2021-03-26

●「スーパーラヴドゥーイット」(鴻池留衣)を読んだ。「すばる」の二月号に鴻池留衣の新作が載っていると知った時には、既に「すばる」二月号はamazonでも品切れだったので、図書館で借りてきて読んだ。

はじまりから終わりまで緩むところがなく、常に、新鮮さと密度と緊密に組み立てられた構築姓が感じられ、たいへん読み応えがあった。ただ、「最後の自粛」や「わがままロマンサー」と比べるとやや抑え気味でおとなしいというか、「こんなことある?」とか「えーっ」とかいう声が思わず漏れてしまうような決定的な驚きは最後まで訪れなかった。いや、充分に面白いのだが、「わがままロマンサー」のようなすごい小説の次の作品ということで、どうしても期待のハードルが高くなっているので。

それと、この手のメタフィクション的な構造には過去にとても多くの先例があり、読者としてはかなりの耐性がついているので、よほどのすごいことが起らないとなかなか驚けなくなってしまっている、ということはある。逆に考えれば、既に手垢のついたメタフィクション的な構造を用いて、よくぞここまで読ませるものが書けたものだという、その細部や展開の充実に驚くべきなのかもしれない。読み始めた時に、「え、メタフィクションなの…、大丈夫なの…」と危惧したのだが、さすがに鴻池留衣だけあって、最後までちゃんと面白かったので、よかった。

(ただ、鴻池留衣なので、メタフィクションだと思って読んでいたら実は…、という、とんでもない飛躍---あるいは隠された悪意---があるのではないかと期待してしまったのだ。)

(そうか。他の作品と比べると「曲者度がやや薄め」と感じた、ということなのだと思う。)

2021-03-25

●去年は、数として、生涯で最も多くの小説を読んだ一年だった(「新人小説月評」のほかにも、多量の小説を読む必要があり、それが重なったため)。それは逆に、「それ(必要)以外の小説」がほとんど読めなかった、ということでもある。なので、ちょっとした浦島太郎状態になっているという感じがある。今年に入って、ようやく「読みたい小説」が読める、と思ったのだが、去年の後遺症のようなものが残っていて、なかなか小説を読みたいという気持ちになれなかった。ここにきて、ようやくその呪いが解け始めているようだ。

『坂下あたると、しじょうの宇宙』(町屋良平)を読んだ。『1R1分34秒』を読んだのは今から一年半ちかく前だ。これはたいへんな小説だと感じたが、そのことで、それ相応の覚悟がなければ安易に近寄れない難物という印象になって、余裕のなかった去年は、町屋良平の小説をあえて遠ざけるような感じになってしまった。『坂下あたる…』は、発表媒体からみても軽めの作品であることが予想されたので読んでみることにした。

前半を読んでいて、あー、これは魅了されちゃうやつだ、と思った。もし、十代の頃に読んでいたら、この小説にすっかりハマってしまっただろうというような種類の、ある種の傾向の人たちを魅了せずにはいられないような青春小説だ、と(たとえばぼくが十代の頃は橋本治がそうだったような)。ここには、『1R1分34秒』に原液のような形であった、とても濃厚な二者関係のあり様が、ある程度整理されたマイルドな形となって示されていると思った。

そう思って読んでいると、中盤過ぎくらいにびっくりするような「大ネタ」が導入されて、えっ、これってそういう話だったの、と驚くと共に、この段階でこんな大ネタを出してきて、この大ネタを出した必然性があったと納得できる形で、大ネタの落とし前をきちんとつけられるものだろうかと思い、この話がどこに向かっていくのかという際どさにドキドキした。

とはいえ、これはあくまで青春小説であってハードSFではなく、大ネタと思ったものは実は大ネタとしてあるのではなく、この小説にはじめから一貫してある「とても濃厚な---そして複雑に相互貫入的である---二者関係」のあり様を表現するためにひとつの「装置」として導入されたのだと納得できた。

(自分もどきのAIが書いた小説に、自分は決して届くことができないだろうという自覚によって主人公の友人は「言葉を失う」のだが、これは、真剣に作品をつくっている人なら誰でも突き当たるであろう、自分の能力の絶対的な届かなさの自覚による絶望を分かりやすい形で示したものだと言えよう。また、実際にAIがそのデータ元となった作家以上の「新作」を生み出すことができたとしたら、この小説に書かれているくらいのことで、AIが混乱することはないのではないかとも思う。)

