●DVDを返却に行って、ツタヤは最近ではマンガのレンタルもやってるんだなあと、いつもはスルーする棚の前をうろついて、普段マンガはほぼ読まないのだが、『僕だけがいない街』(三部けい)というどこかでタイトルを聞いた記憶があるマンガを六巻まで試しに借りてみた。
最近のエンタメはこんなにも高度なものになっているのかと驚いた。読者の心をひっかけ、吊り上げて、引っ張りつづける密度と技術的達成には驚くべきものがあるなあと思いつつ、六巻まで一気に読んでしまった。通俗性のある物語の強い「引き」および分かり易い感情、動機、メッセージと、様々な要素が様々なレベルで反復しながら少しずつ位相が変化してゆく上品で複雑な形式とが両立しているのもすごいことだと思った。
おそらくこの作品を詳しく分析することで、物語を組み立てたり、そこに人を引き込んだりする技術――現時点で最新版といえるもの――の多くを学べると思われるし、しかし同時に、それを学んだからといって、この作品と同等の密度でそれを実現することは困難であることも分かるだろう。
でも、それと「面白い」というのは違うなあということも思った。確かに、「技術的にすごい」という外からの目線だけでなく、心がひっかけられ、持っていかれ、作中に入り込まされたからこそ一気に読んだのだけど、その時の、自分の熱中や感情の動きを、自分が信用していない感じ。ああ、オレはいま、まんまとはめられているのだなあ、という感じで一巻から二巻、二巻から三巻へと止められずに誘導されていて、「すげえな」と思って読んでいるのだけど、その「すごさ」と自分とを結び付けられないというのか。
(優れたエンターテイメント作品を読むと、時々このような不思議な乖離を経験する。以前、京極夏彦の分厚い小説を何冊か続けて熱中して読んだ時、読んでいる途中でふと、こんなに熱中しているのに、自分がそれを面白いとは思っていないことに気付いて、驚いたことがある。)
(最近では『マッドマックス 怒りのデスロード』を観た時に、似たような感覚をもった。いや、むしろ「逆」かもしれない。こちらは、熱中するという感じではなく、こんなに立派につくられているのに、ぼくは何故これを「面白い」と感じない――熱中しない――のだろうかと考えながら観ている感じだったか。)
これは好き/嫌いということではなく、何をリアルだと感じるのか、ということにかかわるのだと思う。リアリティというのは作品と自分との関係において生じるものだから、いかに立派な構築物を見せられ、その立派さに一時目を奪われたとしても、それとぼく自身の関心や生との間に関係が見出せないと、そこにリアリティを見出せない。面白いということは、そこにリアリティを感じているということだろう。
「面白い(リアリティ)」ということが関係性の問題だとすれば、「面白くない」ということは別に「悪い」ということを意味しない。現在のところ、その作品とぼくとの間に繋がりが見出せないということだ。しかし、そうであるにも関わらず「熱中する」ことは出来てしまう。どうも、今日の日記で問題にしているのはその乖離であるようだ。おそらく、心を引きつけ、熱中をつくり出すための技術というものがあり、そしてそれは日々進化している。ぼくはその達成を「すごい」と思い、敬意をもつが、そんなには興味が湧かない、ということだろうか。