●すぐれた作品には、そうではない作品にはない固有の「質」がある(あるいは「質」に触れている)。その質(の客観性)を信じるということが「作品」を信じるということである。それは、すぐれた職人が、精密機械の部品に使用可能な精度で特定の物質を手作業によって研磨できる、というような意味での客観性だ。しかし、その質の仕組みや組成について言語で完全に明示的に記述することは出来ないし(職人は自分のもつ技術を完全には言語化できない)、その質の存在を証明することも出来ない。
では、語ることも証明することも出来ないが、感じることなら出来る、と言えるだろうか。しかし、感じるとは自分に対して(非言語的に)語ることであり、自分を説得し、自分に対して証明するということでもある(感覚は、触発そのものではなく、その再帰−表象である)。ある感覚は、具体的に証明されるというフィードバックによって強化され、磨かれる。職人の技術(手先の感覚)は、それによってつくられたものが使用可能であるかという事実によって絶えず検証される。そのような検証によって磨かれない感覚は、そもそも(誰よりそれを感覚する自分自身にとって)信用できないし、鈍ったりぶれたりしてもそれを知ることができない。
そもそも感覚は客観性そのもの(質そのもの)ではなく、身体的に構成、構築されたその指標(代理表象)に過ぎない。では、その質そのものには触れることは出来ないのか。そんなことはない。それが客観性をもつものであれば、誰でもが常にそれに触れ、それに晒されているはずだ。感覚や言説の構築は、それに触発されることで動き出す。ただ、それは意識することが出来ない。作品の感覚不能(経験不能)な「質」は現実的に存在し、それは人に影響を与え、人を動かす。ただ、人はそれを(意識的に、直接的に)知ることはない。
だからこそ、近似的にではあれ、その在処を探り、検証するるためには、言葉によって語り、分節−分析するしかない(そもそも、人にとって「それ」は、近似的、抽象的、あるいは比喩的にしか知る−意識することが出来ないものだ)。言語−記述にはその程度の能力しかないが、我々にはそれ以外にやり方がない。それ以外の道具をもたない。「分析の間違い」「捉え間違い」「語るにおちる」「言葉足らず」等を果てなく繰りかえしながらも、そこに近づいてゆこうとすること。その果てしない「語り(言説の構築)」を支えるのは、(「言葉への」ではなく)「質」の客観性への信(仰)である。その裏打ちのない言葉、上手いことを言い、人を説得し、社会的に機能させ、人に認められようとするという動機しかない言葉、要するに「(社会的)効果」にしか興味のない言葉は、底なし沼のようなものだ。