この小説の本当の大ネタは、大ネタとしてのAIではなく「詩」であるだろう。主人公は詩を書く人であり、何人もの詩人の詩が実際に引用され、主人公の書いた詩が友人の危機を救うという物語をもつこの小説では、主人公の書いた(とされるが、実際には「作者」が書く)詩が、本当に友人に響き得ると納得できる質をもっているのかという点がとても重要であろう。ここで実際に「詩作の実践」が行われ、小説とは異なる「詩の説得力」によって、小説の説得力が支えられている。

(『1R1分34秒』で行われているのは、ある意味で「小説のなかで行われる言葉によるボクシングの実践」であるように思われるが、ここで行われているのは、「小説のなかで行われる言葉による詩作の実践=要するにベタに詩作そのもの」なのではないか。)

友人は小説を書く人だが、友人の書いた小説はその一部ですら示されない(「この小説」そのものがそれを表しているとも考えられるが)、しかし、主人公の書く詩は、ちゃんと示される。才能に恵まれ、本気で文学に取り組んでいる、小説を書く友人と、その友人の傍らにいることで(そのことの効果によって)、友人からこぼれ落ちた(言葉にならなかった)言葉を拾って詩を書く主人公。主人公の詩の言葉もまた、友人に由来するとしたら、その大本である友人が言葉を失った時に、今度は主人公の書いた詩が友人に言葉を取り戻させる。小説と詩とが相互貫入していて、循環的な構造とも言えるが、単純な循環ではないあり様にリアリティを感じた。

(以下の引用は、ある意味でこの小説の「ネタバレ」ですらあると思われるので、未読の人は注意されたい。ラストの場面で語り手が移動していて、下の引用部分では主人公ではなく、友人の語りになっている。)

《『現代詩編 四月号』に掲載された毅の詩、『言語領域ノスタルジー』をよんで、オレは自分のことばみたいだとおもった。まるで、オレがかいたみたいだと。だけど、何回もよんでいくうちに、くり返しおぼえてしまうぐらいよんでいくうちに、自分のことばとの齟齬がすこしずつあらわれた。ここにかいてあるのは、オレがかいたみたいだけど、確実にオレがかいたのじゃないことばたちだ。事実や経験を越えて、オレの肉体がそう確信した。

α(AI・引用者註)のかいた『ほしにつもるこえ』をよんでいるときの感覚と似ていた。なのに、かいた相手が友だちだっただけで、本来文学とは関係ないようなそんな事実だけで、とても安心してしまった。ほんのわずかのことばのズレが、圧倒的に心地よかった。きづけば涙がこぼれていて、オレは毅の詩を何度も何度も音読することで、じょじょに自分のこえをとり戻していった。》

(上に書いた「AIは二者関係を表現するための装置にすぎない」という言葉と矛盾することを書く。AIは自分から言葉を奪い、友人(主人公)は自分に言葉を再びもたらす、という構図になっているのだが、とはいえ、友人にとって、自分を---書き換え、乗り越えるという形であるとしても---反復しているという意味で、AIも主人公もほぼ同位置にあることになる。考えてみるとこれは奇妙な感覚で、この小説では、友人と主人公の濃厚な二者関係ど同等なものとして、友人とAIとの二者関係が置かれていることになる。)

2021-03-24

●「ナイス・エイジ」(鴻池留衣)を読んだ。

去年、一年間「新人小説月評」をやっていて、もっとも興味をひかれた作家が鴻池留衣だった。「最後の自粛」(新潮)は上半期の五作に入り、「わがままロマンサー」(文學界)は下半期の五作に入った。「わがままロマンサー」は年間ベストだと思った。ただ、それ以前の作品はデビュー作の「二人組み」しか読んでなかったから、二作目の「ナイス・エイジ」を読んでみた。

