2022/06/16

●冬は暖房を使うし、夏は冷房を使うので、窓も扉も締め切ることになるが、この時期は暖房も冷房も使わないので、窓も扉も開けっ放しにすることができて、開放的で気持ちがいい。部屋にいて、外の風が入ってきたり、外の音が入ってきたりすることは、外にいて、それらを直接浴びているときとは違った、間接的であることによる心地よさがあり、特に、音の空間性とでもいうべきものが、とてもくっきりと立ち上がるように思う。

●窓

 

 

 

 

2022/06/15

●ちょっと前に古いソファーをもらった。表面はかなりボロボロだが、余りものの布で覆ってごまかす。

ソファーの導入は、生活に思わぬ変化をもたらした。いままで、部屋にいるときに取り得る姿勢は、立っているか、椅子に座っているか、横になっているか、基本的にはこの三つしかなく、低いところのものを取るために中腰になったりしゃがんだり、高いところのものを取るために背伸びしたりはしするが、身体的動作としてとても貧しい生活だったと改めて気づいた。

しかしソファーがあると「座る」と「横たわる」の間にあり得る様々な中間的姿勢、およびその様々なバリエーションが可能になる。この「姿勢のバリエーション」がこんなにも生活に豊かさを与えるものなのか。ソファーにふんぞり返るという姿勢の、なんと心地よくリラックスすることか、と。

ソファーにふんぞり返った姿勢で本を読む。こんな本の読み方があったのかと驚く。ソファーにいて、様々な姿勢のバリエーションの変化が可能な状態で、タブレットで動画を観る。これもいままでになかった経験だ。

これまでは必ず、部屋で映画を観るときは、27インチのPCのモニターで観ていた。この時は当然、PCの前に置かれた椅子に座っている(この日記を書いたりするときに使っているのと同じ椅子だ)。しかし最近、『攻殻機動隊SAC_2045』から、旧「SAC」シリーズをつづけて観た時は、ソファーでタブレットで観た。これは全然違う経験だった。まず何より、視聴(PCモニターの前で「映画」を観るときは「視聴」という言葉は決して使わないだろう)を一時中止することに、何のためらいもなかった。30分しか時間に余裕がないけど、とりあえず30分だけ観ておこう、ということにもためらいがなかった(「SAC_2045」は一話30分弱のシリーズだが、旧「SAC」は一本が160分程度にまとめられている)。

もちろん、PCモニターで映画を観るときにも、途中で中断することはある。でも、できる限り(できることならば)、最初から最後まで続けて観たい(観た方がいい)という気持ちがどこかにあるし、四時間の映画を二時間ずつ二回に分けて観ようとは思っても、90分の映画を30分ずつ三回に分けて観ようとは思わないだろう。そこまでいくと「映画」に対してあまりに失礼だという抵抗がある。

「ソファーにタブレット」は、その感覚を簡単に崩す。そしてそれには、PCかタブレット(あるいはスマホ)かという違いよりも、椅子かソファーかの違いの方が大きい気がする。

2022/06/14

攻殻機動隊SAC、「Individual Eleven」、「The Laughing Man」につづき、「Solid State Society」も観直した。同じ神山版攻殻でも、シリーズによってけっこう絵柄が違うのだなあと思った。

傀儡廻し」は「人形使い」のそのまんまの言い換えで、押井版の「人形使い」がネットのなかで自然発生し、クサナギと融合したのに対して、神山版の「傀儡廻し」はクサナギ(の無意識)から分離して発生したものであり、「ニ」が「一」になる押井版と「一」が「ニ」になる神山版は対になっている。

クサナギは二年前から組織を離れ個人で活動しており、(今回の一応の「犯人」である)財務官僚コシキは、二年前に自宅で死亡していて、彼のリモート義体がその死後、ソリッドステートのシステムを開発した。いわば、死んだ官僚の義体にクサナギの無意識が憑依し、クサナギは、自らの無意識が犯している犯罪を、自らの意識が追っているという、堂々巡りのような状態にあった。「ソリッドステートには近づくな」というクサナギの言葉を、当初バトーは「ソリッドステート=素子」であることから「モトコ(クサナギ)には近づくな」を意味すると思い、傀儡廻し=クサナギだと思い込む。その後に、それを間違いだと気づくが、しかし、ラストまで行くと、それはあながち間違いではなかった(違う意味で正しかった)、ということになる。つまりバトーは、クサナギ自身よりもクサナギ(の無意識)を理解していた、と。

