2019-09-29

●引用、メモ。『ブルーノ・ラトゥールの取説』(久保明)、「あとがき」より。

●生成について

《なお、前著と本書に登場する「生成」という言葉には、特にポジティブな意味も特にネガティブな意味も込められていない。》

《特にポジティブではない、とは「異質な世界と関わることによって前もって予想もできない仕方で自らを変容させていくプロセス」それ自体を称揚し特権視するつもりは全くないということである。むしろ、実践においてありふれた(だが常に忘却される)契機として位置づけ直そうとしている。》

《特にネガティブではない、とは前もって理解も予測もできないとはいえ私たちは常に生成のプロセスに携わっており、間接的な仕方ではあれ、それについて語り考えることは可能だ、ということである。本書の裏面の主題は、非還元、媒介/仲介、アクターネットワーク、存在様態といったトピックからなるラトゥールの一連の議論を、生成を生きながら生成を思考しうる方法論の一つとして提示することであった。生成の只中でそれを捉えるためには、近代的な「人間」という形象から私たち自身を引きはがす様々な手だてが必要となる。》

●数学、物理学の扱いについて

(春日直樹による)「自然と社会の分割を乗り越える」という魅力的なキャッチフレーズの下に、数学や物理学といった自然科学の中核とされる営為の複雑性が簡単に切り捨てられていないか、という批判的な視座から展開された議論は、著者にとっていずれ応答せざるをえない宿題となっている。》

《ラトゥールが「科学」の例として検討する事象の大半は、化学や土壌学といった具体的なモノとの関わりが明確な営為であり、数学や物理学にはあまり触れられない。ブルアが論じたように、数学を人為的な規約の束として捉えることは難しくない。だが、数学という規約的な記号操作がなぜ世界の物理学的な現象と「対応」するのかという問いに対して、ラトゥールの議論はどこまで有効な応答を提示できるだろうか? アクターネットワークや存在様態という概念に基づいて展開されてきた存在の関係論的理解は、認識や論理や言語をめぐる諸問題を回避することで放置していないだろうか?

●真面目すぎてはいけない

《序論で述べたようにラトゥールに対して「真面目すぎてはいけない」のは、彼の議論を正面から受けとめる限り不可避的な帰結である。例えば「私たちはいまだかつて近代的であったことはない」という言明は、この世界における私たちの状態に対応する正確な表象として提示されていない。むしろ、この言明は、「私たちは近代人である」という常識的な言明が妥当性を失うような仕方で私たちが内在するネットワークが組み替えられていく運動を媒介するものとして導入されている。対応説の否定に基づく学問的言明の妥当性が、世界との対応によって保証されないのは当然である。それは新たな暫定的対応を喚起しつつ進められる諸関係の組み替えにおいて妥当性を得るのだ。》

《ラトゥールは、対応を喚起するコンスタティブな発話と関係を組み替えるパフォーマティブな発話の間を往復しながら、既存の語り口を意外な事例や語彙と結びつけて不安定化させ、諸概念のつながりを拡張し、組み替えていく。新たな関係性において新たな対象と表象の対応が可能なるとしても、より重要なのは組み替えの運動それ自体である。》

 

2019-09-28

●引用、メモ。『ブルーノ・ラトゥールの取説』(久保明)、第五章「私たちとは何か」より。

モダニズムポストモダニズム、ノンモダニズム

《第一に、私たちが世界を適切に認識し適切に働きかけうることの根拠を、理性的な人間のあり方に求めるモダニズムの発想がある。「知る」ということは、外側から客観的に対象を観察し、対象と正確に対応する表象を与えることである。知る者と対象がとりもつ特定の関係性から生じる影響は知識を歪めるノイズとされ、可能なかぎり排除される。厳密に考えれば、あらゆる対象は世界内の様々な事柄と関係しているから、ノイズを排除するために知る者は世界に外在していなければならない。》

《こうした現在でも一般的な知識観において、研究者と一般人は「知る者」と「知らない者」の非対称的な関係において把握される。一般人がある対象Xについて、「Xとは何ですが?」と質問し、研究者は「Xとは~~です」と答えることで対象に正確に対応する言明を与えるという関係である。》

《第二に、世界と言明の間に何らかの人為的なフィルターを措定することによって、いかなる知識も絶対的ではないことを強調するポストモダニズムの発想がある。そこでは、知る者が対象や世界に内在的に関係していることが強調され、知識の妥当性は、世界と言明の対応を仲介する社会的、文化的、言語的、理論的なフィルターによって規定されることになる。》

ポストモダニズムは、フィルターの介在(構築されていること)を真実ではないことを意味するものとして捉える限りにおいて、対応説を放棄していない。フィルターなしの純粋な対応、構築されていない真実がどこかにあることが想定されなければ、全てが構築されていることになり、わざわざ「○○は構築されている」と主張する必要もなくなるからである。「構築されていない真実」は、本当は構築されている事実を厳然たる事実と取り違えている一般人の頭の中に、あるいは事実の構築性を徹底的に疑う学問的探求の行き着く先に位置づけられる。》

モダニズムにおける「なかば抹消された神」が、公的な実在性を持たない私的な信仰の対象であるように、ポストモダニズムにおける「構築されていない真実」は、学問的な正当性持たない私的な信念(一般人の信者、研究者の探求)の対象である。》

