2024/03/31

⚫︎エリー・デューリング『Faux raccords: La coexistence des images』のイントロダクションを読む。ハーマンの英語と違って、デューリングのフランス語は晦渋なので、ChatDPT、Gemini、Claude 3と、三つのAIにそれぞれ翻訳してもらって、訳文を比較しつつ、よくわからないところはAIに質問する(「訳文で「⚪︎⚪︎」となっているのは、原文ではどこを指し、それはどのような文脈で使われていますか?」とか)、という形で読み進める。三つのAIにはそれぞれ一長一短があるし(明らかにキャラの違いがある)、それぞれコンディションが良い時と悪い時がある(おそらく、大勢の人が同時に使っている時はパフォーマンスが落ちる)。

まずここでデューリングは、この本が主に扱っているのは「共存」の問題であり、共存を捉えるには「時間」と「空間」という二つの側面から見る必要があるとする。《時間による共存は、誤認における現在の二重化によって示される二重性の問題です。空間による共存は、同時性または遠隔接続の問題です》(Claude 3)。

二重性(時間)と同時性(空間)。《一方で、過ぎ去らない現在、自己に逆流し、分裂し、一種の幻影を投影する、瞬間の記憶、「純粋に仮想的な現在の記憶」、そして同時に、現在に付随する、同時代の過去》(ChatDPT)。《他方で、物質的な広がり全体に分布する異質な持続の多様性。変化と生成自体と同じくらい数多く、包み込まれ、からみ合った持続性。そしてそれらがどのように交流するのかという問題》(Claude 3)。《れらの異なるリズムの無数の時に対して、どうやってそれらがすべて連携しているのか、という問題がある》(ChatDPT)。《なぜならばそれらは共存しなければならず、全体が概念に答えなければならないからである。たとえそれがあらかじめ総体化できない開かれた、生成中の全体であったとしても》(Claude 3)。

この部分に、イントロダクション全体の問題が詰まっている。一方に、それぞれに異質でバラバラな個別の流れ、リズムがあり、そしてもう一方に、それらをどのように重ね合わせたり、交流させたりして共存させるのかという「全体」という問題がある。このことは、一方でローカルなデータがあり、他方で、それらを関係づける地図やダイアグラムのようなグローバルな表象が必要であるとも言い換えられる。

とはいえ当然だが、「異質なものたち」を束ねる「グローバルな表象」が簡単に得られることはない。《時間の流れは、アインシュタインの時計のように不協和になる可能性があります。しかし、それらが一緒に流れることは必要不可欠です。そうでなければ、どのように何かを語ることができるでしょうか?》(Gemini)。《物語は一般に「昔々あるところに」で始まるが、他の声、場所、行動の筋道が導入されるとすぐに、「そのころ同時に」と続けなければならない。(…)映画はクロスカットを最も効果的な物語の要素の1つとした。そこでは、空間的な隔たりがあるにもかかわらず、時間の系列が時折交差するのが見られる》(Claude 3)。そのような意味で、(常識とは異なるが)映画は同時性(空間)の芸術と言えるかもしれない、と。さらに、アラン・パディウが、映画の思考の本質は運動よりもトポロジーであるとする主張を引用する。《ショットやシーケンスは、結局のところ時間の尺度においてではなく、近接性、呼応、持続、あるいは断絶という原理において構成される》(パディウ『美学小辞典』からの引用、Claude 3)。映画で重要なのは、一秒間に24コマという虚偽の運動ではなくモンタージュなのだ、と。デューリングはさらにこれに加えて次のように書く。《モンタージュ自体は、ある画面とつぎの画面、ある場所とつぎの場所を一連の編集による切断を介して接続することで、画像から何かを引き去るだけのことなのである。実際、真の幻惑の仲介者となっているのは、局所的な運動と我々がそれに自然に結びつける時間の流れという概念なのである》(Claude 3)。ここで「局所的な運動」が結び付けられるという「自然な時間の流れ」は、《画像の流れを方向付ける全体的な運動、「全体的時間」》と名付けられる。