この物語の背景には少子高齢化児童虐待があり、そのような切迫した問題の解決のためという「目的」が、(明らかに違法である)「手段」を正当化すると、「犯人」は考える。ただここでも「目的が手段を正当化するか否か」という単純な問いがたてられるのではなく、その手段の実行には不可避的に「政治(政治家)」が絡んできて、それによって目的が十分に果たせなくなるという、社会の複雑性が間に入ってくる。だからここで真に問題になっているのは、組織での行動(九課の一員であること)に限界を感じて一人になったクサナギだが、組織を介さない({「手段の正当性」を問わない)独善的な行動でもまた(彼女の無意識もまた)、同様にその限界を感じているというところにある。あるいは、九課の活動ではあくまで外側から官僚組織に介入するしかないのに対して、官僚に憑依することで内側から直接介入できると(無意識が)考えたが、官僚組織という内側にもまた、その外から介入する政治家という存在があったということで、結局は思い通りにはいかないということでもある(それが権力分立だ、ということではあるが)。

独善的に行動するクサナギに対して、九課はあくまでもある限定の範囲内で行動するが、それもけっきょく、ある限定された解決をもたらすに過ぎない(アラマキは九課を、少数精鋭=スタンドプレーの組織から、人員を増やしてチームプレーの組織に変えようとしている、これはアラマキにとってひとつの挫折、あるいは妥協ではないか)。神山版攻殻に共通するのは、社会の複雑性の中で、個人の思惑(人が正義と信じるもの)は、かならずその意図通りには実現されないということではないか。社会のなかで多くの媒介---様々な雑多な力---を通過するうちに、行動の意図と行動した効果・結果が乖離し、しばしばそれはうらはらになる。これは敵も味方も関係なく、法を守る側も犯す側も関係なく、誰にとっても等しくそうである(この点が「SAC_2045」では破られ、もはや人ではないポストヒューマンのシマムラタカシは、自分の思いを社会のなかで実現させてしまうのだが…)。

だから、神山版攻殻が描くのは、社会問題でも政治思想でもなく、(行動の意図とその効果が必ず食い違ってしまうという)「社会や政治という(諸力がせめぎ合う)過程そのものの姿」なのではないかと思った。「Solid State Society」ではそれが、クサナギの分裂という形で端的に示されているのではないか。

2022/06/13

攻殻機動隊SAC、「Individual Eleven」につづいて、「The Laughing Man」も観直した。新シリーズ「SAC_2045」では、物語の構えは「Individual Eleven」に近いのだが、犯人像は「The Laughing Man」の方に近いのだな、と思った。というか、クゼとアオイ(笑い男)を足して大幅にパワーアップしたのがシマムラタカシなのか。

この物語は社会的な話であり、「薬害エイズ事件」を下敷きにしているのは明らかだが、それはいわゆる「巨悪」の一例として下敷きにされているのであって、物語の主軸(というか、新しさ)はそこにあるのではなく、巨悪を暴こうとする、正義感をもつ青年の「闘い方」と「挫折」のありようの方にある。巨悪そのもののありようも、正義感の強い青年と行動とその挫折という物語もありふれているが、環境と条件が変わることで(テクノロジーの発達と天才的なハッカーとしての能力)、ありふれた物語がどのように変化するのか、ということ。

我々が使っているPCやスマホが常時ネットに接続されているように、我々の脳もまた、常時ネットに接続されているとしたら、脳をハッキングすることで、匿名の存在として振る舞えるし、透明人間にもなれる。そのような環境と条件があるとすれば、正義感の強い青年はどのように行動するのか。

これは、孤独な青年の「個」としての行動であり、政治的なアクションではない。そしてそのような「個」としての行動が、連帯としてではなく、模倣として、どのように伝播していくのか、という話でもある。その「模倣」のありようが一様ではないというのが、この物語の面白さの重要な一つだ。模倣者の種類は、大きく分けて次の五つあると考えられる。

(1)    青年の敵である「巨悪」の側が、彼の起こした事件を利用して(「笑い男」の名をなのり)企業テロを行い、身代金を得る。

(2)    警察が、(真犯人が捕まると「巨悪」が暴かれてしまうので)偽の犯人(「笑い男」)を仕立て上げる。

(3)    青年の行為や声明を自分へのメッセージだと受け取った不特定多数の人々が、自らを「笑い男」だと主張し、青年を模倣する行為をする。

そしてさらに、

(4)    青年からのメッセージを受け取ったクサナギが、意識的(戦略的)に「笑い男」を演じる。

(5)    青臭い正義感をもち、作中では青年の分身であるような存在であるトグサ(青年とトグサは同じ声優が演じている)が、無意識のうちに「笑い男」のような恰好をして、「笑い男」のような行動をとる。

