2020-03-02

●夢のなかですごい映画を観た。夢で観る映画ではよくあることだが、半ば、観客としてそれを外から観てはいるが、半ば、その空間のなかに入り込んでもいる感じ。

なにがすごかったといって、フレーミング、フレームのなかでの人の動かし方、そして空間のモンタージュが、今まで観たこともないような斬新なものだった。舞台は主に二カ所。ひとつは駅前で、人通りの多い(常に大勢の人が行き交う)、歩道橋のかかった一角。雑踏のなかから、ピックアップされるように際立つ人物があらわれては、再び雑踏に紛れる。その歩道橋の上からは、何人かの主要人物の部屋の窓も見える(あの時、駅前のあの場所にいたあの人物は、今はこの窓の向こうにいるのだ、と分かる)。もうひとつは、駅からそう遠くはないが、人々の流れから外れ、ぽっかりと空白になったかのような空き地(駅前とこの空き地との地理的な関係は、「そう遠くはない」という以外にははっきりしない)。ここに、登場人物たちの複数の個人やグループが、バラバラにやってきては、しばらく滞在し、去って行く。ここには、同時には、一人から、多くて四、五人の人しかいない(駅前にいた人もいれば、そうでない人もいる、人はつぎつぎに入れ替わる)。

ほぼ、この二つの空間のみで成り立っている映画だが、駅前の場所における空間のモンタージュ、そこを動く人の動きと、空き地における空間のモンタージュと人の動きとが、(完璧に重なり合っているというのではないが)、そのスケール感をこえて綿密に対応し、連動している。空き地で寝転んでいる人を撮る俯瞰気味のカットと、駅前の風景を撮る歩道橋よりやや高い位置からの俯瞰カットとの間に、びっくりするような形で対応関係があり、二つのカットが繋がる。そして、そのようなモンタージュ(相互関連)は、それよりさらにスケールの大きい別の俯瞰ショットの存在を予感させる。このようなモンタージュ(相互関係)が、次々と斜めにずれるようにして連鎖していく。だが同時に、スケールの異なるそれらの俯瞰カットにおけるスケールの違いは相対的であり、スケール感はジャンケンのように循環する(よりスケールの大きいものより、よりスケールの小さいものの方が、スケールが大きい、というように)。

ストーリーはほとんどない。何人かの個人がおり、いくつかの集団がある。人物が空間を複雑なフォーメーションで移動し、フレームがその動きを、複雑なやりかたでその都度分割し、人物たちをグルーピングし、グルーピングし直しつづける。こんな映画が可能なのか、と夢のなかでひどく興奮していた。

目が覚めてから、「この感じ」をできるだけ忘れないように、憶えている限りのイメージを、何度も何度も頭のなかで反復、反芻した。それでも、どうしても最も重要だと思われる感じ、興奮した感覚は徐々に少なくなっていき、これを書いている時点では、いくつかのカットの構図やモンタージュ、いくつかのイメージの断片しか思い出せない。

今、頭のなかに残っている夢の残り滓をもとに、なんとかそれを無理矢理にでも発展させて、この「夢の映画」に近いものをつくれないだろうか。そもそも、この夢で自分が「観た」ものは何だったのかということもよく分からないので、まずそのことを、現にある様々な芸術作品を頼りにして考えていく必要があるのだが。

●目が覚めてしばらくしてから、「伊藤高志」という名前が浮かんだ。だが、ネットですぐに観られる範囲で伊藤高志の映像作品を観たのだが、ぼくが夢で見たものとはまったく別物だった。ただそれでも、夢の後に(ずっと意識もしていなかった)「伊藤高志」という名前を、唐突に何年ぶりかに思い出した、ということは、どこかで何か繋がりがあるのかもしれない。

re score 伊藤高志 GRIM (1985)

https://www.youtube.com/watch?v=oB3a8Ldh3VQ&t=165s

Space - Nuuk I (Original Mix)

https://www.youtube.com/watch?v=osOHM6sMDm0

Takashi Itoh

https://www.youtube.com/watch?v=YFjUtl2Xwb4&list=PLg3_EU4-4f2uVt1zTPeOz3e7Dsld73G9D&index=1

2020-02-29

●「コタキ兄弟と四苦八苦」、第8話。なんとも味わい深いいい話だったので、録画したものを三回つづけて観てしまった。リアルな話やシリアスな話ではない、軽いコメディだからこそ成り立つ、とても「いい話」。このドラマ、当初から観ていて、なかなかエンジンがかからないなあと思ってきたのだが、前々回くらいからぐっと面白くなりはじめてきて、ここまで観続けてよかったと思う。