ここで先ほど書いた「ローカル/グローバル」という話になる。《映画は本質的にトポロジカルであり、二次的に時間的であると断言することは、あまりの習慣に暴力を振るうことになるでしょう。しかし、映画的および芸術的な観点から画像の共存の問題を検討することを目的とする場合、この主張を真剣に受け止めないのは難しいです。実際、共存の問題は、時間と空間のローカルなデータと、例えば地図や図表のような、複数の視点の共存を同一の表現空間で再現しようとする表現の間の接続の問題として基本的に提示されます。また、接続、ローカル/グローバルは、典型的にはトポロジカルなカテゴリーです。

次いで、やや秘教的な発見だがと断りつつ、「接続」の問題を考えるということは「切断」について考えること、切断についてより適切に考えることだ、と言う。《映画や芸術における共存の形式を実験することは、新しい切断の方法を探し求めること、言い換えれば、接続の概念を相対的な切断の可能性に結びつけることを意味する。(…)何も完全には分離されていない。ただし、分離の度合いがあり、これが共存の関係を複雑にする。要するに、同時性を相対的に利用する必要がある》(ChatDPT)。例えば双子のパラドクスで、地球にいるAと宇宙船で旅行するBとが、どの程度切断されているのかを考えることが、双方の(相対的な)同時性のあり方を考えることになる、というようなことではないか。《バザンに始まり、スプリット・イメージ、スプリット・スクリーン、デタッチメント、エリプス、そしてオフ・スクリーン、ブラインド・スポット、ブラインド・スポットのあらゆる種類を含むあらゆる種類の偽の接続まで、禁断の編集術における断絶の例には事欠かない。これらの概念は、不可逆的に空間的であり時間的である》(Claude 3)。

とはいえ、ただ「切断」されているイメージを提示するだけの作品、あるいは、異質なものの隣接性を提示して、現在/過去、現実/仮想の分類・分割を無効化するだけ作品には大して意味がない、と。《私たちは同時に複数の時間空間に存在していることは、毎瞬、過去の隅々に埋もれた記憶を動員していることからでも明らかです。現在に厚みがないという事実に驚くのも同様です。(…)この普遍的な経験の心理的な相当物を、美術館の壁に投影すること自体には、特に興奮するようなことはありません》(Gemini)。《芸術や理論において、重要なのは特筆すべき点と普通の点を区別することです》(ChatDPT)。

ヒッチコックの『めまい』が、そのようなものではない「特筆すべき作品」として挙げられるが、『めまい』のための一章が本文にあるので詳しくは触れられない。イントロダクションでは、ヴァリー・エクスポートによる「Adjungierte Dislokationen」(1973年)というビデオ・パフォーマンスと、ダン・グレアムの「Two Correlated Rotations」(1970-72年)という作品が、特筆すべきものとして取り上げられる。

「Adjungierte Dislokationen」は、ギャラリーの壁に投影される三つの映像からなる。16ミリで撮影された一つの大きな映像と、8ミリで撮影された二つの(縦に並べて投射される)小さな映像だ。大きな映像には作家がパフォーマンスする姿が映される。作家は、肩の高さで、正面に向けたカメラと背面に向けたカメラを同時に構えている。この、180度で真逆を向いた二台のカメラによって捉えられた像が、二つの小さな映像であることが確認できる。作家は、カメラを構えたまま街を歩き、どこかの斜面を登ったり、高い台から飛び降りたりする。しかし観続けていると、この三つの映像は必ずしも同期していないことが分かってくる。非同期の度合いは時間の進行と共に強調されるようだが、しかし時折、再び、三たび、同期したように思われる瞬間はもある。

Valie Export, Clips from Adjungierte Dislokationen 1973 - YouTube

Dis-lokationは、全体的な経路、バディウの言葉を借りれば「一般的な時間に関連付けられた経路の形」といったものの再構築が、常に阻害されていることを意味します。その結果、空間の形状自体や、最終的には連続した動きの意味が、ますます抽象的な連続的なプランのラプソディックな連続に置き換わり、それでも断続的な同期や、遠く離れた再接続のポイントが散発的に存在します(ChatDPT)。

