2022/06/09

●『VILLAGE ON THE VILLAGE』の黒川幸則監督の新作ができたようだ。『にわのすなば GARDEN SANDBOX』というタイトル。特報の映像を観るだけでわくわくする。《友達の誘いで知らない町にアルバイトの面接に訪れたサカグチが、理不尽な仕事を断って家に帰ろうとするが、なぜかすんなり帰れず町をさまよい、謎めいた出会いと別れを繰り返していく“行先不明”のロードムービーだ。》

natalie.mu

そういえば、ぼくがここ数年で観た映画のなかで最も好きな『天国にちがいない』(エリア・スレイマン)を観たきっかけは、黒川さんが「nobody」のベストで挙げていたからなのだった。黒川さんのおかげで観ることができて感謝しています。

●『VILLAGE ON THE VILLAGE』がいかにすばらしいのかについての日記。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20160216

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20160817

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20170421

 

2022/06/08

●いろんな人が坂本龍一を演奏する。

The End of Asia / Yellow Magic Orchestra (Ryuichi Sakamoto) ピアノ

https://www.youtube.com/watch?v=Ax_9ZYGIbiM

Dear Liz / Sakamoto Ryuichi / Sep.2012

https://www.youtube.com/watch?v=SkecJl0fUog

坂本龍一 AQUA (ピアノ発表会 生徒のお母さんの演奏)

https://www.youtube.com/watch?v=AbxSAC6Kxy0

坂本龍一:thatness and thereness/Ryuichi Sakamoto [藤倉大×芸劇|ボンクリ・フェス]

https://www.youtube.com/watch?v=UxD4141Pyl0

千のナイフ【ハリーサジー

https://www.youtube.com/watch?v=E4cdchAdv5k

フォトムジーク (坂本龍一) ギターカバー

https://www.youtube.com/watch?v=e67gzdv4WwI

ハッピーエンド Happyend 坂本龍一

https://www.youtube.com/watch?v=DvaOVVWmMYI

Castalia / Ryuichi Sakamoto (YMO) copy

https://www.youtube.com/watch?v=K_gI6pV2D74

#はらかなこ #Cover Parolibre ( Media Bahn Live ) / 坂本龍一 Ryuichi Sakamoto

https://www.youtube.com/watch?v=c9YekvethnY

Michael Jackson - Behind the Mask (Official Video)

https://www.youtube.com/watch?v=5bOkWTprifg

TONG POO - YMO 1979 LIVE at HURRAH

https://www.youtube.com/watch?v=hjqtz4A-IoI

Yellow Magic Orchestra-Das Neue Japanische Elektronisch (Live 12-22-1978)

https://www.youtube.com/watch?v=UGERZG_qO2I

●追記。坂本龍一坂本龍一を演奏する。

THE END OF ASIA (「Tokyo Joe」)

https://www.youtube.com/watch?v=GbVmHR71TuQ

Dear Liz(「Media Bahn Live」)

https://www.youtube.com/watch?v=IQvaqY3m7OQ

Aqua (「/05」)

https://www.youtube.com/watch?v=GiPL3XawlEk

THATNESS AND THERENESS RIUICHI SAKAMOTO 坂本龍一 (「B-2 UNIT」)

https://www.youtube.com/watch?v=DxJJmTKvNtI

1000 KNIVES - YMO 1979 LIVE at THE GREEK THEATRE

https://www.youtube.com/watch?v=6Z5sJJgX3GM

フォトムジーク(CD音源)- 坂本龍一

https://www.youtube.com/watch?v=uk_e-JdJakE

「HAPPYEND」坂本龍一 (オリジナルシングル)

https://www.youtube.com/watch?v=iSiCZ8kbNnU

Castalia (Playing the Piano 2013 in Yokohama)

https://www.youtube.com/watch?v=X-kPruewXfw

Ryuichi Sakamoto - Parolibre (Live '97)

https://www.youtube.com/watch?v=p9I--a6ChoQ

Behind The MaskYMO (「Solid State Survivor」)

https://www.youtube.com/watch?v=6Agj7KZbeO0

Tong Poo – YMO (「Yellow Magic Orchestra」)

https://www.youtube.com/watch?v=9qS8wKfOrvA

Ryuichi Sakamoto - Das Neue Japanische Elektronische Volkslied (「千のナイフ」)

https://www.youtube.com/watch?v=DqQykm7ZnnA

2022/06/07

●お知らせ。「群像」7月号に、『君たちはしかし再び来い』(山下澄人)の書評を書きました。

 

