。)

自分の死んだ後の世界で、孫の世代にあたる若者たちのために闘う阿部サダヲが、「世間」に対する敗北を認識する、というか、若者たちが「(目に見えず、掴みどころのない)世間」を引き受けて生きざるを得ないのだという「未来の現実」を苦く認識する。(限られた「自分たちの未来」のために)娘と一緒に自分の世界に帰るのではなく、驚くべきことに「禁煙」までして未来に順応し、自分の死後の世界を生きる若者たちのために奮闘するが、己の力の及ばなさを自覚するしかない。ラスト近くの、復帰したアナウンサーが映るテレビ画面を見ている阿部サダヲの「苦い表情」が印象に残る。

(亡くなったおじいちゃんが、自分が死んだ後の「この世界」で子孫のために働きかけるというのは、ちょっと柳田國男の『先祖の話』を思わせる。)

過去に帰った河合優美は、「未来(2024年)」をとてもポジティブなものと感じて、自分の時代に帰っていく。彼女は、未来の良い側面だけを経験している。それに対し、父の阿部サダヲにとって未来は良い世界ではない。それは決して「昭和のオヤジ」の常識や価値観と食い違っているからではない(実際に阿部サダヲは「未来の常識」を驚くべきスピードと柔軟さで身につけ、禁煙してもいるし、不倫を理由にアナウンサーを干しているテレビ局に対して「権利濫用による不当な配置転換と過小要求でパラハラに当たるのではないか」と主張するくらいに現代的な論理武装さえ身につけている)。そうではなく、未来に生きる若者たちが少しも幸福そうに見えないという理由から、良い世界ではないと思っている。そして彼は、未来=現代がこうであることの「過去」から来た者の責任において(死後の世界に対する、死者としての責任において)、良くない未来と闘う。これまで彼は、テレビ局のカウンセラーとして、未来の若者たちのために、(限定や保留が必要だとしても)一定の成果は出していると言えるだろう。しかしそれは、彼がまだ十分には「未来」の世界を知らないことによるビギナーズラックのようなものだったかもしれない。だが、今回ははっきりと自分の敗北と無力を、「昭和のオヤジ」の限界を、認めざるを得ない結果になる。

(勿論、一方的に「令和の地獄」のみを描いているのではない。もう一方に、ようやく学校に行こうという気になった不登校の佐高くんを受け入れる教師やクラス側の態度として「昭和の地獄」もしっかり描かれている。坂元愛登も、彼なりのやり方で「昭和の世界」で闘っているが、彼もまた今回は「昭和の常識」に敗れたことになる。)

(吉田羊が、キッチンのテーブルでスナップエンドウの筋を取る作業をしながら、同じテーブルで勉強している河合優美と会話する。この作業は、昔のドラマには「お母さんの家事労働」の紋切り型のようにしてよく出てきた気がするが、最近のドラマではあまり見ない。吉田羊が、一方でフェミニストでありつつ、他方で「昭和の専業主婦の紋切り型」にすんなり馴染んでいるように見えるという矛盾を含んだありようを、皮肉ととるのか、ユーモアととるのかの違いは大きい。)

2024/03/13

⚫︎異様なくらい鮮明でリアルな夢を見た。グループ展に参加している。その展覧会で公開制作のようなことをする。そこで作った作品は、今のリアルのぼくの作風とは異なり、多量の油絵の具を使い、キャンバスにかなりの厚塗りをするものだったが、その絵の具の感触、粘度や匂いなどを鮮明に憶えている。その作品について、グループ展の参加者の一人から、何とかいう海外の作家の作品に似ていると指摘され、その人がスマホで検索して作品の写真を見せてくれる。たしかに、見た目としてはまったく似ていないとは言えないが、そもそもコンセプトが根本的に違う、というような話をした。その場にいた別の数人も巻き込んで行われたその対話は、批難されるとか難癖をつけられるという感じではなく、積極的で建設的な面白い議論であったという満足感があった。展覧会終了後に打ち上げに行こうという話になる。