つまり、ローカルなデータと、グローバルな表象の関係が安定的に得られることがない。だが、完全なな無秩序ではなく《断続的な同期や、遠く離れた再接続のポイント》は存在する。

観客は疲れ果て、この作品が提供する2つの可能性のいずれかを受け入れることになります。1つは、メイン画像に集中してパフォーマンスのドキュメントとして見ること。もう一つは、抽象的なイメージの流れに身を任せ、分裂を受け入れて、このモンタージュを「実験映画」のような美的な楽しみの機会として捉えること(Gemini)。しかし、最も興味深い立場は、もちろん完全に持続不可能な立場であり、装置が禁止している立場ですが、私たちを常に誘っているモンタージュの場所です。画像の中心に立っている私たちは、これらの三つの同様に不快な立場の間を移動するしかありません。私たちは少なくとも映画体験の時間としての「グローバルタイム」の相当物を得ることができるでしょうか?(ChatDPT)。

ここで言われているのはつまり、決して一致することのないローカルなデータとグローバルな表象との間で「虚の透明性(≒映画体験の時間としての「グローバルタイム」)」が成り立つかどうかだ、と言い換えることもできるのではないか。

次に、ダン・グレアムの「Two Correlated Rotations」。二人の男が互いに相手を撮影しあいながら、渦を巻くような動線に従って移動を続けている。そうして撮影された、二つの映像が投射されているという作品だ。

2つの視点はグラハムによると「ほぼ同期しているが、"機械的な不規則性"がある”2台のプロジェクターを使って、角度をつけた二重投影によって再現されます。ブレやフレーミングのずれにより、周囲の空間の断片が数秒見えたりします。また、撮影者が複雑な軌跡に沿って「盲目で」移動しながら、できるだけ視線を維持することの難しさも示されています。一方で被写体は、同じくらい複雑な軌跡を逆方向に移動しています。避けられないこれらのつまずきとずれがあるにもかかわらず、相互性の原理は完全で、インスタレーションは自己に完全に閉じられているため、観客を外に押し出すようです》(Claude 3)。エクスポートの作品とは対照的に、互いに互いを映し合う自己完結した二つの映像の間で、観客は自らの位置を得ることの困難に直面する。《確かに、2つの相互的な映像の真ん中に、自分の視点という第3の視点を据えようと試みることはできます。しかし、すぐに根本的な困難に行き当たります。それは、パフォーマンスが行われている空間が、観客には自明ではなく、全体像を再構成することができないということです。結局のところ、欠けているのは、この2つの視線が互いに注視し合い、相互に焦点を合わせているような「視点」の構成または共存の空間なのです》(Claude 3)。ここでもまた、ローカルなデータが配置される(共存される)べき、グローバルな「全体」が前提とされない。開かれたままで、絶えずずれ続ける不規則なネットワークを構成するローカルなデータの束を、決して完成・完結することのない「全体」へと結びつけるのは、フィードバックループを作る二つの視点の真ん中に第三の場所を作ろうとする観客ということになるのだろう。《本論にとって本質的なのは、ダン・グラハムがこのようにして、視点の局所的接続の体制の典型を生み出したということです。つまり、構成の場所のない接続で、調整は必然的に段階を追って、連続的な対応によって行われますが、おそらくは効果的であるためには、第三の項が介在し、2人のパフォーマー間の経験した関係を、関係の経験へと変換する必要があるのかもしれません。同時にこの経験は、第一の関係の延長線上に、第二の関係を構築するのです》(Claude 3)。

どちらの作品も、単に断絶や切断、不連続を示すのではなく、その切断が全体(共存)を要請し、誘うような形で示されている。しかし、通常の、または常識的な「時空」概念では、その全体(共存)は決して完結しない。そこで「共存」を思考するためには、常識的な時空概念(時空感覚)を超えた、新たな時空(新たなトポロジー)のあり方が要請される。

2024/03/30

⚫︎必要があって、無料で使える音声合成アプリをいくつか試してみた。そのついでに、ぼくが書いた「ライオンは寝ている」という小説の最初の方を、VOICEVOXといアプリの、No.7というキャラクターの「読み聞かせ」モードでちょっとだけ朗読してもらった。

