2019-08-02

Huluで『カメラを止めるな!(上田慎一郎)を観た。面白くないことはなかったし、よく出来たものだとは思うけど、そんなにバズるほど面白いのかなあ、という感想。苦手な伏線回収系の映画だったということもあるが。

お金も技術も足りないという時は頭を使うしかない。しかし、「頭を使う」という時には往々にして、前半に伏線をたくさん散りばめておいて、後半にそれを意外な形で巧妙に回収して、精密なパズルを組み替えるようにして前半に見えていたものとは「別の絵」をつくって示すという形になりがちだと思う。だけど、その伏線の張り方と回収の仕方は、あくまでも映画内のルールに従っているから整合的であるように見えるだけではないか(というか、映画内のルールに従って整合性がつくられているだけではないか)、という疑問をもってしまうようなところに陥りがちであるようにも思われる。

『カメラを止めるな!』は、上のような意味で細かく練り込まれたプランをもつ映画だと思う。しっかりと「頭を使った映画」であるが、そのような「(パズルのような)頭の使い方」を見せられても、なるほどとは思うけど面白いとまでは思えない。

ただ、この映画は、伏線とその回収についての作り込まれたパズル的な整合性をその存立の基盤としてもってはいるが、表面的な感触というか、映画としての見かけは、それと相反する、熱意と勢いで強引に押し切っているような、ある意味バッドテイストであるような、熱さと粗さの印象をももっている。おそらくそれは、実際に資金が足りず、撮影に多くの困難が伴ったということと関係があるのだろうと推測する。そしてこの「熱さと粗さ」の印象が、パズル的な整合性「でしかない」というようなリアリティのなさを上手くひっくり返すように作用しているとは思う。

この映画は、前半、中盤、後半の三つに分けられるだろう。前半がネタ振りで、後半が伏線の回収、そして中盤が伏線回収のための準備作業(事情説明)という役割をもつ。一度目は悲劇として(映画を撮っている映画・前半)、二度目は喜劇として(「映画を撮っている映画」を撮っている映画・後半)なされる反復が、ネタ振りと伏線回収(ネタばらし)として機能する。

(よく練られているとはいえ、このような構成自体が新しいというわけではない。)

その、30分ワンカットで撮られている前半のネタ振り部分が、低予算映画特有の「熱さと粗さ」のテイスト(テクスチャー)を強く持っている。観客はまず、この映画を「このようなノリ」の映画なのだと判断し、そのようなものとして楽しもうとするが、後にそれがネタ振りであることが分かる。ただ、この映画における「ネタ振り」部分は、たんに「ネタ」として仕込まれたものではない。この映画自身が低予算映画であることによって、《低予算映画特有の「熱さと粗さ」のテイスト》は、ネタであるのと同時にリアルなものでもあるのだ。

(もう一つ、「熱さと粗さ」をともなった勢いを発生させているエンジンは、映画内映画が30分ワンカット---しかも生放送---という形でつくられるという設定から来る切迫性がある。しかしこの設定自体は恣意的であり、まさに映画内ルールでしかなく、必然的はものとは言えない。普通に設定に無理がある。)

まったく同じシナリオであっても、ある程度潤沢な資金と既成の映画産業のシステムの内部で映画が作られたとしたら、もっとしらじらしいものになってしまったのではないか。結果としてネタとして機能する《低予算映画特有の「熱さと粗さ」のテイスト》は、効果のためにそのように作られたものではなく、実際にそうだからそうである、というようなものなのだろうと思う。この映画自体が低予算のインデペンデント映画であることが、前半部分にネタ振りである以上のテクスチャーとリアリティを与え、それによって後半のネタばらしが、パズル的なつじつま合わせであることに収まらない「勢い」をもつものになった、のではないか。

ネタが、たんにネタとして仕込まれたものではなくリアルなものでもあること(逆に言えば、リアルなものがネタとして転用-転生されていること)。この映画から、一定のリアリティが感じられ、パズル的整合性ゲームの退屈さから逃れ得ている熱さを感じられるとすれば、そのためではないかと思った。

 

2019-07-31

●『若おかみは小学生!(劇場版)』をU-NEXTで観た。型どおりというか、オーソドックスなことを、非常に丁寧に、とても高いクオリティで実現してみせる、というようなアニメなのかと、途中までは思って観ていた。しかし、最後にぐっと攻めてきたので驚いた(いわゆる「加害者」を登場させるところ)。これがあるのとないのとでは、全然違う。

