●ちょっとした時間の隙間で、「新潮」(3月号)の冒頭に載っている村上春樹の『偶然の旅人』を読んだ。村上春樹を読むのはずいぶんと久しぶり(『スプートニクの恋人』も『海辺のカフカ』も『アフターダーク』も読んでいない)なのだが、これはちょっといい話ではあると思う。少なくとも、『神の子どもたちはみな踊る』のような下らない(ぼくはこの本を心底下らない本だと思っている)ものではない。ただ、やはり小説としては良くないものなのではないだろうか。ここで描かれている、弟と姉との長い時間を隔てての確執の氷解、そしてそのためには「長い時間」だけではなく「きっかけ」が必要であったこと、そして「きっかけ」はある種の偶然としてしかもたらされないということ、などは、とても重要なリアリティを含んでいるように思える。しかしそれは、「ジャズの神様」をめぐるどうでもいい(わざとらしく持って回った)導入部分(前口上)や、ディッケンズの『荒涼館』や首筋のホクロなどという(さらにわざとらしい、と言うか安直な)小説的な仕掛け、オカルトを否定しながらも(と言うか、これはオカルトではないという否定的な言い訳によって詐欺的に導入される)オカルト的なシンクロニシティ(の神秘化)、などを使わずに、もっと別のやり方で書かなければ、台無しになってしまうような事柄ではないだろうかと思うのだ。あと、たんに技術的な問題としても、たいした長さをもたない、ごくささやかな話を描いた小説にしては、あまりにもごてごてと「技法」が盛り込まれすぎていて、回りくどいという印象をもってしまう。(これを「語り口の見事さ」という人もいるのかも知れないけど、ここで積み重ねられる様々な細部はまさに「記号的」なものでしかなく、小説の世界に「厚み」をもたらしているとは思われない。)特にラスト、定期的にピアノを調律してもらっている人から聞いた話のはずなのに、最近ピアノの調律をしていないからという理由で、話(『荒涼館』の女性)の「その後」をぼやかして終わるやり方は、かなり不自然な感じて、上手くいっているとは思われない。