2019-05-24

●『さらざんまい』、第7話。6話で最初の段落が終わって、あたらしい段落がはじまった。中間点を過ぎてくるっと裏返った感じ。

●前半は一稀のエピソードが主軸としてあり、第二主題みたいに悠のエピソードが対抗となっていたけど、燕太は媒介的な存在で、一稀に対する「思い(「希望の皿」を欲する動機)」はあっても独立したエピソードがなかった(姉のエピソードが燕太の「思い」を代理的に表現していた)。それがここで、燕太の「思い」が裏返った形で前にでてきた。

(とはいえ、おそらく燕太はあくまで媒介的な存在で、後半は悠のエピソードの展開がみられるのではないかと予想される。)

●前半ではカッパ側の話が主だったのが、裏返ってカワウソ側が前に出てきた。カワウソの側(玲央と真武)にもまた、「希望の皿」を欲する動機があった。

(真武が陽毬で、 玲央が冠葉ということか。)

 

2019-05-23

●誕生日だった。が、忙しい。

●6月8日の『虚構世界はなぜ必要か?』の刊行イベント《「虚構」と「制作」》について少しだけ書きます。

https://www.facebook.com/events/600519313800983/

『虚構世界はなぜ必要か?』という本では「制作」という次元については触れていません。アニメを「既に制作されたもの」として扱い、そこに結果として現れている「虚構の形」について分析的に考察するという形をとっています。いわばこの本は、「神話」の生成のなかで(生成に寄り添って)書かれたというより、採集された「神話」を分析するように書かれています。つまり、そのような意識的な「限定」によって書かれたということです。

この本は、虚構を制作することについて考えるというよりも、虚構というものの意味(価値)を探っていくという意図をもっていました。「はしがき」の最初に、《現実主義に抗するために、フィクションは意味を持ち得るのか。意味を持つとしたらどのようにしてなのか。一言でいってしまえばそれがこの本の主題です》と書いたのですが、この本を書いた動機に、「現実主義の台頭」と「虚構の価値の低下」という事実(実感)がありました。そのために、それでもなお虚構に「意味」や「価値」を見いだし得るとしたら、それにはどのようなものだと言えるのか、ということを考えようとしたのです。

このようなことを考えるのはぼくにとっては必然的なことでした。しかし同時に、虚構を「既に制作されたもの(既にあるもの)」として捉えただけでは、虚構について考えるために十分ではないということも意識していました。虚構を制作すること、生成されつつある虚構のただなかで行為すること。それを同時に考える必要があるとも考えていて、例えばそのような思考を試みたテキストとして、下のリンクにあるように文章も書いています。

幽体離脱の芸術論」への助走

http://ekrits.jp/2018/03/2515/

今回のイベントで上妻世海さんに対話の相手をお願いしたのは、上妻さんがまさに、この本の限定の向こう側にある「制作すること」についての思考を積み重ねていると考えるからです。上妻さんは、『制作へ』というタイトルの本に収録されている「消費から参加へ、そして制作へ」で次のように書いています。

 

僕たちは、この不可逆な時代の変化を「透明なコミュニケーションによる共同主観的な共同体の再建」という課題で捉えるのではなく、素朴に「差異を肯定」するのでもなく、各々の虚構を継続可能な仕方で制作しつづけることにしよう。現代の環境を考慮した上で、別の仕方で規範性を、継続可能性を、安定性を制作するという課題に挑戦しよう。他者が用意した虚構を消費することでも、そこに参加することでもなく、各々が制作することにしよう。そのために必要な武器は揃っている。

 

もちろん「観察から制作へ」という枠組みで世界を捉えていたのは、今日生きる僕たちだけではない。いつの時代であっても科学者にとっての「物理空間」は、リテラルなモノが敷き詰められた場としてだけでなく、様々な複合的な謎に満ち満ちた場として立ち現れているし、工学者にとっての新たな技術は、便利で快適な新しい「商品」としてだけでなく、次なる課題や目的を生み出す「プロトタイプ」として見えるだろう。また美術家にとっての他者の傑作は、ただ美しいだけでなく、次なる挑戦を突きつけるものとして現前している。つまり、彼らにとって現前しているものは〈今ここ〉にあるだけでなく、謎やプロトタイプや課題として即座に過去と未来へ折り返されている。

 