物語の展開は、最初にあった青年の行動と、(1)から(3)までの異なるありようの模倣とが区別なく混同されていることで「謎」となり、公安九課の捜査によって、本来の「ありようの異なり」が次第に解明されていく。青年は、自らのとった「巨悪を暴く」ための行動が、逆に巨悪の側に利用され、彼らの利になってしまったとに失望し、自ら「口を噤む」ことを選択する。オリジナルである青年が沈黙することで、模倣者たちがいっそう蔓延り、「笑い男」はサブカル的な文化現象にもなり、それはますます「巨悪の側」には都合のよいこととなる。

(ネット環境下での、サブカル文化の描かれ方の新しさも、この作品の重要な面白さの一つだろう。)

口を噤んだ青年が再び行動し、語り始めることと、トグサの古い友人が彼にメッセージを残して怪死したことで、この物語は始まり、九課による捜査が始まる。というか、トグサが友人のメッセージを解読したことが、青年が再び動き出すきっかけとなったのだから、物語の発端には青年とともにトグサがいることになる。トグサが、自分で疑惑を発見したのではなく、友人からのメッセージを受け取ったのと同様に、青年の最初の行動も、ネットで拾った「他人が書いた告発メール」がきっかけである。彼らは二人とも、他者からのメッセージを受けて動き出す。

基本的に、(1)から(3)の模倣は、巨悪の側に都合のよいものだ。(1)の、自分の行為がその意図とは逆の効果をもってしまうという現象は、後に「Individual Eleven」のゴウダとクゼの関係に発展するだろう。(3)は必ずしも巨悪に有利だとは言えないかもしれないが、サブカル的盛り上がりも含め、(3)による混乱はむしろ巨悪の隠れ蓑になる。しかし、(4)はそれとは異なる。自分の非力さに失望した青年は、そのメッセージをクサナギ(九課)に託す。トグサが友人のメッセージを受け取り、青年が無名の誰かのメッセージを受け取ったように、クサナギが青年のメッセージを受け取り、青年(「笑い男」)を模倣する。これが巨悪の暴露につながる。

(このまますんなりと事件解決とはいかなくて、ここからさらに「九課の壊滅」という大きなヒトヤマがあるのだが。)

戦略的な「九課の壊滅」の後、義憤にかられたトグサが、無自覚のうちに青年を反復(模倣)することで、トグサと青年との同質性が、ラスト近くにさらに強調される(トグサは改めて『ライ麦畑でつかまえて』を読んでいるのだから、半ば自覚的かもしれないが…)。ここで、(3)の模倣者たちとトグサの模倣との違いはどこにあるのだろうか。(3)の模倣者たちが、リアルタイムの、時流に乗った模倣者であるのに対し、トグサは、場違いの、遅れてきた、アナクロニックな模倣者であるという点だろうか。

(トグサは、紙の本で『ライ麦…』を読んでいる。そして、青年は、出版された紙の本をすべて収蔵する図書館で働いている。このことと、まさに「ネット文化」的な「笑い男」の盛り上がりの描写とは対比的であろう。トグサは、「笑い男」が「紙の資料」を重要視していることを見抜いたのだった。クサナギは、青年の記憶を電子的に---有線で直接---受け取るのだが、トグサは「サリンジャーの小説」という、アナクロニックな媒体を通して、間接的に青年の魂---ゴースト?---を受け取る。)

追記。戦略的な「九課の壊滅」は、アラマキが首相とのネゴシエーションのカードとして用いたもので、食えない親父であるアラマキの老練な政治的な手腕を示すものだろう。この部分に、この後の「Individual Eleven」へとつながる、ポリティカルなフィクションの要素がある。この物語では、「巨悪の暴露」は、青年の青臭い正義感と、九課の実働的な荒事の能力と、アラマキの政治的な手腕との協働(スタンドプレーから結果として生じるチームワーク?)によってようやく実現可能だった、ということになる。ただ、現実的なこととしては、この三つはかなり相性が悪い感じがする(トグサの正義感がバトーに感染して冷静な判断力を失う、という場面があった…)。

2022/06/12

●さっきまで晴れていたのにいつのまにか空が灰色の重たい雲で覆われた、と思っていたら、しばらくして大粒の雨粒がポツポツと落ちてくる。稲光がして、おくれて大きな破裂音。みるみる雨が激しくなり、雷がビリビリと響きわたる。強い雨と雷の音があたり支配してほかの音を遮断する。すうっと空気が変わる。雨は二十分も続かずほどなく上がり、雲も切れて次第に空が明るくなる。走る自動車のタイヤが地面の水をまき上げるような音が聞こえるようになる。それがいくつも重なる。それでもまだ雷は遠くでゴロゴロいっている。

