2024/04/03

⚫︎英語で書かれたテキストをGeminiに助けられながら読んでいると、あるブロックだけ、何度やっても翻訳が拒否される。AIでエラーが出ることは珍しくないが、たいてい、何度がやり直せばちゃんと「答えて」くれる。しかし「I can't assist you with that, as I'm only a language model and don't have the capacity to understand and respond.」というメッセージが出るばかりだ。

仕方がないので、そのブロックだけDeepLで翻訳してもらった。そして、ああ、もしかすると、と思った。そのブロックでは精神分析について触れていて、その関係で、性的にかなり露骨な、というか、意図的に下品で露悪的な表現が使われている文がいくつかあった。もしかすると、こういう表現は翻訳するのを拒否するように調整されているのかもしれない。

誰でもが自由に使えるAIに、危険を避けるような抑制がかけられるのは当然だし、仕方ないことだが、ここまで潔癖である必要があるのかな、と思った。DeepLは「翻訳」のみに特化されているものなので、危険なことに使われる危険度が低く、その分抑圧も緩いのかもしれない。

(でも、DeepLには勝手に意訳したり省略したりする癖があるんだよなあ、と思う。)

⚫︎あるAIに翻訳をしてもらって、別のAIに「その翻訳の評価」をしてもらう、という手があることに気づいた。

2024/04/02

⚫︎(昨日からのつづき)「二つのレアリスムの間に」(「批評空間」二期7号)でフリードは、左右の反転にとてもこだわっている。クールベの『石割り人夫』において、描いている右手に該当するハンマーの男は画面向かって右側に、パレットを持つ左手に該当する若い男は向かって左側に配置されている。これは、キャンバスと向かい合って右手で絵を描いているはずのクールベの身体と直接的に繋がっている。筆を持つ右腕が向かって右側に、パレットを持つ左腕が向かって左側にあって、それがそのまま画面に溶け込んで埋め込まれている。

それに対しラトゥールの自画像は、鏡に映った自分の像を描いているため、描かれた画家は、右手で画帳を持って左手で描いている。これでも実は、描いている画家の右手の延長上に、画面内の画家の左腕があることになるので、連続していると言えないこともないが、しかし決定的に違うのは、画面内の画家が「こちら」を向いていることだ。

クールベの『石割り人夫』に描かれる人物は二人ともこちらを向いていない(特に若い男はほぼ後ろ姿だ)し、『小麦をふるう女』も、中心にいる人物は向こうを向いている。つまり、絵を描いている画家と同じ方向を向いている。クールベが、描かれたものとと同じ方向を向いていることで画面内に自然に没入しているのに対し、ラトゥールは自身の像と対面している。ここに「鏡」を使うことによって生じる矛盾が現れる。自分自身の像と対面するのならば、その自分もまた右手で描いていなければならないはずだ。というか、因果としては逆で、画面には描かれていない「鏡」の存在(媒介)を知ることができるのは、描かれた画家が左手で描いているように見えるからだ。

ここでフリードは、ラトゥールがレアリスムのダブルバインドに陥っていると書いている。つまり、自分以外のすべての人が見ている世界の現実に忠実であろうとするならば、画家は右手で描いていなくてはならないが、「目に見えている現実」に忠実であろうとするならば(画家の目は「鏡像反転した自分」しか見ることができないから)、画家=わたしは左手で描いていなければならない、と。

そしてラトゥールは「自分の目に見えている現実」の方を尊重して、「左手で描く画家(わたし)」の像を描く。ただこれは、「自分以外のすべての人に見えている現実」としては嘘になってしまう。ここでフリードは、この絵から見て取れる「ハッチングの方向」に注目する(ハッチングという言葉がわからない人は「タッチの方向」だと思ってください)。通常、右手で描く画家は「右上から左下に向かうハッチング」を使い、左手で描く画家は「左上から右下に向かうハッチング」を主に使う(人体の構造上、そうするのが最も自然である)。ラトゥールはこの自画像を、主に、というか、ほぼ「右上から左下に向かう」ハッチングを用いて描いている。つまり、このハッチングの方向によって、画家(わたし)が「これ」を右手で描いているということを強く表現しているのだ、と。