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2024/03/29

⚫︎『不適切にもほどがある ! 』、最終話。過去回を適度に振り返りつつ、お祭り的な雰囲気で、ふわっと、みんな幸福な感じでよかったねというところに着地する。三ヶ月間、ドラマを見続けて登場人物に愛着を持っている観客にとっては、後に引きずらない感じで、いい気持ちで登場人物たちとお別れできるのだから、テレビドラマの最終話としてはこれが正解なのかもしれないが、面白いか面白くないかと問われれば、面白いとまではいえない。ただ、途中が面白かったから、最終回は、まあ、こんな感じなのかな、と。

(「寛容」とか「多様性」とか、そういう言葉はあまり安易に「着地点」に使わない方がいいのになあ、とは思った。着地点がしばしば安易であることと、問題を類型化・矮小化し過ぎている、あるいはしばしば問題をミスリードしている、ということは、このドラマの明らかな弱点で、どうしても引っかかってしまうところではある。デリケートな素材を「手ぐせパターン」「コメディとしての型」で処理してしまうようなところがしばしばあった―-だが、そうでないところも確かにあったのだけど-―のは残念だった。)

(野木亜希子や坂元裕二だったら、こんな感じの「テンプレ最終回」にはしないでもっと―-脇を固めつつ-―攻めてくると思うけとど、良くも悪くも安定の最終回という感じ。「最終回で伏線回収してどんでん返し」みたいなドラマにはしねえぞ、という自己言及通りだった。)

⚫︎佐高くんの資金援助のおかげで、2024年と1986年の間にバスの定期便が通って、過去と未来が入り混じってカオスになる、みたいな展開がぼくは好みだが、まあ、そうはならないことは納得する。しかし、タイムトンネルが開けてしまったとしたら、実際には、定期便が通るなんてことよりもはるかにメチャクチャなことになってしまうわけだが(とりあえず、Creepy Nutsの二人は未来に帰れるだろう)。実質的には「時間は存在しない」みたいな世界になる。

(未来の、ある特定の時点で「タイムトンネルが開かれた」ということは、その瞬間に「過去から未来に渡ってすべての時間においてタイムトンネルが常に存在する/既に存在していた世界」へと、世界・歴史のすべてが改変されてしまったことになる。)

「確定されてしまっている娘と自分の死」に対してどう向き合うのか、という問題は保留されたまま終わった。とはいえ、タイムトンネルが開け、いつでも好きな時代に行けるというのならば、「確定された死の時刻」へ至る前の時間を、無限に引き伸ばし、無限の遠回りができることにはなる。生きているどの時期にも、死後にも、そして生まれる前にも、どこにでも行けるのだとすれば、生きていることと死んでいることの違いが、もうほとんどどうでもよくなってしまう。

⚫︎最後まで見て思うのは、この作品の芯にあるのは「死を否認する」という感情なのではないかということだった。その意味で、いまおかしんじとかにも近いのかもしれない。阿部サダヲが死後の世界で孫たちの世代のために奮闘し、仲里依紗が(幼いうちに亡くなったためにほとんど記憶にもない)死んだ母親と出会って友情関係を結ぶ。ここにこそ重点があるように思う。死が否認された世界に説得力を持たせるために、36年を隔てた二つの時代(世界)に通路が開け、徐々に撹拌される。吉田羊は、少年時代の別れた夫に出会い「うう、井上ぇぇ…」と思い、少女時代の自分に出会って「ああ既に自分がいる」と感じる。坂元愛登は、父親と偶然、友人として出会い、あまりに若すぎる両親に対して「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の反復を強いられる。古田新太は、阿部サダヲにとって「自分より歳をとっている娘の夫」であると同時に、(同様に妻を若くして亡くしていることから)、95年に死んでしまうことが確定している自分には決して至ることのできない「不可能な未来の(年老いた)自分」の像でもある。阿部サダヲは、古田新太仲里依紗の父娘の中に、(震災で死ななかった)自分と娘の反実仮想的未来を見ることができる。