面白かったが、「最後の自粛」や「わがままロマンサー」が、アイロニーを複雑骨折させたみたいな圧倒的な感じだったのに比べれば、そこまで捻れてはいなくて、案外素直だと思ってしまった。とはいえ、SFではあるが、あらゆるSF的道具立てが不発に終わるSFという感じで、この、「不発感」の徹底がこの作家の特異性だと思え、とても興味深く読んだ。一作目(「二人組み」)とはかなり作風を変えていて、この二作目がこれ以降のこの作家の小説の基本的なスタイルを決めているように思う(とはいえ、一作目からも既に相当濃厚な曲者感が匂うが)。お話は、『シュタインズゲート』の世界観のなかで演じられる『御先祖様万々歳!』みたいな感じで、オチは「量子自殺」的な感じか。

無理矢理に似ている作家を探すとすれば、七十年代の筒井康隆が、現在のような社会・文化・情報技術のもとで生きていたとしたら、このような感じの小説を書くのかもしれない、とは思う。ただ、やはり違うと思うのは、不発感そのものが主題とも言える「ナイス・エイジ」をみても、この作家にはマッチョイズムへの強い忌避があるように思われるところだ。

とはいえ、それも単純ではない。「最後の自粛」などはまさに、お話としては、ホモソーシャル的なボーイズクラブのなかで、ひ弱な青年(たち)がカルトを率いるマッチョなカリスマに育っていってしまう話なのだが(つまり、お話自体はよくある話なのだが)、その様がたんにアイロニカルに批判的に捉えられているということでもない。積極的にミイラ取りがミイラになりにいっているかのような感覚もあり、だがそれは、ミイラになりにいくことによってこそミイラを逃れうるという感覚でもあって、そこに仕込まれた、ミームに対する独自の距離感、複雑骨折して乱反射するアイロニーと露悪と偽悪の感触は、他ではちょっと感じることの出来ない質をもつもので、この感じをどのように受け止めればいいのか困惑させられる(正直、ほんとうにこれを肯定的に受け止めていいものかどうかよく分からない)。

●以下は、去年の「新人小説月評」で鴻池留衣について書いた部分。特に「最後の自粛」にかんして、「捉え切れていない感」が自分でもあるが。

鴻池留衣「最後の自粛」(新潮)。本作はアイロニーを描き出す。男子校的ホモソーシャル空間、疑似科学陰謀論、集団のカルト化、テロリズム…が、胡散臭げに演じられる。これらを発動、発展させる燃料は、死を恐れず(隠蔽せず)に「生の実感」を重んじるヒロイズムだ。郊外の歴史ある男子校はその温床であり格好の舞台となる。主人公《村瀬》は自らの行動の自由を抑制する《抑圧者》と闘う。彼には、マイノリティという認識と、力と操作の拡大を望むマッチョな欲望が同居する。だが、このような主題には既視感があるとも言える。一方で、異常気象、東京オリンピック、COVID-19という現在進行する出来事とリンクしてもいる。本作は「陰謀する側」から見られた裏返しの陰謀論である。気象=自然を操作することで世界(他者)を操作しようとする《地球温暖化研究会》にとって、自分たちの操作の外で生じたコロナが世界を変えることは敗北である(操作不能な現実=コロナによる陰謀論の綻び)。東京オリンピック延期の「原因」は自分たちでなければならないのにコロナとなってしまった。ここで《抑圧者》への闘争が「陰謀論の主体」の座を巡る(コロナとの)競争へと変質してしまう。彼らをテロに向かわせるこの転倒が描かれる点が重要だ。

鴻池留衣「わがままロマンサー」(文學界)。展開も落とし所も先が読めず「やられた」という読了感。ゲイでもありノンケでもあり、タチでもありネコでもあり、BL絵師でもありゲイビデオ俳優でもありと、局面により属性がころころひっくり返る志村というヤヌス的青年を媒介とすることで、腐女子のBL漫画家の妻と、ロリコン(+熟女好き)の小説家の夫が、相容れない異質な欲望を互いに映し合うように交錯させることが可能になる。男として男と性交したいという妻の欲望、ノンケでありながらゲイとして性交したいという夫の欲望、これら不可能な欲望は志村を介すことによって(仮想的に)実現される。人物たちは皆欲望のモンスターで、その欲望は人ではなく属性に向かい、他者を欲望の対象としてしか扱わず、ただ利己的に消費する。にもかかわらず、人物たちは他者の欲望に巻き込まれることでいつの間にか自己から逸脱しはじめ、他者の欲望を自己の内に入れ子的に巻き込むことで相互変化する。他者を手段としてしか扱わないことを徹底することで結果としてコミュニケーションと変身が出来するという逆説。この、人が悪いアイロニーの感触や、疑似的私小説の話者に信用ならないロクデナシを置く露悪的やり方などから、作者の曲者性が強く匂う。