(イマイチ面白くないと思っていた第5話---ゴドーを待ちながら?---だが、8話のための伏線というか、8話が成立するための土台となっていたのだった。8話を観ると、5話のラストちかくにあるさっちゃん---芳根京子---によるボケとも言えるセリフ「がんばれば、あの店もらえるかなあって…」の意味に遡行的に深みが増す。)

うっすらと謎の気配をまといつつも、ドラマとしてはマスコット的な役割にある「さっちゃん(芳根京子)」だが、野木亜紀子の脚本によるドラマにおいて、マスコットがマスコットの役割に留まったままであるはずがない。しかし、物語の核心を担うような(どんでん返しのキーとなるような)「特別な存在」であれば、逆の意味でやり過ぎだろう。

取るに足らないほど小さなものではない切実性をもち、かといって大事件というほどでもない、さっちゃんの事情(願望・失意・迷い)が、さっちゃんの側から、「夢」「他者との位置の入れ替わり」「並行世界」「反復」といった非リアリズム的な物語装置を駆使して提示される。それが夢として示される以上、事情の描出は具体的であるより抽象的であり、図式的である。だがそのことが、「父」や「恋人」という回帰すべき場所を失った者(さっちゃん)のよるべなさをリアルに表現していると思う。

さっちゃんは、二人の「おやじ」との入れ替わり(野木亜紀子の作品において位置の交換と行為の反復はとても重要な要素だ)を通じて、自分が「男」になりたいわけではないこと、また、ひとくくりに「男」といっても(自分もそうであるように)それぞれに異なる個別性を背負っているのだということを(知ってはいたのだろうが、改めて)自覚する。

「父」の場所も、「恋人」の場所も失って、行き先(帰る先)を見失って迷走しているさっちゃんではあるが、しかしそれでも、第三の回帰すべき場所(ローマ)に、無自覚なままたどり着いていた、と。とはいえこれはあくまで、(狸の腹に書かれた)「仮のローマ」であり、仮の居場所だ。おやじたちもさっちゃんも、狸にばかされた世界で共にいるだけかもしれない。だが、仮の居場所ではない居場所などあるのか。

(これにより「さっちゃん」は、喫茶店のウェイトレスとして、コタキ兄弟に対する傍観者的第三者であることができなくなる。彼女自身の存在の内に、コタキ兄弟との関係が既に織り込まれてしまっていたのだ、ということになる。ここでもまた、登場人物間の関係の構造の大きな変化が起きている。)

2020-02-28

●はじめて古井由吉を読んだのは二十歳前後くらいだったはずだから、今のぼくは、ぼくがはじめて古井由吉を読んだ時の古井由吉と同じくらいの年齢だということになる。三十年とちょっと前。

(手元にある、福武文庫版『槿(あさがお)』には、1988年7月11日第1刷印刷と書かれている。本に、大学の出席票が挟まっていた。はじめて読んだのは『槿』ではなく、たしか新潮文庫版『杳子・妻隠(つまごみ)』だったと思う。)

「踏みとどまる《膝》---古井由吉『白暗淵』論」(『人はある日とつぜん小説家になる』所収)という文章を書いたことがある。この時、あまりにも繰り返し『白暗淵』を読んだので、その後しばらく、古井由吉の文章を受け付けられなくなってしまった、ということもあった。

2020-02-27

東野幸治YouTubeラジオを聞いていたら、一番好きな日本映画が『家族ゲーム』(森田芳光)で、ほかにも好きな映画として『セーラー服と機関銃』(相米慎二)、『台風クラブ』(相米慎二)や、『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』(押井守)などを挙げていて、「え、なにこの同世代感」と思ってしらべたら、同じ1967年生まれだった。東野幸治に対して「同世代」として意識したことは今までになく、とても意外に感じたのだった。

というか、ぱっと見た目で自分と同じくらいの年齢だということはすぐ分かるはずなのに、なぜ今まで一度も「同世代」を感じることがなかったのか。

ダウンタウン一派ということで、ちょっと上の世代だというイメージがすり込まれていたのだろうか。というよりおそらく、今まで、東野幸治という人と自分との間に、なんの共通点も関連性も感じたことがなかった、ということなのだろう。全然別の世界の住人だと思っていたのだが、今田・東野は同世代だったのだな…と、映画のタイトルを通じて気づかされた。

東野幸治の幻ラジオ 【第4回】娘ディレクターのまさかの野望とは!?

https://www.youtube.com/watch?v=wZ50Hzil5HQ

2020-02-26

フィロソフィーのダンス、メジャーデビューなのか。推しグループである(にわかで在宅だが)、sora tob sakanaCY8ERフィロソフィーのダンスの三つが、みんなメジャーレーベル所属となって、いわゆる「地下アイドル」ではなくなってしまっている。

ネクストブレイク最右翼・フィロソフィーのダンス 。メジャーの切符とともに手にした揺るぎなき自信(日刊SPA!)

