2021-01-05

●他者や制度や権威を信じず、自分の目でみたもの(自分の頭で判断したもの)だけを信じるという人ほど、実はだまされやすいということが、最近の社会によって暴露されているようにもみえる。だが逆に、他者や制度や権威を信じすぎることもまた、別の問題(抑圧的な硬直化)を招くのでもあるが。

つまり、クリエイティブな人ほどだまされやすい、だまされやすい人でないとクリエイティブにはなれない、のかもしれない。ある意味で「積極的に間違いにいく」リスクをとらなければ、新しいものを生み出せないということはある(新しいものは、新しい文脈を生み出すのだから、既成の文脈や評価軸では可否を評価できない)。ただ、そのような性質が、状況や局面によって、吉と出たり、凶と出たりする。凶と出てしまっているときは、凶と出ていることを自ら認めて軌道修正しなければならないだろう(が、難しい)。

(前にも書いたが、なにごとも深く考えることのない、面白味のない---そして抑圧的な---常識人こそ、「陰謀論」に対して最も強いのではないかと思う。陰謀論は支持しないが、陰謀論者の方が人として魅力的ではあるのかもしれない。)

信じられるか信じられないかの二択、百かゼロかではなく、どの程度の蓋然性があると考えていいのか、という考え方をしないと、足元をすくわれる。とりあえずは今のところ、この答えが最も確実そうに思えるが、しかし、間違っている可能性も何割程度かはある、というように考え、だから、どの程度の割合でなら、この答えに自分の体重をかけても大丈夫だろうだろう、というように考える必要があるのではないか。この氷はどの程度の厚みなのかを探りながら氷上を歩くように。

2021-01-04

●年末年始は、わりとサブカル系、アイドル系の配信イベントを多く観ていたのだけど、料金はだいたい一つのイベントにつき1500円から3000円くらいで、どうしても、これって本が一冊買える値段だなあと思ってしまう。こう考えると、本は、その内容の量や質に対して、かなり格安なものなのだと改めて感じるのだった。

(今までは、この手のイベントに行くことはなかったのだが、コロナの影響で、多くのイベント系のライブハウスが配信をするようになって、たまに観るようになった。ただ、クレジットカードも持っていないし、スマホも持たないので、ニコニコ動画にどうやって支払いをすればいいのか分からなくて、ニコ動をプラットフォームとした有料コンテンツが観られない。吉田豪チャンネルとか、会員になりたいのだけどなれない。ツイキャスは、アマゾンギフトで支払いが出来るので観られる。)

稀にだが、トークイベントに参加することがある。一人で話す時には原稿を用意すればいいのだけど、人と対談するようなとき、だいたいいつも一時間くらいで話すことが尽きてしまって、その後は話が同じ所をぐるぐる回ったり、同じようなことを別の言い方で言い直すだけになったりと、停滞してしまいがちだ。トークイベントを主な仕事にしているような人のトークのまわしはさすがに見事で感心させられるのだが、でも、そういう人たちのトークでも、内容がぎゅとつまっているのは最初の一時間くらいで、それを越えるとやや停滞した感じになるので、そこはあまり変わらないのだなと思った。そして、停滞したら停滞したで、それはそれで別の面白さがあるので、別にいいのだなとも思った。

2021-01-03

●U-NEXTで、NHKEテレの「100分de名著」が観られるのだが、プルデューの『ディスタンクシオン』を読むシリーズで解説の岸政彦が「他者の合理性」という概念を提示していて、なるほどと思った。その人が、そのようにあるのには、そうであるための(ここでは「社会的に規定された」)複合的な理由=合理性があるのだ、と。これは、その人がそのようにあるのは、そのようにあるしかない必然性の元にそうである、ということでもあろう。

ここで、正義と必然の問題ということに思い当たる。正しいことと、そうあるしかないということには違いがある。必然的に間違ってあるしかない存在というものがあるだろう。たとえば、差別は間違っている。これは間違いない。しかし、その時、差別せざるを得ない(差別する者としてあらざるを得ない)必然性のなかにいる存在というものを考える必要があるだろう。差別を肯定せよ、あるいは許容せよ、ということではない。しかし、どうしようもなく差別的であるしかない場合(条件)ということがあるのではないか。

間違っていることに対して断固として間違っていると言うことはとても重要だし、まずはそれが必要だろう。しかしそれだけではぜんぜん足りなくて、間違ってあるしかない存在には、そのようにあるしかない、それぞれに個別(固有)の必然性があるということも考えなくてはならないだろう。当然と言えば、当然のことなのだが。

それは逆に、正しくあり得る人は、幸運にも、たまたま、正しくある得る状況下にあったということに過ぎないとも言える。

●今年最初に買った本が届いた。

 

f:id:furuyatoshihiro:20210106171703j:plain

 

2021-01-02

●けっこう長いけど、最後まで通して観てしまった動画。特別におもしろいことが話されているというほどでもないけど、話題になっている曲を、すぐその場でキーボードで再現しているところがよかった。