2021-03-23

●図書館に、予約しておいた本を取りに行った後、回り道をして川沿いの桜並木を見に行った。しかし、まだあまり咲いてはいなかった。そのまま川沿いの道を上流の方向へ歩いて帰るのだが、しばらく行くと、油圧ショベルが川に入って河川の工事が行われていた。この工事は川底に溜まった泥を掻き出すためだということで、かなり前からやっていて、上流の方から徐々に下ってきているのだが、この工事の都合なのか、河原の雑草がきれいに刈られているだけでなく、数多く生えていた大きな樹木も根元から切り倒されていて、意識しないうちに「えーっ」と声が出ていた。

2021-03-22

●2002年の2月か3月のこと。深夜のトーク番組(ホストは薬丸裕英)にゲストとして安野モヨコが出ていた。安野モヨコは、「今までつき合ってきた男はみんな普通の男ばかりだった。普通の男とは、夏は海、冬はスキー、趣味は車、みたいな男のこと(こういう男が「普通」だったのはもはや過去のことだが)。しかし、今つき合っている男はオタクで、オタクと付き合うのははじめてなのでいろいろ戸惑っている」というような話をしていた。

二十年近く前のなんとなく眺めていただけの深夜のトーク番組のことを今でもはっきり覚えているのは、もちろん、この放送からたいして間もないうちに、安野モヨコ庵野秀明が結婚したというニュースが出たからだ。オタクとつき合っているって、オタクにもほどがあるだろう、と驚いたのだった。

(「プロフェッショナル 仕事の流儀」を観た。「シン・エヴァ」はまだ観てない。)

庵野秀明の「私小説」には興味がないし、作品としての「エヴァ」は、旧劇場版でちゃんと終わっていると思っている。新劇場版は、姿は似ていても魂は別物で、旧エヴァとは別の作品だと考えている。ただ、とてつもない表現力をもった人が、作品の面でも責任者であり、制作体制(お金)の面でも責任者であるから、とことん好き勝手にやれる、という環境で、どれだけすごいものをつくるのかという点で興味がある。

(宮崎駿でさえ、高畑勲鈴木敏夫との関係の中で作品をつくっていたはずだから、まったく好き勝手にやれるわけではなかっただろう。新劇場版で庵野秀明はあらゆる面で自分が責任者だから、どこまでも自分の裁量で決められ、果てしなく自由で制約がなく、よって、果てしなくどこまでも悩むことになるのだろう。『シン・ゴジラ』はいわば雇われ仕事であり、自由に出来る範囲がはじめから狭く、その分、悩むことの範囲も狭かっただろう。制約がないからこそどこまでも悩みつづける庵野秀明において、唯一の制約が「締め切り」だったというのはとても興味深いことだった。この「締め切り」もまた、自分で設定したものだろうが。)

2021-03-21

●昨日からのつづき。引用、メモ。『現実界に向かって ジャック=アラン・ミレール入門』(ニコラ・ルフリー 松本卓也・訳)、第二章「精神分析的臨床」より。

(精神分析はどうしても「神経症者」に関する探求が主となるのだが、ここで書かれている「精神病者」や「普通精神病」の有り様についてもっと知りたいと思った。)