ラトゥールは、「自分の目に見えている現実」を尊重して「左手で描く画家」を描くという意味では「視覚のレアリスム」に属するが、ハッチングの方向によって「右手で描いている」ことを絵に直接的に刻み込んでいるという意味では「身体のレアリスム」に属するのだとフリードは書いている。ラトゥールは、歴史的に、クールベ的な身体のレアリスムと、印象派的な視覚のレアリスムの間に位置するのだ、と。

《こうしたこと全てはマネについては全く当てはまらない》と、フリードは最後にマネの自画像に触れる。

《マネの自画像では、見ることと描くことのある種の速度に対して初めて関心が払われ、それが目と身体、あるいはむしろ目と手を、まさしく同じ状態に、少なくとも均等な圧力の下に、位置付ける(「身体」というよりもむしろ「手」といったのは、『パレットを持つ自画像』では、身体化のために片手や両手の仕事を動員するよりもむしろ手の器用さを全面に押し出しているからである。…)。》

《『パレットを持つ自画像』に込められた虚構とは、マネが、鏡の中に左右逆転した自分のイメージを見るや否やその手と絵筆の見事な名人芸でその姿を描いた、というものである。(…)非常に省略されて描かれたマネの絵筆を持った左手(実際には彼の右手)は、同時にあらゆる場所に存在する、すばやい休みない動きの中にあることを暗示することによってこうした虚構を確証しているのである。》

《(…)絵画と見るものの間の、互いの対面の逃れることの出来ない、半ば超越論的な関係、最初の出会いのしるしとしての瞬間性(及び際立った印象)に対するマネの深い執着は、この初期から彼の芸術の決定的な特徴をしていた。》

 

2024/04/01

⚫︎マイケル・フリードを初めて読んだのは1995年に出た「モダニズムのハードコア」に収録された「芸術と客体性」だったが、強く印象に残ったのは、同じ年の「批評空間」二期7号に掲載された「二つのレアリスムの間に」というテキストだった。「芸術と客体性」と全然違うし、こんな風に「絵画に触れる」人は他では見たことがない、という感じで深く印象が刻まれた。

こんな風に絵画に触れる人は他に見たことがないという印象は、改めて、今読み直しても変わらず、さらに、その絵画への特異な触れ方を「美術史家」として歴史に返すというか、歴史の上に配置しようとしている仕方もまた、とても特異なものだと感じる。

「二つのレアリスムの間に」は、ラトゥールという画家が、クールベ的な「身体のレアリスム」と印象派的な「視覚のレアリスム」との間の移行期に位置づけられるということを、代表作とはとてもいえないような、小さな自画像のデッサンを検討することで示そうとするテキストだが、そこでまず驚かされるのが、「身体のレアリズム」であるとされるクールベの絵の捉え方だ。

まず、グルーズ、ダヴィッド、ジェリコードーミエ、ミレーに至る、フランス絵画の「反演劇的な流れ」があるとする。彼らは、描かれた人物が観者に対して「芝居がかった」感じをできる限り感じさせないように努めるような絵を描いた。ただし、そのような傾向を追求し続ける過程で、次第に、その、あまりに「芝居がかってなさ」こそが却って「芝居がかって」感じられるようになってしまうという反転が起きた。そうした文脈の中でクールベという画家が出てくるのだ、と。

《この戦略とは、内面に籠って集中することや絵の前に立っている観者を遮断し締め出してしまうのではなく、何か全く別のやり方、つまり今や絵の最初の観者と見なされる画家(あるいは画家=観者)の、制作行為に於ける絵画そのものとの半ば身体的な結合である。少なくともその観者との関係によって、絵画は一方的に見られることから完全に解放されることになる。もはやだれも作品の前に立って見ているものはいない。なぜならそこにいたはずの観者は今や作品の中に取り込まれ或いはまき散らされているからである。》