 

 

 

●「新潮」の記事で、坂本龍一の病気が、漠然と思っていたよりもずっと深刻であったことを知り、動揺している。

《2014年に発覚した中咽頭ガンはその後、晴れて寛解したものの、2020年6月にニューヨークで検査を受け、直腸ガンと診断されてしまいました。》

《同じ年の12月に日本で仕事があり、その頃、物忘れの多さに悩んでいたこともあって帰国ついでに脳の調子を調べておこうと思い、11中旬から2週間の隔離生活を経て人間ドックを受けました。そうしたら、脳は正常だったのですが、あろうことか別の場所で変異が見つかってしまった。直腸ガンが肝臓やリンパにも転移しているというのです。》

《日本の病院で最初に診てくださった腫瘍内科の先生には、「何もしなければ余命半年ですね」と、はっきり告げられました。かつ、既に放射線治療で細胞がダメージを受けているので、もうこれ以上同じ治療はできないと。加えて彼は「強い抗ガン剤を使い、苦しい化学療法を行っても、5年の生存率は50%です」と言います。》

《この2年のあいだに、大小あわせて6度の手術を受け、今のところ外科手術で対処できるような腫瘍は全て取り終えたという状態です。》

《ただ、これでようやく最後だと思ったら、どうもまだ病巣は残っており、さらに増殖しているらしい。先生からそう聞かされたときには、さすがにガクッときました。あとはひとつひとつ手術で取るのではなく、薬で全身的に対処するしかないそうです。終わりの見えない闘病生活ですね。》

(坂本龍一「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」聞き手・鈴木正文 「新潮」2022年7月号)

●最近のよい「千のナイフ」。

Thousand Knives 千のナイフ / Ryuichi Sakamoto 坂本龍一 #はらかなこ

https://www.youtube.com/watch?v=ExikE8ESRSY

2022/06/06

●『攻殻機動隊SAC_2045』のシーズン2を最後まで観た。ちゃんと終わっていた。以下、ネタバレしますので注意。

なるほど。面白かった。これを観て改めて、ぼくにとって攻殻とは、神山版攻殻のことなのだなあと思った。神山版攻殻が、押井守から引き継いだものは、「GHOST IN THE SHELL」の世界ではなく「パトレイバー2」の世界なのだ。とはいえ、このシリーズは今までの神山版の掟を破っている、とも言える。革命が成功してしまっていて、体制維持側にいる九課が破れてしまっている。しかし、九課が(あるいは人間が)ポストヒューマンに敗れたことを知っているのは、クサナギと江崎だけなのだった。

(ラスト、というか、九課に二人の新人が入ってくるという以降の場面をどう考えるかは難しいが、九課のメンバーが江崎のことを憶えていないということは、世界は元には戻らなかったということだと考えていいのではないかと思う。クサナギがダブルシンクにならなかったのだとしたら、ラストは、バトー主観の世界とも考えられる。)

最終回の一回手前で、考えられる限り最悪のバッドエンドだと思われる展開があり、それが壮大な夢オチによってひっくり返る。しかし、その夢はまさに現実であり、人々に夢のなかを生きさせる革命を、革命家が現実に成功させたということになる。いってみれば、『マトリックス』+『ハーモニー』のような、あるいは『ハーモニー』を数歩先までアップデートさせたようなオチと言える。

GHOST IN THE SHELL」でクサナギは、最後には「人形使い」と一体化し、別の存在に生まれ変わる。クサナギはクサナギではなくなり、いわばポストヒューマンと言ってもいいはずの存在として再-誕生していた。クサナギというポストヒューマンの誕生は歴史的な出来事であるはずだが、これはクサナギ自身にだけ起きた出来事であり、ある意味では、クサナギの個人的変化に過ぎないともいえる。だから「GHOST IN THE SHELL」は、実存の問題を扱った作品だと解釈される。神山健治はそれを、「パト2」的な革命家の物語(社会を変えようとする存在と、それを抑えようとする者の物語)に変質させて受け継ぐ(SAC)。革命家の物語である限り、九課が事件を解決するということは、革命が失敗するということだ。しかしこの作品では、すべての人間が「N」になることで(すべての人間に「GHOST IN THE SHELL」でクサナギに起こったのと同等の変化が訪れ)、社会全体というか、人類全体が変化する。

