●七月一日の日記でドゥルーズの『シネマ2』についての平倉圭の書評に導かれつつ、この本についてやや批判的なことを書いたけど、それでも、『シネマ2』を、たがが外れて制御が困難になった「回想イメージ」を制御するために性急に「言語」が要請される、という風に纏めてしまうのはあまりに乱暴過ぎる。この本では、たがの外れた回想イメージ(地獄の生成変化)を制御する二つの原理として、「身体の映画」「脳の映画」が挙げられている。行動-運動によって生まれる時系列的な時間の先端としての「現在」という制御が成り立たなくなり、様々な回想イメージが「複数の現在」として並立してあらわれてきても、それがまったく無秩序な状態になるのではなく、錯綜する複数のものを共存させたまま制御し得るひろがりと含みのある「現在」を成立させる基底材としてあるのが、身体と脳というふたつの原理だ。と言うか、「純粋過去」の混沌のなかから「現在」を掴み出すのが(身体と脳とを含めた)「身体」であり、つまり「身体」によって「現在」が可能になり、「生」が可能になる。そしてこの「身体」は、行動-運動を見失うことで、自分自身の組成そのものをあらわにする。ドゥルーズのこの本において、純粋な時間イメージとはつまり、あらわになった身体の(脳の)組成そのものの有り様を示すイメージである、というように、ぼくには読めた。つまりこの本は「映画」についての本であるというよりは、「映画を観る」ことによってあらわになる「私の身体(脳)」の有り様の様々な可能性のバリエーションについての本であり、(時系列的な時間の先端としての)「現在」が不可能になった、(複数の現在の並立としての)「現在」をどのように構成出来るか(つまり、どのように生きることが出来るか)について書かれた本なのだと思う。(平倉氏が書くように、「地獄の生成変化」としての純粋過去そのものでは、「この世界への信頼」は成立しない。つまり、ショットとショットをどのようにでも繋ぐことの出来る「映画の原理」には、そのような信頼はない。そこからは「何も出てこない」。「信頼」が要請され、そして構成され得るのは「身体/脳」という場においてであり、そして「身体/脳」は決して「映画の原理」の内部にあるのではなく、われわれ一人一人の「生」のなかにしかない。だからドゥルーズは、必然的に「映画」を裏切らなければならないのだ。それは必ずしも「言語」優先主義によってではないと思われる。)
とは言え、この本の主に7章で描かれている「身体の映画」「脳の映画」についての記述は、それほど突っ込んだものとは思えないし、あまり説得力があるものとも思えない。(そしてこの本全体が、あまりに「既成の映画史」に依存し過ぎている、ということも確かだろう。)ゴダールやカサヴェテスやドワイヨンが「身体の映画」で、レネやキューブリックが「脳の映画」だと言われれば、感覚的にはすんなり理解出来る。しかし、感覚的に理解できるという以上のことが、ここに書かれているとは思えないのだった。(余談だが、ここでのドゥルーズの分類に従うなら、エドワード・ヤンの『クーリンチェ少年殺人事件』は、レネやキューブリックが吹っ飛んでしまうような偉大な「脳の映画」だと思う。)