東京都現代美術館の榎倉康二・展

東京都現代美術館で、榎倉康二・展を観た。この日記の04/12/21にも書いたのだが、80年代後半から90年代はじめ頃に美術を志していた若者にとって、榎倉康二という人から受けた影響は計り知れないものがある。それは、今日たまたま会場でお会いした(当時芸大の学生だった)画家の小池隆英さんが語ってくれたエピソード、当時の芸大で、他の教官の課題の時にはろくに学校に出てこない学生たちが、榎倉氏の課題の時は(榎倉氏に作品を観てもらいたくて)こぞって出席していた、という話によっても改めて確認できた。それはぼくも同じで、ぼくは芸大の学生ではなく、榎倉氏に直接薫陶を受けることはなかったのだが、「榎倉風の写真」を、学生時代に恐らく何千枚も撮ったし、榎倉風の技法を真似た作品もつくった。だからこの回顧展を観ることは、ぼくにとって、当時自分が「惹かれていた」ことを検証するという意味もあるのだった。
●これも04/12/21に書いたことなのだが、榎倉氏の作品の特徴は独自の折衷的な性質にあり、それは(絵画化されたり彫刻化されたりしていない)物質を直接的に用いながらも、そこに身体的な情動を強く喚起させるような「表情」をつくり出すものと言えよう。例えば、榎倉氏の代名詞とも言える、綿布と木材と廃油の作品では、大して加工されていないままで直接的に提示されるそれぞれの物質は、一見そっけないようにも思えるが、その素材は、廃油のしみ込んだ木材、生成りの綿布、半透明の布など、視線を撥ね返すことなく受けとめ(浸透す)るようなテクスチャーをもつものが周到に選択されていて、そしてそれは、視覚から触覚への感覚の変換を容易にうながす。生成りの綿布(を観ること)は、肌がそれに包まれた時の触覚を無意識に駆動させ、そこに染み込んだ廃油は、綿布に包まれた(観者の)身体から分泌された体液を想起させ、そこに自分の体液(や体臭)が染み付いてしまったような、親しさと恥ずかしさ、後ろめたさと取り返しのつかなさ、といった、エロティックな感情を、露骨にではなくあくまで薄らと、それを感じている観者が気づくか気づかないかくらいのかすかなものとしてたちあげる。つまりここで、(綿布を)観ることは(綿布に)包まれることであり、綿布に染み込んだ廃油は、後ろめたい背徳的な行為(快楽の残り香)を匂わせ、立てかけられた木材は、自らの目のよって対象化された、無防備に視線に晒された自らの(裸の)身体を想起させるものとなる。しかしこのような「いかにも」な性的ニュアンスを含んだ物語は、今、実際に見えているものが、白い矩形のパネルであり、切り分けられた木材であり、つまりほとんど「手」の痕跡が感じられないそっけない(規格的な)「もの」で、かつ、モダニズム的絵画を思わせる広がりさえ感じさせる平坦な面でもあることから、そのような性的ニュアンスは意識に昇る前に否定(なかったことに)される。意識に昇らないとしても、あるいは昇らないからこそ、そこで駆動された「身体的情動」は、どこからやってくるのか不明な純粋な震えのようなものとして、あるいはジワッと染みて粘る感触のようなものとして、観者の身体のもとに回帰し感受されるだろう。おそらく、榎倉氏の作品から感じられる曰く言い難い独自の身体的な情動とは、このような類いのものだと思われる。
●今回の展示を観てまず思ったのは、予想していたよりもカッコイイということなのだが、この「カッコイイ」は決して肯定的な評価となるようなものではない。何というのか、カッコ良く見せるための「手管(やり口)」ばかりが見えてしまうという感じなのだ。勿論、手管が悪いということではない。手管のない作品などあり得ないだろう。しかし手管ばかりが見えてしまうとなると、それでは空疎なスタイリストの作品のようにみえてしまうのだ。だいたい「もの派」周辺の作品というのは、実際に観てみると(資料写真などよりも)ずいぶんと「みすぼらしい」という感じのものが多い。そのなかで榎倉氏の作品はひときわカッコイイのだが、実は、そのみすぼらしさのなかにこそ、観るべきリアリティがあるように思うのだ。榎倉氏の作品は、リアリティよりも「見栄えの良さ」の方を選んでしまっている傾向が目立つように思える。特に80年以降につくられた綿布と廃油と木材などによる作品において顕著にそれを感じる。今日行われたシンポジウムで川俣正が、センスの良すぎるところが榎倉さんの欠点だ、とか、榎倉さんは自分の美意識がまず先にあって、そこに向けて作品を落とし込んで行くようなところがあった、とか、自分の作品の見せ方を凄く良く知っていた、とかいう遠回しのいい方で(恐らく)批判していたのは、これと同じようなことを言おうとしていたのではないだろうか。
●だから、榎倉的な身体的情動の感触を、最も生々しく捉えているのは写真による作品なのかもしれない。ごくごく身近にある世界の、きわめて「繊細な表情」ばかりを、ひたすら把捉しようとしているように見えるその写真は、それが人間の身体を直接捉えた映像ではないにも関わらず、そのテクスチャーはどこか人間の身体(皮膚)を想起させる表情を持っているように思われる。つまり榎倉氏の写真作品において、世界の表情が身体(皮膚)の隠喩のように機能することで、世界(外界)を身体化(皮膚化)し、世界(の表情)が身体の半ば内部であるかのように感じられ、それを観ている観者の身体が、世界へ向けて溶け出して広がるように感じられる。あるいは、世界の表情を、まるで親しい異性の肌(の一瞬の震え)のようなものとして感じることになる、のではないか。(だから、榎倉氏の写真作品では、実際に人間の身体や肌を被写体としたものよりも、そうでないものの方が、よりエロチックであるように思える。)榎倉氏にとって撮影対象が、常に日常的なもの(親しいもの)でなければならなかった理由は、ここにあるのではないだろうか。
●興味深かったのは、一点だけ、いわゆる「榎倉康二」的な感触とは大きく異なる作品が展示されていたことだ。それは68年につくられた、画面の上に金網が張られていて、まさしくその金網によって、画面と身体との自然な「繋がり」が切断されているような平面作品だ。この作品だけ、ほかとは異質な、硬質な強さがあり、とても印象に残っている。