精神病者への分析可能性(狂人も「主体の地位」をもつ)。

《ジャック=アラン・ミレールは、精神病患者の分析を成功させることが可能であると考える者の一人である。》

精神病者においては、言語の獲得に欠陥がある。父性隠喩、言い換えれば(何らかの本源的なシニフィアンを抑圧することによって)主体を言語へとくくりつけることを可能にする機能が、精神病の場合では働いていないのである。このシニフィアンが排除されることによって、シニフィアン連鎖が展開されえなかったのだ。ここには言語への参入の拒絶がある。正確に言えば、スキゾフレニー性の精神病にとっては、象徴界はつねに現実的なものとして知覚されている。つまり、彼らは語を物のように扱い、語をその純粋なみせかけとしての側面において考えることができないのである。(…)それでもミレールにとっては、個人にとっての言語は、いかなる病理的な構造をもっていたにせよ、つねに現前している。つねに言語への最小限のつつくりけがあるのだ。》

《(…)ラカンの排除(…)という考えをもちだす。排除とは、精神病に固有のメカニズムであり、抑圧の失敗である。それはあるシニフィアンの拒絶であり、そのシニフィアンは象徴化へと至らない。この拒絶されたシニフィアン現実界のなかに回帰するが、そのときには幻覚という形式をとる。これが精神病である。》

《精神病の問題については、分析経験によって〈主体〉を生産することが可能かどうか知ることがよりいっそう問題となる。精神分析にとっての主体は、ミレールが理解する限りでは、無意識の主体である。それはフロイトが「それがかつてあったところに到達する(…)」ように呼びかける主体である。この意味において、まるで「人間のなかの小人」のような、主体の無意識といったものは存在しない。無意識は、単にシニフィアンの効果にほかならない。無意識は言語のように構造化されており、それは無意識が言語の法に従属していることを意味している。(…)無意識の主体が本質的に分割(…)されているというのはこの理由による。私たちは自分自身と完全に一致することができず、言語へと疎外されることによって分割され、自分の身体には還元されず、何にもまして言語によって「寄生」されているのだ。(Sと記される)無意識の主体は、与えられた(生得の)ものではなく、生産(…)すべきものであることに注意しておこう。》

《(…)ミレールは、ラカンの「狂人は自由な人間である(…)」という発言を取り上げている。この発言は非常に真剣に受け取らなければならない。狂人が自由な人間であるというのは、狂人においては「父性の欺瞞(…)」の拒絶があるという意味においてである。この拒絶は、ある特定の「主体的立場」を伴っている。》

《狂人は狂気を選択したのであり、妄想は差し迫った何らかの驚異に対するひとつの解決として現れたものである。人間は、あらゆる手段で不安から身を守ろうとするものであり、精神病患者が妄想を形成できないとすれば、彼はひどい不安に襲われてしまう(たとえば、身体寸断化の不安。アントナン・アルトーの著作は、この種の不安によって主体が突き落とされる苦悩を十分に示している)。それゆえ、十全な「主体の地位」をもつものとして精神病者を考えなければならないのである。》

《主体を生産すること、それはフロイトの公式を引用するなら、「それがあったところに主体を到達させること」である。この理由から、無意識の主体を出現させるために、分析経験の装置のすべてが必要なのである。その主体は現れるやいなやすぐに消滅するものであるが、失策行為や言い間違い、語られた夢のすべてのなかに見出すことができるような主体である。》

●普通精神病

《ミレールは、正式の呼び名がなく、「未発病精神病」や「白い精神病」あるいは「冷たい精神病(…)」(あいまいな症候群であり、精神病発見のてがかりとなる強い潜在性をもたない精神病)と呼ばれていたものを形式化したのである。それゆえ、普通精神病は臨床的精神病(発病済みの精神病)とは対立する。普通精神病は、主体がはっきりと精神病構造をとりながらも、妄想を発生させることなしに人生を生きることが可能であるという事実を理解可能にしてくれる。》

《この用語は、ミレールにとって「かつては並外れたもの(…)であった精神病は、私たちにとって普通のものである」と説明される。「普通(…)」という言葉は、いくつもの意味で理解されうる。例えば既成の秩序や習慣に合致するもの、ありふれた、平凡なものなどである。精神病は例外的なものに属しているわけではない。つまり、そもそも精神病者は、自らの身体に対して調和した関係を維持していないという点では神経症者とそれほど変わるわけではない。もし私たちがどちらかはっきりとさせなければならないとすれば、むしろ身体への「正常」な関係をもっているのは精神病者の方である。精神病者は常に身体の「破裂」の脅威にさらされている者であり、彼らは自らの身体への敏感で直接的な関係をもっているのである。》

