2020-12-04

●大学でのヌードの講義が裁判でセクシャルハラスメントと判断されたというニュースで思い浮かんだのだが(だから、別にこのニュースについての言及ではない)、性的な表現ではないのだけど、かなり前に専門学校で特別講師として講義した時に、ホラー映画(『呪怨』)の一場面を観せたら、受講していた一人の女性が本気で怖がっていて(顔色があきらかに白くなっていた)、悪いことをしたとすごく反省した。ごく短い場面で、その場面を本気でそんなに怖がる人がいるかもしれないということについての想像力がぼくにはなかった。

それ以来、ちょっとでも刺激的な要素がある作品を観せる時には、こういう表現が含まれているので苦手な人は見ないで(目を塞いで)くださいと事前に言うことにした。それでもまだ、ぼくの想像力の範囲が足りていない場合も出てくるかもしれない。その人の資質や過去の経験などによって、何が駄目なのか、何によって傷つけられるのか、は、ほんとうにそれぞれ違う。平気な人はまったく平気でも、駄目な人にとっては堪え難いということはいくらでもある。逆に言えば、駄目な人をもとにして「基準」をつくってしまうと、それはとても窮屈なことになる。基準をたてるのではなく、あくまで個別に固有の相手があることとして対応するしかないのだろうと思う。

(ぼく自身は、ホラー表現は平気だけど、スプラッタ的な表現---肉が切られるとか、血が出でどろどろとか---はすごく苦手なので、そういう場面では自ら目を伏せる。バリバリにスプラッタな作品を観てレポートを書けという課題があったら、かなり嫌だと思う。)

(昔、ある作家から聞いた話。ある作家---仮にAとする---は、作家Bと対談の予定があった。そこで、作家Bの新作小説を読み始めた。だが、冒頭近くにあった酷いいじめの描写がキツくて、それ以上読み進むことができなくなった。そこで、小説の最後の場面だけを読んで対談に臨み、最後の場面を賞賛した、と。読めないものは読まないでいい---拒絶する---権利は誰にでも保証される。)

だからこれは、一つにはゾーニングの問題であり、食品にアレルゲンとなりえる物質が含まれている時はちゃんと明記しなければいけない、みたいな問題なのだと思う(勿論、誰にとって何がアレルゲンになりえるのかを事前に完璧に想定することはできないだろうが)。既にアレルゲンとして知られているような成分を含むのにそれを表示しなかったことでアレルギー反応を起こしてしまった人がいたとしたら、それは、表示しなかった側の責任が(ある程度は)問われても仕方が無いと思う。

とはいえ、基本的には出来事や作品とは不意にぶつかるように出会うものなので、これを完璧に事前に配慮する(コントロールする)というのは、仮に可能であったとしても、それはそれで問題があり(というか、それは「現実」というものを否定するということになるので)、程度の問題で、難しいところだと思う。

(たとえば、百パーセント安全な食というのはない。食べなくては死んでしまうが、食べること---異物を取り入れること---は常に死のリスクをともなう。とはいえ、文明の元にある我々は、常に、生きるか死ぬか、一か八かで食べるわけではない。リスクはある程度は事前に予測できるのだから、食によるリスクを最小限に抑えることはできるし、逆に、リスクは高くても食いたいものを食うこともできる。美味しい毒キノコを毒と知りつつ食う、とか。そこには幅がありグラデーションがあり、それを選択できるための情報は開示されているべき。ただ、芸術というものには、何の保証もないまま、そこにある毒かもしれないキノコをいきなりえいっと食べてしまうことを要求する、という側面があることは否定できないと思う。捨て身で徒手空拳の実験という側面。相手の拒否反応や消化不良があらかじめ期待されているという部分さえある。だからある程度の覚悟は必要で、故に、「万人にお勧めできるものではありません」ということを但し書きとしてパッケージに貼っておく必要があるだろうと思う。)

(「芸術」はある程度暴力的なものを含むのだから「芸術を強いる」のは暴力となるので避けなければならない。マゾヒストが自らすすんで---興味と興奮と欲望に導かれ---鞭打たれるようにして、みずからすすんで「芸術」が求められるのでなければならないのではないか。)

(「芸術」がある程度以上ハードルが高いものであるということを自ら外に向けて発している---つまり、ある程度は排他的である---ことが、「芸術という領域」の存続のためには必要なのではないか。)

(芸術とはつまり、自分を変えたり世界を変えたりするものなのだから、つくる人も観る人も、それに触れてまったく無傷ということはあり得ない、というのは前提ではないかと思う。)

(「美味しい毒キノコを毒と知りつつ---そのリスクを充分に承知した上で---食う」というのが「文化」なのだとしたら、「何の保証もないまま、そこにある毒かもしれないキノコをいきなりえいっと食べてしまう」というのが「芸術」なのではないか。)