《研究者と一般人の関係は、「知る者」と「知らない者」の対比から「疑える者」と「疑えない者」の対比に移行するが、非対称性は維持される。一般人がある対象について、「Xとは~~ですよね?」と質問し、研究者は「『Xとは~~である』とあなたが考える背景には○○という要因があるかもしれません」と答えることで、世界と言明とを仲介するフィルターを示唆するという関係である。》

《第三に、近代的な対応説を退け、世界に外在する知識を世界に内在する関係性の一時的な外見上の効果として捉えるノンモダニズムの発想がある。》

《私たちが内在する異種混交的なアソシエーション、原理的に還元不能な諸要素の原理的に制限のない結びつきの動態を通じて様々な事実が生みだされる。それらが外在的な知識に見えること自体は認められるが、それは特定の仕方で作られた関係性(習慣[HAB)の暫定的な効果にすぎない。あらゆる現実は諸関係の組替えによって構築されるものであり、だからこそ、構築は真実でないことを意味しない。》

《そこで問われるのは、真実か虚偽かではなく、よりよく構築されているかどうかである。》

《ノンモダニズムにおける(…)一般人と研究者の関係は「アクター」と「アクターを追う者」として連続的に捉えられ、研究者もまた世界に内在するアクターであるから、両者は対称的に捉えられる。一般人がある対象Xについて「Xとは~~ですよね?」と訊き、研究者が「『Xが~~である』ことに関してあなたがやっていることを私に追わせてください。追跡と報告がうまくいけば私たちは議論を呼ぶ事実としてXを捉えられるようになるでしょう」と応えることで、両者は共にこの世界(=アクターネットワーク)が組み替えられていくプロセスに携わる関係になる。》

●岸政彦とマリリン・ストラザーン、とラトゥール

《以下では、研究者と研究対象となる人々を非対称的に扱わないという点でラトゥールと部分的に重なる二人の論者を挙げて、ラトゥールと比較してみたい。》

《岸は(…)被差別の当事者が差別の存在を否定するように語る時、社会学者はいかなる分析ができるのか、という問題を論じている。(…)差別が存在するという社会学者の前提は、当事者の語りの事実性を否定すれば維持できるが、語り手の尊厳や能力は否定されることになる。逆に、語り手の発言をそのまま肯定すれば、語りを尊重することにはなるが、差別という社会問題の存在が消去されてしまう。》

《岸は、語り手の存在を尊重すると同時に差別が存在することの重大性を棄損しないために、社会学的な理論自体を変更することを提案する。それは、社会学理論自体が経験世界と言明を媒介する社会的フィルターの一部であることを認めた上で、分析する者が分析される者との相互作用のなかでフィルターを組替え、世界とより適切に対応する言明を生みだそうとする試みとして捉えられるだろう。》

(岸政彦からの引用…)もし、差別されたことがないと語る沖縄の人々が、それでも帰郷の道を選んだとすれば、むしろそちらのほうが本土と沖縄を隔てる壁が高く厚いということではないだろうか。このように考えれば、差別という概念では「狭すぎる」のである。[]私はこのことを、差別ではなく「他者性」あるいは「他者化」という概念でとらえ、紆余曲折を経て、最終的に「同化圧力が強いほど、他者化される」という仮説に至った。》

(…)岸にとって「構築されていること」は真実ではないこと(事実と乖離していること)を意味しない。(…)フィルターの一部をなす社会学理論の構築性を修正可能性として読み替えていく。語りは構築されているからこそ修正できるし、修正によってより確かな(=事実と対応する)言明を生みだすことができる、というわけだ。》

《研究者と研究対象者との対称性は、事実(世界と言明の対応)が生みだされる公的な討議の場に両者が参与することにおいて認められる。ただし、公的な討議の場に入ろうとしない者、討議の場を破壊しようとする者、討議において扱いにくい語りを排除することは妨げられていない。》

(…)「討議」という概念を重視する人々にとって、ある種の(非討議的な)構築に携わる人々を排除することは認められるのかもしれないが、それが「公的」という名に値する営為なのかは問われることになるだろう。》

《ストラザーンは、学問的な分析概念としての「社会」に相当するものが彼女の分析対象であるメラネシアに存在しないことを強調する。彼女が試みたのは、メラネシアにおける人々の実践を近代的な分析枠組みによって説明するのではなく、むしろ、諸々の実践を説明するメラネシア固有の論理(「彼らの哲学」)に可能なかぎり沿う形で学問的な分析概念(「西洋思想における形而上学)を用いることによって、近代的思考に基づくそれらの分析概念を変形させていくことであった。》

《岸が提案する理論の変更は、「厳然たる事実」への希求に基づいて行われる限りにおいて「修正」である。これに対して、ストラザーンの論述は、近代的な思考の枠組を修正することでメラネシアの事実を透明に反映しようとするものではない。理論の変更は対象との一致を帰結しない。齟齬は残され、関係づけられ、増幅される。(…)研究者と研究対象者の対称性は、互いに互いの視点を包摂しあうことにおいて展開され、原理的な齟齬を伴う相互作用に基づく民族誌的テキストが、そこから様々な思想と論理が取り出されうるような人工物として構築されることになる。》