《(…)この臨床は、葛藤の臨床、つまりフロイトの臨床とは対立している。この臨床は「結び目の臨床であって、対立の臨床ではない」。この臨床によって方向付けられた分析は、もはや症状の解釈を目指さず、補填の発明を目指す。あるいは主体によって既に確立されている安定化のモードを支援することを目指す。主として重要なのは、分解をくいとめることである。》

●情動はシニフィエをもつ。

《(…)情動はひとつの意味、シニフィエをもっているのである。》

《情動は感情(…)ではない。感情は人間のなかの動物的な部分に関わっており、環境としての世界への私たちの関係と相関していると考えられるが、情動は、主体により一層関わっており、表象やシニフィアンに対する私たちの関係に関わっている。》

《情動はシニフィアンによって媒介され、ひとつの観念に関連づけられている、と考えてみよう。つまり、この観念、この表象は〔それがもともと結びついていた〕エネルギー量から分離されることが可能なのである。このエネルギー量が情動のもうひとつの側面を構成しており、この量が私たちに情動を感じさせることを可能にしている。それゆえ、情動が結びついた観念を抑圧することはできるが、しかし情動がもつエネルギー量に関しては単に移動され、「離脱され」、「漂流しようとしている。ことになる。》

《情動が移動させられうるものであるとすれば、情動は欺く可能性のあるものだということになる。(…)分析において生じる情動はそのまま受け取るべきではなく、それを実証しなければならない。真理は、事実にはまったく関わっておらず、体系の際深部にその固有の参照点をもつという点で、虚構の構造をもっている。情動は、この後者〔=虚構〕と関係をもちうるものであるが、つねにそうであるわけではない。》

●症状とファンタスム。

精神分析に享楽(…)という用語を導入したのはラカンである。(…)享楽は、快と不快の向こう側にある。快を享楽することが可能であるのと同じように、苦しみを享楽することも可能である。ミレールは、症状とファンタスムは、享楽への関係において結び付いているということを強調する。この二つは、神経症の主体における享楽の二つの源泉、つまり二つの「享楽するモード(…)」となっている。症状は苦しみのなかで、たとえば悲痛な言表行為のなかで、享楽を回復するひとつの手段である。他方、ファンタスムは主体が快く享楽することを可能にする。》

《(…)「ファンタスムの論理(…)」が存在する一方で、症状は「形式的外被(…)」をもっているのである。》

《(…)症状は享楽とメッセージという両方の顔を同時にもっているのである。》

《(…)症状は意味をもつ何かである。それは、そのメッセージを運ぶ主体に対して暗号化されたメッセージである。それはまるで、主体の背中に書かれているために、主体が自分では読むことのできないような何物かである。私たちは、この暗号化されたメッセージを読むことができる。(…)だとすれば、症状が運ぶメッセージの意味を主体に与え、それを解読し、読解し、さらには翻訳すれば、症状が消失すると考えられるであろう。しかし、実際にはまったくそうならない。(…)あらゆる解釈学においてそうであるのと同じように、唯一の可能な意味など存在しない。(…)症状にその究極の意味を与えることは不可能であり、さまざまな意味を、つまり意味それ自体の無限性を与えることしかできない。(…)解釈を行って主体にその症状の意味のひとつを引き渡すだけでは、私たちは終わりなき不明確さの戯れのなかに舞い戻ってしまうだろう。(…)解読の熱情が生まれ、そこではすべての「言うこと」が想定上の意味を孕んでしまう。たとえば、分析家がくしゃみをすれば、主体は分析家がそれによって何を言わんとしていたかと不審に思う…。》

《(…)この袋小路は、症状の「享楽」の側をも考慮にいれなければならないということを教えてくれる。もしひとが治癒しないことに躍起になっているとすれば、つまり自分の症状を守ることに躍起になっているとすれば、それはそのひとがその症状を享楽しているからである。(…)主体は「享楽すること」を続けられることを望み、不平不満と要求の両面において語ることに舞い戻る。ミレールは疎外的なつながり、すなわち苦しむ主体に対して分析家がもちうる真の影響がこのようなものであることを強調する。これが有名な転移、すなわち、自分が苦しんでいることについての知を与えてくれそうな人物を、情熱をもって愛し始めることである。分析の完遂はすべて「自分の転移を精算すること(…)」に到達できるかどうかにかかっている。転移の精算は、非常に様々な方法でなされることができるが、決してなされないこともある。》

