●『イミテーション・ゲーム』(モルテン・ティルドゥム)を、DVDで観た。11月23日の日記を書いた時点ではこの映画を観ていなかったのだけど、これはまさに「天才の製作物が世界を変える」という物語だった。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20151123
世界を救った英雄であるはずの主人公のアラン・チューリングは、さまざまなレベルでの社会(同級生たち、同僚たち、軍、警察、国家)から徹底して酷い目に合わされ続ける。それを象徴する存在が、ブレッチリー・パークでのチューリングの上司にあたる中佐の存在であろう。彼は見るからに堂々として風格と説得力があり、決してブレることのない揺るぎない自信と信念とで「間違ったこと」を行いつづける。その説得力、安定感、信頼感、そして不合理こそが社会であろう。
一方、チューリングは、変わり物で嫌われ者で一人ぼっちで、論理的であり実力主義者である。彼にとって重要なのは論理であって権威や感情ではなく、故に相手の能力のみを評価し偏見もない。しかし、論理的で偏見がないということは、社会的には間違ったことでもある(例えば、能力と適性があったとしても、当時――四十年から五十年代初頭――のイギリスでは女性が男性たちの間で働くのは「体裁が悪い」こととなる、社会はそのような偏見≒価値観の集合体であろう)。チューリングは、政治には興味がなく、ゲームが得意だと発言して、(社会的には正しく、論理的には正しくない)上司から嫌われることになる。
例えば、今日では多くの人が「地動説」を事実として受け入れていると思うが、論理的な推論を経ることで(例えば、天体の動きを観察し、そこから推論して、成程、地動説をとることが合理的だ、という形で)納得している人は少ないであろう。多くの人は、学校でそう習ったから、多くの信頼できる人たちがそう言っているから、という理由で地動説を受け入れているのだと思われる。
だからそれは、科学的、合理的に受け入れられているというより、社会的ルール(信号が赤なら止まれ、など)や一般的常識(知り合いに合ったら挨拶しろ、など)、あるいは「空気を読め」等と同様に、社会的な常識として受け入れられている。しかし本来ならば、観測と合理的な推論の積み重ねによって得られたものと、長い時間をかけて積み重ねられた慣習として、あるいは集団的な合意として受け入れられているものとは意味が違う。それでも、前者を後者のようにして受け入れることで、科学は社会化されていると言えよう。とはいえ、論理的であるということは、前者をそのまま前者として扱うということで、それはしばしば社会的であることには収まらなくなる。
論理的に正しいことは、社会的に間違ったことである場合がある。とはいえ、「世界」は、社会よりもむしろ論理に近いようである(世界=宇宙が、どの程度論理的に出来ていて、どの程度そうでないのかは分からないが)。そうであるがゆえに、チューリングは「エニグマ」を解くことが出来、ヒトラーの侵攻から人々を、イギリスだけでなくヨーロッパの社会を救うことが可能であった。にもかかわらず、論理的であることは社会的には間違っていて、だからチューリングは社会からは酷い目に合わされ続ける。
●暗号は、解けただけでは駄目で、「解けた」ということを敵に知られることなく、あたかも解けていないかのように振る舞いつつ、解読をするのでなければ意味がない(解けたことが相手にバレたら暗号を変更されてしまう)。だから、圧倒的に勝ってはいけなくて、適度に負けつつ適度に勝つこと(三勝二敗くらいの感じで?)を繰り返して(「すべてお見通し」ではないかのように)徐々に勝ってゆくことが必要となる。それはつまり、負けがわかっている時でも味方を見捨てる――裏切る――必要もあるということだ(サンデル的「トロッコ問題」)。だからこそ、暗号解読という仕事そのものが、味方に対しても機密事項となる。これにより、チューリングの功績は長い間「なかったこと」にされつづけた。
今日の「戦争」においては、おそらく第二次世界大戦時よりもずっと、このような傾向が強くなっていると思われる。多くのアラン・チューリングたちが、各国の軍に雇われており(あるいはテロリストの側にも存在し)、そして、その存在がないことになっていると思われる。それは暗号に限らず、あらゆる情報(諜報)に関わるだろう。つまり、「戦争」に関して、我々には知り得ないことが多くあり、というか、ほとんどのことを知ることができないと思われる。逃れようもない大きな力に巻込まれることなく、外から客観的に何かを知ることはできない、とも言える。だから、我々が「知り得ること」だけでは、ほとんど何も判断できないのではないかという感じがぼくには強くある。
●この映画を、『寓話』(小島信夫)を思い出しながら観ていた。