《岸は、社会問題に誠実に携わろうとする社会学者として、対話的構築主義を超えて実在への回路を再建しようとする。ストラザーンは、異文化を可能な限り内側から捉えようとする人類学者として、近代的な分析枠組みと研究対象となる人々のどちらにも還元できないが両者と部分的につながりうる、豊穣だが難解なテクストを構築している。》

《ラトゥールにおいて、研究対象者と研究者の対称性は、討議を通じて事実に関する合意に至ることや、両者のいずれにも還元できない部分的つながりを生みだすテクストによって具体化されるものではない。そこでは、両者が噛み合わないまま話し続けることで反論の連鎖を生みだし、広範なネットワークの再編につながるような議論を進めることが目指される。あるアクター(対象)について分析することは、そのアクターがとりもつ諸関係に連なることであり、そこに新たな諸関係を導入することである。だからこそ、分析する者と分析されるものとの間には常に齟齬が生じる。分析する者が提示できるのは「失敗と隣り合わせの報告」でしかないが、分析される者と媒介項同士として関わることを通じて、「議論を呼ぶ事実」を構築することも可能になる。》

《それは、所与のコンテクストを前提としないものたちが、噛み合わないままに発話=分節化しあうことのできる場である。》

●私たちとは何か

(…)アクターネットワークは外在的な対象ではない。私たちはこの世界=異種混交的なアソシエーションに内在しており、それに外在しているように見えるのは、多数の媒介項の蠢きが少数の仲介項に変換されている一時的な状況に限られている。一章でみたように、私たちが何かを製作することはその何かを完全に制御できることを意味しない。神も精霊もコンピュータも原発も、私たちが他の存在者と共にその構築に関わっている存在者であり、それらを思いのままにコントロールできるわけではないことは明らかだろう。ラトゥールの議論において、汎構築主義は世界に外在する者の能動性ではなく、世界に内在する者の受動性と結びついているのである。》

《第三章「社会とは何か」で検討したように「人間は自分たち自身で存在しているわけではない」。第四章「近代とは何か」で示したように、構築の良し悪しを判断する価値基準もまた、異種混交的なアソシエーションが産出するものであり、人間の占有物ではない。(…)私たちは非人間と結びつくことで以前とは異なる存在へ変化し続けてきたのであり、その変化を前もって完全に理解することも制御することもできないし、現にしていない。》

《まだ関係性のなかに取り込まれていない未知の要素をあらかじめ確定したり制御したりすることはできない。こうした内在的な外部要素を、ラトゥールは「プラズマ」と呼ぶ。(…)近代的な対応説が措定してきた世界に外在する視点を退けるノンモダニズムにおいて、新たなかたちで外部が見いだされる。それは超越的でも超越論敵でもない、この世界の内側にあるつながりの隙間としての外部である。》

(…)膨大な不可知的要素としてのプラズマを「社会」や「自然」に還元可能なものとすることで「空白を埋めてはならない」》

(…)理性と力を区別しないラトゥールの非還元主義は、理性を力に還元するマキャベリ主義的発想として批判されてきた。だが完全に能動的にも受動的にもなりえない異質な他者との関わりを通じてネットワークの組替えに携わることは、力を行使しながらその理(価値基準)を生みだすことである。内在的な汎構築主義は、理性に訴える人々が重用してきた、対立する他者を「力」の側に置くことで排斥する論法を避けるが、同じく彼らが大事にしてきた、関係性を暴力的に分断すべきではないという倫理的判断を論理的に強化する。》

《「私たちとは何か」という問いに対して、ラトゥールの議論から敷衍して得られる応答は次のようなものになる。近代人としての私たちは非還元主義による知のデトックスを必要とするのであり、分析する者としての私たちは噛み合わないまま話し続ける技法を培うべきものであり、生活者としての私たちは「経験的・超越論的二重体」としての人間から離脱して、世界の絶えざる構築に参与することの受動性を引き受ける筋道を探るべきものである。》

 

2019-09-26

●本を読んで、なるほどと納得させられたり、おもしろいと思ったりしても、時間が経つとその多くを忘れてしまう。強い説得力があるように感じられた論の展開があったとして、後からそれを再現しようとしてもぼんやりとした流れしか辿れなかったり、そもそも、おもしろいと思ったことそのものを忘れてしまっていたりする。

この日記で本やテキストを引用するのはそのための備忘録といえる。それには二種類の意味があって、おもしろいと思ったことをピックアップして置いておくことと、本を全部(あるいは、関心のある部分を通して)読み返さなくても、引用しておいたところだけをざっと読めば話の流れをだいたいは思い出せるようにしておくこと。

前者の場合は、自分がおもしろいと反応したところを書き写すだけだが、後者の場合、どの部分を引用して、どのように並べれば、できるだけ少ない引用量で、論の展開を要約できる(思い出せる)のかを考える必要がある。このとき、テキストをだいたい三回読むという感じになる。

まず、最初にふつうに読む(この段階で、書き込みや傍線がたくさんつく)。つぎに、どの部分を取り出せば要約になり得るのかを考えながら、読んだところを振り返る。そして、選んだところを実際に書き写す(打ち移す、と言うべきか)

