『バルカン動物園』(作・演出、平田オリザ)

青年団が97年に公演した『バルカン動物園』(作・演出、平田オリザ)をビデオで観る機会があった。猿を人工的に人間に近いところまで進化させようというプロジェクトのもとに、生物学だけでなく、物理学、医学、心理学などの多様な研究者が出入りする研究室での雑多な「おしゃべり」の折り重なり通して、ある種の「人間観」のようなものをたちあげようとしている。先端的な科学の話と、日常的なレベルでの研究者たちの問題(結婚しようって言ったのになんで外国に行っちゃうんだよ、みたいな)を、複雑に多層的に錯綜させつつ進行する、高度に技巧的な舞台。ただ、その技巧的な複雑さに対し、内容は結構単純に図式化できてしまうように思える。一見、多数の人物のとりとめのないおしゃべりの、折り重なりと響き合いによって成立しているようにもみえるが、実はこの舞台の緊張を支えているのは(アメリカからやってくる「脳」であるよりむしろ)、軽度の自閉症の子供を持つ研究者と、その研究者のやり方にどうしても納得することができない研究者との対立という、分かりやすい(倫理的というよりむしろ)感情的な劇的対立であるように思う。実際、この、脳を萎縮させることで人工的につくった「自閉症の猿」を大量に実験で使用しつづける、自閉症の子供をもつ女性の研究者は、特別にセリフが多いわけではないものの、劇が進行する間の多くの時間、舞台のほぼ中央に、真っ赤な衣装で存在しつづけている。
●一方に、生命や人間といったものを、外的、操作的に扱うことを可能にする(扱わざるを得ない)科学的な技術の進展があり、しかしもう一方に、それを扱う科学者もまた、例えば「愛」といったような感情に支配されざるを得ない人間であるということがあり、その両者を、決定的な対立としてではなく、ある幅とやわらかさと(そして誤摩化しと)をもって包み込んでいる科学者たちの日常の、研究室での会話や立ち振る舞いによってある「形」としてたちあげようとしていると思われるこの舞台作品は、しかし、人間(愛?)の側のごたごたと、科学的なトピックとを、程よく散りばめて配置し、最後には、女性研究者の自閉症の子供が、満開に咲く花を見て、「みんながなんで花を好きなのかがわかったよ」と発言したという、感動的と言えば感動的なエピソードによって、「愛」の側がなんとなくふんわりと肯定されて幕を閉じる。でもこれって安易じゃないだろうか。これでは、「愛」を肯定するために「科学」がダシに使われてるだけじゃないの、と、感じられてしまう。(脳の最も偉大な機能は確信を得ることであり、脳のもっとも美しい機能は祈ることである、とかいうセリフが、割合決め台詞に近い感じで出てくるけど、これでは「確信」や「祈り」を、たんに無条件で価値あるものとしているだけに過ぎなくて、問題は、脳が確信を得たり祈ったりりすることのメカニズムがかなりの程度で解明されてしまったとしても、それでもなお、その確信や祈りのなかで生きること、そのなかでしか生きられないことを肯定すること、とはどういうことなのか、どうすればそれが可能なのか、という点にこそあるのではないか。あと、日常的なおしゃべりや仕種などの複雑な折り重なりで出来ているように見えるこの作品が、実は結構「決めセリフ」みたいなものに頼っている度合いが高いのじゃないかとも思った。)
自閉症の研究のために、人工的に脳を萎縮させた猿を日々つくっては殺しつづける女性研究者の行為は(倫理的な是非はひとまず置いておくとして)、本当に息子への「愛」によって導かれた行為なのだろうか。この過剰な徹底性からはむしろ、息子への憎悪のようなものを強く感じざるを得ないのではないか。女性研究者は、海外への留学が決まりそうになった時期に、息子が自閉症だと診断された、と独白する。そのため、留学しようとした土地で学会があった時、意地でも息子を連れて行こうと思い、実際にそうした、と。ここからも息子への憎悪、と言うか、息子が自閉症として生まれてしまったという事実への憎悪が感じられる。この憎悪が、息子への愛と不可分なものとして貼り付いているのがみられるからこそ、この女性研究者は、この劇中でほとんど唯一の、魅力的な生々しい人物像として浮かび上がっているのではないか。つまりこの女性研究者の息子への感情は、即物的な科学的客観性に対立するものとしての(抽象的な)「愛」ではなく、この女性研究者自身の特異性を表現する、「症候」としてかたちづくられている。(これに対して「脳」だけになってしまった婚約者に付き添ってアメリカからやってくる女性研究者の方の描かれ方は、抽象的な範囲に留まっていると思える。)
●樫村春香は、「自閉症・言語・存在」のなかで、他者の反応によってしか自身の存在を確認することの出来ない「通常の脳」の人間にとって、基本的に他者を必要としない(欲望しない)自閉症者は根本的な他者であり、不気味な存在だとする。《自閉症者は、多数派の脳にとって、より根本的に不気味です。そこには科学以外の橋はありません。だからそれは、認識論的変更、つまり対象ではなく自分自身に対する、幻想から認識への離陸を促すのです。自閉症は普通の脳に、他者の同一視でなく自分の感情の客体視を訓練します。》ここでは『ひとりぼっちのエリー』という、自閉症の娘をもつ母親の手記が取り上げられている。この本が優れているのは、自閉症の症状の記述が詳細であるだけでなく、それによって実は、それを記述する母親の側の「症候」こそが記述されていて、母親自身もそのことに自覚的であるという点が挙げられる。(この本の原題には対象を攻略するというような意味の単語が含まれている。)愛も他人も必要とせず、自分自身だけで満ち足りている自閉症の娘に対し、関係(愛)を求めているのは「母親」の方である。《それを知った上で、彼女はなお、この満ち足りた存在をこちら側の世界に引き入れる押さえがたい欲求を自覚する。それは愛というより、暴力の行使で、エリーのためというより、自分のためです。つまり相手のための行為・存在として自己を信じていた幻想の破壊と共に、自分の方こそ本当は動物であることが認識され、しかもなお、その愛情は動物的なものとして肯定される。》つまりこの本には、母親という症候が《自閉症という自己とは異質な存在、症候と出会い、記述・認識する過程で、自らを加工し直してゆく過程が描かれ》ている、と。そして《異質な二つの症候の科学的遭遇は、その遭遇を読む読者という三番目の症候にも、自己の欲望を検証させる。それがこの『エリー』という本の、文化、政治的価値の核心だと思います。》
しかし『バルカン動物園』には、科学的なトピックは盛り込まれていても、上記のような意味での(「愛」をいったん相対化した上で、しかしそれをなお、新たに加工し直した上で肯定する、というような)科学的遭遇はない。ふんわりと愛や感情が肯定されても、その「内実」は問われない。そして《結局、文学では、不気味な対象は作家の予め知るもので、しかも読者もその対象を予め知っており、しかし不気味な記述はその記憶に覆いをかけて、初めて出会うかの様に自分自身の記憶を楽しませる。そこでは予め相手を知っている三つの同じ症候が、互いに相手を欲望しつつ、その欲望を認識しない。》