2019-03-28

●引用、メモ。『絵とはなにか』(ジュリアン・ベル)より。保守的といえば、保守的なのだけど。

(…)少なくとも十分に力強い絵の供給は、「絵の死」の時期を通じて途絶えることがなかったわけで、その理由は、専門的技術と設備と特別の仕事空間(つまり、アトリエ)への大量投資に支えられて、絵の生産伝統がしぶとく生き残ったところにあった。たとえば、わたしは自分の趣味を引っ込める必要を感じない。この本ではキーファー、バスキア、メレツ、アブツの名を挙げたが、ほかにもたくさんの候補がいたのだった。ただ、最低の線として問われるのは、ほかのメディアにかかわる芸術家が、いまわたしの挙げた画家たちやあなたの好む画家たちの作品よりも、文句なくゆたかな壁掛けの作品を作ったかどうかということだ。わたしたちの多くは、自分の選んだ現役の画家がこの時代を生き抜くことができたのは、まさに批評家がかれらをテストし、考えを深めるように強制したからだと主張したがるものだ。絵はこれまで最高の場を与えられ、脚光を浴びて仕事をしなければならなかったが、一九六〇年代までとはちがって、もはや自分が芸術の階層組織の頂点にいると考えることはできない。それでいいのであって、階層組織よさらば、だ。しかし、あとにあらわれる型はどんな保守的な歴史家をも満足させるもので、絵は転調された持続の一例として生き残るのだ。》

(ニーチェ『悦ばしき知識』からの引用)わたしたちが芸術を承認することがなく、芸術という非真理の崇拝形式を作り出すことがなかったとしたら、科学がいまわたしたちにあたえる、普遍的な非真理と虚偽にたいする考察---ものを知り、ものを感じる生活がなりたつ条件としての妄想と誤謬への洞察---をもちこたえることはけっしてできなかっただろう。》

ニーチェの冷笑的で神託めいた発言に、三つほど脚注をつけておきたい。第一に、絵を愛することが一種の崇拝形式だとすれば、崇拝形式が定着するのは、それがわたしたちを不安から救済してくれるとともに、甘美さを提供してくれるからだということ。しかし、甘美さ---喜び---そのものが妄想だというのは単語の選択をまちがえていることになろう。第二に、視覚芸術一般がニーチェの言に該当するだろうということ。神話や表現主義や光学的な華麗さに寄りかかるのは、絵だけではなく、絵の代わりになるほとんどのもの(もちろん、すべてではない)がそうだ。たとえば、伝統的な隠喩をミニマリズム以降の装飾法によって整えた、ダミアン・ハーストの大衆向けの作品がいい例だ。第三に、芸術は本当のところ非真理の崇拝形式ではない。神話はそもそも、なくて済むようなものではない。わたしたちはみんな、信用のできる、全体を包むような条件についての物語に手を伸ばさないではいられない。絵はその手の伸ばしかたの一つたりうるのだ。》

●重要なのは、崇拝の形式というより、絵が、世界への信仰(信頼)を形成し得るような手続きとしてあり、それを持続させてくれるような習慣としてありつづけることができるのかということであるように思われる。そしてそれは、絵が、その形式=習慣の持続のために充分な刺激(面白さ・喜び)---個人的にも、社会的にも---生みつづけることができるのかというところにかかっているのではないか。

●この本では、絵が二次元であること(少なくとも、結果として二次元のものとして我々の目の前にあらわれること)の積極的な意味についてはあまり語られていないけど、絵は、二次元であることによって、31次元である現実を縮減して表現することができ、また、31次元である我々の認識(感性)の形式の拘束を逃れ、それを超える可能性をもつというところにあるように思われる。絵(二次元)は、現実(31次元)を、縮減することも、超え出ることもできる媒体である、と。

 

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