書き写すという行為は体に刻むという感じもあって、これだけやると、それなりに頭に残る。それに、引用部分を書き写している時に、自分が最初に読んだ時に誤読していたと気づくことや、読み落としていた部分があったと気づくこともけっこうある。

(読みながら、本に傍線を引いたり、書き込みをしたりするというのも、ただ「読む」だけでなく、読むという行為に書く---描く---という別の系列の行為を織り込んでいくという意味もある。体を動かす行為を織り込まないと、読むこという行為に集中できずに、すぐに飽きてしまうということもある。)

それでも、時間が経つとやはり多くの部分は忘れてしまうのだけど。

 

2019-09-25

●引用、メモ。『ブルーノ・ラトゥールの取説』(久保明)、第四章「近代とは何か」より。その三。

●存在様態探求

(『存在様態探求』において)彼はまず、ANTは「いかなる手段を用いても状況を制圧したものが正しい」というマキャベリ主義的発想を学問的に正当化するものだ、という従来からの批判の妥当性をある程度認めるところから議論を始める。》

《「社会」と「自然」への還元を同時に回避するANTの手法では、諸現象の推移を社会的な合理性(対立の調停や合意形成)に依拠して捉えることもできないし、自然の事実を的確に捉える科学的な合理性(理論や技術の精緻化)に依拠して捉えることもできない。この二種類の還元を通じて理性的な審級を確保することになれた人々にとって、ANTが理性的思考を放棄して事実を構築する恣意的な力に訴える粗暴な方法論に見えるのは致し方ないことである。》

《この問題を乗り越えるために、諸アクターの関係性が現実を構築している、というANTの発想を拡張する仕方で、諸アクターの様々な関係の仕方がそれぞれに異なる仕方で構築の善し悪しを判断しうる価値基準ないし適切性条件(Felicity Condition)を生み出していると考える「存在様態論」が構想される。》

《ラトゥールは、ここでもまた、近代的な還元の論理を退けることを通じて非近代論的な分節化を担う存在様態を一つ一つ補捉していく。》

●対応説→指示の連鎖

(…)まずもって標的とされるのは、現実に存在するモノ(Thing)と人間の精神(Mind)の対応(Correspondence)を措定する対応説である。私たち人間の営為においてモノと精神、対象と表象、世界と言語の間の厳密で透明な対応関係を要求する近代的発想を、ラトゥールはマウスの決定操作を想起させる「ダブル・クリック」という言葉で呼ぶ。》

(…)アマゾンの森林をめぐる事例分析で検討したように、科学的実践の中心には世界それ自体の改変がある。この事例において、科学者達は、世界を虚心坦懐に観察してそれに対応する言葉を探すのではなく、世界に一連の変換を加えることで「循環する指示」(同書では「指示の連鎖」(Chains of Reference)と呼ばれる)を作りあげることに従事していた。指示の連鎖が絶たれれば、報告書に書かれた言葉は妥当性を失う。言葉は、言葉以外の諸アクターによる指示の連鎖に後から添えられる。(…)諸アクターが隊列を整えて指示を連鎖させることで、世界と言明の対応が一時的に産出される。》

(詳しくは830日の日記を参照)

《科学的実践は「指示の連鎖」という存在様態[REF(Reference)を生み出す。それは「精神と現実の間をつなぐロープではなく、むしろ、身体が育つほど頭と尾が大きくなっていくヘビのようなもの」だとラトゥールは言う。》

●「自然」の位置づけ→再生産

《次に問題となるのは、(…)「パストゥールが制作する以前に乳酸発酵素は存在したのか」という問いが示すような「自然」の位置づけである。》

《科学的対象としての乳酸発酵素は、指示の連鎖[REF]が形成され維持される限りにおいて実在するのだから、それが構築される前から存在していたわけではない。ただしパストゥールの制作以前に何らかの微生物が存在していて、それがパストゥールの実践と関わりをもつようになったのだろうことを否定する必要もない。それをパストゥールの捉えた乳酸発酵素と完全に同一のものだとみなすことができないだけだ。むしろ、一九世紀のパストゥールとの出会いによって、微生物にも変化が生じたのである。》

《パストゥールと出会う以前から反復されていた微生物の営みは、人間に無限に先行し、人間が後から関わるようになる「再生産」[REP(Reproduction)の様態として把握される。再生産とは、それを通じて諸存在が反復の断絶を乗り越え特定の軌跡を定めることができる存在様態である。モノと知性の透明な対応を絶対視する存在様態[DC(ダブル・クリック)によって、再生産[REP]と指示[REF]は誤って単一の物質(Matter)に合成されてきた。これに対して、存在様態論において、科学的な客観性は指示と再生産という異なる存在様態の交差(REP]・[REF)として捉えられる。》

