枯れた木の枝に引っ掛かっている凧の尻尾が、風で流れてひらひらしてる。キャラクターの顔が大きく印刷してある凧。その背景になっている厚い雲。
小田急線。座っている人の顔に、オレンジ色の西日が直にあたっている。背景から浮かび上がっている顔。線路際のポールの影が何本も通り過ぎ、顔に反射した西日がチカチカ点滅する。
移動中、ずっとオザケンのファースト「 犬は吠えるがキャラバンは進む 」を聴いていた。移動中に限らず、年末からこのアルバムを何回繰り返して聴いただろうか。もうここ何年も、存在すら忘れていて、ほっぽってあったのだけど、気紛れから何の気なしに聴いてみると、ハマってしまった。多分、発売された当時は、このカッコ良さを全然分かってなかったのだ。(93年発売。この当時はまだ耳が80年代だったと思う)いやあ、すっげーファンキーですよ、これ。線が細いのに、思いっきり突っ張って歌い切っちゃってる、オザケンのヴォーカルの「 青臭さ 」なんかも、上手い人にはマネできない魅力。最近、割と聴くことの多いスガシカオとかも、少し霞んでしまうくらい。
筒井康隆「 邪眼鳥 」を読む。二度続けて、一度めはざっと、二度めはじっくりと分析的に。隅から隅まできっちりと計算しつくして書かれている、複雑な構造をもったこの小説が、何故こうも何か物足りない感じを起こさせるのだろうか。小説の後半、時空の秩序も、人格の固有性も失って亡霊化した登場人物たちが、死んだ父の残した屋敷のなかを徘徊するシーンなどは、さすがに凄みを感じさせはするのだけど、前半は、後半のためにきっちりと布石を打つ、という目的のためにただしっかりと書かれているだけ、という退屈さだし、筒井ファンなら喜ぶかもしれない、ある種の皮肉な口調やギャグも、ぼくにはピント外れでスベっているとしか思えない。やはりぼくは筒井康隆とはウマが合わない、のだろう。
とは言っても、読み終えて、即座にもう一度読み返している訳だから、かなり気になっていることは確か。「 顔のある者がいない。」という文で葬儀のシーンから始まるこの小説は、登場人物の顔=固有性が崩壊してゆくことで、時空の秩序も崩壊し、人物が亡霊=死に近づいてゆく姿を描いているのだけど、亡霊化するということは、生から限りなく遠ざかることではあっても、完全に死にきることではない。例えば登場人物の一人、英作は、亡霊と化し、廃虚となってしまった父の屋敷の台所で、永遠に泣きづける。『ほんの一瞬間、現在へ、いや、過去へ戻ったのだなあと英作は思い突発的に鳴き声が喉から迸り出る。笛のような鳴き声、汽笛のような遠吠えだ。泣きながら英作は幼い頃このあたりに佇んで台所にいる誰かに訴えかけるために泣きわめいていた自分を思い出している。鳴き声はいつまでもいつまでも続く。おさまらない。』ここにあるのは、英作という個人ではもはやなくて、泣くという行為、悲しみという感情、だけがただあるのだ。誰かが泣いているという訳ではないのだから、誰かが居なくなったとしても、泣くという行為、悲しみという感情は無くなってはくれない。時間も空間も無くなった場所で、ただ鳴き声だけが永遠に響き、淀んでいる。
  明りをつけて眩しがるまばたきのような
  鮮やかなフレーズを誰か叫んでいる (小沢健二「 天気読み 」)