人類は初めから今の形で自動車を知っていたわけではない。そのようなイデアは存在しなかった。幾何学、物理学、工学、化学、車輪、蒸気機関の発明が、それぞれの潜在的な課題を湛え、それらが出会い、結合することで、蒸気自動車を生み出したのである。さらに、蒸気自動車のもつ魅惑がガソリンエンジンを、その熱を冷ますための冷却技術を、高度な計算が可能なコンピュータや計測装置がより空気抵抗の少ないクールなフォルムを、そしてそれらのモノとモノの結合が、現在の自動車を生み出した。そして、今も自動車は、あるいは自動車を構成する各々のモノたちは、制作者たちを魅惑し、課題を湛え、様々な周辺的な技術と結合しながら、異なる仕方で変容しているに違いないのだ。

 

《各々の虚構を継続可能な仕方で制作しつづけることにしよう》、《別の仕方で規範性を、継続可能性を、安定性を制作するという課題に挑戦しよう》。このような思考を展開する上妻さんと、限定的な主題をもつ『虚構世界はなぜ必要か?』という本をどう読んだかついてのお話を聞くことを通じて、この本の限定の向こう側まで、「制作すること」についての思考にまで繋がる対話ができれば、と考えています。

 

 

2019-05-22

●原稿、締め切りまでになんとか書けた。でも、一息ついている余裕がない。来月の頭までにやり切らなければならないことがある。

●ここのところ、初期YMOにはまっていて、YouTube79年、80年のワールドツアーの音源を探していろいろ聴いたりしていたのだが、81年の新宿コマ劇場のライブ音源があって、初期とはかなり違った81年のすさんだYMOのライブもやはりかっこいいと思った。

YMO 1981 LIVE at SHINJUKU KOMA GEKIJO

https://www.youtube.com/watch?v=GxbdgyZ4-NY

 

2019-05-21

●今週は、「豪の部屋」や「火曜The NIGHT」を観る時間の余裕もない(だが、後からネットで観る)

●『虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察』の「はしがき」の部分は、本の発売前にこの日記に転載しましたが、68()の刊行記念イベントにあわせて「結び」の部分もここに転載します。

虚構と制作 〜「虚構世界はなぜ必要か?」刊行記念イベント〜

https://www.facebook.com/events/600519313800983/

●まず「はしがき」の転載。20181221日の日記。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20181221

●以下は「結び」の転載。

 

結び

 

「何もしないで後悔するより、行動して後悔した方がマシだ」ということがよく言われますが、論理的に考えればこれは間違っていると言えるでしょう。一方に、行動する、行動しないという選択があり、他方に、それによって後悔する、後悔しない、という結果があるならば、その組み合わせは四つになります。①行動して後悔した、②行動したから後悔せずに済んだ、③行動しなかったから後悔した、④行動しなかったから後悔しなかった、です。この四つはすべて可能性としては等しい権利をもちます。

私たちは人生において、①から③を頻繁に経験し、実感するでしょう。好きな彼女に思い切って告白したら、断られたばかりか友人としての関係もぎくしゃくした。彼女にダメモトで押しまくったらつき合うことができた。彼女に思いを伝えることが出来ないまま卒業して別れ別れになってしまった。しかし、④を実感することはできません。行動しないことで後悔しなかったということを実証する(経験する)ことはできないので、それは常に可能性に留まり、ただ想像(考慮)することができるだけです。行動していないのだから、その結果は永遠に確定せず、行動した方がよかったのか、悪かったのか分からないままなのです。

(本当は、も経験できません。「行動しなかったから」後悔したのではなく、「行動しなかったこと」を後悔しているのを、と混同しているのです。)

だから通常の我々の「考え」のなかで④の可能性が考慮から漏れがちです。①から③だけを考慮すれば、行動しなければ必ず後悔し、行動すれば後悔するとしないは五分五分になります。ならば、行動した方がいいという結論になるでしょう。しかし本当は④の可能性もあるので、その判断は必ずしも正しくありません。行動するもしないも五分五分なのです。④は、経験できないことによって見逃されがちですが「現実」なのです。

ただ、④を実感できる唯一の場合は、①で生じる「後悔」においてです。行動して後悔した場合にのみ、行動しなければ後悔しなかったという事実が逆説的に確定し、その後悔を通じて、「行動しなければ後悔しなかったのに…」という反実仮想的な実感を得ます。後悔するという実感を通じてのみ(その裏返してして)、後悔しなかった場合が「存在する」ことを実感できるのです。現実的な可能性としては四つとも等しい確率をもつのに、だけは、反実仮想的、フィクション的にしか経験(実感)できないのです。

(実は、の「行動したから後悔しなかった」の裏返しとしてしか、の「行動しなかったから後悔した」も実感できないのですが、前述したように、人はそれを「行動しなかったことを後悔する」ことの実感で代替します。)

逆に言えば、忘れられがちな④の可能性を現実的な実感のなかに織り込んでいくのがフィクションの大きな意味の一つではないでしょうか。

 