●主体(精神)→変容

(…)客体(物質)だけでなく、主体(精神)もまた存在様態の誤った合成として捉え直されていく。》

《近代的な「精神」は、心理学や精神分析や司法制度や文学などの領域を横断する諸アクターのネットワークによって構成され続ける「不可視のモもの」(感情、個性、無意識、意志など)を、ネットワークに先行するものとして想定される個々人の「内面」に誤って合成したものに他ならない。「不可視のもの」は、再生産の存在者[REP]と同じく、人間に無限に先行して存在している。[REP]が一貫性を保証するのに対して「不可視のもの」は変容(メタモルフォーゼ)を増幅する存在様態[MET]によって生じる。両者の交差を通じて構成される存在(REP]・[MET)は自らに固有のリズムをもつ。人間は後にそこから滋養を得て、支枝を伸ばし、エネルギーを得ることはできるが、それを取り替え、生みだすことは決してできない。》

●象徴→虚構

《非近代社会が「不可視なもの」を補捉し明示化し儀礼化するための膨大な努力を払ってきたのに対して、近代社会はそれらを「精神」へと押し込める。換言すれば、モノと知性の透明な対応への希求[DC]によって、物質の世界に収まらないあらゆる余剰物が「象徴的なリアリティ」の世界に放り込まれるようになる。とりわけ「常に人間という主体が意味づけ解釈するもの」だと誤解されてきたのが、言語をはじめとする虚構という存在様態[FIC(Fiction)である。》

《象徴論的、記号論的、文芸批評的な「人間」や「文化」への還元は、科学・技術における「自然」への還元と相互依存の関係にある。モノから切り離された象徴的な意味は、モノに帰することができない。だからそれは、人間の「精神」やその集合的な有様(「文化」)によって一方的に規定されるものとなる。》

《これに対して、虚構の存在者[FIC]は、他のアクターの絶えざる配慮がなければ持続せず、他のアクターに完全に依存することによって、当のアクターをそれ自身に依存させるものとして指示される。ただし言語や芸術作品などの虚構の存在者は、人間の主観や想像力によって生みだされるのではなく、反対に、それらが存在しなければ人間は主観や想像力をもつことができない。虚構こそが個々人の「内面」を生みだすのだ。近代人は(…)、非人間的な存在者との媒介項同士の関わりあいの成果を「精神」の産物と取り違えてきただけにすぎない。》

《非言語的な諸アクターはそれ自身において発話=分節化しているのであり、だからこそ言語という虚構[FIC]は、それらの分節化の連鎖に屈曲を与え、諸アクターに新たな形象を与えることができる。ラトゥールの議論において、論文や報告書がアクターと呼ばれることはあっても、言語そのものはアクターと呼ばれない理由がここで明らかになる。言語は極めて独立性の低い存在である。話し言葉はちょっとした発声のミスで単なる音声になり、書き言葉はわずかな書き損じによってただの描線になってしまう。言語を言語にしているのは、言語的要素間の関係だけでなく、非言語的な諸アクターの関係性と結びつきである。だから、言語は、特定のアクターとしてではなく、特定の関係性のあり方(存在様態)として捉えられる。》

《一般に私たち人間を人間以外の存在から区別する最大の特徴の一つとされてきた「言語」なるものは、まさに私たちが他の存在者たちとの媒介項同士の関係に内在していることを示すものとなる。》

●まとめ

《指示[REF]はその連鎖の安定性において、再生産[REP]は断絶を乗り越える持続性において、変容[MET]は変化の筋道の産出において、虚構[FIC]は他のアクターとの相互依存の強度において、構築の良し悪しを問う価値基準(適切性条件)を自ら生みだす。前述したように、種々の存在様態は、人間に限定されない諸アクターが特定の仕方で織りなす関係性の効果である。したがって、意味がそうであるように、価値もまた人間の専有物ではない。価値は世界に外在する視点から与えられるのではなく、世界に内在する諸関係の只中において動的に生みだされる。ここからラトゥールは、ノンモダニズムに基づいて「近代的なるもの」を組み直していくために、様々な存在様態を追跡していく。》

(…)パストゥール以前には乳酸発酵素は存在しなかったという主張は、一見すると、「私たち人間が認識できないものはこの世界に存在しない」ことを含意しているように思われる。だが、存在様態論では、人間に無限に先行しているが、十分に分節化されている存在様態として、再生産[REP]、変容[MET]、習慣[HAB]が挙げられている。私たちはそれらの存在様態に正確に対応する知識を獲得したり、それらを取り替えたり、ゼロから生みだすことはできないが、指示[REF]や虚構[FIC]との接続を通じて、そこからエネルギーを得て支枝を伸ばすことはできる。「不可視のもの」は認識できない。だがそれと関係することはできる。》

《種々の存在様態からなるこの世界は、私たち人間に専有されるものではなく、私たちに遠く先行する存在様態と私たちの身近にある存在様態が様々に交わるなかで現に駆動されているのである。》

 

2019-09-24

●引用、メモ。『ブルーノ・ラトゥールの取説』(久保明)、第四章「近代とは何か」より。その二。

●プレモダン・モダン・ノンモダン

《非近代社会の多くは、自然と社会を区別せずに混ぜ合わせているという理由から「前近代的」と呼ばれてきた。例えば、呪術や妖術は、人間の社会的な想像力を喚起するものにすぎない呪文や呪薬をあたかも自然を動かす力であるかのようにみなすものであり、トーテミズムやアニミズムは、自然の存在を擬人化して不当にも人間の社会的関係のなかに位置づけるものだとされる。》

