榎倉康二・展、再び

●eyck氏がここ(http://d.hatena.ne.jp/eyck/20050207)で榎倉康二について書いているので、刺激されて、榎倉作品について(一昨日につづき)もう少し書いてみる。
●榎倉氏の作品の特徴は、世界と身体との一体化にあるのでも、世界と身体との切断にあるのでもなく(一体化と切断というオン・オフの切り替えにあるのでもなく)、世界=環境を、自分の半内界であり、半外界であるような、境界線が曖昧な漂うようなものとして出現させるところにあると思う。それが榎倉氏の作品の独自の「折衷的」性格だろう。ぼくは一昨日の日記で、榎倉作品(特に綿布と木材と廃油の作品)において、視覚が容易に触覚へと変換されるようなテクスチャーの素材が選ばれている、ということを書いたけど、ここで言う「触覚」はあくまで、「視覚によっと捉えられた(喚起された)触覚的なイメージ」であって、実際に物に触れた時の触覚とはまた違う。確かに「触れること」は、物と距離零で接し合うことなのだが、それは言い方を変えれば、物の表面に撥ね返されることでもある。身体は物に触れることはできても、その内側にまでも入り込むことは出来ない。しかし、視覚によって喚起される触覚的なイメージは、容易に物に混じり込み、物と一体化したような「幻想」を浮上させる。榎倉氏の作品では、綿布にしみ込んだ廃油の「染み」が、物質同士の相互浸透の痕跡として示され、その微妙な表情は容易に、世界と身体の相互浸透(というアルカディア的イメージ)の比喩となる。だが、その「染み」は、廃油を塗布した木材を綿布に押し付けることによって生じたもので、つまり、廃油は、綿布とも木材とも混じり合うのだが、木材は綿布と混じり合うことは出来ない。綿布と廃油とは、ただ物理的に相互浸透しているだけでなく、矩形に張られたパネルという平面のなかで、絵画的な空間の統一性(ここで言う「絵画的な空間」というのは、2次元のなかに成立するバーチャルなもの、という程度の意味、厳密に言えば、ミシンの縫い目やパネルに張る時のフレームの際の処理などによって成り立っている度合いが高く、あまり「絵画的」とは言えない)をも生み出しているのだが、木材は、そのなかには入り込めず、消費し尽くされた後の枯れた物質として、パネルの前に無造作に(本当は無造作にではなく、周到に計算された位置に、なのだが)立てかけられている。あえて文学的な比喩で言えば、この木材は、快楽の熱が去った後の、重たくもみすぼらしい身体のように、相互浸透(快楽)(の幻想)の場からこぼれ落ちている。だが、この木材は、綿布と廃油による幸福な関係から切り離された「異物」として突出することもない。まさに、使い尽くされた(快楽の過ぎ去った)後の、抜け殻なのに重たい、貧しくも希薄な物質であり、その希薄な存在感は、ただ相互浸透する場から「こぼれ落ちている」ことによってその存在を主張しているのみだ。逆に言えば、たんに綿布に廃油の染みが出来ているだけとも言える画面が、強い身体的情動を喚起するのは、使い尽くされた後に相互浸透の場(平面の場)から「こぼれ落ちてしまった」木材という物質(との対比)があるからこそであり、そして、そのこぼれ落ちてしまっている木材は、その作品を「観ている」観者の身体が対象化されたもの(として感じられる)からなのだと思う。つまり、作品を観ている「私」の身体は、この木材によって自らの位置を作品の内部に見いだし、それによって、相互浸透の場に半ば接続されつつも、そこからこぼれ落ちる。
●ただ、上記のような、身体的情動のデリケートな操作が行われてている作品は70年代頃までで、80年代にはいると、その作品は急速に美学化、工芸化してゆくように思われる。悪い意味でのフォーマリスムと言うか、抽象表現主義(特にルイスとか)の絵画の「視覚的な成果」だけを取り出して洗練させて、工芸的な完成度に向かってゆくようなスタイリッシュな作品となってゆくように感じられた。(シンポジウムで川俣正が、榎倉さんが「絵画」とか「俺は画家なんだ」とか言い出した時から、ちょっと引いちゃったところがある、と発言していたのは、さすがにとても鋭いと思った。)いや、すごくきれいだしカッコイイし分かり易いのだけど。
●ぼくは一昨日の日記で、榎倉氏の写真の作品について、次のように書いた。
《榎倉氏の写真作品において、世界の表情が身体(皮膚)の隠喩のように機能することで、世界(外界)を身体化(皮膚化)し、世界(の表情)が身体の半ば内部であるかのように感じられ、それを観ている観者の身体が、世界へ向けて溶け出して広がるように感じられる。あるいは、世界の表情を、まるで親しい異性の肌(の一瞬の震え)のようなものとして感じることになる、のではないか。》
普通に考えれば、世界(の表情)が自らの身体の延長であるかのように感じられ(それによって自らの身体が拡張し、拡散され)ることと、世界の(の表情)が、自分が魅了される対象としての他者の身体の魅惑的な姿のように感受されることとは、別のことだ。しかし、榎倉氏の写真作品において、本来異なるはずのこの二つの事柄が、曖昧に混じり合う。榎倉氏にとって、物質とは、と言うか、物質がみせる一瞬の「表情」は、身体から切り離された「物」ではなく、私の身体から漂い出たものと、他者の身体から漂い出たものとが混じり合うための「器」であり、その混じり合いによって一瞬だけ生まれた稲光のようなものなのだろうと思う。だからそれは、自己と他者との直接的な混じり合い(相互浸透、あるいは触れ合い)ではない、ある媒介(イメージ)を通した混合(の幻想)である。この媒介性と、平面(綿布と廃油)とそこからこぼれ落ちたもの(木材)という2元的な構成ではなく、1枚の写真というかたちで1元的なイメージとして示されているがゆえに、榎倉氏の写真作品は、それ以外の作品よりも捉え難く、一層「ムズスムズした」感じのものである。
(なんか、一昨日の日記を書き直しただけのような内容になってしまった。)