わたしが生まれなかったこの世界を、わたしが考えることができるのは、既にわたしが生まれている場合に限ります。行動して後悔することを通じてしか、行動しなければ後悔しなかったと知ることができないことと、このことは似ていないでしょうか。

わたしが既に存在してしまっているから、その否定として、わたしの存在しなかった世界が想像できる。人間が存在してしまっているからこそ、その否定として、人間の存在しなかった世界を考えることが出来る。現にこうである経験可能な世界があるから、その裏返してして、経験不可能な別様な世界を考え得る。

これらについて考えることは現実逃避ではありません。それは現実的に充分にあり得た可能性一つだからです。わたしたちはそれを、別様でありえたもう一つの現在(現実)として考えるのです。そして、現にそうではない(わたしが存在してしまっている)「現実」を実感することを通じて(その裏返しとして)、そうであったかもしれないもう一つ別の、同等の現実として、それを実感するのです。

わたしがいない世界を想像しているのが「わたし」でしかないとすれば、そこに既にわたしが含まれてしまっているのではなかという矛盾はたしかにあります。④の「後悔しない」実感が、①の実感(後悔)の裏返しとしてしか感じられないのと同様に、わたしという実感の「裏返し」を通じてしか、わたしの生まれなかった世界を想像することはできないでしょう。しかし、かろうじて裏返しによってその別様な世界に通じているとすれば、この「裏返し」のやり方をいろいろ工夫してみることはできそうです。

「因果(現実)の外に零れ落ちた出来事」や「そこにいるわたし」、「透明な存在の積極的な肯定」など、この本に書かれていることは、現にこうである(経験可能な)現実の「裏返し」のさせかたのざまざまな工夫であり、その工夫によってあらわれるさまざまな形の、「別様でありえた現実と同等の世界」のあり様であると言えると思います。

繰り返しになりますが、それは、見えない(経験できない)としても、経験可能な、現にこうである現実と同等の権利で実在しているはずのものです。そのような経験不可能な実在の気配を、経験可能な現実のうちへと織り込んでいくものが、フィクションと言えるのではないでしょうか。

 

 

2019-05-20

●お酒を呑みたいという気持ちが強くあったのだが、「酔っ払っている時間」の余裕がないので、ノンアルコールビールで妥協して「酒を呑んだ」という気分だけでごまかすという、「酒好きとしてそれだけは絶対にやってはいけない」と今まで堅く自分に禁じていたことをついに破ってやってしまった。

 

2019-05-19

●余裕がなくてあっぷあっぷしている状態なのに、締め切りが直近の急な原稿の依頼をひとつ受けてしまった。普通に考えれば無理なのだが、ぜひ書きたい題材だったので書くことにした。

 

2019-05-18

●お知らせ。来月ですが、68()巣鴨で、上妻世海さんに対話の相手をしていただいて、『虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察』の刊行記念のトークを行います。

虚構と制作 〜「虚構世界はなぜ必要か?」刊行記念イベント〜

https://www.facebook.com/events/600519313800983/

『虚構世界はなぜ必要か?』が刊行されてもう五ヶ月たとうとしていますし、前に一度、京都でイベントをしてもいますが、東京でも行うことになりました。

場所は、巣鴨駅から徒歩3分のRYOZAN PARK 巣鴨。時間は、15時から17(18時までその場で懇親会)。料金は2000円です。

以下は、「トーク概要」。

《フィクションについて考えることは、夢をみることに、あるいは夢について考えることに似ています。そして、現実主義者は、そのようなことには意味がないし下らない、あるいは、無責任で害悪でさえあると言うでしょう。それに対しわたしたちは、そのような現実主義の態度こそがわたしたちの現実を堅く貧しくしているのだと反論することはできるのでしょうか。》(「虚構世界はなぜ必要か?)

この本はアニメを題材としたものですが、ここで考えようとしたのは、人にとっての共同的な「物語(虚構)」の抜き差しならない不可避性と必然性ということでした。そして、今後わたしが考えようとしているのは、そのようなフィクションの限界地点、つまり、フィクションがそこから立ち上がり、またそのただなかへと消えていくような地点についてです。

今回は、〈私〉と〈私でないもの〉の狭間で身体が組み換えられる「制作的空間」へスリリングに踏み込んでゆく『制作へ』を書かれた上妻世海さんに対話の相手をお願いしました。上妻さんがこの本をどう読んだかという話を通じて、上妻さんの力をお借りして、この本の限界の向こう側にまで広がっていく話になればと思います。

古谷利裕

●今日、そこで。

 

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