《例えば、ある村に住む人とそれを取り囲む森林の関係を考えてみよう。彼らにとって森には多くの精霊が住んでおり、儀礼や供儀や互酬といった精霊たちとの多様な関係を軸としながら、森林内の動植物へのアクセスも村内の親族関係も方向づけられている。》

《自然の秩序を変更せずに社会の秩序だけを変更するのは不可能だし、その逆も真実である。》

《さて、その村に、母国の強力な支援を受けた近代主義者たちがやってくるとしよう。》

《彼らはまず、森の精霊という「可視化された思考の対象となった怪物」に狙いをつける。それは非合理的な未開人の信念の産物にすぎず、人々が豊かで自由な生活を送る権利を阻害している。だが、そう主張しても、村人は聞く耳を持たない。近代主義者たちが諦めなければ、彼らはキリスト教を布教し学校を建設し、教科書に載ったボイルやホッブズの偉業を解説しながら何世代にもわたる啓蒙を試みるだろう。》

《やがて、村人の中から学校育ちの若いリーダーが現れる。村の前近代的な慣習と精霊の盲信という偶像を破壊するための長年にわたる闘争をへて、彼は最終的な勝利を収める。都市から招いた材木業者を中心として、森林資材の管理体制が築かれ、伐採された木材は鉄道網をたどって世界各地に輸出され、高級木材として人気を博し、村に多大な収入をもたらす。裕福になった村人たちは観光事業に乗りだすかもしれない。森林には小道と観察小屋が作られ、かつて精霊という主を持っていた動植物は双眼鏡やオペラグラス越しに観光客の目を楽しませる観光資源となる。旅行者の中には休暇で訪れた欧米圏の植物学者がいるかもしれない。彼女は森林の珍しい植物に目を付けて、製薬会社と連携した新薬の開発が始まる。かつての貧しい村は、いまや自然に囲まれた理想的な「スローライフ」を体現する滞在型宿泊施設として、各国のライフスタイル誌や旅行サイトで高く評価されるようになった。》

《この極めて非現実的だがどこか見覚えのある近代化のストーリーにおいては、まさに翻訳を否認する純化の実践が翻訳の実践を加速させ、拡大させている。翻訳を一定の範囲に限定する起点となっていた精霊が盲信として退けられることで、村民と森林を起点にして膨大なアクターを野放図に結びつけて変化させることが可能になる。かつては精霊の住処であった木々は都市の材木業者と結びついて高級木材となり、植物の一部が海外の製薬会社と結びついて新薬の成分となり、動植物は小屋と結びついて観察される対象になり、村人の生活は海外のライフスタイル誌と結びついてスローライフの宣伝となる。村はまさに、「人間と非人間を大々的に混合し、何ものをも括弧に入れずにどんな組み合わせも排除しなかったからこそ成功した」のである。》

モダニズムの観点から非近代社会と近代社会を比較すれば、一方に自然と社会の不当な混合があり、他方には両者の正当な峻別があることになる。》

《これに対して、ノンモダニズムの観点から両者を比較すれば、いずれも翻訳の実践を基礎とした人類の営みである。》

(…)テクノロジーも伝統技術も実践においては人間と非人間が関わる翻訳の過程でしかないにも関わらず、(モダニズム)純化された「自然」と「社会」の一方に両者を振り分けようとする(…)むしろ、科学の強力さは、翻訳を否認することで可能になる野放図な翻訳に起因する。(…)私たちは、「自然」と「社会」を峻別し、両者を極限まで遠ざけるからこそ、科学が解明する「自然」という、社会の外側にある領域からやってくる科学技術によって社会が極限まで変化するという期待や恐れを抱くことができるのである。》

 

2019-09-23

●引用、メモ。『ブルーノ・ラトゥールの取説』(久保明)、第四章「近代とは何か」より。その一。

●自然と社会、翻訳と純化

《諸現象を「自然」にも「社会」にも還元しないことを指針としてきたラトゥールの議論は、なぜ両者への還元がなされるのかという論点を必然的に伴う。そして、この論点に関わる議論が「近代とは何か」という問いへの応答を構成する。つまり、近代的な知や制度こそが、世界を「自然」と「社会」に分割し、あらゆる現象を両者に還元することを自明視させてきたとされるのである。しかしながら、還元は「近代なるもの」の反面にすぎない。ラトゥールによれば、近代社会では、「自然と社会」「客体と主体」「非人間と人間」などの対句によって表される二つの領域に属するはずの諸要素を混ぜ合わせる翻訳(ないし媒介)のプロセスを通じて両者のどちらにも還元できない様々なハイブリッドを増殖させてきた。だが同時に、翻訳のプロセスは常に否認され、二つの領域は完全に切り離されたものとして「純化(Purification)されてきたのである。》

《「純化」に慣れ親しみ「翻訳」を否認し続けてきた「近代人」とは私たち自身のことであり、その自明の前提の水面下を捉えることが要求されるのである。》

●『リヴァイアサンと空気ポンプ』(ティーブン・シェイピン、サイモン・シェイファー)から参照された、17世紀のロバート・ボイルとトマス・ホッブズの論争より

(…)ボイルは、体系的な科学実験の有力な実践者であり、実験の基づく新たな自然科学を提唱した実験主義者のなかでも最も重要な人物の一人として登場する。一方のホッブズは、ボイルのもっとも強力な論敵であり、ボイルの主張や解釈を否定しようとしただけでなく、実験によって確実な知識を獲得することはできないという全面的な批判を展開した。》