このような変化を、部屋のなかで、網戸にして半ば開かれた窓から見ている。タブレットからクルアンビンの曲が流れている。絵にかいたような紋切り型だが、でもまあ、気持ちがいいのは確かだ。そして少しするとまた雨が…。このまま昼寝したいという誘惑に打ち克つのは難しい。

●これから寝る朝。

 

 

2022/06/11

●本を整理していると、いろいろ古いものが出てきて、どうしても回顧モードになってしまう。下の写真は「季刊 思潮」のNo.1とNo.2。1988年、発行。「批評空間」の前身といえる雑誌。この二冊には大きな影響を受けた。

 

 

おそらく、(名前は知っていたはずだが)荒川修作の強烈な言葉を初めて読んだのが「No.1」で、木村敏中井久夫という名前を知ったのは「No.2」によってだったと思う。この後もずっと、長く影響を受け続ける人をこの雑誌で知った。また、当時は(この雑誌がきっかけで)市川浩の本を熱心に読んだ。

以下は、「No.1」に掲載されている荒川修作の講演から(一部、市川浩との対談から)の引用。

《もう一度もどりますけれど、あの赤ちゃんがワーと泣いた時の欲望というものは、一体どこへ行くものであるか。何を伝えようとしているのか。あれさえわかれば、我々は何をしなくちゃいけないかが明確になる。つきつめて考えていくと、この世界には空間とか時間というものは存在していないんだということが僕は分かった。なぜなら、あの赤ちゃんは我々によってつくられているものだ、毎秒。そのためには、僕だけではできないんだ、僕たちでなければ。だから我々によって作られつつあるんです。そして我々によって殺されたり、消えたりしていくわけです。》

《僕が言っていることを知ることはできても、信じることはそう簡単にできないでしょう。なぜならあなた達は学校やいろんな所で、時間とはどういうものであるか、空間とはどういうものであるか、大体教えられて、身を以って経験してきたわけです。この頭の中に完全に植えつけられているだろう時間とか空間の概念を変えない限り、あなた達には一つも救いがないってことを本当に知らなくちゃいけない。》

《それを経験させる場所を、僕は作ろうとしたわけです。日本で作りたいんですけど、そう簡単にこういうことは受け入れられないから、よその国で始まるかもわからない。経験したから何かが行われるかっていうとそうでもないんです。まだ経験のゲームの始まりなわけです。そのルールを完璧に作るためにはこんな橋を一つや二つでは到底ダメです。何百と作って、そうしてオーディエンス、あなた達がどんどんその部分を変えなくちゃいけない、使いいいように。そして初めて共有ってことが始まるわけです。共有した時に少し信じられやすい環境が生まれてくる。その環境こそ戦争なのです。この肉体などというものは、最後は、変容(トランスフォーメーション)、全的な変容の中にいかなくちゃならない。丁度、この空気といわれているもののようにならなくちゃいけない。しかし我々は停り場(ステーション)を作って生きていて、つまらない道徳を作り上げた。そういうものは、一切、この世界から葬り去ることです。一日も早く、一時間も早く。それができたら僕がしたいことなんか、全く簡単なことなのです。僕は、あなた達と同じように、同じ道徳で同じ土地で同じ言葉、同じ構文(シンタックス)の国に生まれたわけです。それでこれをやるってことは大変だった。かといってこれをしたからといってそれによって自動的に出てきたものはほとんど何もない。》

《(対談から)ぼくがモラリティーという場合、我々が時空間というものをつくっているとしたら、それを瞬時瞬時に取り囲んでいるもの、それをいうわけです。それがなければ時空が成り立たない。我々がつくりあげているであろう空間・時間というものを取り囲んで、それに意味を与えているのが道徳です。》

《もう一つの問題にサイズの問題があります。サイズ。僕が今日言った中で一番大切なことだ。一体、僕達が大きいとか小さいとか言うのは自分の体に対して言うのか、自分の習慣や趣味に対して言うのか……。それすらもほとんどの人は知らないでいると思う。どうして僕達は、簡単に蚊とか何かを殺したりできるか。あれが私達と同じ大きさで日本語ができたらどうするか、と思ってもいいですよ。蟻がこう向こうから僕の前に来たら、僕と同じ大きさになって「コンニチワ」と言ったとしましょう。構築っていうのはそれに近い。物語はそういうことがありましたって語るだけ。思想もそういうことがありますよってことだ。構築はそうじゃない。そういうのが前に本当に出てきちゃったんだ。しかも「コンニチワ」って言われてみたら、蟻の顔をしているわけだ。そいつを見てみたら、その辺をスーっと行くわけだ。それでまた次にこうだ、っていうことをレオナルドはその言葉で言ったわけですね。だから、サイズの不思議さは、これはおそらくどんなにいいろんなことをしても、決して解決するものじゃないです。》