(マイルド化した「千と千尋…」のようにも見えるが、両親は死んでしまっていて、決して戻らないという点が決定的に違う。)

途中のトラウマ描写もかなり生々しかったし、事故の場面もえげつない。幽霊や子鬼が見えるというだけでなく、亡くなった父と母をあたかも生きているかのように描写するやり方も、見方によっては主人公の精神状態の---ギリギリ持ちこたえている---ヤバさをリアルに表現しているようにもとれる。全体としては、あくまでふんわりした微温的な安定感を保ちつつも、それを壊さないギリギリのところで、可能な限り攻め込んでいる作品だと思った。

ものすごい傑作だとは思わないが、みかけほど「ほんわか」している作品ではないし、安心して「泣ける」ような作品でもない、切実な重さを含んだ作品だと思った。

 

2019-07-30

●小鷹研理さんが、『からだは戦場だよ2018Δ(ボディジェクト思考法)』の様子を25分程度でまとめた記録映像を公開しました。小鷹さん、金井学さん、ぼくの三人で行ったトークの模様も、一部みられます。

『からだは戦場だよ2018Δ(ボディジェクト思考法)』

https://twitter.com/kenrikodaka/status/1156084148055887872

https://www.youtube.com/watch?v=trrtjIsRXzY

『からだは戦場だよ2018Δ』趣旨文

http://labrec.kenrikodaka.com/2018/12/18/ksj2018d_concept/

●「『からだは戦場だよ2018Δ」にかんする、この日記でのレビューは以下で読めます。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20181223

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20181224

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20181225

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20181226

 

2019-07-29

●U-NEXTで『東京ゴッドファーザーズ』を観た。改めて、ぼくには今敏作品を受け入れることが難しいと感じた。いや、無茶苦茶すごいことが起きているというのは分かるのだけど。

物語などどうせ嘘なのだからと言ってしまえばそれまでだけど、しかし嘘の付き方が作者の都合でありすぎる、というか、その嘘の付き方は信用できないと、細かい節々で感じてしまう。

(「嘘の付き方」の代わりに「整合性のとり方」を代入しても同じことだと思う。)

その一つ一つは細部に対するちょっとしたひっかかりのようなものに過ぎないのだけど、その違和感が、観ているうちにだんだんと積み重なっていって不信感のようなものになり、画面上でいくらすごいことが起こっていても、分厚い違和感の壁に遮断されてこちらのまなざしがそこまで届いていかなくなる、というか。

(ここがひっかかるとかあそこもひっかかるとか、具体的な違和感を挙げてみるならば、その一つ一つはちょっとした趣味の問題にすぎないようなもの---言いがかりのようになってしまうかもしれないようなもの---かもしれないのだが、それらが積み重なるとじわじわ効いてきて、作品の世界からいつのまにか関心が離れてしまう。)

(「確かにすごいですね(棒読み)」みたいな感じになってしまう。)

(無意識のレベルで、リアリティの置き所がぼくとは食い違っているということだと思う。こういう作品に対しては「受け入れがたい」と言うしかなくて「批判」することは出来ない。ただ、どこがどうだから受け入れがたいのか、ということに対して、できるだけ自覚的でありたいとは思う。だから---ある程度「すごい」ということは認めざるを得ないものの---自分には受け入れがたいと思っている作品を、定期的に観直してその違和感を---反省的に---反芻してみる。)

(ただそれでも、やっぱり受け入れがたくて最後までは観られない、ということはある。)

(一本の作品として観るのではなく、バラバラに解体して、細部を個別に観ていけば、このような違和感抜きでこの作品の「すごさ」を観られるかもしれない。)

 

2019-07-28

U-NEXTで『羊の木』を観た。吉田大八監督の映画を観たのは『桐島、部活やめるってよ』以来。物語を追っていけば最後まで観ることはできるという程度の興味の持続はあったけど、何をやろうとしているのか絞り切れてないような、あらゆる要素が中途半端であるような、さえない、という感じだった。

●同じく、U-NEXTで『千年の愉楽(若松孝二)。これもぼくにはよく分からなかった。中上健次の原作から適当にエピソードを選び出して、それを適当につなぎ合わせたという風にしか思えず、中上健次の『千年の愉楽』を映画にすることで、何をどうしたかったのか分からなかった。

(ただ、「中本の一統」という概念が、高良健吾の美しさによって具現化されているようには思った。)