https://nikkan-spa.jp/1646465

●「地下」で気になっているのが、今年で十年目になる新潟のRYUTist。良くも悪くも、十年ちかくもキャリアがある感じがない。

RYUTist|CD|ニューアルバム『ファルセット』5月5日発売!蓮沼執太フィル、Kan Sano、柴田聡子、パソコン音楽クラブら豪華制作陣参加!(TOWER RECORDS ONLINE)

https://tower.jp/article/feature_item/2020/02/25/0702

RYUTistが音楽ライター・南波一海(なんばかずみ)がタワーレコード内に設立したレーベル「PENGUIN DISC」より自身4枚目となるフルアルバム『ファルセット』をリリース!》

《2017年の『柳都芸妓』以来2年9か月ぶりのフルアルバムとなる今作は、PENGUIN DISCよりこれまでリリースしてきたシングルの収録曲をはじめ、蓮沼執太フィル、Kan Sano、柴田聡子、パソコン音楽クラブといった現在のインディーポップシーンを代表するミュージシャン、そしてこれまでも共に作品を作ってきたKOJI oba、NOBE、北川勝利が手掛ける新曲を収録。》

あと、やはり気になるのはレジェンド。

●2020.2.17 小日向由衣、吉田豪トークパート 夢じゃないよ発売記念イベント duse新宿(YouTube)

https://www.youtube.com/watch?v=sx0uc5axCpQ&feature=emb_logo

 

2020-02-25

●『映像研には手を出すな!』、8話。今回のキーポイントは「箸の持ち方」だろう(実はぼくも水崎氏と同じ交差箸だ)。今回において、アニメ内現実とアニメ内アニメ(虚構)との境界を踏み越えているものは、水崎氏の(間違った)箸の持ち方であり、水崎氏の(特徴的な)走り方であり、水崎氏の(記憶にのこっている)お茶の飛ばし方だ。それは、現実のなかに虚構が混じり込むという形ではなく、虚構=作品のなかに(絵を描いている人の)現実-身体が入り込むという形であらわれている。だからここでは、以前の生徒会の予算審議の時のような、スクリーンから戦車が突出してきたり、風が吹き出てくるといったような、紋切り型で退屈な(虚実の踏み越えの)表現はなくてもいいことになる(なくてよかったとほっとした)。

また、映像研の三人にとって、文化祭という場に、(「ビューティフルドリーマー」的な)祝祭感という要素はまったくない。彼女たちは祝祭のなかにいない。彼女たちの目的は、作品を完成させることであり、その完成した作品を多くの人に観せることで、次に、今よりもよりよい条件の下で作品をつくることを可能とすることだ。彼女たちにとって「目的」は作品、あるいは制作であって、文化祭というお祭りはそのための「手段」でしかない。その意味で彼女たちは作品(制作)に束縛された「作品の犬」であり、終わらない文化祭前日を指向する「ビューティフルドリーマー」の世界の住人とは隔絶されている。

一方、「ビューティフルドリーマー」の世界に住んでいるのはロボ研の人たちだ。ロボ研の人たちには、観客動員のためのサポートや宣伝、場の盛り上げというミッションが与えられている。しかし彼らにとって重要なのは、ミッションの実現そのものであるより、ミッションに向けて行為をすること(その行為の過程を経験すること)であり、文化祭というお祭りのなかで、ミッションを遂行するというプロセスを通じて「ごっこ遊び(虚構)」を演じることの方にある。ロボ研の人たちにとっては、プロセスそのものが目的であり、つまり、プロセス=目的=遊戯(虚構)である。勿論彼らは本気でミッションを遂行するだろうが、その本気の遂行そのものが遊戯として成立する。この遊戯は、文化祭という場を得ることで最高潮に達する。

映像研の人たちにとって、目的=遊戯は制作そのものであって、その背後に文化祭のような祝祭的時空は必要とされない。逆に言えば、彼女たちには「祝祭」はなく、常にいつでも「制作」に拘束されつづけている。虚構(虚構と現実とが接し、境を越え、双方が織り込まれるような場所)は、制作・作品のなかにしかない。

一方に、目的はあくまで「制作」であり、文化祭(祝祭)は「手段」でしかないという映像研の人たちがいて、もう一方に、目的はあくまで「プロセス(祝祭空間を生ききること)」であり、具体的なミッションはプロセスを遊戯化(祝祭化)するための手段であるというロボ研の人たちがいる。これを、ポイエーシスとブラクシスの違いといっていいのかは分からないが。目的と手段において真逆のあり方をしているといえるこの二つの団体が、アニメ作品の上映を成功させるために、真逆の方向へとクロスするようにありつつも、双方が結果として共働している。まさにこの、異質なものがクロスする構造(と動き)が面白かった。