2022/06/10

●『攻殻機動隊SAC_2045』のシーズン2がおもしろかったので、「Individual Eleven」を観直してみた。ネタがみっしり詰まって、それらがかっしり構築されている。改めて、ポリティカル・フィクションの傑作だと思った。

でも、ただ一つ不満というか残念なのは、クゼの最終的な革命のビジョンがおもしろくないということ。現在、ということではなく、この作品がつくられた2006年の時点でも、「難民たちの意識をネットにアップロードして上位存在になる」というアイデアはすでに手垢がついていたのではないかと思う(同じ年には『ゼーガペイン』がつくられているのだ)。

でもまあ、クゼのビジョンがつまらない(説得力がない)からこそ、タチコマたちが独断でそれを裏切ることができるのだが。

その意味でも、『攻殻機動隊SAC_2045』は「Individual Eleven」の語り直し的な側面があるように思えた。長崎の出島に集まった難民も、「N」となった人々も、どちらも三百万人といわれるし、どちらにも、その三百万人と同時にネットで通じ合うことが可能なカリスマが出てくる。

「Individual Eleven」では、黒幕がいて、その黒幕の手駒としてカリスマがいるのだが、カリスマの独自性が黒幕と拮抗するくらいに強くなる。黒幕が、難民を排斥する方向で動くのに対し、カリスマは難民たちの独立を画策する。しかし、カリスマが黒幕の思惑とは真逆の方向に動くことが、却って黒幕の有利に働く。公安九課は(心情的にはクゼ=カリスマの側にいるが、立場的には黒幕の側にいる)どちらの味方でもなく、国民と難民の摩擦が大きくなることや、黒幕による怪しい動きを妨げるという目的で動く(クゼがプルトニウムを手に入れるのを阻止しようとし、また同時に、黒幕の目的を捜査し、難民の大量虐殺だということを突き止めて阻止しようとする)。

『SAC_2045』では、アメリカがつくったAI(1A84)が、アメリカの制御を離れて暴走する。そのAIによって、人知を超えたポストヒューマンと呼ばれる人間がつくりだされててしまう。アメリカはその事態を秘密裏に回収しようとする。アメリカは、ポストヒューマンさえ回収できれば日本がどうなっても構わない(「Individual Eleven」ではアメリカの原子力潜水艦が長崎の出島に向けて核ミサイルを撃ち、『SAC_2045』では東京に殺人ガスをまく)が、日本としてはそれではたまったものではないから、首相と連動して公安九課が動き出す。操作される対象(クゼ、AI)が、操作の主体(ゴウダ、アメリカ)の制御を離れるという意味では「Individual Eleven」と共通するが、「Individual Eleven」では、制御不能になった対象の行動を、もう一段上位から黒幕が利用しようとするので、ポリティカルなフィクションの複雑性という意味では一歩上にある。

「Individual Eleven」では、女性首相の内閣や与党内での立ち位置や、アラマキとの関係性が、かなり細かく描かれる(首相が---まだ手腕を掴み切れていない---若い女性であることで、アラマキが気を使ってやや手加減することが、一手遅れる原因となる、など)。『SAC_2045』にも、元アメリカ人だという若い男性首相という、設定としてはおもしろい人が出てくるが、設定の面白味をいまひとつ生かし切れていない感じはある。つまり、ポリティカルなフィクションとしては「Individual Eleven」の方が一枚上手だと言える。

とはいえ、『SAC_2045』の特徴は、革命がポリティカルではない水準で成功してしまうというところにある。表でポリティカルな闘いをやっていると思っていたら、その裏で着々と「脳内革命」が進行していた、と。シマムラタカシは一人の内気な少年に過ぎず、クゼのように特異な経験や並外れた意思によってカリスマなのではなく、テクノロジーと、降って湧いたように得られた莫大な計算力(計算量)においてビックプラザーとなる(ただ、シマムラにも「強い動機」はある)。この意外性によって、「Individual Eleven」におけるクゼの革命ビジョンのおもしろくなさが乗り越えられる。

(「笑い男」ではトグサが犯人と同化し、「Individual Eleven」ではクサナギと犯人=クゼが疑似的な恋愛関係にあるが、『SAC_2045』のポストヒューマンは超越的な存在であって人と並列的な関係にならない。とはいえ、トグサとシマムラタカシの間には通路が開かれ、トグサが一方的に取り込まれはする。)