(阿部サダヲは、若くして死んでしまうことが決まっている河合優実に、せめてものこととして死後の未来の世界を体験させる。)

阿部サダヲ河合優実は、生きているのと同時に死んでおり、磯村勇斗彦摩呂錦戸亮古田新太、中田理智→三宅弘城袴田吉彦沼田爆は、不可逆的な変化ではなく両方同時に存在する。そして、阿部サダヲ→( )、河合優実→( )と、後者が「空」であることにより、二人が「半分の死者」であることが示される。タイムパラドックスなどまったく問題にならずに過去と未来とが(生と死とが)ひたすら撹拌され、死者と生者が出会って関係を持つ。あまりに融通無碍で、あまりに「寛容」である世界にまで至って物語が着地する。それなりにシビアな現実から「物理的にあり得ない寛容さ」を持った世界への飛躍。この作品においては、前者(現実)よりも後者の方がリアルだ。

(小泉今日子のみが、二つの世界を貫いて小泉今日子であり続け、時間の不可逆性を示し、時間が攪乱された世界における最低限の「現実的な錘」となっている。)

⚫︎ただ、納得できない疑問としては、なぜ、わざわざ阪神淡路大震災を出してきたのかがよくわからないままで終わってしまったな、ということはある。1986年と2024年とがほとんど非現実的に、(生/死も超えて)夢のように混じり合う世界で、その間に、それに対する抵抗のように「シビアな現実(現実としての「死」)」としての1995年が置かれているわけだが、それがただ「置かれただけ」で放置されてしまった感じ。「置かれている」だけでも、意味はあるのだが。

(このドラマにおいて、さまざまな問題はしばしば、それ自体が主題なのではなく、あくまで時代背景、あるいは「時代」を表現する要素にとどまっており、その点について「怒り」を感じる人がいることは納得できる。そのようなドラマにおいても、1995年は、「時代背景」にはならないシリアスな現実として置かれている。)

2024/03/28

⚫︎グレアム・ハーマンの『Art and Objects』を、部分的に読み返している。とはいえ、語学弱者なので大規模言語モデルによるAIの助けを借りて(つまり、逐次、翻訳してもらって)読むのだが。それで思うのは、ほぼ一年前に読んでいた時に比べて、翻訳の精度が著しく向上していることだ。一年前のChatDPTの翻訳は、こちらでかなり斟酌して、ようやく意味がとれるくらいだったが(逆にいえば、斟酌しさえすればちゃんと意味がとれる訳文を作ってくれることがおどろきだったが)、今、主にGeminiとClaude 3の、しかも無料で使えるバージョンを使って読んでいるが、用語の訳語に統一性がなくバラつきが出てしまうことと、固有名のカタカナ表記のバラつきが大きすぎて、しばしば誰のことかわからなくなることを除けば、普通に読めて(つまり、大して斟酌することもなくスルッと読めて)、「ここは理屈が変になっている」とか「ちょっと何言ってるのかわからない」とか「意味が逆になってしまってるのではないか」と感じるところがすごく少なくなった。ある程度の基礎知識がないと誤読する危険は大きいとはいえ、アートや哲学、人文系のテキストはAIの翻訳で十分読めるようになったのではないかと思う。

まったく新しい何かがドーンと出たということではないが、この進歩は地味にすごい。一年前のChatDPTは、知らないことを聞かれると、あたかも知っているかのような嘘をついていたが、最近のAIは間違え方も人間っぽくなっているように思う。ちょっと前にVECTIONの会議で(『天然知能』の話題から)、Claude 3に金子みすゞの有名な「雀のかあさん」という詩を入力してみたことがあって、すると「これはサトウハチローの有名な詩で…」と出力してきた。金子みすゞサトウハチローを混同するという間違いは、人間でも(人間でこそ)ありがちだと思った。知らないことを知ったふりをして大嘘をつくのと、ぼんやり知識で細かい間違いをするのとでは、かなりちがうのではないか。