駅に向かうが、駅のホームに至るまでのコンコースがやたらと巨大で複雑な経路になっており、その複雑さを面白がった。男性3人、女性3人の6人での打ち上げだったが(そこにはリアルな知り合いは一人も含まれず、すべて夢の中独自の人物だった)、6人が座るといっぱいになってしまうような小さな酒場だった。もともといた2人組の客が、6人が入り切れるようにと場を譲ってくれる。大丈夫、我々はこっちで飲むからと言い、すぐ隣にほとんど似たような店があった。打ち上げはとても楽しく、気がつくと午前二時を回っていた。ああ、今日もまた帰れない、始発までどこで時間を潰そうかと思いながら外に出ると、午前二時なのに真夏の真昼のように明るい。そこで、もしかしたらこれは夢なのではないかと気づく。

これが夢だとすると、今日ここで知り合った人たちとは目が覚めたらもう二度と会えないのだなあと悲しく思う。しばらく歩くと海が見え、強い日差しでキラキラ海面が光っていて、海風も心地よいが、振り返ると、背後にもやや遠くに建物の隙間から海が見え、前も後ろも海だということは、これは確実に夢だなあと思う。6人でぶらぶら歩いているうちに、一人減り、二人減り、という感じで人が消えていく。彼らはどこか自分の世界に帰って行き、もう会えないのだなあとのだと思う。最後に自分が一人残り、自分もまた、もうすぐこの世界を去らなければならないのだととても残念に思う。

(目が覚めて起きようとする時、右足のふくらはぎがつった。ずっと痛くて、一日、右足を引きずって過ごす。)

2024/03/12

⚫︎『光りの墓』(アピチャッポン・ウィーラセタクン)をブルーレイで。改めて、これは本当に素晴らしいと思う。コロンビアで撮影されたという『MEMORIA 』も面白いのだけど、アピチャッポンの世界はやはり基本としてタイの風土の中でこそ成立しているように思われる。

古い学校の建物を利用したできたばかりの病院。眠り続けてしまう病にかかった兵士たち(男性ばかりのようだ)のみが入院している。そこに、かつてこの学校の生徒だったこともあるという初老の女性が、兵士のうちの一人の若い男性をケアする仕事でやってくる。この女性は足が悪く、右足は左足より10センチ短いという。右足にだけ底の厚い靴を履き、杖をついている。彼女には、ネットで知り合って移住してきたというアメリカ人の夫がいる。さらにこの病院には、眠り続ける患者たちの「夢」を見ることができるというシャーマン的な若い女性がいる(彼女は、芸能人を使って行われている化粧クリームのキャンペーンの手伝いの仕事もしていて、普通に世俗的な人だ)。

この映画は、物語を語るというよりも、高精細の映像、開かれたフレーム、非常に繊細に拾われ丁寧に作り込まれた音声によって、あらゆる矛盾を溶かし込んでしまうような驚くべき鷹揚さを持つ時空を立ち上げる。病院の周りには大きな池があり、林のような公園があり、そしてなぜか軍隊がそこここに重機で穴を掘っている。池には奇妙な物体が浮かんでいるし、林では木の影で野糞をする人もいる。

眠り続ける兵士は、時々ふと目を覚まし、しかしすぐにまた唐突に眠りに落ちてしまう。眠り続ける男のケアをし、たまに目覚めた時に食事を共にして語り合うことで、女性と男とは交流を深め、女性は男のことを新しい息子と呼ぶようになる。公園の東屋のようなところで食事をし、兵士を辞めて饅頭屋のチェーンを始めたいという夢を語りながら、男はまた、すっと寝入ってしまう。そこへシャーマン的な女性がやってきて、男の手に触れ、彼が見ている風景をおばさんも観たいかと彼が言っている、と言う。

シャーマン的な女性が男に代わって、というか、その「若い兵士として」、初老の女性を、現実的には(というか、映画を観ている観客の「知覚」的には)林のような公園である、夢の中の宮殿をエスコートする。そこは、林のような公園であると同時に宮殿であり、シャーマン的な若い女性は彼女自身であると同時に、今、眠っている若い兵士でもある。宮殿には大広間があったり、部屋中が鏡である王子のための化粧室があったりするし、同時に、林のような公園には、初老の女性が老人会で作った蘭の花があり、大木に刻まれた洪水の痕跡があったりする(こちらは、実際に画面に映っている)。二人はその両方を見ている。初老の女性もまた、兵士の夢の中の王子の化粧室の鏡に映った自分の姿を観ているようだ。

