2019-11-09

●トーキョーアーツアンドスペース本郷に「FALSE SPACES 虚現空間」を観に行った。

https://www.tokyoartsandspace.jp/archive/exhibition/2019/20191012-6880.html

●ぼくには、永田康祐の作品が面白かった。

(おそらく、AIによるテキストの自動読み上げだと思われる)音声ガイドを地図として、展示空間を巡ることになる。つまり、個々の作品の横にキャプションによるテキストが提示されている状態とは異なり、「順路」が指定される。初見の段階では、空間は並立的には立ち上がらない。まずは一度、順路に従って、線的に展示された物に関する情報を読み込まなければならない。

そしてその後、あらためて展示を見渡す時、継起的な順路とは別の、並立的な配置として、展示空間を読み直し、見いだすことになる。

たとえば、「Function Composition」では、「スポット修復ブラシツール」が空間的な文脈=フレーム(実像、虚像、鏡像、透過像など)の違いを認識しないことを利用してつくられた、多重的なフレームが相互浸透したあり得ない空間のイメージが提示されているし、「Semantic Segmentation」では、画像からテキストを生成する装置(アルゴリズム)が文脈=フレームの違いを認識しないことによって生じる、元の画像と生成されたテキストとの間の違和感が提示される。これはどちらも、機械(計算機?)が文脈の違いを認識できないことによる「ある異質な状態」が示されている。そしてそれに対置するように、「Artforum 13巻4号」では、人間によって意識的に行われた「異なるフレームの並置・混合」として、ラウシェンバーグの作品が紹介された雑誌が置かれている。

機械的なエラーによる異質な文脈の跨ぎ越え(「Semantic Segmentation」)と、人による意識的な多文脈の並立状態(「Artforum 13巻4号」)、そしてその中間として、機械的なエラーを利用した意識的な多文脈の相互浸透(「Function Composition」)が、一つの空間のなかに並立的に配置されていることを意識することで、改めて空間を別のものとして読み直す。

また、画像とそこから生成されたテキストが並置される「Semantic Segmentation」、ブラックホールという知覚不能なものを、二つの別のやり方で視覚化した画像を並置する「2種類のブラックホールの画像」、マケドニアという一つの歴史的地名の使用に関する二つの国の政治的抗争を示す二本のワインを並置する「2本のマケドニアワイン」、数学的に同値なものの二つの異なるあらわれを並置する「三目並べと数学ゲーム」と、「二つの状態を並置する」異なるやり方を示す作品が、空間のなかに配置されているということも意識される。

展示空間は、その読み方によって、異なる文脈として立ち上がる。

2019-11-08

●少年野球には、少年野球としての充実したよい試合があり、よい選手がいるだろう。大リーグやナショナルチーム同士の試合でも、凡庸な試合はいくらでもあるだろうし、凡庸な選手もいるだろう。あるいは、おっさんのやる草野球でも、草野球としてよい試合もあるだろうし、よい選手もいるだろう。

これを、ピラミッド型のヒエラルキー(技術的なレベルの違い)の問題に還元して捉えてしまうと見えてこないものがある。少年野球にしかない固有のよさがあり、草野球にしかない固有の充実というものもあるはずだから。

ただ、言えるのは、少年野球の選手と草野球の選手と大リーグの選手を混ぜてしまうと、有意味な試合が成立しなくなってしまうということだ。ここにあるのが、フレームの問題であり、ゲシュタルトの問題であるのだと思う。

(少年野球の選手が大リーガーから学ぶことは多いだろうし、逆に、大リーガーが少年野球から気づきやモチベーションを得ることもあるだろう。対話は、そのように並列的、並行的に生じるのであって、直接交わることで生じるのではないと思われる。)

マルクス・ガブリエルは「世界は存在しない」とする。物理学という意味の場には「民主主義」は実在しないが、社会や政治という意味の場には実在する。あらゆる意味の場を包摂するグローバルな意味の場としての「(唯一の)世界」は存在しない。だから、物理学と社会・政治は混ぜられない、と。

(あるいは、物理学と社会・政治を混ぜるための、より拡張された大きなフレーム---意味の場---と、そのフレームによって可能になる新たなゲシュタルトはあり得るかもしれないが---というか、そういうものに希望を持っているのだが---しかし、それもまた限定されたひとつの意味の場であり、「世界」ではない、と。)

 

2019-11-07

●i以下、小鷹研理さんのツイッターから。自他反転とも言える、たいへん興味深い体験だと思う。ここでは、《自分を見失》ったと感じている、「通常運行の自分」を下支えしている、より根本的な志向作用の起点(あるいは、志向作用の立ち上がりそのもの)のようなものが露呈されているのではないか。