《(…)症状は「主体がそれについて不平不満を言う(…)」ものである。他方、ファンタスムは「主体が自らを気に入る場所(…)」である。(…)すなわち、分析に入ることは症状によって生じる。(…)そしてその分析は主体が構成することになるファンタスムによって終わる。つまり、分析の掛け金のひとつであるファンタスムの横断によって分析は終わるのである。》

《(…)精神分析が理解するところのファンタスムはつねに無意識的なものであり、ひとつのフレーズとしての構造をもつものであり、ひとつの文法的モンタージュですらある。(…)主体の基礎的ファンタスム(…)は、論理的かつ文法的な方法で分節化されているような何かである、ということだ。そこでは「主体」が「対象」の位置を占めていることが解ることもるように、受動と能動はいとも簡単に超えられてしまう。ファンタスムは書かれることが可能なものであり、主体にとって固定したものでありつづける。これは、ファンタスムは解釈されないということを意味する。ファンタスムを解釈しないのは、それが多義的なものではなく、固定されたものであるからだ。》

《ファンタスムは、たとえ主体がそれに完全に満足していたとしても主体によって告白されることは決してない。自分が享楽しているファンタスムを表明することには、ある種の羞恥が感じ取られるのである。》

《ここで言われている「〔ファンタスムの〕横断」をどのように理解すればいいのだろうか? 横断するという言葉は、横断されるものを破壊するのではなく、むしろそれを超えて通り過ぎるときに用いられる。横断されるものは、保持されたままで横断される。》

《(…)ひとたびファンタスムが横断されると、ある「進歩」が得られる。それはファンタスムを見出し、位置を割り出し、位置づけることができる状態になるということである。こうして新たな位置が到来することが可能になり、私たちの奴隷状態は軽減される。私たちはこのようにして新たな「主体」のあり方を手に入れる。それはもはや従属しているだけのあり方や、合意の上での犠牲者としての、あるいは無意識の操り人形としてのあり方ではなく、距離をとることのできる主体というあり方である。ファンタスムは消滅せず、変化しない。しかし、ファンタスムは位置を割り出されており、私はもはや無分別に操作されることはない。》

2021-03-20

●引用、メモ。『現実界に向かって ジャック=アラン・ミレール入門』(ニコラ・ルフリー 松本卓也・訳)、第二章「精神分析的臨床」より。

●治療ではなく経験、普遍ではなく特異性。

《まず、ミレールは「治療cure」という用語を「経験experience」という用語に置き換える。》

《(…)分析は治癒を目的とはしない。ラカンは「治癒は副産物としてやってくる」と述べることでそのことを指摘していた。これはシニシズムではなく、まったくその反対である。治癒を目指さないのは、そもそも「メンタル・ヘルス(精神の健康)」など存在しないからである。(…)精神分析は主体を何かしらの基準に当てはめようとすることはなく、反対に主体のなかにあるもっとも特異的なものを目指す。》

《(…)「治療」は、主体の側の〔治療を「受ける」という意味で〕受動的な何ごとかを含意するからである。主体が、自分の真理だと信じていたものの形態から、別の形態へと移行するのは、分析においてであり、過程のなかにおいてである。少なくともこうした考えは分析経験を理解するひとつの方法であり、ラカンはそのことを初期の教えのなかで概念化していた。それは弁証法的過程に入り、主体が固有の歴史を引き受け、「主体の歴史のなかの検閲された章を主体が再び取り戻すこと」に到達することであった。》

《こうして、精神分析にとって普遍的なものがはじめから放棄されているのはどうしてなのかが理解できる。それは、人は「他者が望んでいること」、特に私たちの家族が望んでいることほどには、「自分が望むこと」について自発的に語らないからである。無意識が「大他者〔=大文字の他者〕のディスクール(…)」(母親、あるいは家族的布置のなかにある人物のディスクール)であるなら、このディスクールは主体を袋小路へと導くことになる。人は自分に関する〔他者の〕ディスクール、ときにはおのれの誕生以前からすでに存在したディスクールを携えて分析にやってきてそれに不平を言うである。人は自分が望むものを知らず、自分が真に欲望しているものを知らない。ゆえに、分析に賭けられているのは、私たちに固有の欲望を取り戻すことができるかどうかである。》