その後、池の見えるベンチに座る二人。初老の女性は、夫が飲んでいるサプリメントで、アルツハイマーやリウマチを予防するものだと言って、ペットボトルの水に複数の粉状のものを混ぜ、これを飲むと私も起きていられると、シャーマン的な女性に飲むように促す。常識的に考えれば、「ここ」にいるのは眠りの病にある若い兵士ではなく、シャーマン的な女性の身体であり、彼女が薬を飲んでも兵士には効かないはずだ。しかし、ここは現実の公園であると同時に夢の中であり、彼女は彼女であると同時に兵士でもある。

シャーマンでもあり兵士でもあり、彼女でもあり彼でもあるその人は、薬を飲むことはせず、初老の女性の悪い方の右足に、その液体をかけ、脚を舐める。これは、慈しみの行為であると同時に、あからさまに性的な接触であるように見える。しかしこれは、一体、誰と誰とが接触しているのか。シャーマン的な女性と初老の女性なのか、若い兵士の男性と彼をケアする初老の女性なのか、この時空が夢の時空でもあるならば、若い兵士と初老の女性の年齢差も意味がなくなり、二人の固有性すらあやふやとなり、誰でもあり誰でもない二つの身体の接触であるかのようでもある。魂と体は分離し、それぞれの固有性すら消えていく。

(ここは病院であり、科学と医学が支配する。しかし同時に、シャーマン的な女性や、宇宙のパワーを説く怪しい瞑想家が出入りしている。廊下には普通にニワトリが歩いてもいる。そしてかつては学校であり、学校であった記憶の層に初老の女性はアクセスできる。また、もっと古い層として、かつてここは王宮であり、その時代の戦士たちが今もなお(現在の兵士たちの生気を吸い取りながら)闘っているという。若い兵士はこの層に引き込まれて眠っている。さらに、病院の周りには軍隊が常駐し、シャーマンの女性は広告業界(あるいは化粧品業界)で働く人であり、そこには政治や資本主義の層もある。民間信仰の偶像が現実化し、池には奇妙な物体(生物?)が浮かんでいるし、空には巨大なゾウリムシが浮遊しているし、野糞をする人も普通にいる。これらのすべての層が、互いを排除することなく溶け合っている。)

ただ、このようなことを「言葉(意味)」として書いてもあまり意味はないかもしれない。重要なのは、このような出来事が起こることが何ら不思議ではなく、それを普通に受け入れることができるような時空のありようが、この映画全体を通して感覚的に形作られているということだろう。そしてそのための重要な背景として、タイの風土や環境があるように思われる。

2024/03/11

⚫︎スーパーデラックスで『フリータイム』(チェルフィッチュ)を観たのは16年前の3月だったが、今でも憶えているが、会場に入って舞台上の美術を見た時に嫌な感じがした。中途半端に状況を(舞台がファミレスであることを)説明していて、中途半端にオブジェとして自己主張していて、これからここで演劇を始めるのに邪魔にしかならないように思えた。しかし、始まってみれば、この舞台美術があったからこそ、この作品はこうなったという、この作品の固有性を決定するような、作品そのものと不可分であるような装置だった。まさに「これからここで演劇をするのに邪魔にしかならないような装置」が、この作品をこのようなものにしていると思った。

この作品を特徴づけるような(ぐるぐる円を描いている)前屈の姿勢も、セリフとも物語内容とも無関係に、俳優たちが常に足元を気にしているというか、地上20センチくらいの高さが常に意識されている(無意識に意識されているかのように意識されている、常にその高さを足が弄んでいる)感じも、このような装置との相互作用の中でしか出こないだろう。演劇を観ていて、こんなに足元に注目することも、そうそうない。「その空間」の中でこそ立ち上がる演劇というのがあるのだなあと思い知らされた。

(作・演出の岡田利規は、この装置をどのように発注したのか気になる。こういう装置が出てきたから、このような演出になったのか、あるいは、初めから地上20センチくらいの高さ/低さが意識されるような装置を作るように要求していたのだろうか。)

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