《さっき、はじめて密閉型のイヤホン使って携帯の通話をしてみたんだけど、最初、僕の方で、びっくりするくらい発話の間合いがとれなくなってしまい、ぐだぐだになっていった。かなりあせった。相手も「なんだこいつ」みたいになってた。ふ〜。》

《相手の声が完全に頭内定位してしまって自分の「内なる声」みたいになっている一方、自分の声はといえば、極度にくぐもって聞こえるので(セルフモニタリングの失敗)むしろ外から他人の声としてやってくる感じに近い。注意を向けるべき場所もその足場も一気に失った感じ。まさに「自分を見失う」。》

https://twitter.com/kenrikodaka/status/1189044152685613057

 

2019-11-05

ツイッターに長島明夫さんが上げている写真を見ると、池袋の、岡﨑乾二郎の壁面装飾がすごそう。実際にはまだ観ていないけど、これはすごいに決まっていると、長島さんの撮った写真を観るだけで確信できる感じ。

(クロスの主題から構成されていること、タイルでつくられていることなどから、マティスの教会を想起させるが、それにとどまらず、なんというか、古くてかつ新しい。こういう作品があり得るのか…、という驚きがある。すごく驚かされた。)

岡﨑乾二郎さんによる壁面装飾《ミルチス・マヂョル》(タイル制作=LIXIL

https://twitter.com/richeamateur/status/1191308721906839553

 

2019-11-04

●RYOZAN PARK巣鴨樫村晴香ソロトーク(二回目)。

今回のトークは特にすごかった。もはや再現不可能だし、要約不可能。

樫村さんのテキストにおける精密な論理構築と硬質な密度とはまた異なる感じで、融通無碍で変幻自在に話題が動いていく。きわめて軽薄な話題が、いきなり深淵へと接続され、引いてしまうほど下世話な話が、詩的な喚起力へと変容しでいき、身辺雑記的エピソードが、そのまま神話的な強度をもつ。充実と停滞の区別がつかず、俗っぽさも気高さも、清も濁も、深さも浅さも、具体性も抽象性も、すべてが混じり合い、あちらから入ったかと思えばこちらへ出てきて、それがまた別の回路へとつながっていく。そして、根底に漂う濃厚な「性」と「悪」の気配。たんなる雑談といえなくもないが、こんなにも複雑に絡み合い、密度があり、強度があり、深度があり、そして毒気の強い雑談を、今まで聞いたことがない。

(以下、トークからぼくの受け取った「印象」の、今ここで頭から取り出せる、ごくわずかな断片であり、正確な再現ではないです。とてもじゃないけど再現不能。)

●最初、保坂さんの『読書実録』第三章〔愛と幻想と現実〕の、ミシェル・レリスから引かれた文章、「さらに深まる空虚を埋め合わせる必要に迫られたとき、私は思弁的議論ではなく、経験の充実をもってこれに向き合おうとしていた」を取り出して、ラカン風に解説してみせる。空虚を、経験の充実で埋めることはできない。空虚は空虚によってしか埋められない。愛とは、自分の持っていないものを用いて相手を救うことであり、そのようにしてしか空虚は埋まらず、おそらく女(愛)-欲望において問題を抱えていたレリスの空虚は埋まらない。ラカンならそう言うだろうが、それは半分しか正しくない、と。空虚があるから欲望が生まれるのではなく、逆に、欲望という(人間を規定している)システム、欲望というOSが、空虚というものを生んでいる。そして、そのような「欲望というOS」が今や終わろうとしているのだ、と。

●この「欲望の消滅」という主題は全体に通底していたかもしれないが、とはいえ、これは話のはじまりに過ぎない。『読書実録』の〔愛と幻想と現実〕から触発されて、レリスの話、ボクサー犬の話、崖の話と、話題は移行し、移行した先で、話題の細部が拡大する。

特に犬の話が印象に残った。本当はライオンを飼いたいと思っていた。ライオンは敷地に金網をはっても逃げてしまうから、金網に電流を流さなければならない。ライオンを飼っている人を実際に訪ねた。ライオンはネコ科の動物としては犬に近く、子供の頃から飼っていれば人に懐くしとても頭がいい。しかし、ライオン同士の喧嘩が始まると非常に獰猛であり、人間には制御できない。ライオンは立ち上がるととても大きく、力もけた違いで、強い恐怖を感じた。ライオンを飼うことはあきらめた。