《当時、水銀が溜まった水槽に逆さまに置いた水銀管の一番上にできる空隙(トリチェリ空間」)の発見が、「真空」の存在を肯定する真空論者とその存在を否定する充満論者(すべての空間には物質が充満していると主張する者)の激しい論争を引き起こしていた。ホッブズは充満論者の側に立って、真空論者を激しく批判した。ボイルは、論争のどちらの側からも慎重に距離をとっており、自分たちはただ空気の重量を計っているだけだと主張しながら、空気ポンプを用いた実験による論争の収束を目論んでいた。》

(…)シェイピンとシェイファーは、論争に関わる当時の諸状況をを極めて詳細に記述することで、そこに現代の私たちが自明視する区別が存在しなかったことを鮮やかに描きだしていく。ホッブズの政治哲学には彼の科学理論(自然哲学)と密接に結びついており、ボイルの科学実験もまた実験を支える共同体の構築を通じた政治的含意を色濃くもっていた。両者の主張は、いずれも存在論や認識論や神学や政治的状況を横断する広範なコンテクストに関わっていたのであり、だからこそ激しい論争が展開されたのである。一七世紀中頃まで、「知識」とは、論理学や幾何学などの論証がもつ絶対的な確実性によって保証されるものであって論証的な確実性を持たない「意見」とは厳密に区別されており、実験に基づく見解は「意見」に分類されていたからである。》

(…)ボイルを含む実験主義者たちは、自然に関する学問が論証によって絶対的な確実性を持つことは不可能であると考えた。自然現象をめぐる仮説は常に暫定的で改訂の余地がある。だが、実験によって得られた事実に基づくことで蓋然性を高めることができる。つまり、彼らは、論証的な確実性の代わりに実践的な確実性によって知識を定義し直そうとしたのである。》

《真空論者は「この世界に真空は存在する」という命題を論証しようとしたのに対して、実験主義者は前述した定義に基づいて「このポンプの内部に真空が存在する」という事実をただ示そうとした。事実は命題を論証するものではない。ボイルらは、真空論者と充満論者の論証における対立を無効化するものとして、実験が生みだす事実を提示しようとしたのである。》

《しかし、この「事実」なるものは当時の知識観において必ずしも確かなものではなかった。実験によって空気がほとんどない状態がつくられたように見えても、それは観察者の不確実な感覚の産物であり、真空の存在を論証できなければ確かな知識とはなりえない。(…)彼らの論争は、ある主張が妥当な知識であるかだけでなく、「妥当な知識とはいかなるものであるか」をめぐって生じている。》

《そこで彼らが依拠したのはが、「目撃」や「証言」といった聖書解釈や刑事法に由来する概念である。法廷において、目撃者の証言は絶対的なものではないが、信頼できる人物による複数の証言が一致すれば、十分な蓋然性を持つとされる。実験によって得られる「事実」は、被告人に判決を下すことを判事に保証するような実践的な確実性、つまり集合的な目撃と証言によって妥当なものになるとボイルは論じた。》

《王立協会を中心にして、裕福で信頼すべき地位にある人々が実験家や目撃者や証言者として実験を取り囲む共同体が作られていく。こうした実験を中心とする共同体の形成は、当時において明らかに政治的な含意をもっていた。》

《実験は常に独断と専制に警戒しながら進められ、いかなる単一の権威も---それはまさにホッブズの政治哲学が確立しようとしたものだが---信念を押しつけることはできない。知識の力は実験が明らかにする厳然たる事実から生じるのであって、特権的な個人や組織に由来するものではない。健全な知識が適切に形成され使用されることは有益な政治的効果をもち、競合する意見の自由な応酬は社会の安定を導く。》

(ホッブズにとって)実験結果に基づいて真空の実在を示唆する主張は、単に哲学的に不適切であるだけではなく政治的にも危険なものであった。ホッブズは『リヴァイアサン(一八五一年)において、「非物体的な実体」という観念を軸とする存在論的発想を、秩序の頽廃と災厄をもたらす自然哲学として厳しく攻撃している。彼の唯物論的一元論において、世界は物質で充満しており、物体でないものは存在しない。》

《非物体的なものについて語るものは、それによって君主や法といった世俗的な権威に従わないことを正当化する。》

《実験が特定の経験を生み出し、それを経験した人によっての確実性をもつことは認められる。だが、彼(ホッブズ)にとって、あらゆる人が納得せざるを得ないような確実性は、幾何学や論理学のような論証的知識にのみ許された特権であった。》

ホッブズはまた、ボイルをはじめとする王立協会の実験主義者たちの主張に反して、彼らの実験室が必ずしも開かれた公的なものではないことを批判する。実験室へのアクセスは事実上制限されたものであり、したがって目撃や証言もまた私的なものでしかなかった。実験主義者たちは人々が目撃する事実こそが確実性を生み出すと言うが、もし実験室を本当に開かれた場所になってしまったら、実験する多様な人々の雑多な経験が報告されるだけであろう。信頼に足らないとされた人々を暗黙裡に排除する実験室共同体の排他性、党派性をホッブズは問題にしたのである。》