《例えば私には、『石割り人夫』(一八四九年)で、ちょうど年長の男がハンマーを振り上げている姿が画家=観者がその絵を描くために使っている絵筆をふるっている右手とつながっているかに見えるように、石のはいった籠をもったほとんど後ろから描かれている若い男もまた、単に画家のパレットを持った左手を擬人化しているかもしくは擬人化するために描かれた人物であるだけでなく、その姿がほとんど画家=観者の手と、それが制作に一役買おうとする努力に、つながっているように見える(スティーヴン・メルヴィルの言葉を借りれば、少年と男は絵の中で画家=観者の左手と右手の行為を延長しているかのように見えるかもしれない)。この関係に於いて、『石割り人夫』の中の左と右が如何にその「外部」の左と右に、つまりこの絵を制作中の画家=観者の左右の位置に合致するかということに注目すべきである。》

《同様に、クールベの見事な作品である『小麦をふるう女』(一八五四年)では、小麦を床に敷いた麻布(キャンバス)の上にふるっている後ろから描かれた中央の跪いている人物が、自分の前に張ったカンヴァスの上に絵の具をおいて行く画家=観者の行為と位置とを体現していると見ることができよう(言い換えれば描かれた女性だけではなく、ふるわれた小麦や床に敷かれた麻布も絵画の隠喩、あるいはむしろ換喩の役割を果たしている)。画面左手に座って夢見心地で小麦と籾殻を手で選り分けている女性は、画家=観者のバレットを持つ左手の変形したものだと読むことが出来るだろう。一方小麦をふるう初期の機械である唐箕の黒い内部を身を乗り出してのぞき込んでいる少年は、画家=観者が絵の中に(物理的に不可能であるが)組み込まれまき散らされたために、絵を見ることが否定されたことを示唆している。》

初めてこれを読んだ時は驚いて「まじか…」と思った。絵を観るというより、絵を媒介として、(すでに「ここ」にはない)画家の身体へと逆流して「描いている身体」へ侵入し、「絵を観るわたし」がその位置を占めようとするかのような感覚。絵を観ている「わたし」の視線が、絵によって反射され、それが「ここ」に戻って来たときはもはや「ここ」は「今」でも「わたし」なく、かつて「そこで描いていた画家の行為」へと時間が逆流するかのような。あるいは、絵の中にバラバラに切り刻まれて散っている、画家の身体と描く行為とを、観ることを通じて再構成するかのような。「絵の手前」で行われた行為が、絵の中にバラバラになって溶け込んでいて、それを観ることで、その行為する身体がもう一度「絵の手前」で(「わたしの身体」を憑代として)再現される感じ。その時「わたしの身体」の少なくとも一部は絵の中に溶け込んでいるから、わたしと絵とは連続しており、その絵を「的確に見るための距離」を取ることができない。

フリードが、『小麦をふるう女』に描かれた「唐箕をのぞき込む少年」について、《画家=観者が絵の中に(…)組み込まれてまき散らされたために、絵を見ることが否定された》と書いていることは重要だ。《(…)クールベ以前の反演劇的な伝統における画家たちが画面の前の観者の存在に対して実際に盲目の絵画を描こうとしたのに対して(…)、クールベのレアリスムの作品が画家=観者の盲目を喚起する点を指摘することだろう。あるいはそれが言い過ぎなら、クールベの作品は目の前の作品との肉体的な結合が引き起こしたであろう視覚の喪失[蝕]を喚起する。》

(《画面の前の観者の存在に対して実際に盲目》というのは、いわゆる「没入」のことで、描かれた人物が、観者あるいは「自分を観ているかもしれない誰か」のことをまったく意識していないかのように振る舞っているように見えるように描かれているということ。しかし、そのような「振る舞い」こそが却って「芝居がかって」見えるようになってしまったという閉塞から脱するように生まれたのが、クールベの「身体のレアリスム」だ、と。)

クールベをこんな風に見ることが出来るのか、というか、絵画に対して「こういう触れ方」があるのか、という驚きがあったし、その驚きは今もなお持続している。