YMO ( Yellow Magic Orchestra )の 全キャリア を menon さんと語りつくす【 新春 レコード 演談 】【 文学YouTuber ムー 】

https://www.youtube.com/watch?v=zv5FjuOgchw&t=1s

●リアルタイムでは特にYMOファンではなかった。当時はみんながYMOを聴いていたから、自分も聴いたというくらいの感じで、山下達郎とか大瀧詠一の方が好きだった。ただ、坂本ファンではあった。坂本ソロのレコードはすべて聴いていた。ソロの仕事だけでなく、アレンジワークが好きだった(特に大貫妙子のアレンジ)。「サウンドストリート」を毎週聴いて、録音もしていた。

(記憶では、79年か80年くらいの時期、NHK朝のニュースのオープニング曲がYMOだったと思うのだけど、検索してもそのような記述をみつけられなかったので記憶違いかもしれない。)

頻繁に聴くようになったのはわりと最近のことで、YouTubeで様々な時期の演奏や曲が沢山聴けるようになって、特に、79年のワールドツアーの演奏---昔、レコードで聴いていたのとぜんぜん違う---が好きになってから。あと、YMOの曲のピアノカヴァーみたいな動画がけっこうあって、それらによって、聴き覚えのある曲の知らない側面を改めて発見させられたということもある。

例えば下の動画のような演奏。

YMO 1979 LIVE at THE BOTTOM LINE

https://www.youtube.com/watch?v=rQ1ZAUh0vqw

(YouTubeにアップされているYMOのライブ録音は、おそらくほとんどが違法アップロードで、「黙認されている」という感じだと思われるのだけど、そういう録音が一体どのような経路から流出するのか---そして、なぜ黙認されているのか---不思議だ。そのおかげで、貴重な録音を聴くことができているのだが。)

ワールドツアーより前の、78年のお披露目ライブみたいなもの(?)の録音がYouTubeにあった(司会者つき)。10曲中5曲が坂本曲で坂本色が強い構成(細野曲、高橋曲は1曲ずつ)。ラヴェルピンクレディーの曲を演奏しているところもレア。

YMO 1978 LIVE at KINOKUNIYA HALL

https://www.youtube.com/watch?v=cJ55qxrzh4w

●「ソウルトレイン」に出演して「Tighten up」を演奏(エア演奏)するYMO

Yellow Magic Orchestra - Tighten Up + 1980 Interview

https://www.youtube.com/watch?v=CT1st0QZPNE

アーチー・ベル&ザ・ドレルズによるオリジナル。やはりオリジナルの方がかっこいいか。最初の、ンフッ、ハッ、という息づかいから既にかっこいい。

Archie Bell & The Drells - Tighten up (1968)

https://www.youtube.com/watch?v=Wro3bqi4Eb8

ウルフルズによるカヴァーもよい。

ウルフルズ TIGHTEN UP~しまっていこう~

https://www.youtube.com/watch?v=o-U-ijJVb5g

ピチカートファイヴの「万事快調」は、ベースがほとんど「Tighten up」(ちょっと違うけど)。この曲をはじめて聴いた時、あ、YMOだ、と思ったのだけど、さらにオリジナルがあったことを後で知る。

Pizzicato Five - Tout va bien

https://www.youtube.com/watch?v=En98fBUppZU

ピチカートファイヴの「引用」とオザケンの「引用」がどう違うかという問題。ピチカートファイヴは元ネタを知ってもほとんどがっかりしない(なるほど、それをこう使うのか、と思う)けど、オザケンは元ネタを知るとかなりがっかりする(「つかみ」として機能する美味しいところをまるごとそのままもらってきちゃってんじゃん、と思う)。「ONE LITTLE KISS」って、そこがそのままでアリなのか! と思ってしまう(深掘りする熱心な音楽ファンということでもないのに、こういうのを知ってしまうのもYouTubeのせい=おかげ)。

Clean Up Woman - Betty Wright (1971)

https://www.youtube.com/watch?v=TPVk-m1Pr4s

Jackson Five - I Will Find A Way

https://www.youtube.com/watch?v=iqA-2sQH77E

2021-01-01

YouTubeにアップされているのを発見したので『御先祖様万々歳!』(押井守)を観ていた。89年から90年にかけて発売されたOVA。面白かった。家父長制的な家族が、一見、家父長制的な価値観に従順であるようにみえる少女によって破壊されていく話でもあり、男オタクにとって女(美少女キャラ)とは何か、という話でもある。

(反転された「うる星やつら」であり、自ら手がけた「うる星やつら」批判にもみえる。)

典型的な「空から美少女が降ってくる」パターンの話といえる。タイムマシン(飛行船)で未来から来た子孫だと名乗る美少女が、父母、息子という三人家族の前にとつぜんあらわれる。彼女には、男性に従順であるという以外にこれといった特徴はもたされていない。彼女は、父にとって理想の娘であり、息子=少年にとっては理想の性的対象であり、母にとっては、家庭内での自分の位置を脅かす敵対者である。少女によって、これまで互いに無関心のままなんとなくつづいていた家族内に、はっきりとした敵対関係がもたらされる。