今までの神山版は、「GHOST IN THE SHELL」の設定を用いて「パト2」的な物語を語るということだったが、この作品では、「GHOST IN THE SHELL」そのものを社会化する(拡張する)ということが行われているのだと思う。で、その場合は、(「GHOST IN THE SHELL」でクサナギに革命的変化が起こったように)革命は成功してもよいのだ。だがその「革命」は、「パト2」や神山版攻殻がこれまで語ってきたようなものとは、まったく異質のものである必要がある。シマムラタカシは、(物語としてはとても近い) 「Individual Eleven」のクゼや『東のエデン』の滝沢のような政治的な存在からとてもとても遠い。彼が行うのは、テクノロジーを用いた(あるいは、テクノロジーによって導かれた)、非政治的、非革命的な、現実はそのままで経験だけを変えるダブルシンクという心身切断であり、それは政治的革命というより、まさに「脳内革命」だ。この革命では、人々は革命が起こったことを「知る」ことすらできない(江崎とクサナギ以外は)。人々は、物理的身体(物理的世界)としては「一つの現実」を共有しつつも、意識的な生としては、それぞれ別々の世界を生きる。

(クサナギは、「ネットは広大だ」という「GHOST IN THE SHELL」のセリフを反復するが、その意味が異なっている。)

これまでの神山版攻殻では、社会的なレベルで起こったできごとが、社会的なレベルで解決された。押井版の『イノセント』のように、「わたし(意識)」の迷宮には入り込まない。しかし今回は、社会的なレベルで起こったことが、それぞれの個人にとっての「別の(内的)現実」によって解決される。だがこれは、作品の(作家の)態度変更というより、テクノロジーによる社会(社会的可能性)の変化だといえる。現実として、それぞれの人が個別の生を生きることができる、ということが、テクノロジーによって想定可能になった。「Individual Eleven」のクゼは、人々の意識をネットに上げることで、一つの「共同意識」のようなものを実現しようと構想した。しかし、この物語のシマムラは、まったく逆に、一人に一つのそれぞれにとっての「別の現実」を用意する。それは、地球上のすべての人間の「内的経験」をシマムラが管理しているということであり、彼はまさにビックブラザーだ(彼は、人々の個別の「内的経験」のための不可欠なインフラ=下地であり、つまり「神」である)。これは、「Individual Eleven」がつくられた2004年の頃と、現在との「想像可能なユートピア(≒ディストピア)」観の変化を反映するものだろう。

この物語が、知らず知らずのうちに進行する、「すべての人に共有される一つの現実」から、それぞれの人に特化された「その人に固有の現実」への分岐の物語だとすると、(1)どの場面が「唯一の現実」であり、どの場面が「主観的現実」であるのか、ということと、主観的現実であるとすれば、(2)どの場面が、一体「誰」にとっての主観的現実なのか、とういう疑問が生じ、遡ってそれを考えるのもおもしろいだろう。とりあえず、手のひらに「核のスイッチ」が現れた時点で、その現実は主観的なものへと分岐した後の「現実」であるという指標になるが、トグサなどは、シーズン2のほとんどの場面が、既に主観的現実のなかにあると考えることもできる(トグサは東京の地下深くに原子力潜水艦を「発見する」のだが、それが「彼にとってだけの現実」ではないと言い切ることは難しい。「Nぽ」と疑われたトグサの逃亡を促す少女は、確実にトグサにしか見ていないはずだ。)。

江崎プリンが、一度死んで「ゴースト」を失った存在であることは、この物語の後半の「唯一の現実」の存在を保証するための重要な指標になるだろう。すくなくとも、彼女が経験する現実は、彼女の視点から切り取られた「唯一の現実」であるとは言える。

2022/06/05

●『攻殻機動隊SAC_2045』のシーズン2の七話から十話まで観た。三話ずつ区切って観ようと思っていたけど、九話の終わりのところでやめられなくて、続きを観てしまった。