思うのだが、大規模言語モデル以降のAIは、いつの間にか、しれっと、というか、ぬるっと、という感じでフレーム問題をほぼ解決してしまっているように見える。AIにおける最大の難問だといわれた「フレーム問題」が、いつの間にかなし崩し的に、なんとなく「解決されったっぽい」みたいになっていることが、怖いというか、気持ち悪いというか、面白いというか。

2024/03/27

⚫︎代々木公園で、毎年恒例の保坂和志さんを中心とした花見の会。今年も多くの人が集まったが、今年は、完璧にまったく花(桜)のない花見の会だった。陽の出ているうちは代々木公園で、日没後は代々木八幡近くの居酒屋で、延々と飲み続ける。

 

2024/03/26

⚫︎ハーマンの存在論では、「リテラルなもの」はオブジェクトではなく「状況」あるいは「性質」である。リテラルなハンマーは、世界の道具的連関の一部であってオブジェクトではなく、ハンマーが壊れたときのみ、オブジェクトとしてのハンマーが現れる。また、オブジェクトは「比喩(隠喩)」によってのみ、その存在の組み尽くせなさが表現される。「海」の特徴を無限に列挙しても、それは「状況としての海」であり、あるいは「海」というオブジェクトを「質(感覚的性質)の束」に還元したものにすぎない。ただ、「濃いぶどう酒のような海」というような比喩によって、自律したオブジェクトとしての「海」の一端(自律性)が掴まれる。

(比喩は、通常の「感覚的性質の束」から逸脱した別の質(性質)への接続であり、そのような意味で、通常の道具的連関から逸脱した「壊れたハンマー」に似ている。)

「海」というオブジェクトそれ自身(実在的対象)は、外部へのあらゆるアクセスを逃れて引きこもっている。ただし、その周囲には無数の感覚的性質が漂っていて、その感覚的性質と、別の実在的対象(たとえば「わたし」)との間に真摯な出会いがあると「わたし-海(実在的対象-感覚的性質)」という新しいオブジェクトが生まれる。実在的な「わたし」と感覚的な「海」は、その両者を包摂する「志向性」の中で出会う。故に「心」は「わたし」の内部にあるのではない。

(例えば、綿が燃えるというような物理現象においても、「実在的な火」と「感覚的な綿」が出会うことで、実在的な「燃える綿」が生じる、という風に説明される。火の志向性の中で、実在的な火と感覚的な綿が出会う、あるいは、綿の志向性の中で、実在的な綿と感覚的な火が出会う、のだ。)

この時、実在的対象である「わたし」は、実在的対象である「わたし(実在的対象)-海(感覚的性質)」のなかの「実在部分」として自分を見出す。ここで、「わたし」も「わたし-海」も、どちらも自律した実在的なオブジェクトである。このことをハーマンは、水(H2O)も、その一部である水素(H2)も、どちらも自律したオブジェクトであることと同じだと説明する。

「濃いぶどう酒のような海」という比喩があるとする。しかし「濃いぶどう酒(のような色)」という性質は、実在的な海-感覚的な海という繋がりからは通常得られない。つまり比喩によって示される「実在的な海-感覚的なぶどう酒」という(実在的対象と感覚的性質との)接続は成り立たない(オブジェクトを生まない)。そして、対象を持たない「性質」はあり得ない。つまり、ただ「濃いぶどう酒(のような色)」という性質のみが対象なしに虚空を漂うことはない。ならばこの比喩(によってもたらされる性質)は、どのような対象において現れるのか。

それは、この比喩を発話した(書いた)、あるいは聞いた(読んだ)、「わたし」という実在的対象において現れる。つまり「真摯に受け取られた比喩」においては「わたし」が「(濃いぶどう酒のような)海」になる。比喩は言語のレベルだけでは完結せず、「言語-わたし」の連結(真摯な出会い)によって初めて生まれる。比喩がもたらす「新しい海の性質を持つオブジェクト」は「わたし」によって演じられることでこの世界に生まれる。