《私たちは自らに固有の言語を発明したわけではないのだから、言語は大他者によって伝えられたものである。しかし、私たちは自分自身を特異的なものにするひとつの「語られた言葉」を常にもっている。》

《常に特異的なケースを扱う精神分析家は、ケースを前にして、「自分はただひとつのことしか知らない、それは、自分は何も知らないということだ」という態度を引き受けなければならないのだ。概念や理論、症例の構成は後からやって来るものであり、それらは常に生きた実践の外部にある。実践においては、固有のケースの構成〔=構築〕(…)という作業は分析主体の側に任されてすらいる。ある意味では、普遍的なものを目指さなければならないのは分析主体の方なのである。辛抱強く蓄積されたおのれの諸々の真理をいかにしてひとつの知にするのかを探るのは、分析経験に参加する主体の役目である。》

●特異的なものを診断するという矛盾。

《診断について問われるとき、この問題は臨床にとりつき、臨床を悩ませるばかりである。この患者は精神病なのか、神経症なのか? 強迫の主体なのかヒステリー者なのか? という問題である。というのも、精神分析が取り扱う特異的なものという視点に立てば、「それぞれが他の誰にも似ておらず、それぞれがお互いに比較不能」だからである。だとすれば分析は、それぞれにおける特異的なものの出現を受け入れる実践になる。つまり、分析は特異的なものへと方向づけられた経験そのものなのである。すると、分析において診断は、除外されることはないとはいえ、目標とされるものではないことになる。》

《(…)たしかに、フロイトラカンも、無視することができないものとして構造を参照していた(それは、臨床家はたとえば症例が強迫神経症なのかパラノイア精神病なのかを知らねばならないからである)。しかし、それは単に分析的ディスクールのなかで症例の議論ができるように症例を構築するためでしかない、ということを彼らは明確に述べていた。ミレールにとって、症例を構築することは、症例に論理的座標軸を与えることを意味する。論理的座標軸とは、症例の形式的外被とファンタスムの論理のことである。症例の構築は、分析的ディスクールの進展に寄与するために、そして、精神分析家の共同体が歴史的区分に応じた臨床の変化を掴むために必要不可欠である。実際、様々な症状は同じ形式をまとっているわけではなく、ある時代の社会的政治的な文脈に従った形をとるということが知られている。いまだにヒステリー性神経症は存在するのではあるが(それはある種の主体にとっての取りうる方策として常に存在している)、精神病院に収容された、シャルコーの意味でのヒステリーはほとんど見られなくなっている。》

《分析臨床〔でいうところ〕の症状は精神医学臨床の症状とは異なる、という点に注意しておく必要があるだろう。「分析的症状は患者によって語られた症状であり、なによりも語る症状〔=語るものとしての症状〕(…)である。分析的症状に与えられた最初の定義は、症状と中断されたメッセージを同じものとみなしている。症状は、宛て先や対話の相手を見つけられていないメッセージなのである」。》

●転移の下での臨床(お互いに現前していなければならない)。

《ミレールは、適切にも次のように述べている。「精神分析臨床は、症状の種類によって分類された諸々の事実の収集---あるいは症例の叙述---に終わるものではない。[…]精神分析臨床とはむしろ、精神分析経験そのものを構造化させている主体の構成に従って変化する構築の総体である」。実際、分析経験は構築〔=構成〕という間接的な手段からなる。つまり、分析経験では、症状もファンタスムも構築されるものなのである。しかし、このことはなによりも、精神分析臨床が転移の下でも臨床であるということを意味している。もろもろの真理の出現を可能にするために、分析家と分析主体はお互いに現前していなければならず、無意識は単に分析主体の側にあるのでも分析家の側にあるのでもない。無意識は二人それぞれの中にあるのでさえない。というのも、主体の無意識というものは存在せず、存在するのは無意識の主体だからである。》