江崎の復活によって、第四の流れが生じる。国から独立した「N」という集団をたちあげようとする二人のポストヒューマンと、自国の失敗を隠密裏に回収しようとするアメリカ、そして、日本が戦場になることを避けるために動く日本政府(公安九課)という三つの勢力が、がっちりと三つ巴になっている展開に、もう一本の独立した流れが、江崎の死と復活によって生まれる。たった一人の状態で復活した江崎が(死者は、墓場ではなく工場で復活する)、九課に再び合流するまでの「旅の過程」が別の経路となり、三つ巴の物語に膨らみをもたせる。

十話でなるほどと思ったのは、原子力潜水艦から放たれる核のボタンの権限を、ポストヒューマンの二人から、三百万人いるという「N」全員へと移譲するという展開だ。ここで重要なのは、三百万人の総意、あるいは合意が問題となるのではなく、三百万人の全員が核のスイッチをもつということ。つまり、三百万人のなかのたった一人が「GO!」と判断すれば核攻撃が行われる。ここで、この作品が、「Individual Eleven」や『東のエデン』から一貫している、ベタな言い方をすれば「民衆たちによる自己統治」の主題の展開なのだと分かる。

そして、思い出すのが、ゲーム理論の研究者である金子守が『地界で考える社会正義』という本に書いていた思考実験だ。金子守は、「すべての人が巨大水爆のスイッチをもつ」という状況、つまり、すべての人が等しく人類を絶滅させられるだけの力をもつ、という状況を考え、このような状況ではじめて、多様性と平等性が同時に成り立つ、というのだ。考えてみればその通りで、すべての人が等しく「人類絶滅の力」をもてば、人は誰一人としておろそかに扱われることがなくなるだろう。しかし問題は、このような状況はまったく持続可能ではなく、多様性と平等が実現したとたんに、人類は滅びるだろう。

攻殻のスタッフが金子守を読んだのかどうかはわからないが、全員が核のスイッチをもつという状況が出現する。しかしここで異なるのは、人類全員ではなく、「N」という集団に属するメンバー全員であるということ。そして、人類滅亡の力をもつのではなく、他国からの介入を阻止する程度の力であること。さらに、この「N」に集う人々は、「摩擦」を極端に嫌い、あらゆる意味での摩擦のない生活こそを(のみを)希求しているという、およそ「革命を目指すような人たち」とは真逆の性質をもっている(というより、おそらく「もたされている」だろう)ということだ(革命への志向を少しでも持ってしまっている人は「Nぽ」と呼ばれて厳しく排除される)。

彼らの核武装は、徹底的に非闘争的であるための防衛手段だといえる。原子力潜水艦は、自分たちの集団やメンバーに対して、少しでも摩擦や競争を要求してくる人々(結婚や就職を要求してくる親戚とか、意識高くあることを要求してくるインフルエンサー、そして革命を啓蒙しようとするインテリ、みたいな人々)が、集団を攻撃してきたり、圧をかけてきたり、集団に紛れ込んできてしまうのを防ぐための、ミニマムなセキュリティだろう。そして、もし仮に彼らが本当に、ただひたすら「摩擦や競争を嫌うだけの人たち」であるのならば、「全員が核のスイッチをもつ」状況が持続可能であり、かつ有効になる。自分たちに圧力がかからない限り、彼らには他人を攻撃するという欲望が芽生えないだろうから(たとえば、領土を拡張するとか、利益を成長させるとか、競争に勝つとか、考えないだろう)。彼らにとって問題は、摩擦を最小限にしたい人たちの集団をそれ以外から隔離した状態で存続させることだけだ。

おそらくこの物語そのものは、「摩擦や競争を嫌うだけの人たち」に対して完全には肯定的ではないだろう。なんなら、現代のそのような傾向に対する皮肉というニュアンスもあるのだろう。なんといってもエンタメ作品なので、常識的な着地が要請される。とはいえ、このような思考実験的状況を作り出すというだけで、相当に攻めた作品だと思う。

 