ホッブズにとって、絶対的な確実性をもつ論証的な知識は、あらゆる人間を強制させる力をもつ。自分たちの利益を守るためには「リヴァイアサン(国家)服従しなければならないという命題(社会契約説)は、理性を持つ人であれば誰でも受け入れる論証的な知識である。だからこそ、服従を強いる主権者は服従する臣民の正当な代理人たりうる。》

《実験共同体は、論証的な知識の埒外にある「真空」などの非物体的実体を持ちだして、論証的な知識に基づく政体に従わない党派的空間を拡張しようとしている。》

●「自然」の成立

《実験共同体の形成においては、空気ポンプや実験家を起点にして様々なアクターが変化している。一連の翻訳を通じて、「真空」は宇宙論的な思弁の対象から実験室で目撃される対象へと変化し、裕福で信頼できる地位にある人々は刑法や信仰をめぐる証言者から実験的事実の証言者へと変化し、実験を取り巻く人々は事実に基づく共同体によって秩序の問題への解決策を体現する集団へと変化する。そして、実験室の内外でこうした人工的な構築作業(「翻訳」)が行われるほど、「事実」は人間の活動から完全に離脱していく(純化)。「目撃」や「証言」といった法的な語彙で語られていた事実は、のちに自然現象や法則の「発見」という言葉で語られるようになっていく。》

《実験を取り囲む信頼すべき裕福な目撃者たちの役割は、その後、検証実験によって事実を精査する同僚の科学者、科学的実践を支持し莫大な資金援助を行う国家行政、それをあてにして日々を営む一般市民たちによって分散的に担われるようになる。(…)ニュースが伝える最新のテクノロジーに期待を抱き、偉大な科学的発見の解説記事を読み、国家予算を科学的探求につぎ込むことに反対しない私たち自身もまた、科学的実践の間接的な目撃者/証言者なのである。》

《従来の論証的知識観において、宇宙論的な「自然」は人間の理性的な思考と完全に融合すべきものであった。ボイルなどの実験家が携わった異種混交的なネットワークの組み替えによって、人間の外部に存在し実験を通じて目撃(「発見」)され、その精緻な理解を漸進的に獲得しうる「自然」なるものがはじめて想定可能になったのである。》

●「社会」の成立

(…)近代国家は、まさに人々(国民)と主権者(国家)を起点としながら膨大な非人間要素(土地、貨幣、兵器、活版印刷、資源、工場、物流等)のネットワークを大幅に組替えていくことによって発展してきた。同時に、そうした媒介と翻訳の実践こそが、人間の群れとそれを代表する主権者のみによって構成される「国家=社会」への純化を可能にする。ホッブズの議論において、極めて形式的かつ抽象的に構想された「理性によって自ら服従する人々」は、一体どうやって互いに結びつくことができたのか。その主な回路が、社会契約論のような論証的知識だけでなく、土地や財産の所有制度、資本主義市場、書物や新聞の大量生産、鉄道や時計による時空間の標準化などであったことは明らかであろう。》

《しかしながら、こうした異種混交的なネットワークの組替えは、最終的には、人間のみの代理関係からなる近代社会(国民国家)の制御下にあるものとして把握される。媒介の働きは捨象され、モノや技術は仲介項に変換される。食糧問題や核兵器や環境問題など、近代社会は人間以外の存在者との関わりにおいて多くの問題を抱えてきた。だが、本当の問題は人間以外の存在者ではない。それは常にそれらを制御し選択している社会の側、私たち自身の問題なのだ。そう言いながら、私たちは日々せっせと自らを無数の非人間的媒介項と接続し続けている。》

●自然と社会の分化と「神」の位置づけ

《ボイルは敬虔な信仰者であったが、自らの宗教的著作を実験室と強く関係づけることはなかった。彼の弟子たちは、神の存在を想起させるあらゆる要素を「自然」から払拭する。その行き着く先は、精妙な自然法則に神の摂理を感じた経験を(論文では一切言及せずに)インタビュー等で言葉少なに語る偉大な物理学者たちの姿であろう。》

ホッブズは市民契約を導く論証的知識を神が人間に与えた唯一の学問だとみなす一方で、霊的世界を語る聖職者たちを批判した。彼の弟子たちは、「社会」の起源の神の関与を一掃する。その行き着く先は、「聖なるもの」を社会の統合に寄与する集合表象や象徴体系として把握することによって、宗教的次元を社会的なものに還元する社会学者たちの姿であろう。》

(…)ボイルとホッブズの論争から一世紀後に展開されたカントの理性批判において、神の実在は私たち人間が原理的に認識できない「もの自体」へと変換される。同時に、外側から世界を捉える権能が、創造主としての神から人間理性(超越論的主観性)へと部分的に委譲される。》

《科学が解明する「自然」が人間の活動とは無関係に存在することは、神の代わりに「人間なるもの」を据えた近代という神学の侵すべからざる基盤であり、私たちにとってそれが覆される可能性を考えるだけでも嫌悪をもよおしてしまう暗黙の前提なのである。》