比喩は言語のレベルだけでは完結せず、「言語+わたし」によって完結する(自律したオブジェクトとなる)。同様に、芸術作品は、それを受け取る観客(実在的対象としての自分自身によってそれを演じる観客)なしには完結しない。しかしそれは、「作品+観客」として完結する自律したオブジェクトであり、他(環境・状況)から切り離されている(リテラルではない)。そして、水素が、水の構成要素でありつつそれ自身として自律したオブジェクトであるように、観客もまた、「作品+観客」からなるオブジェクトから自律している。

⚫︎以下、グレアム・ハーマン『Art and Objects』の、フリードについて論じている三章から引用。翻訳はClaude 3による。ほぼ、そのまま。

成功した隠喩は、珍しいタイプのRO-SQ(引用者追記「実在的対象-感覚的性質」)である新しい対象を創り出します。現象学の洞察から、あらゆる対象にはその対象と対象自身の質の間に常に「緊張」があることがわかります。「緊張」とは、対象がある程度の漠然とした限界内でその現在の質を別のものと交換できるため、対象がその質を同時に持っていて持っていないことを意味します。通常の感覚的対象の場合、木は私たちがそれに立ち向かう仕方や角度、距離によって無数の異なる性質を持つことができ、感覚的な木とその感覚的な性質の両方が経験の中で直接対峙されます。隠喩、そしてそれに伴うあらゆる美的経験は、創り出される対象が感覚的ではなく現実的であるという意味で奇妙です。「ぶどう酒のように濃い色の」と形容されたホメロスの海は、ぶどう酒からあまりにもかけ離れているため、日常的な経験と文字通りの言語における感覚的な海ではなくなります。海は今や退かれ謎めいたものとなり、ぶどう酒のような感覚的な質に囲まれています。これがRO-SQの対角線のパラドクスを意味しており、それを文字通りの記述に還元できないことが、それを美的なものたらしめています。つまり、直接的な命題の散文の対象ではなく、暗示の対象となるということです。

しかし、ここに問題があります。ホメロスの隠喩による海が文字通りのアクセスからすべて退いているがゆえに、その濃いぶどう酒のような性質が残っていても、海自体はもはやアクセスできなくなっているからです。これは問題です。なぜなら、それは対象と性質が常に一対のものであるという妥当な現象学的原理を公然と無視しているからです。たとえ部分的に分離可能であっても、です。つまり、私たちには隠れた空虚なものを離れて単独で存在する濃いぶどう酒のような性質を持つことはできません。「濃いぶどう酒のような海」という隠喩には、直接関与する対象が存在しなければなりません。私たちは、アクセスから退いている海がそうであってはならないことを確認しました。同様にぶどう酒も、海に性質を与えるためだけに隠喩に入ってきており、独自の対象としては入っていないので、隠喩は「海のように濃い色のぶどう酒」と逆転しなければなりません。私たちが見てきたように、場面には他に一つの選択肢、つまり別の現実の対象しかありません。その現実の対象とは、私、隠喩の鑑賞者なのです。濃いぶどう酒のような海を演じさせられているのは私なのです。隠喩はパフォーマンス・アートのひとつのヴァリエーションに過ぎないことがわかります。他のあらゆる種類の芸術も同様です。なぜなら、鑑賞者の関与なしに芸術は存在しないからです。たとえ最初の制作段階で、通常芸術家が唯一の、あるいは極めて少数の鑑賞者である場合でさえそうです。こうしたパフォーマンスは、文字通りの(引用者追記「リテラルな」)認識の場合には起こりません。なぜなら、その場合、対象は場面から消えることがなく、したがって置き換える必要がないからです。鑑賞者に美的体験を他の体験から区別させるのは、鑑賞者に対して(私たちがその呼びかけに気づき、少なくともある程度作品に説得されるならば)、欠けている対象に代わり、半ば不適切に割り当てられた性質を支えることが求められるということです。完全に適切な割り当ては、美的比較ではなく文字通りの比較になるでしょう。「トランペットとコルネットは似ている」「moth(蛾)とButterfly(蝶)は似ている」といった具合に。