2022/06/04

●お知らせ。ランダム再生「偽日記」@インスタグラム、をはじめてみました。くじ引きのように、あるいはトランプの神経衰弱のように、あるいはランダムチェキのように、開けてみなければそのカードに何が書かれているのか分からない。適当に画像を選んで、開けてみると、そこに過去のいつかの日記がある。

https://www.instagram.com/toshihirofuruya67/

自閉モードのSNSで、インスタグラムの使い方としては間違っているのだろうと思いますが。

(インスタグラムの上限文字数が2200字だと知らないまま始めてしまい、後で気づいて、この企画にはそもそも無理があったと後悔した…。が、しばらくは続けてみるつもり。)

あと、これも計算違いだったのだが、SNSに慣れていないので、感覚がホームページ的というか、つまり、インスタグラムというのは、ぼくの名前が出ているぼくのページがあって、そこにぼくの投稿した正方形の写真が並んでいて、人がみるのはこの状態だと思っていたが、アカウントをフォローした人は、他の人の投稿と一緒にタイムラインに流れてくる状態で一つ一つの投稿をみることになると思われるので、それだと(ランダム再生という感じはでるけど)くじ引き感やランチェキ感はほとんどなくなってしまうのだなあ、と。

(インスタグラムの写真の配列が、子供の頃に駄菓子屋でみた「当てくじの箱」みたいだというところから思いついたのだけど、その最初のイメージは崩れてしまった。)

追記。インスタグラムには、NGワードというか、(悪い言い方になってしまうが)検閲システムみたいなものがちゃんとあるのだな、と思った。「殺す」という言葉が含まれた日記をアップしようとしたらはじかれた。アップしようとしたら「シェアできませんでした」という表示が出たので、「あ、もしかすると…」と思って、《「殺すべきだ」「殺すことを許されている」ではなく、「殺さないですむわけにはいかない」》と書かれていたところを、《「~すべきだ」「~することを許されている」ではなく、「~しないですむわけにはいかない」》に直したらアップできた。確かに、SNSにはこういう機能は必要だろうと思う。ただ、『殺しのなんとか』みたいなタイトルの映画について書こうとする時はどうするのだろうか(文脈もある程度は読むのかも…)。

*下の「当てくじの箱」の写真は、検索してみつけた「子供と楽しく遊ぶブログ」から拝借(スクショ)しました。

https://nanochannel.net/2018/07/26/post-179/

 

2022/06/03

●『攻殻機動隊SAC_2045』のシーズン2の四話から六話を観た。四話では江崎プリンの来歴が語られ、五話ではトグサの過去の記憶(しかしこれは偽の記憶かもしれない)が語られた後、六話で本格的に物語が動き出す(四話で最後で、タチコマたちが江崎の疑似人格をつくってそのなかにAI(1A84)を仕込むというのはあからさまに伏線だろう)。トグサは、五話での過去の記憶から、六話での現実の東京まで、ずっと追手から走って逃げ続けるはめになる。ポストヒューマンと九課の面々との間でなされた超ハイテクアクション(二話)とは対比的な、ベタにフィジカルなアクションがトグサの担当なのだろう。

難民たちを(難民とは限らないようだが、無名の人々を)蜂起させて独立国をうち建てようとするポストヒューマン(カリスマ)という話は、過去の神山版攻殻の「Individual Eleven」を思い起こさせるし、原子力潜水艦があれば国と同等に渡り合えるというのはあからさまに『沈黙の艦隊』だし、なんとなく『東のエデン』風味もある(そもそも『東のエデン』は「Individual Eleven」をマイルドにして語り直している感じがあるが)。アイデアのレベルで驚くべきこと、あるいは目新しいことは特にないが、様々なガジェットやアイデアを高い密度で組み合わせて、一定以上に刺激的で説得力のある(今日的で新鮮な)ポリティカルな世界・物語がつくってあるのは確かなので(アイデアの斬新さではなく、ネタの濃さとスノッブな感じで)、楽しく観られる。

(割と「人の心のなか」に入っていく傾向があるというのが、シーズン1から引き続く、「_2045」と旧神山版と大きく異なるところだろうか。トグサが夢から覚めた時に電車のなかにいる、というのは「エヴァ」のパロディか。)

一つ心配になってきたのは、シーズン2の全十二話で、話がちゃんと完結するのだろうかということで、もしかするとまた、話の途中でぶった切られて、続きは数年後、とかにならないだろうか…。