ボクサー犬は特異な犬種だ。普通、犬は、知らない人間が近づくとテリトリーを守るために吠えて威嚇するくらいのことしかしない。しかしボクサー犬は、人間の男があらわれると、その様子を伺うように近寄ってくる。そして、男の近くでしばらく彼を観察している。だが、あるタイミングで、いきなり思い切り強く噛みつく。普段は家に他人を入れないようにしているが、飲料水のタンクを取り替える業者は家に入れざるを得ない。不幸にも、その業者の男がボクサー犬の被害にあって足を負傷した。

ボクサー犬との愛情関係も特異だ。夕方からテラスで飲酒している時、酔いが深まってくると、犬が膝に前脚を置く。払っても、また置く。それを何度も繰り返し、酔いもさらに深まっていくうちに、犬は膝に乗るようになり、しまいに犬は、女性と対面座位で性行するような姿勢で覆い被さってくる。私にとって、犬が女の隠喩なのではなく、女の方が犬の隠喩だとさえいえる。ある時、テラスに不意に彼女(人間)が現れたことがある。すると犬は、まるで禁じられた秘め事が見つかってしてまったかのように、あわてて私から離れ、私はその勢いで転倒してしまった。

犬との愛情関係が前言語出来であるのと同様、本来、人間との関係もまた、前言語的なところで作動しているはずだ。ただ。言語が介在しないと、記憶を時間(順序)として構成することが困難であるようだ。犬の記憶には前後関係がない。

●東アジアにしか存在しない独自の「下品さ」というものがある(たとえば、タイでは下品な人に出会ったことがない、と)。それは、日本、韓国、中国にしかみられない。ここでいう「下品さ」とは、自分に自信がなく、自分の存在を支える背景的な(隠された・隠喩的な)核のようなものがないので、その都度その都度、自分の存在を過度に誇示する威嚇的態度をパフォーマティブに、表出的に示すことによって自分の存在を支えているようなあり方のことだ、と。

今までに出会った、最も下品さの強度が強かった人は韓国のポン引きだった。街を歩いていると、いかつい男が近寄ってきて、耳元で「メ二ハイリマスヨ」と囁かれた。意味が分からず、「私は韓国語が話せません」と英語で言うと、「日本語ですよ、目に入りますよ」と言った。要するに、「目に入れても痛くないくらいかわいい女の子がいますよ」という意味だ。

(外国の街を一人で歩いている時、下品さをプンプン漂わせたいかつい男から唐突に「メニハイリマスヨ」と囁かれ、それが日本語の「目に入りますよ」という言葉であるということ。この場面になぜかぼくは異様に魅了された。)

ディオゲネスは、奴隷市場で売られるとき、「おまえは何が出来る」と問われ、「おまえたちの主人となることができる」と答えたという。かっこいい。ちょっとラカンっぽいが。

●樫村さんの語りには、樫村さんのテキストにあるのとは異質の、強さがあり深さがあり複雑さがあり運動性がありヤバさがあるように思う。そこには、哲学というよりも小説に近いような細部の感触がある。おそらく樫村さんはそれを良しとはしないだろうと思うのだが、ただ、身辺雑記的なことを書き連ねるだけでも、それが小説として非常に魅力的なものになるのではないかと思った。

(欲望の消滅について、図示的、解説的に語るのではなく、欲望の消滅後について、その具体的な細部や感触を語るのでなければならない、そのためには「実作」である必要がある、できるのならば自分もそれをしたい、というようなことを、樫村さんは言っていたと思う。)

2019-11-03

聖蹟桜ヶ丘のキノコヤで、井上実展のアーティストトーク(井上実×古谷利裕)

九十年代のはじめから現在までの作品をスライドで映しながら話す。それぞれの時期に考えていたことについて、作品の成り立ちやその手法について、興味深い話を、作家からできるだけ多く引き出すために、さまざまな方向からのつっこみを試みる、というのが今回のぼくの役割だと思って、その方向で話した。

井上くんとは古くからの付き合いで、98年以降の作品のほとんどをリアルタイムで観ているということもあって、わりあいリラックスしてできたと思う。こじんまりとした、いい感じのスペースということも大きかった。井上実という画家の特異性が、それなりの濃度で出ていたのではないか(それはぼくが引き出したとかではなく、作家自身から自ずと出ていたのだ)

(ハッタリ抜きで、2013年以降の井上実は現存する画家で最大の存在の一人だと思っている。このような存在を未だ充分に発見し切れていない「美術の世界」に対し、その目は節穴なのかと思わざるを得ない。)

●キノコヤの二階は、普段は映画を上映するスペースで、スクリーンを巻き上げると背後に窓があり、その窓を開けると川が流れている。

井上実展@キノコヤ(1012日~121)

https://www.facebook.com/events/570210896849472/

「月や空が大きいのでもなく、草の露が小さいのでもない 井上実の絵画」(古谷利裕)

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/2019/10/10/000000