母は家から去り、少女を保護したい父と、少女に手を出したい息子という敵対関係をもった者たちが残され、男たちの潜在的闘争状態のなかで、三人による、絵に描いたような「家族」関係が演じられる。息子は、彼女に対して下心をもつのだが、彼女は「未来から来た息子の孫」であると自称しているため、インセストタブーにより手を出すことが禁じられている。

(敵対者であった母が後に、少女を、ひ孫でも娘でもなく、息子の彼女=妻として受け入れるというところも面白い。しかし、そういう受け入れ方を、父は受け入れられない。そして父は、少女=理想の娘の出現により、より強く「家長」であろうと無理をして自滅する。)

「未来から来た」などという荒唐無稽な設定(自己申告)を無視すれば、息子は彼女に手を出すことができるのだが、そもそも彼女と息子との関係は荒唐無稽な設定(祖父と孫である)によっているので、これを否定すると彼女との関係そのものがなくなってしまう。彼女が息子と同居し、共に行動し、彼に従順であることには、彼が彼女の祖父であるという理由しかない。息子は、彼女を連れて家を飛び出すのだが、「家族」という制度を否定すれば彼女と共にいることができなくなる。

話は、第三者の介入による家族の離散から、再-集結へとすすんでいくのだが、二度目の再帰的家族関係もまた、破綻から逃れられない。そして、少女を忘れられない息子は…。

五話で一応きれいに終わっているのに(ただ、ここで終わってしまうと「輪廻の蛇」を匂わせるオチ、ということになってしまうのだが)、冗長で退屈で、余計な一手とも言える第六話をつけくわえないと気が済まないところが、押井守という作家の欠点であり、そして特異性でもあるのだな、と思った。

六話のラストを観ることで、ああ、これは男オタクにとって美少女キャラとは何か、という話でもあるのだなあと思う。「攻殻機動隊」で、バトーにとっての草薙素子も、こんな感じだった(男は、好きな女に手を出すことを禁じられており---そもそも女は「自分のもの」と言える身体を持っていない---そして、男を「こちら側」に残したままで、女は「向こう側」へ去ってしまう)。

2020-12-31

●「アイドル三十六房」のR-グランプリで聴いて気になったアイドル曲のメモ。

obsession FAREWELL, MY L.u.v

https://www.youtube.com/watch?v=hhUTZlANMVk

Suzuriha “illuminations” Official Lyric Video

https://www.youtube.com/watch?v=UdLYk-9TycU

寿々木ここね- FEVER  (Official Music Video)

https://www.youtube.com/watch?v=ozhd55GIBMI

Fly to… - 天音たると from ピューパ!! (Official Music Video)

https://www.youtube.com/watch?v=MjGFNwM8TjI

[teaser]ワンダーランド / FRUN FRIN FRIENDS

https://www.youtube.com/watch?v=IRK2YUeNN2M

川上きらら「16歳のアリス」(Official Live Video)

https://www.youtube.com/watch?v=sCybVuA1VkE

ラーメン・オア・ダイ/謎ファイルとやま観光

https://www.youtube.com/watch?v=CvYEgIa6b2g

 

2020-12-30

●よく理解している人なら、難しいことでも分かりやすく書く(話す)、というようなことを、わりと好意をもっている人が書いて(話して)いるのをみるたびに、いつも、すごくもやもやする。こういう発言は、「大向こう(読者)」にむけられた「媚び」としか、ぼくには思えない。難しいことは、どんなにかみ砕いても難しいのだということにかんして、嘘をついている。そのような「媚び」は、結果として、自分自身の首を絞めるだけだとしか、ぼくには思えない。

分かりやすい文章しか書かない人の文章がいつも分かりやすいのは、呑み込みにくいこと、受け入れにくいこと、かみ砕きにくいこと、あるいは、理路を追うのが面倒なことを避けて、通りのよい、受け入れやすいことだけを書いているからだと思う。分かりにくいこと、するっとは呑み込めないこと、難しいこと、書き得ないことを書こうとしないのなら、なんのために書くのか分からない、と思ってしまう。

「分かってもらおうとすること」と「分かりやすくする」こととは違う。「分かってもらおうとする」ことは、対等な立場から(「分かりやすく」することなく、まるごとを)必死に表現することであり、「分かりやすくする」ことは、上から目線で啓蒙することだ。

とはいえ、「分かりやすくする」のではなく、難しいことを理解するためのツボ(あるいは、ここで躓きがちであるというツボ)をよく知っていることによって、理解のよい助けとなることができる、という人はいると思う。

(昔、柄谷行人が、教師と生徒の関係は非対称的であり、生徒の方が立場が上だ、なぜなら、教師は生徒に「分かってもらう」必要があり、分かってもらえなかったら教師たり得ないからだ、というようなことを書いていた。うろ覚えだが。分かりやすくすることなく、難しいままで、分かってもらおうとすること。)

(たとえば、芸術にとって観者は、「観客」ではなく「友人」あるいは「未然の友人」であるはずだ。「人を詩人にするものが詩だ」という言葉---佐藤雄一による---があるが、原理的には、芸術には純粋な観客は存在せず、制作者と未然の制作者、可能性としての制作者がいるだけだ。批評もまた、制作行為の一部としてなければならない。)

(ここではとりあえず「他者」とは言わない。)