2024/03/25

⚫︎Amazonを見ていて知ったのだが、グレアム・ハーマンは『Architecture and Objects』という本も出してるのか。すごい仕事量だ。

そういえば、『Art and Objects』の最後のところでハーマンは、「熱いメディア」と「冷たいメディア」との対比について触れて、近代を支配した多くの「熱いメディア」が、次の時代へと移り変わるにつれて「冷える」ことを経験するだろうと書いていた。そして、哲学者が今まであまり高く評価してこなかった、古くからある「冷たいメディア」としての「建築」の重要性を指摘して、本が閉じられる。なので、『Architecture and Objects』は、『Art and Objects』のかなり直接的な「続き」ということになるのだろう。

以下は、『Art and Objects』七章から引用。翻訳はGeminiによる(「そのまま」です)。引用中にある「錯視主義的絵画」とは、普通に三次元的なイリュージョン(三次元的な表象)が成立している絵画で、遠近法的、自然主義的な絵画と考えれば良いと思う。

メディア理論家たちの間では、マクルーハンが「冷たいメディア」と呼ぶものについて、多くの議論が行われてきました。その多くは否定的です。 彼はこの用語で、十分な情報が与えられていないメディアのことを指しており、鑑賞者がいくつかの詳細を自分で補完する必要があり、その結果としてしばしば催眠的な効果が生まれます。

ここで私は、近代においては高級芸術が一般的に、過剰な情報がすでに提供されている「熱いメディア」によって支配されていたという歴史的命題を提示したいと思います。 さらに、情報過多は常に、各要素間の関係が過度に規定され、それらの自律性が抑制されることを意味すると主張したいと思います。

ビザンチン・アイコン、イスラム美術の装飾模様、中国山水画の霞がかった雰囲気など、どれも氷のように冷たいメディアですが、西洋のポスト・ルネサンス期以降の錯視主義的絵画は、その要素を他のすべての要素との非常に明確な関係で描いています。 これらの要素はそれぞれ、描かれた三次元空間内の特定の位置を占めているため、その関係的存在は他のすべての絵画要素との関係で完全に決定づけられています。 心はこうした絵画の美しさに圧倒されるかもしれませんが、暖炉の前のように催眠状態になることはありません。 マクルーハンの意味で、錯視主義的な油絵は「熱いメディア」であるのに対し、カンディンスキーパウル・クレーポロックなどの抽象絵画は催眠的な「冷たい」ものと考えられます。

文学の場合、神話はいわゆる「冷たいメディア」です。なぜなら、神話では、ある程度の人物と伝説が提示されるだけで、語り直すたびにバリエーションが生じる余地があるからです。 一方、小説は文学作品の中で最も「熱いメディア」と言えるでしょう。なぜなら、小説では一字一句が権威あるテキストの中で説明されており、再版ごとに変更の余地がないからです。 映画もまた「熱いメディア」です。なぜなら、観客は常に非常に特定された形で各ショットを見せられ、好きな角度から物事を見る余地がないからです。  Humphrey Bogart(ハンフリー・ボガート)は、映画が何回上映されようとも、どのシーンでも同じように見えます。 言い換えると、映画には自律したオブジェクトは存在せず、すべてが他のものとの正確な関係によって過度に規定されたオブジェクトのみが存在します。 一方、ビデオアートは一般に、物語性がはるかに曖昧であるため、より「冷たい」傾向があります。

《私がこのようなことを言うのは、近代時代から次の時代 (ポストモダンは本物の時代というよりも、むしろ燃えさしの混乱のようなもの) へと移り変わるにつれ、近代を支配していた多くの「熱い」形式が「冷える」ことを経験するだろうと疑っているからです。 (…) ビデオゲームが映画のより「冷たい」代替手段になるかもしれないと示唆されることもありますが、今のところ芸術としての地位に到達したものがあるかどうかは疑問です。 しかし、哲学者があまり高く評価してこなかった、もっとずっと古いジャンルが主導権を握るかもしれません。 私は建築について話しているのですが、建築は、私たちが自由に歩き回り、一度に全体を把握することができないものであり、錯視主義的絵画、小説、映画のように特定の一連のプロファイルと同一視することができないという意味で、本質的に「冷たい」ものです。